摘み草の薗

西乃 まりも

巳ノ淵・1

 バスは町を抜け、のどかな田園風景といくつかの集落を通り過ぎ、山の中へと入っていった。

 ――どうしよう。かなり、気持ちが悪い。

 両手でビニール袋を握り締めたまま、香織は青ざめた顔を車窓に向けた。田舎にも山道にも慣れているはずなのに。目的地が、まさかバス酔いするほど山深い場所だとは思わなかった。

 一日に数便しか出ないバスに無事乗ったところまでは良かったが、目的地は遠く、いつの間にか乗客は香織とその兄の二人だけ。車内最後尾に目を向けると、ジャージ姿で長椅子に寝そべった龍樹(たつき)が、急なカーブの揺れをものともせずに熟睡していた。

 いくら誰もいないからって、恥ずかしくないのかな。中三にもなって。

 せっかくお気に入りのブラウスとキュロットスカートを着て来たんだから、粗相をするなどもってのほかだ。何より、初めて会う先方の家に迷惑をかけるのが嫌だった。ポケットから取り出したハンカチで口元を押さえながら、香織は再び窓の外を眺めた。バスは今、川に沿って進んでいる。季節は五月、空は快晴、窓の外には新緑に輝く山と、清流。ごつごつと続く岩場を縫うように流れる水は澄み切っている。時折小さな滝壺のようになっている箇所は深さがあるらしく、エメラルドブルーに輝いていた。

 香織は無感動なまま、それらを眺めていた。バス酔いで気持ちが悪いのと、背後で呑気に眠りこけている龍樹の存在が心を暗澹とさせた。こんな兄を持ったばかりに、香織はこれまでさんざんな不利益をこうむってきた。地元の山に入ると数日戻ってこない、学校には気が向いたときにしか行かない。登校すればしたで教師との折り合いは悪く、しょっちゅう問題ばかり起こしていた。同級生とは共通の話題に乏しいのか、親しい友達もおらず、変わり者扱いをされている。そんな兄の三歳年下の妹である香織は、小学校に入学してからずっと「あの天ヶ瀬龍樹の妹」という目で見られ続けてきた。そのせいか、学校の規則に従順であろうとしても、どこか自分が周りから浮いているような気がして、不安な気持ちがぬぐえない。それでも、香織は「普通の子」であろうとした。無遅刻無欠席、先生が眉をひそめるような行動は慎み、友達が好きな人形遊びやゴム飛びをして、友達が好きな漫画を読んで、周りに馴染む配慮を怠らなかった。

 けれど、ある日の放課後、友達が教室で集まって話をしているのを偶然聞いてしまった。


 ――香織ちゃんって、いつも服から変わった匂いがするよね。

 ――わかる。薬みたいな、煙たいような匂いでしょ。

 ――香織ちゃんのおうちは変わっているから、なるべく近づかないようにって、お母さんに言われていて。

 ――変わっているって?

 ――ユーレイが出る山に住んでいるんだってよ。

 ――うっそお。

 ――私も聞いたことがある。香織ちゃんのところの山に迷い込むと二度と戻ってこられないって、この辺りの大人、みんな言ってるよ。

 ――大人が言うんだもの、本当なんだよ。

 ――あの匂いと、何か関係があるのかな。

 ――あっちゃん、香織ちゃんに聞いてみてよ。

 ――やだぁ、そんなの! こわいもん。


 それ以上聞いていられなくなって、逃げるようにその場を去った。

 翌日から、彼女たちとうまく喋れなくなった。服に染み付いた薬草の匂いが気になって、人と距離を取るようになり、だんだん一人でいることが増えていった。

 そうなると、ますます言われてしまうのだ。おとなしそうに見えたって、やっぱりあの子も変わってる。天ヶ瀬の子だからね、と。



「次は、ミノフチ、ミノフチ」

 バスのアナウンスが流れ、香織は急いでボタンを押した。

「お兄ちゃん、もうすぐ着くよ」

 パンパンに膨れたリュックサックを背負いながら声を掛けると、だらりと座席に転がったまま、龍樹はよく分からない唸り声を上げた。伸びきったぼさぼさの髪に手をやってのそりと起き上がると、香織の顔を見るなり目を丸くする。

「おいっ香織、顔色がすごく悪いぞ。病気か?」

「……吐きそう」

「エッ」

「バスで酔って」

「あ? あぁ、乗り物酔いか。あと少し、我慢できるか?」

「うん……、大丈夫」

 うねりの強い下り坂が終わり、谷間に差し掛かったせいだろうか。もうすぐ到着という安心感も手伝って、さっきよりも具合は良くなってきていた。

「リュック貸せ。兄ちゃんが持ってやるから」

「いいよ、そんなの」

「いいから」

 力ずくで肩に掛けていた荷物が持っていかれ、ふっと肩が軽くなる。

「藤堂の家、香織は初めて訪ねるんだったよな」

「うん」

「みんないい人ばかりだし、あの山は楽しいところだから。ちょっとでも元気になればいいな」

「……別に、今も元気だけど」

「嘘つけ。おまえ、ここんとこ何かおかしいだろ」

「そんなことない」

「学校で何かあったのか?」

「特に何も」

「何かあったら、兄ちゃんに言えよ。何でも力になるから」

「…………」

 その言葉に嘘がないだけに、余計に腹が立ってくる。

「もし何かあったって、お兄ちゃんには言わない」

 言えるわけがない。天ヶ瀬の家業のせいで、そして変わった兄がいるせいで、学校で孤立しているだとか。あの家が、山が、嫌い嫌いで仕方がないとか。

 香織の言葉に、龍樹は目に見えてしゅんとしおれたような表情を浮かべた。

 ああ、もう。面倒くさいなぁ。

「何もないって、本当に。元気だから」

 バスは速度を緩め、小さな停留所で動きを止めた。扉の開くブザー音に救われた気分になりながら、香織は龍樹に背を向け、出口に向かって歩きだした。

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