透明童子

 これもまた、とあるマンションの管理人のおじさんから聞いた話。




 その日正吉は、定時で仕事を上がった。目前に控えているお盆休みへ思いを巡らせながら、いつもの道を一人で歩いていたところであった。

 真夏だということもあり、まだ陽は長い。しばらく太陽が沈みそうにないところを見ると、腕時計が示す一八時半という時刻は嘘なのではないかと思えてしまう。

 この橋の欄干に手をついて眺める夕焼けは、決して絶景でもなんでもない。しかし正吉はいつもそこで一分間程度夕陽を浴びるのが、いつの頃からか日課になっていた。


「ねぇ、お兄ちゃん」


 ふと、蚊の羽音かと錯覚してしまうような声が聴こえてきた。細く小さく、囁きともまた違う。遠くから聴こえたわけでもない。

「あん?」

 正吉は耳鳴りか何かかと思ったので、しばらく耳を澄ましてみた。

 しかし、それきり聴こえてこない。

「なんだったんだ?」

 正吉は欄干から手を離し、辺りをキョロキョロと見渡す。

 この橋の通行人は、この時正吉しか居なかった。


「お兄ちゃん、ここだよ」


 まただ。

 先程と同じ、細く小さい男の子の声だ。

「お兄ちゃんって、俺か?」

 正吉は眉を寄せ、男児の声がする方へ視線を向ける。


「そうだよ、お兄ちゃん。ねぇ、遊んでよ」


 声は、橋の下から聴こえた。

 思わず欄干にその身を乗り出し、覗きこむ。

 しかし、そこには誰も居ない。水深一メートルもない川と、茂りきった雑草がただあるだけだった。

「遊ぶっつったってなァ。大体お前どこにいンだよ?」

 思わず苦笑いで、そう問いかける。

 案外会話が成立していることに、当時の正吉は大変興味を掻き立てられていた。


「えっ? お兄ちゃんには見えないの?」


「見えないの、ってなぁ。逆に出てきてくれよ。そしたら考えてやってもいいよ」

 正吉は欄干下から顔を上げた。もう一度辺りを見回す。

「そんなことより、お前は俺と会話してていいのか?」

 苦笑いで虚空へ問う。

 しかし、今度は返事がない。

「ありゃ?」

 正吉はそうして後頭部を掻くと、あれだけ高かった陽がすっかり落ちきっていることにようやく気が付いた。

「…………」

 それから、いくら耳を澄ませどももう子どもの声はしなかった。

 正吉は「諦めて成仏しろよ」と独り言を溢し、帰路についた。




 翌々年、正吉は再びお盆の頃にそこを通った。

 そういえば、と夕焼けにあの声を思い出す。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん」


「何だよ、まだ成仏してなかったのか?」


「うん、ボク遊びたいんだもん」


 そんなお盆が、それから数年間続いている。

 姿はやはり見えないままである。





 嘘みたいな、盛夏の話。



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