巳ノ淵・4

 翌朝。香織は藤堂家の台所脇にある小さな居間にいた。

 部屋に置かれた小型テレビのブラウン管には、連休の人手でごった返す東京のテーマパークが映しだされている。四月にオープンしたばかりのそこは、信じられないほどの賑わいを見せていた。カラフルな色彩で溢れる画面上の世界は、すべて人の手で造り上げられた、完璧な夢の世界。

 いいなぁ。みんなすっごく、楽しそう。

 卓上に用意された朝食は小鉢にきれいに盛り付けられていて、まるで旅館のそれだった。焼き魚、出汁巻き卵、青菜のお浸し、お新香、お味噌汁、つやつやのご飯。それらを口に運びながら、ぼんやりとテレビの向こうの景色を眺める。

 クラスのみんなはどうしているだろう? 東京まで行くのはさすがに難しいだろうけど、手近なところに遊びに行くだけでも、友達同士なら十分楽しいに違いない。

 隣にある台所は、香織のいる居間よりもよほど広く作られていた。キクコさんと同じ年頃の見知らぬおばさんたちが集まって世間話をしながら、忙しそうに立ち働いている。どうやら、今日の祭事に参加する人たちの食事を作っているらしい。お茶を持って来てくれたキクコさんにお手伝いを申し出たけれど、お昼からでいいからね、とにこにこ顔で答えてくれた。

 ついでに気になっていた龍樹のことを尋ねてみると、早朝に一旦山から戻ってきて、再び引き返していったそうだ。

「なんでも、鋏(はさみ)が必要になったから貸して欲しいって言われて」

「鋏?」

「そうなの。何に使うのかしらね?」

「それじゃあ、兄は鋏を持って山に戻ったんですか?」

「うん。まだやることがあるからって」

「もう……。すみません。私たち、お手伝いに来ているのに。勝手なことばかりして」

「いいえいいえ。言ったでしょう? 龍樹さんは『特別』なんだから」

温かいお茶を湯飲みに注ぎながら、キクコさんは言う。

「天ヶ瀬の人は、ここの神さまと相性がいいのよ。もしかしたら、香織ちゃんも、茅さまに会えるかもしれないね」

 そうですね、とか、私も会ってみたいです、などと言えばいいのだろうけれど、どうしても喉につっかえて言葉が出てこなかった。差し出されたお茶を受け取りながら、「ありがとうございます」とだけ呟く。

 神さま。

「お母さん」がいたらきっとこんな感じなんだろうなと思わせるような、温かく家庭的な雰囲気を持つこの人も、「そういうもの」に親しいらしい。

 ――どうして、私の周りはこんな人たちばかりなんだろう。

 目に見えないものは、いないもの。香織はずっとそう考えてきた。天ヶ瀬の山には、常に色んなものの気配がする。気配だけは感じるのだけれど、香織は実際に、その気配の正体を目にしたことはなかった。それは、持ち主から切り捨てられた記憶の亡霊。叔母の話によると、遭遇してしまうと大変危険なものらしい。実際、香織の父と母は山で行方不明になったまま戻ってこなかった。香織がまだ物心のつく前の話だ。そのため今は叔母が家を取り仕切り、龍樹と香織は叔母に育てられている。

 もしも、山の神さまがいたとして。父と母を奪った山の神など、善いものであるわけがない。

 目に見えないものは、いないもの。もしいたとしても、見てはいけないもの。「神さま」は決して、私を、お父さんとお母さんを、助けてはくれない。

 テレビは相も変わらず、連休のお出かけ情報や渋滞に関する情報を次から次へと流している。動く気配のない車列が果てなく続いているさまを眺めながら、香織は深いため息をついた。

 ――あの渋滞の中にいるほうが、よっぽどましかも。

 早くあの家を出たい。早く大人になって、自分でお金を稼げるようになりたい。そうなったらすぐにでも山を出て、あの気配から遠ざかってやるんだから。

空になった食器をお盆に載せると、香織は台所へと向かった。



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