巳ノ淵・5
その日は、翌日に控えた「摘み草」の前準備として、水神さまにお供え物をしたり、山道を清める日に充てられていた。「清める」とは、要するに除草作業だ。近隣に住む人たちの協力を得て、作業は粛々と行われていった。香織は山での作業には加わらなかったが、台所作業の手伝いをした後、バス停まで迎えに来てくれた衛と一緒に、お供え物のチェックと家の留守番を頼まれた。
大人たちが消えた家に見知らぬ少年と二人で残されてしまい、なんとも居心地が悪かった。ふすまを外されただだっ広い座敷には、一般家庭では決して見ないような大きくて立派な神棚が据え付けられていて、その見事な細工に香織はしばらく目を奪われていた。神棚の手前には大きな台がしつらえられ、その上にはずらりと色々なものが置いてあった。
「全部揃っているかチェックしろって言われているから」
衛は相変わらず無表情のまま、紙に書かれたリストを手渡してくる。
「僕が品物の数と名前を言うから、確認して、あればここに印を付けていって」
「はい」
「じゃあ、右から。赤飯三合、草餅十個、卵三十個、干魚十枚……」
「ほしうお?」
「ほら、あの魚のこと」
並べられたたくさんのものの中に、木の器に入れられた魚の干物が置いてあった。
「えっと、いち、に、さん……うん、十枚あります」
「じゃあ、大根、牛蒡、青菜が各三」
「……はい」
「制服と、肌着、靴下、運動靴一式」
「……はっ?」
「だから、制服。そこに置いてあるでしょ?」
「……制服? どこの?」
「僕が通っている小学校の」
「どうして、そんなものを供えるの?」
「どうしてって、茅(ちがや)さまが着るから」
「…………」
お餅とか食材なら、まあ分かるけど。制服って、わけが分からない。
「サイズ、確認して。一五〇になってる? 靴は二十三センチ」
「……はい」
分からないけど、とりあえずチェックするしかない。衛は淡々と作業をこなしていく。
「日本酒、一升」
小学生の制服と、日本酒。ますますわけが分からかったが、衛にいちいち質問して作業の流れを止めてしまうと迷惑がられそうだったので、そこからはどんなに疑問が湧こうとも、ただ無心にチェックをこなしていった。
「はい。これで終わり。チェックが入っていないもの、あった?」
「ううん。全部揃ってます」
「じゃあ、その紙、僕にちょうだい」
差し出された手に、持っていた紙を渡した。
「あとは、居間におやつを置いているから、みんなが帰ってくるまでの間、自由にしておいていいんだって」
じゃあ、と去ろうとする衛に、「ちょっと待って」と、思わず声を掛けた。
「これ全部『茅さま』って人にお供えをするの?」
「ヒト?」
「人、じゃないの?」
「人にはお供え物、しないでしょ、普通」
そんな言い方をされてしまうと、こっちが普通じゃないことを言っているかのように錯覚してしまう。
「でも、制服を着るんだったら」
「『人の姿』をしているんだよ」
「姿をしているのなら、人なんじゃないの?」
「違う」
「見たことあるの?」
「ないけど」
「見たことのないものを信じられるの?」
尋ねてみると、衛は初めて感情を表に出した。ちょっとムッとしたような表情を浮かべている。
「じゃあ、きみのお兄さんに聞いてみたらいい。昨日から茅さまに会いに行っているんだろ?」
「お兄ちゃんは、普通じゃないから」
「普通じゃない?」
衛は首をかしげた。
「そうかな」
「…………」
説明するのも面倒くさくなったので、香織は座敷を出て居間に向かった。さっきまで香織には何の関心もなさそうだった衛が、なぜだか後ろを付いてくる。
「きみは、」
「『きみ』だなんて呼ばないで。香織っていうんだから」
「じゃあ、香織『さん』がいい? それとも『ちゃん』?」
「どっちでも」
「香織ちゃんは、目に見えるものしか信じないの?」
「うん」
「天ヶ瀬の人なのに?」
「天ヶ瀬の人間だ、か、ら、よ」
今度はこっちがムッとする番だ。香織は足を止め、背後に立つ衛と向き合った。
「私、あんなところ大っ嫌いなの。早く出て行きたくてしょうがないの。どうせ説明したって、あなたには分からないだろうけど」
「ちょっと待って」
突然、衛が話を遮った。その今までになく深刻な口調に、胸がどきりとする。
何、なに? 私、何かまずいこと言った?
「僕のこと、『あなた』だなんて呼ばないでくれるかな」
「…………は?」
自分がさっき言ったばかりのことをそっくり返され、香織は思わず固まってしまう。
……わざと、かな?
わざと、なんだよね?
「じゃあ――。衛『さん』、がいい? それとも『くん』?」
いかにもわざとらしく同じ質問を投げ返してみたのに、衛はそれと気づいた様子も見せず、ただ「『さん』はイヤだから『くん』で」などとバカ真面目な答えを寄越してきただけだった。
「…………」
なんだろう。この、かみ合わない感じ。
色々分からなさ過ぎて、いつの間にか肩に入っていた力もぐにゃりと抜けてしまった。
「……あのさぁ。うちのお兄ちゃんはすごくヘンだけど、衛くんもすこしヘンだよ」
「ヘン? 僕が?」
衛は目を丸くした。
「どの辺りが?」
「うまく言えないけど、なんかこう、全体的に」
「全体的? それどういうこと?」
そんなことをいちいち説明する義理はないし、この調子外れな会話のせいで、そもそも何に腹を立てていたのかも分からなくなってしまった。
「……もういいよ。じゃあね」
香織が背を向けて再び歩きだすと、困惑しきった衛は「ちょっと待って。そこで話をやめるなんてずるいよ」と言いながら後ろをついて来る。結局、留守番中ずっと、このおかしな同級生の質問攻めに付き合わされる羽目になった。
山道の清掃を終えた大人たちが戻ってきて、藤堂家はにわかに賑やかになった。みんなの昼食の世話をしたあと、午後はお供え物を持って皆で再び山に入ることになった。めいめいが何らかの品を持って、一緒に「茅さま」と「水神さま」が祀られているお社へと向かう。
藤堂家のある小さな集落を出て、町道を川の上流に向かって歩いていくと、やがて道の脇に細い山道が分岐しているのが見えた。入り口には真新しい木の柱が二本立っていて、その柱に細いしめ縄が張ってあった。人が一人通れるほどの大きさのごく簡素なつくりで、そばを通っても見落としてしまうくらい自然に溶け込んでいた。アスファルトで舗装された町道はここから川を逸れ、山林の奥へと続いていた。
「ここからは、徒歩でしか行けない渓流沿いの山道を登っていくんだ。しっかりした運動靴じゃないと歩きにくいかも」
前を歩く衛に言われるまでもなく、その辺りのことは龍樹に予め聞いていたので、しっかりとした登山靴を履いてきている。問題はないはずだ。
どこかからお香のような香りが漂ってきて、チリン、チリンと鈴のような音が聞こえてきた。動物よけなのか、単に音を出す慣わしがあるのかは分からなかったが、軽やかで澄んだ音色は、どこか気持ちを落ち着かせてくれた。
昨日に引き続き、晴天だった。日差しはきつかったが、背の高い木々が道行く人々を包み込むように日陰を作ってくれるおかげで、随分歩きやすい。細い山道を、人々は一列になって黙々と進んでゆく。川のせせらぎが耳に心地よかった。左側を見下ろすと、崖から生える細い木々の隙間から、川の様子が見えた。岩の隙間を勢いよく流れる水は、日の光を浴びて輝いている。岩場を流れているせいで泥や砂が混じらないのだろう。水はひときわ澄み切って見えた。山道はきれいに舗装されたものではなく、石や木などの障害物を取り除き、下草を刈って何とか人が通れる程度に整えただけのもので、決して歩きやすくはなかった。足元には木の根がたくさん張り出していて、下を向いて歩かないと転んでしまいそうだ。山深く分け入るごとに道は傾斜を増していき、やがて自然の石を積んで作られた階段のようなものが現れた。前を行く人々は、段差のきついその石段を一段ずつ、慎重に上ってゆく。
かなりハードな山登りになってきた。息が切れ、足が次第に重くなってくる。必死になって前を行く衛の背中を追っていると、突然、崖のような階段は終わり、目の前の視界が開けた。
石段をのぼり切ったその先には、平らな野原が広がっていた。
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