巳ノ淵・3

 香織の苗字である「天ヶ瀬」は、家名であり、同時に地名でもある。

 天ヶ瀬家が取り仕切る山には、そこにしかない特別な木が存在する。その木から採れるのは、人間の記憶を糧に生長する不思議な種。ひとたび人がそれを体内に取り込むと、種は宿主となったものの記憶を得て発芽生長し、やがて皮膚を突きやぶって外界へと姿を現す。体から生えた芽は必ず摘み取って天ヶ瀬の山に植え戻してやらねばならない。そういうしきたりなのだ。そうすることによって、種に奪われた記憶は、樹木の生長とともに長い時間をかけて癒され、植物の死とともに消えてゆく。

 香織の先祖は、その「木」と「山」を代々守り継いできた。いつの時代にも種には需要があり、それを必要とする人々の中で非常に貴重なものとして扱われた。それは耐え難い苦痛をもたらす過去の記憶を背負う人々にとって、苦痛を消し去る唯一の薬ともなりえるのだが、飲むにふさわしくない人間が間違えて摂りこんでしまうと、身の破滅をもたらす劇物にもなってしまう。貴重な種を育む山には、それらについてよく理解し、正しく扱うことができる人の手が必要なのだ。

 ――ユーレイが出る山に住んでいるんだってよ。

 そう言った同級生の言葉は、あながち間違ってはいない。人々の記憶を得た木を代々植え続けている天ヶ瀬の山には、いまだ消え残る記憶の残滓が亡霊のように彷徨っているのである。


 「巳ノ淵」の藤堂家は、そんな天ヶ瀬家と古い付き合いがあった。彼らは日本古来の本草学に通じ、この昭和の世の中になってもなお代々伝えられてきた薬草を絶やすことなく育てている一族である。天ヶ瀬の人間にとって、この土地の水で育った質のいい草は欠かすことのできない大切なものである。藤堂家の管理する「巳ノ淵」一帯の山中には、決まった者しか立ち入ることの許されない特別な場所がある。そこに自生する折々の草を乾燥・調合し、束にしたものを焚いて、衣類を燻煙にさらす。それを着て山に入ると、天ヶ瀬を彷徨う記憶の亡霊たちを寄せ付けることがない。他のどこでもない、ここ「巳ノ淵」の草は、危険の多い山に入るために欠かせない命綱のようなもので、だからこそ香織の家は代々、藤堂家との付き合いを大切に考えてきた。巳ノ淵で摘み草が行われるときには、なるべく作業を手伝いに行くことが望ましいと言われている。今年は叔母の言いつけで、長男である龍樹に加えて、香織までもが祭事に借り出されることになったのだ。


 ――あっちゃんたち、連休にみんなで遊園地に行こうって話をしていたっけ。私、また陰で何か言われたりするのかな。


 ため息とともに、出された温かいお茶を一口飲むと、いつもうちで口にする薬草茶の味にはない、ほんのりとした柑橘の香りが広がった。

「あっ、柚子……」

 キクコさんが焼きたてのかきもちを持ってきてくれた。

「こっちも、柚子の味がするよ」

 勧められるがままに熱々のかきもちを手に取って一口かじると、混じりけのない米菓子の素朴な風味と同時に、練りこまれた柚子の香がふわりと広がった。

「いまどきの若い子はこういうものより、紅茶やクッキーなんがが好きかもしれないね。こんなものしかなくてごめんね」

「いえっ、おいしいです」

 香織の言葉に、キクコさんは笑顔になった。

「龍樹さん、妹さんを連れて来てくれてありがとう。うちの子はどっちも男だからねえ。女の子はいいわねぇ。可愛らしいねえ」

 それを聞き、出されたかきもちを口いっぱいにほおばっていた龍樹は「ほヒ」と変な声を上げた。

(もう、ちゃんとして!)

 眉をしかめた香織にじろりと睨まれ、龍樹は慌てたように背筋を伸ばした。

「あの、それで、明日のお手伝いっていうのは……」

「あら、何の説明もできていなくてごめんね。摘み草の日は明後日なんだけどね。明日はその前段階の作業や行事が色々あるの。近くの人たちにも手伝ってもらうから、みんなにお茶やお膳をお出しする仕事を手伝ってもらいたいの」

「はい」

「難しいことじゃないから、よろしくね」

「あの、キクコさん」

 やっと口の中のものをすっかりと飲み込んだ龍樹が声を掛けた。

「なに?」

「今から、山に入ってもいいですか?」

「いいわよ。山開きは明日だけど、龍樹さんは『特別』だから。……だけど」

 キクコさんは、ふと窓の外に目をやった。

「もう夕方だし、明日にしたら?」

「いえ、大丈夫です。帰りは明朝になるかもしれませんが」

 龍樹はお茶を一気に飲み干すと、立ち上がった。

「あっ、このかきもちの余り、貰っていいですか?」

「もちろんどうぞ」

「茅にあげたいんで」

 チガヤ?

 誰だろう。友達? 知り合い? なのかな。

 龍樹の言葉を聞いた途端、キクコさんの顔にさっと緊張の色が差した。

「まあ。お気に召してくださるかしら?」

「絶対、好きだと思います」

 キクコさんは慌ててきれいなペーパータオルを持ち出してくると、木の器に入っていたかきもちを丁寧に包み、紙袋に入れて龍樹に手渡した。

「良かったらお煮しめも作ってあるから、おにぎりとお茶と一緒に持って行ってもらえないかしら。茅さまに、今年もよろしくお願いしますって、お伝えしてもらえたら嬉しいわ」

「はい。明日には必ず戻ります」

龍樹は土間に下りて靴を履くと、香織に目をやった。

「香織。俺、今晩は帰ってこないけど、キクコさんが色々教えてくれるから心配するなよ」

「……う、うん」

 本当に、いいのかな? 香織は、台所へと向かったキクコさんの後ろ姿を見やった。

 龍樹は天ヶ瀬の山に入ったときも平気で数日戻ってこないような人間なので、山に入りたがることに格別な驚きはなかったのだが、まさか他所の家に来てまでもこんな振る舞いをするなんて。

 だけど、キクコさんは「龍樹さんは『特別』だから」と言っていた。

 特別なら、いいのかな? うん――、多分。

「すみませんが、香織のこと、よろしくお願いします」

「はい。五月とはいっても夜はまだ寒いから、暖かくして行ってね。夜の山道には、くれぐれも気をつけて」

 玄関先まで龍樹を見送りに出たキクコさんは、しばらくすると香織のところに戻ってきた。

「あの……、兄は、お知り合いのかたのところへ出かけたのでしょうか」

 キクコさんはふふ、と笑った。

「そうね、仲がいい方のところへ、ご挨拶に行ったのね」

「ちがやさま、という人ですか?」

「さま」付けだなんて、きっと偉い人に違いない。一体どういう関係なのだろう。

「ええ。だけど、人……というより」

 少し考えてから、キクコさんは香織に目を向けて、にこりと笑った。

「神さま、というべきかしら?」

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