山姥の指紋
これもまた、とあるマンションの管理人のおじさんから聞いた話。
「じゃあここで少し待っててくださいね。すぐ着替えて戻りますから」
「おう、わーったよ」
正吉は、当時同僚だったその女性を、彼女の住まいである社員寮へ、車で送り届けたところだった。
この後に開かれるの飲み会のために、作業服から私服へ着替えたいのだと言った彼女の『アシ役』を、正吉は二つ返事で引き受けたのである。もちろん正吉もその会に参加する予定であった。
会費はいくらだったかな、と助手席に置いた鞄の中の財布へ手を伸ばす。
「充分、充ぶ──」
ふと、嫌な予感に視線を上げる。
何の気なしに振り返ると、後方からわざわざ車をめがけるように直進してくる一人の姿をその目に捕らえた。
「なんだ、ばーさんか」
それは、一人の老婆であった。小さな身体をこじんまりとさせ、しかしそれなりの速度で進んでいる。正吉の乗る車との距離はおおよそ三〇メートル。
正吉は自らの過剰反応を鼻で嗤うと、さっさとハンドルへと向き直った。
「はァ?」
正吉は目を疑った。
バックミラーに映った先程の老婆が、すでに一〇メートルを切る距離まで近付いていたのだ。
正吉はよくわからない焦燥感に慌て、もう一度後ろを振り返る。
バンッ!
酷い音を立てて、リアウインドウにその老婆が貼り付いた。
「うわっ?!」
正吉は飛び上がるように肩を跳ね上げると、みるみるその目を見開いた。
ボサボサで長らく洗っていないような白髪混じりの毛髪は乱れ、しわくちゃの両手はリアウインドウにその指紋まで刻まんとしている。隙間の空いた汚ない歯並びに正吉は嗚咽感が沸き起こった。
恐怖のあまり、正吉はハンドルを握ると光の速さでアクセルをベタ踏みにした。
ギキイイイ、とタイヤの空回りする音が耳に入る。ブオンッと突如動かされたエンジンは、排気ガスを撒き散らし車をどんどんと前へ進める。
リアウインドウに貼り付いた老婆は、あまりの急発進により転がり落ちるように車から引き摺り下ろされた。
「なんだあれ、なんだあれ、なんだあれ?!」
正吉のハンドルを握る腕に冷たい汗が滲む。ガタガタと震えるほどの恐怖は、子どもの頃に視て以来であった。
そこの角を左に曲がる。幸いこの先はしばらく信号がない。
同僚の女性が着替えて降りてくるまでに、元居た場所へと戻らなければ──そう考えバックミラーをチラリと見た。
なんと、老婆が追いかけてきている。
それも、ものすごい速度で走っている。
その髪や手足を振り乱しながら、追い付かんとしているのだ。
「はあっ?! ちょっ、待て待て!」
正吉はハンドルを再び左へと曲げた。アクセルは踏み続けている。タコメーターが何キロを指しているかなんて気にかけている場合ではない。
バックミラーに映る老婆は、やはり走っていた。
真っ直ぐに正吉の車をめがけて走っている。
その姿はさながらヤマンバというそれであろうと、正吉はどこかで冷静に分析していた。
もう一度左へハンドルを急激に曲げる。
当然アクセルは踏みっぱなしだ。
ガタガタガタ、と車は揺れ続ける。
はたと気がつくと、正吉は同僚の女性が待つ寮の前に辿り着いた。恐る恐るアクセルを離し、ブレーキを踏む。
追いかける老婆は、いつの間にか居なくなっていた。
車はやがて静かに止まった。
「もう! 降りてきてみたら車がないからビックリしたじゃないですか。どこ行ってたの?!」
同僚の女性はそうして後部座席のドアを開け、力任せにバタンと閉めながら文句を垂れていた。
「わ、ワリーね。ちょっと一回り、してきたんだ」
同僚の女性を窺うついでにリアウインドウを見る。
老婆の姿は、もうすっかり無かった。
しかし、代わりにリアウインドウにあったのは
老婆が貼り付いた指の痕であった。
嘘みたいな、彼岸の話。
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