真黒き女
これもまた、とあるマンションの管理人のおじさんから聞いた話。
それはまだ、正吉が二〇才前半だった頃の話。
三歳下の彼の弟は長らく偏頭痛に悩まされており、その頃とうとう薬が利かなくなり始めていた。
あの日正吉は、病院に行くと言う弟に付き添い、近くの総合病院へ向かった。弟は時折首元や胸を押さえる仕草をし、この時も「胸が刺さるように苦しくなるんだ」と話していた。
病院では、検査のためそれなりに長く拘束されたが、結局はいつものように薬を貰い呆気なく帰宅する事となった。
「日頃の行いがワリィから、オメー呪われてんだ」
そんな冗談めかした言葉を吐いた夕空の帰り道、とある繁華街の片隅にたまたま居た易者が、ふいに弟を呼び止めた。
「アンタ、悪いことは言わない。すぐにお祓いをしてもらいなさい」
青褪めた易者は「料金外でいいから話を聞いてくれ」と渋る二人を正面に座らせた。
易者は、よくあるパイプ椅子を道端に開き、瓶ビールのケースを詰んだような簡素なテーブルを前にして座っていた。普段なら絶対に信じたり近寄らないような風貌の、煤けた初老の男性だった。
「女の人が憑いてる。シーツみたいな、白い布を纏って、黒いこんっな長い髪の女だ」
易者は不安そうな表情を浮かべると、弟の周りをぼんやりと眺めた。
「海から憑いてきたみたいだな。え? ほう……自殺したって」
まるで今そこに居る人から直接話を聞いたような言い方に、正吉はゾッとした。反面で(俺には見えねぇのにな)とも思っていた。
「兄貴、信じてんのかよ?」
弟は易者に言われた言葉をまるで何とも思っていないようであった。他人事のようにヘラヘラとし、正吉が簡単に作った夕飯を掻き込んでいた。
「大丈夫だって、別に死ぬわけじゃねぇしよ!」
弟はそうして昼間病院で貰った何錠もの薬を飲むと、「寝るわ」と気丈に言い残し、部屋へ行ってしまった。
残った家事をひととおり終わらせ、何度も見て台詞すら覚えているような洋画をビデオデッキに飲み込ませたところで、正吉は何故かふいに弟が気になった。もう目や脳はその洋画のことでいっぱいのはずなのに、胸騒ぎとはまた違う何かを感じ、弟が寝ているはずの部屋へと急ぎ向かったのである。
寝室の前で立ち止まり、銀色の冷たいノブに触れた瞬間、そのドアの向こうで弟の呻き声が聴こえた。
「おいっ、大丈──」
勢いよくドアを開けると、いつものように弟はベッドで寝ていた。
が。
「?!」
正吉は目を疑った。
オフホワイトの壁紙が貼られた天井から、無数の糸のような黒髪を垂れ下げたシーツのようなものが出てきている。
そして、『それ』は丁度弟の真上から垂れてきているのだ。
正吉は背筋が凍りつき、感じたことのないような寒気に襲われた。
「う、ううぅ……」
弟は息ができないかのような呻き声を微かに、しかし手足などはピクリとも動かない。この場合、動けないと言った方が正確かもしれない。金縛りである。
『あれ』は易者に言われた『悪霊』だ──。
咄嗟にそう思った正吉だったが、どうしてか全身に力が入らない。
気付かぬうちに正吉も金縛りに合っていた。ドアを開けたまま立ち竦み、弟が苦し気に呻いているのをただ見ているしか出来ない。
長くやや濡れているのか、いやにつるりと不気味に光っている黒髪がベッドの柵の縁にまで及んでいる。
蒼白く気味の悪い肌はやや血管さえ浮いて見えた。その指の爪がまた長い。弟の首に、胸に、ズブリズブリと食い込んでいく。
ピタリ、と、突然その動きが止まった。
正吉はその瞬間目を見開いた。
黒髪の女の悪霊は、ギギギギ、と効果音が聴こえるかのようにぎこちなく正吉を振り返り、長い髪の隙間からしっかりと正吉を見たのである。
やはり蒼白い肌。
生気なく痩け浮いた頬、片側だけ裂けている口は血の痕がある。
黒く窪んだ目元、そこから覗く嫌に光って見える白い眼球。
憎しみなのか怨念か、そういう黒くモヤモヤとしたものをこれでもかと纏った女は、弟の胸に腕を肘までズブリと突っ込んだ。
「うぅ……」
弟のその呻き声が正吉の耳に届いた瞬間、正吉は金縛りが解けた。
「おいっ!」
口から勝手にそう言葉が飛び出し正吉自身も驚いている中、女の悪霊は実に無念そうにジュワリとその場から消え失せた。
表情が歪んだとか、そういう明確な事柄があったわけではないのに、正吉には女が『無念そうに』していることがわかった。
悪霊が完全に視えなくなると、正吉は弟へ駆け寄り、慌てて揺さぶり起こした。
「起きろ! 死んでねぇよな?! おい、しっかりしろ?!」
「ん、う」
弟は無事であった。
しかし、首筋と胸に不気味な青アザが残っていた。まるで、指の断面のような。
翌日、正吉は弟を引っ張るようにしてとある寺院へ向かった。
悪霊に襲われた旨を正吉が話す前に、そこの住職は「女性の悪霊にお悩みですね」と目を閉じた。
そこからは驚くほどスムーズであった。
住職は弟から悪霊を引き離し、浄化作業に移り、「はい終わりました」と手を合わせたのである。
「ややしぶとかったですが、取れましたよ。片頭痛に悩まされることはもう無いでしょう」
片頭痛についても説明していなかったのに、住職はそれすらもわかっていたようだった。
住職が言うには、悪霊が憑いていることで片頭痛を引き起こしていたようだ。胸の苦しみは、悪霊が胸から弟へ入り、生身を乗っ取ろうと画策していたからだとも言った。
正吉が見たのはまさにその『乗っ取り』の瞬間だったのかもしれない。
「それは危なかったですね、お兄様も」
「え、俺もですか?」
「目が合ったのに、ご無事で良かったですね。取り憑かれ先を変更されていたっておかしくはなかったですが──」
そう言って住職は、チラリと正吉の上の方をぼんやりと見詰めた。
「あなたはお護りいただけているようですね」
住職はそうして正吉に微笑みかけた。
「そう、なの?」
「ええ」
住職は守護霊については語ることはなかったが、この頃の正吉には母の守護霊が憑いていたのであろう。
「しばらくはこちらをお持ちください。色が変わったら再びここへお持ちください」
住職はそう言ってひとつ数珠を弟へと手渡した。護符のようなものであろう、と正吉も強く弟へ言い聞かせ、それから数年の間持たせることとなる。
嘘みたいな、晩春の話。
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