巳ノ淵・6
山の中にぽっかりと開けた野原は、日の光を浴びて美しく輝いていた。広さは多分、庭付きの大きな一軒家が悠々と建つほどだろうか。階段を上りきったところには、山道の始まりにあったものと同じく二本の柱が立てられていて、その間に細いしめ縄が張られていた。その向こうがわには、平らな石が等間隔に敷かれている。敷石は広場の中ほどに建てられた小さなお社まで続いていた。野原の右手にはさらに勾配のきつい山林が続いていたが、左手は崖になっている。崖下からはひときわ大きな水音が響いていた。先ほど山道沿いを流れていた川の音らしかったが、その音から推測するに、どうやら崖の下には滝のようなものがあるらしい。
野原には、ところどころにブナやカエデなどの広葉樹が生えていた。地表には一面、野草が生い茂っている。一見自然そのものの姿であるように見えたが、よく見るとそれらはいわゆる「雑草」とは違っていた。適度に人の手が入っている。
――きれいだな。
野原には日陰と日向がバランスよく作られ、色んな草がけんかせずに生えることのできる環境が整えられていた。前を行く人々はすでにお社の扉を開けて、小さな祭壇の前に次々とお供え物を置いている。香織も大人たちに倣って、持ってきた小学生の制服を社の中に置いた。
またまた、チリンチリンと鈴の音がして、祝詞が読み上げられる間、香織は人々の一番後ろから野原の様子を眺めていた。ここの雰囲気は天ヶ瀬とは全然違っていた。同じ山でもこんなに違うものなんだろうか。いつもより心が安らかだ。山も木も、水の音も、香織を脅かすことはない。ただ、気持ちよくそこにあった。
暖かな風が流れ、お社の後ろにある楠が新緑を揺らした拍子に、ふと何かの気配を感じる。目を上げると、まぶしい日差しの中、揺れる枝葉の向こうにちらとなにやら白いものが見えた――ような気がした。
――鳥?
今、白いものが枝の上に居なかった?
改めてよく目を凝らしてみたが、そこに変わったものを見つけることはできなかった。
「白い鳥?」
衛は首を傾げた。
お供えものを置いて山を降り、家へと戻る道すがら、白い鳥のようなものを見なかったかと尋ねてみたが、衛は何も気がつかなかったようだ。
「低地の田んぼや水辺なら、白鷺はよく見かけるけど……。そんなに大きな白い鳥を、薗で見かけたって話は聞かないなぁ」
「ソノ?」
「『薗』。さっきお供えをした小さな野原のこと。ついでに言うと、薗の崖下にある滝壺のことを『巳ノ淵』っていうんだ。この辺の地名は、あの滝壺の名前が由来っていうわけ」
「へえ……」
「巳ノ淵は水神さまの棲みかで、薗には茅さまがいるって言われていて……。あ、そうか」
衛の表情がにわかに明るくなった。
「その白いものって、もしかして茅さまだったんじゃないかな」
「え?」
「きっと、木の上から僕たちを見ていたんだよ」
「そんな、まさか」
人のような姿だっただろうか? 遠かったし、一瞬のことだったので確証は持てなかった。というか、そんなものを見るなんてありえないだろう。
「一瞬で消えたんだろう? 鳥か何かだったら、飛んでいくところも見えるはずだし」
「いや……、今思えば、単なる私の見間違いだったような」
適当にはぐらかそうとすると、衛がムッとしたような顔になった。
「なんだよ。茅さまのこと、やっぱり信じられないの?」
「だって。そんなの、いるとは思えないし」
「香織ちゃんって、子供のくせに大人みたいに頭が固いんだな」
「えっ」
正直、カチンときた。けれどそれを顔に出すとなんだか負けた気がするので、精一杯余裕の笑みを作りながら「そんなこと、衛くんに言われたくないよ」と返した。
「今時そんなおとぎ話を信じているほうがヘンなんだからね。まあ、この目で見せてくれるっていうんなら信じるしかないだろうけど……、そうでなければねぇ」
売り言葉に買い言葉。香織の言葉を聞き、衛の足が止まった。ことの重大さに気づいたのはこのときだった。衛は相当怒っているのか、完全に無表情になってしまっている。
やばっ。怒り方が地味すぎて気づかなかった。やりすぎちゃったかな。
慌てて笑いを引っ込め、前を行く大人たちに目をやると、立ち止まったままの二人に気づいていないらしい。談笑しながらどんどん先に進んでゆく。
「ねえ、早く行こうよ。みんなとはぐれちゃうよ」
「……そんなに言うなら、見せてあげるよ」
「え?」
「暗くなる前に戻ればいいだろ」
そう言うなり、ぐいっと香織の腕を掴んだ。
「さっきのところに戻るってこと?」
「戻らなきゃ、会えないから」
「そんなのやだよ。放してよ」
腕を振りほどこうとしたが、衛は見た目よりはずっと力が強いらしい。がっちりと掴まれて振りほどくことができない。
「おい、そこの二人! 早く戻って来ぉい」
そのうち、大人たちの集団の中から声が掛かった。見れば、衛の父である邦夫が、集落へと続く坂道を上りながらこっちを見下ろしている。
邦夫おじさんは声も体も大きくて快活な人で、息子の衛とはまるで違う雰囲気を持つ人だった。おじさんとのほうが、目の前の同級生よりもよっぽど仲良くなれそうだ。
「お父さん」
今までになくはっきりと明るい大きな声で、衛が呼びかけた。
「僕、これから香織ちゃんと二人で、川べりを散歩してきます」
「えっ?」
邦夫おじさんは衛が握りしめている香織の腕をチラッと見やると、びっくりしたような表情を浮かべ、衛の顔をまじまじと見つめた。
「いいですよね」
「……そうか、うん。分かった。お母さんには言っておくから。ただし、暗くなる前には絶対戻るんだぞ。危ないところには決して近づかない。川にも入らない。分かったな」
「はい」
「あのっ、私――」
お手伝いがまだ、と言おうとしたが、すでに邦夫おじさんはご近所のおじさんたちと嬉しそうに談笑している。「衛ちゃんが同じ年頃の子と遊ぶところなんて、初めて見たぞ」とか、「あの気難しやの衛ちゃんでも、やっぱり子供同士が楽しいんだなぁ」とかいう言葉がちらちらと聞こえてきた。
「行くよ」
来た道を引き返す衛に、腕をぐいっと引っ張られる。香織はしぶしぶその後ろをついて歩き始めた。
「ねえ……、もしかして。衛くんって、友達、いないの?」
前を向いたままの衛に尋ねると、「友達?」と返ってくる。
「どうして? 学校の友達ならいるけど?」
「でも同じ年頃の子と遊んでいるのを見たことないって、あのおじさんたちが」
「ここは他の家と離れているから。それに、明日また学校で会えるのに、わざわざ遊ぶ必要もないし」
「じゃあ、うちに帰ったら、いつも一人?」
「うん、今は。少し前までは兄がいたから色々教わっていたけど、今は都会の大学に通っていて、ここにはいなくて」
「教わるって、何を?」
「木や、草のこと」
「そんなことを教わって、楽しいの?」
「うん」
「だけど……。家に帰ったら遊ぶ友達が一人もいないなんて、寂しくない?」
「寂しい?」
衛が振り返って、こちらに顔を向けた。
「そりゃあ兄がいてくれたほうが嬉しいけど、ずっと会えないわけではないし。寂しくはないかな」
「へぇ……」
「っていうか。寂しいの? 香織ちゃん」
「――えっ? 私?」
不意打ちのような質問に、思わず口ごもってしまう。
「……別に。私、衛くんと違って、一緒に遊べる友達だっているし」
適切な返事を考える余裕もないまま、思わずすべり出た言葉に、胸がきりっと痛んだ。
「ふうん……」
しばらくじっとこちらを眺めていた衛は、再び前に向き直った。
「自分が寂しいから、そんな質問するのかと思った」
「ちょっ……、別にそんなんじゃ」
ほんと、言うことがいちいち腹立たしい。悪気があって言っているわけではないと分かるところが余計に。
こんなところで取り乱して図星だと思われるのはもってのほかだ。深呼吸をひとつすると、香織はいまだに握られたままの腕をぐいと引っ張った。
「もういいでしょ。手、離してくれない?」
「ちゃんと付いてきてくれるなら」
「うん」
「じゃあ」
衛に掴まれていた手首が自由になると、ようやくホッとできた。喋っていて気が付かなかったが、結構な早足で歩いていたらしい。気が付けば、二人はしめ縄が張られた山道の入り口まで戻ってきていた。
しめ縄の向こうに見える道は、さきほどとは少し印象が変わって見えた。人がいなくて静まり返っているからだろうか。みんなで歩いたときは明るく見えたのに、今はすこし薄暗いような、物寂しい道のように見えてしまう。
「ねえ。衛くんだって『茅さま』に会ったこと、ないんでしょう?」
「うん」
「そんなんで、どうして会えるって信じられるの?」
衛は黙ったまま、しめ縄の先にある山道をじっと見つめていたが、やがて言った。
「それが必要なら、かならず」
大人びた声にどきっとして思わず衛の横顔を見つめると、彼もまた香織のほうに目を向けて、にこりと笑顔になった。
「……って。僕の兄なら言うだろうな、きっと」
そのまま前に向き直ると、衛はしめ縄の向こうへと足を踏み入れた。
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