枕元の声
これもまた、とあるマンションの管理人のおじさんから聞いた話。
ある春の終わり頃、住人の若い女性が亡くなったとその部屋へ呼ばれた。
彼女は患っていた癌が悪化し、まるで眠るように息を引き取ったと、彼女の旦那が涙を堪えて伝えてきた。
正吉は、特別接点があったわけでもない彼女の冷たくなった身体と対面する事に、言い様のない申し訳なさや
彼女の奥ではその息子が、彼女をまるで寝かしつけるように胸や腹の周りを優しく撫でていた。
彼は若干四才にして母の死を理解している、と父親である旦那は話し出した。
「息子は、妻から自分の死について聞かされていました」
「あの、どういったように?」
静かに大人の会話をしていると、息子の彼は顔を上げて正吉に言った。
「お母さんね、もう『おっき』出来ないんだけど、いつまでもボクの胸の中に居るって。ボクの事、空から見てることにするんだって言ってた」
正吉はつい片目から涙が溢れた。
「だから、ボク悲しくないんだ」
もっと泣いたっていい、もっと困らせたっていい歳なのに、四才の彼はきちんと死を理解していた。
代わりと言わんばかりに、正吉は涙が止まらなくなった。
それから二年の月日が流れた。
妻を亡くした旦那は、息子と二人で忙しない日々を送っていた。たまに妻の母親が彼らを手伝いに来ていて、正吉は息子の成長を管理人をしながら静かに見守っていた。
そんな最中、春先のある日。
まだ夜風が寒く、ドテラを布団の上に掛けるほどに寒さを感じていた日だった。正吉は寝ながらにして眉間が詰まっていくのがわかり、夢の中から意識が戻ったことがわかった。
(なんだか、嫌に寝苦しいな)
そう思って目を開けると、ハッキリと天井の方から声が聞こえてきた。
「──に……さん、……か……りに……さん」
「ううん……」
誰だろうか、俺の事を「管理人さん」と呼ぶのは。正吉は寝返りをうつと、その先に白い手がハッキリと見えた。
「──私です、管理人さん」
「あ、アンタ、あの子のお母さんか」
起き上がらず顔も見ぬ、そんな状況でなぜ彼女だとわかったのかと訊かれると、それは自分でもわからない事だった。だが白いその手は確実にあの日見た、遺体となった彼女の白さと同じだと思ったのだ。
「管理人さん。お願いがあるの」
鼓膜に直接響くようなその静かな声が、正吉を布団の中に留めていた。
正吉は「なんだい」と訊いた。
「一度だけ、管理人さんの身体を、借りたいの」
「いいけどさ、どうして俺なの? 俺、生前のアンタと喋ったこともなければ、なんなら初めて会ったのはご遺体だったんだよ?」
正吉は、言ってしまってから(気分を悪くするかな)と案じたが、彼女はなんでもないことのようにさらりと答えてきた。
「周りに視える人が居ないの。息子の枕元にも、主人の枕元にも立ったわ。でも、みんな気が付いてくれなくて」
「あぁーそうか、だから俺を選んだんだな。俺はいろいろ視えちまうから」
彼女は生きている人のように「クスクス」と嬉しそうに笑った。
「いつ貸す? すぐでも構わないよ」
正吉はまるで本や文具でも貸すかのように軽い調子で訊ねた。
「えっとねぇ。じゃあ、明後日がいいわ」
「わかった。じゃあ明後日また来なよ。なんなら明後日まで入っててもいいんだぜ?」
正吉がそう言ったが何の返事は返ってこなかったので、いよいよ身体を起こして枕元を確認した。
彼女はいつの間にか消えており、いつもの自室があるだけだった。
再び布団へ潜ると、一呼吸のうちにまどろみの中へと意識が戻っていった。
朝起きてみると、彼女とのその会話が夢か幻だったかのように思えてならなかった。そんな夢を見るような会話や体験を誰かとしたわけでもなかったので、一人きりになるとどちらが現実なのかもわからず、たまに不安になった。
彼女と約束した『明後日』の朝。
正吉は起き抜けで布団を片付けている最中に彼女の声を聞いた。
「管理人さん。二時間だけ、借りるわね」
耳元でする声に「お母さんか」とすぐ理解して、正吉は振り返ることなくそのまま言った。
「俺は別に困んないから、アンタが満足するまで居てもいいんだぜ?」
「ダメ。管理人さんが壊れてしまうから」
「壊れんの?」
「ええ、管理人さんが別の人になってしまう」
そういうもんなんだ、と頷くと彼女の声が聞こえなくなり、身体にも特に何の違和感もなく「借りられている」感じもわからなかった。
それからは普段どおりに管理しているマンションへ向かい、掃除から住人との雑談からいつものようにこなしていた。
しばらくすると、彼女の母親と彼女の息子が管理人室へと姿を見せた。
彼はランドセルを背負い、真新しいスーツを着ていた。後から遅れて旦那もやってきて、「今日入学式なんです」とやや照れながら告げた。
そうか、彼女は息子のランドセル姿を見たかったんだ。だから急に俺を通して下りてきたのか。
正吉は息子へ激励の言葉を掛けるべく、彼の目線にしゃがんだ。
「おいおい、すんげぇかっこいいじゃん!」
正吉は彼の肩をパンと叩こうと手を動かした。
次の瞬間、手が勝手に彼をランドセルごと抱き締めに向かった。
あ、これ彼女だ。
正吉は抵抗することなく、そのまま彼女に身を預けることにした。
「おめでとう、よかった。頑張ってね」
正吉の口や声を使い、彼女は息子へそう言葉をかけたのだ。
彼女の母親が多少驚いていたが、すぐに彼女から正吉へ身体の主導権が戻ると、息子からそっと離れて「ワリー、ワリー」と苦笑いで誤魔化した。
二、三会話を交わしたあと、彼らは手を繋ぎ、入学式へと向かっていった。
その背を見送りながら、正吉は再び耳元で「あぁ、本当にありがとう」と彼女の涙声が聞こえた事に気が付いた。
空を仰いだり、後ろを振り返ったが、彼女の白い姿はもうどこにも見えなかった。
彼女は息子のこの姿を見ることが心残りだったのよ、と更に後日彼女の母親が告げに来た。
正吉は「そうだったんですか」と苦い顔をして頷いたが、俺を通して見ていたよ、とは敢えて言わなかった。
その真実だけは、一人前になった息子へ、いつか伝えてやろうと思っているからだ。
嘘みたいな、春の話。
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