巳ノ淵・2
バスを降りると、停車場に香織と同じ年頃の男の子が立っていた。
「龍樹さん、ですよね」
「もしかして、衛?」と尋ねる龍樹に「お久しぶりです」と答え、彼は丁寧に頭を下げる。
マモルと呼ばれた少年は、短く刈った髪に、しわ一つないブルーのシャツを着ていた。シャツの裾はベージュの半ズボンにきっちりと入れられている。一見して地味で真面目そうな印象だ。背は香織のほうが少しだけ高かった。
「でっかくなったなぁ。俺のこと覚えてる?」
もう一度短く「はい」と答えると、衛と呼ばれた男の子は先に立って歩きはじめた。
「香織。こいつは藤堂家の次男坊の衛。だよな?」
「はい」
「こっちは妹の香織。確か、同じ学年だったっけ。今、小学六年生?」
「はい」
「今年は二人で世話になるからよろしくな」
「はい」
「あのっ、ええと、よろしくおねがいします」
龍樹に倣って声を掛けてみると、衛はチラとこちらを振り返り、にこりともせずに小さく会釈を返した。
――なんだか、何を考えているのか分からない子だな。
「龍樹さん。昨年送った草のことなんですが」
衛が口を開いた。声色こそ子供ではあったが、仕事中のサラリーマンのような淀みのない口調に、子供っぽさはまるで感じられない。
「巳ノ淵」という停留所を境に、国道は川を逸れ、再び峠へと向かって伸びていた。三人は渓流沿いに作られた細い町道を上流へ向かって歩いた。車の往来はなく、聞こえてくるのは川の流れる音、鳥の声、そして衛と龍樹の話す声。衛は子供のくせに、やたらと草の効能について詳しそうだった。龍樹に、昨年送った薬草の質はどうだったか、配合はうまくいっていたか、などと取り留めのない質問を続けている。龍樹も矢継ぎ早に浴びせられる質問に普通に答えているが、傍から聞いていると、それが小学生と中学生の会話とは思えなかった。香織は二人の後ろをただ黙々とついて歩いた。世の中にはゲームや漫画、テレビアニメのような楽しいものがいっぱいあるのに、草だの木だのキノコだの、何が楽しいのかよく分からない。それに、しばらく歩くって言っていたけれど、一体どれくらいだろう? もうかれこれ二十分近く歩き続けているのだけど! 辺りを見渡しても、人の住むところにたどり着く様子はなかった。日は斜めに傾き、差す影は長くなってゆく。歩くうちに、道沿いを流れる川幅は徐々に細く岩がちになり、勾配はきつくなりはじめていた。さすがに不安になってきたころ、川と反対側の山の斜面に細い道が伸びていて、その坂の続く先に、石垣で整備された小さな段々畑と数件の古い民家が建っているのが見えた。衛は、その車一台がようやく通れるほどの細い山道を上っていく。坂の上がり口には電信柱があり、その側面に取り付けられた緑色のプレートに、白い文字で「巳ノ淵」と書かれていた。どうやら藤堂家のある地域一帯も、バス停と同じ名で呼ばれているようだ。山の斜面を切り開いて作られている小さな集落の眺めは、香織の住む天ヶ瀬によく似ていた。
「ただいま戻りました」
細い山道の一番上にある大きな日本家屋に二人を案内した衛は、玄関口の広い土間から奥に向かって声を掛けた。はぁい、という女性の声がして、しばらくすると、割烹着姿の女の人が現れた。
「あらあら、龍樹さん、見違えたわ!」
笑顔のまま目を丸くしたその人は、多分、同級生のお母さんたちと同じくらいの年齢だろう。姿勢がよく細い体つきで、長い髪は後ろで綺麗にまとめてあった。日焼けした頬にはそばかすが散っている。溌剌とした笑顔に釣り込まれ、こちらも自然と笑顔になった。
「そちらは香織ちゃんね。今日は車が出払っていて、迎えにも行けなくてごめんなさいね。こんな山奥まで、気の毒だったねぇ」
「お久しぶりです、キクコさん。今年は妹と二人でお世話になります。それと……これ、叔母からの預かりものと、手紙です」
龍樹はリュックから小さな絹の袋を取り出すと、キクコさんに手渡した。彼女は小袋を両手で大事そうに受け取って、叔母の手紙に軽く目を通した。
「今年は天候もいいし、質のいい草が採れると思うよ。さあ、あがってひと休みしてちょうだい」
「お邪魔します」
土間に靴をそろえて客間へと上がるとき、ふと振り返ってみると、衛の姿はいつのまにか見えなくなっていた。
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