魔王を待ちながら
こなたかなた
第1話 プロローグ
その日、目覚めた時、窓の外が真っ赤に染まっていたことを僕は覚えている。
夢の記憶は無く、突然、朝とも夕方ともつかない焼けた空を見ながら、不安と予感とが入り混じった少しの胸苦しさを感じていた。
いや、それは思い出による作用のものなのか。
その朝、僕は母親の声に起こされ、自室の扉を開き、二階から一階へと降りていった。
その固い口調に、僕は、緊張を覚えていた。
家の電気はまだ点いていなかったが、壁と天井の明りとりから、紫がかった朝焼けの光が階段を照らしていた。
見慣れたリビングに、父と母が、テーブルの前に座っていた。
窓からの光はまだそれほど強くは無かったが、二人が真剣な面持ちをしていることはわかった。二人の後ろでは、湯沸かしのポットが静かに湯気を立てていた。
「侑くん、大事なお話があります」
母が言う。
いい話の予感は無かった。
続けて、こう言った。
「真面目なお話なので、ちゃんと聞いてね」
元よりそのつもりだよ。
そう言いたい気持ちを飲み込み、言葉を待った。
「侑くん。お父さんと、お母さんについて、きちんと話さないといけないことがあるの。でも、ちゃんと理解してほしい」
「……なに?」
聞いてるよ。そう伝えるため、それだけ言葉を返す。
母は言う。
「お父さんと、お母さんはね、侑くんの、本当のお父さんとお母さんではないの」
冗談の様子はまるでない。窓からの光に照らされ、室内の浮遊する小さなゴミがちらちらとノイズのように、反射を繰り返す。遠くで、車が走り、そして去ってゆく音が聞こえた気もする。小さく鳴く雀のような声も。
だが、現実感は徐々に失われてゆく。
「侑くん。私たちにはここではない、別の『祖国』があります」
言葉は続く。だが、それは言葉のままで、空の中を漂うだけだ。
現実は少しずつ、自分の体を離れ、意味だけが記憶として音として響く。
『母』の言葉は告げる。
自分と、『父』と『母』は、『祖国』のため、『家族』であったと。
しかし、今、『僕』は『祖国』のため、ここではない、『施設』へといかないといけないということ。
『父』と『母』は、そのために、今まで『大切』に『僕』を育てた、ということ。
「施設ってなに?」
僕の問いに、『父』は答える。
「『祖国』のため、新しく勉強して、侑が、強くなるために必要な場所だよ」
『父』の言葉を聞いても、そこは到底素晴らしい場所のようには思えない。今とは違う、全く、異なる、どこかへ僕は連れ去られる。そう僕は思う。
「……いつまで?」
僕は聞く。
二人からすぐに答えは無かった。
「夏休みの間には戻れるの?」
『父』が口を開く。
「おそらく、もっとだ。だが、侑の頑張り次第でそれは変わってくる」
なんだよそれ。
全く理解ができない。テレビのびっくり企画であったらとも願う。だが、多分そういうことは無い。そうであるなら、もっともっと不自然でも、二人は笑ってくれるはずだ。だが、それはない。なにも、ない。
「……僕が悪いことをしたから?」
僕は尋ねる。
「悪いことをしたから、刑務所みたいなところに行くってこと?」
入った切り、出てこれない施設。何かを強制され、『頑張り次第』でそれは長くも短くもなる。それは刑務所のイメージであり、少年院のイメージであり、つまりは長い牢獄でしかない。
「佑くん」
母親が立ち上がり、僕の前に来て座りこむ。
そして、僕の手を取る。
冷たい手だな、と僕は思った。
にらむよう見つめる僕の頬に、手をあて、それから、『母』は僕を抱きしめた。
「違うのよ」
その時の『母』の声色がどのようなものであったのかは覚えていない。
ただ、こう言ったことだけは覚えている。
「違うのよ。そういうのではないのよ。侑、そういうのではないの」
僕はすでに小学校も高学年だ。五年生ともなれば、こんな風に母親に抱き締められるなんてことはない。こういうのは子供にすることだ。幼稚園とか、低学年とか。おねしょの子供にすることだ。
「なんだよ」
僕は言う。声が涙声になっていことに気付く。
「なんでだよ」
母は抱きしめた手を緩めず、かえって力を、強くこめた。
ああ、と僕は認識する。
そういうことか、と。
僕は戻れないんだ。
そういうところに行くんだと。
***
五日後、僕のところに『お迎え』がやってきた。
それまで間、僕は持ち物を整理し、学校の友達への急な『転校』をわびる手紙を書く。今まで滅多に無かった、三人での遊園地や、外食を、楽しむでもなく、儀式のようにこなし、そして当日となる。
『お迎え』は、黒塗りのベンツでもなく、サングラスをかけたスーツの男でもなかった。
白のボックスカーに、ジャージ姿の、父よりもずっと歳をとった風に見える、白髪混じりの髪の短い、小太りの男がやってきていた。
早朝の冷たい空気の中、僕はランドセル一つだけを荷物に持ち、家の前へと出る。
エンジンのアイドリング音が、早く早くとせかしているようだった。
「元気でね」
『母』がいう。薄っすらとした笑みを浮かべている。そこに感情を読みとることは難しかった。
「しっかりやるんだぞ」
『父』はそう言って、僕の両肩に手をおいた。野球の試合にでも出る日のように。
僕は不安そうな顔をしていたのだろう。父は僕の頭に手をのせ、かき混ぜるようになでる。
「大丈夫だ。侑なら大丈夫だ」
呪文のような言葉。
「うん……」
そう答える以外には何もできなかった。
顔を僕はあげる。
そして二人の顔を見る。
『父』と『母』の顔だ。
見慣れた、そして知らない顔だ。
僕はボックスカーの助手席に座る。
ランドセルを腹の上にかかえ、もう一度、窓の外を見る。
運転席の男が、父と母に会釈をして、車は走り出した。
バックミラーを見ると、二人がこちらを見ているのが分かる。
そして、それは段々と小さくなってゆく。
ウィンカーの音が鳴り、右へと車は曲がる。
バックミラーの二人の影が、建物の影に隠れて消えた。
通学路だった道を走り、大通りに出る。
早朝のまだ車通りも少ない国道を走る。
見慣れた町の風景であるはずなのに、そこに隔絶された膜のようなものを覚える。
もう、ここから自分は切り離されたのだと思う。
高速道路の入り口に入ったところ、僕はランドセルからまだぬくもりの残る包みをだす。
「おいしそうだな」
運転席の男がちらりと、こちらを見ながらつぶやく。
特に気遣う感じでもなく、たまたま、班が一緒になった友達が、作業の合間に尋ねてきたかのような気やすさだった。
包みは、アルミホイルで二つ。開くと、中にサランラップでつつまれたおにぎりがある。わずかに白い湯気がたつその一つを、口にする。外にはふりかけが、中には、ピンク色の焼き鮭がごろりとつまっている。
口の中に温度が広がり、そして塩味が、僕の中に滲みこんできた。
喉を通り、胸と、鼻の奥へと広がってゆく。
「おいしいよ」
右手に、おにぎりをつかみ、フロントガラスの向こうの道路の、その先の空をにらみながら僕は言う。鼻の奥に暖かいものが広がってゆく。目をあけてゆくのが辛くなるが、ぬぐいはしない。どうせすぐまたそれはあふれるだけだ。
「すごく、おいしいよ」
心の奥で、叫ぶように、ひねり出すように、僕はそう言った。
***
そして、三年後、僕が『祖国』からこの国に戻った時から、この物語は始まる。
魔王を待ちながら こなたかなた @midorisand
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