背の影
これもまた、とあるマンションの管理人のおじさんから聞いた話。
残暑の日射しが残る街中の隅にひっそりとあるそのラーメン屋は、常連ばかりが居座るような古くさい店だった。
当時そのラーメン店で雇われていた正吉は、夕飯時のお客がなだれ込んでくる前の仕込みに精を注いでいた。店主と正吉の二人きりで黙々と仕込みをし、その時は夕方のテレビの声が耳に入らなくなるほど集中していた気がする。
その日、ガラガラガラ、と一番早い常連が来るよりも早く店のガラス戸が開けられると、奥にいた店主が「すいやせん、開店前なんすよ」と声を張った。
つられて顔を上げた正吉は、入り口に立っている初老の女性に眉をひそめた。
彼女はいかにも『怪しげ』な格好をしていた。そして蒼白な顔色で正吉に近付いてくる。
カウンターを挟んで向かい合い、正吉は思わず手を止めた。
「アナタ、憑いてるヨ」
正吉は「は?」と半笑いで女性に首を傾げる。
「ワタシ韓国人、日本語上手いジャナイ。でも聞いて欲しイで入っテみた」
女性は正吉へ睨むような視線を送りながら、淡々と話を続けた。
「ここの店、いつも通るワタシ。そシたら女の人の感じ、いつもわかる。悪い霊ジャナイでも、これから危なイが伝わったヨ」
「女なんてこの店に居ないよ」
「だからアナタ! うしろに憑いてるーヨ!」
ピッと指を指され、正吉は店主と顔を見合わせた。
「正吉くん、この人確かに向こうのビルで守護霊とかそういうの視てる人だわ」
店主がそう溢すと、正吉は溜め息混じりに「で?」と彼女へ向き直る。
「どんな人なの、その人」
正吉は、昔から自分でも視えるため「視える」と言ってくる人が嘘を吐いているか本当の事を言っているのかもわかるようになっていた。良い霊も悪い霊も視てきたが、きちんとした特徴がある為だ。
そしてどうせ今回もウソっぱちだろう、と半ば呆れていたわけだ。
「黒イ髪、後ろデ縛って丸めて、このくらイ。あと……」
彼女は、正吉に憑いていると言う「女性」の外見についてどんどんと話し出した。本当にそこに居るかのように事細かに話し続ける彼女の言葉は、嘘やデマカセではなく、本当に視えているのだと証明していた。
そして同時に、正吉の顔色をどんどんと蒼白にさせた。
「ちょ、ちょっと。本気で?」
正吉は震える声で彼女へ訊ねた。
なぜなら、その人は正吉が昔から何度も何度も視たいと願い続けて叶わなかった女性であったからである。
「ワタシ嘘言って金貰っタりしない。だからホントのホント! 名刺やるカ?!」
「あの、さ。俺の後ろのその人さ──」
正吉はそこで生唾を呑んだ。そして、カスカスの声で言った。
「──俺の、母さんだわ」
韓国人のその女性が言うには、正吉の母は特別何かを話をしてきたり訴えかけたりなどしてはいないと言った。
では、なぜ彼女はわざわざ店内へ入ってきて、母の事を告げに来たのか。正吉が問うと、母親が正吉の元を去る日が近いようなのだ、と彼女は言った。
正吉の母親は死後、すぐに正吉の守護霊となったらしい。そして永く正吉を見守るつもりでいたのだが、突然にそうはいかなくなったのではと彼女は言う。
守護霊の力が弱まると、憑かれている人間が事故に遭ったり悪霊に襲われる事が増える。母親はその事を本人にどうにか伝えたがっていたようだ、と彼女は駆け込んだと言う。
「コイツ、この前そこの交差点で車とぶつかったんだよ。四〇キロで曲がってきた、こんなゴツいランクルと」
奥で聞いていた店主は、いつの間にか正吉の隣に来ていて、目を真ん丸にしてそう口を挟んだ。
「でも無傷だったんだよなぁ。あれもそうかな?」
「おやっさん、でもケータイとメガネはバッキバキになっちまったんだよ」
「それだけで済んデ、よかたと思エ。お母サん、多分全力で護っタよ、アナタのこと。普通車とぶツかって怪我シナい、無理デショ?」
そういう事、だったんだな──。正吉は半信半疑のなんとも言えない気持ちで満たされた。
「この前は大丈夫でも、次どうなるかわからねぇってことな」
あぁ、母さん。死んでもまだ、俺の事が心配だったんだな。ありがとう。きちんと伝わった。
だから、もう大丈夫だ。俺ももう大概な、オッサンになったんだぜ。
正吉は次の休みに、久しぶりに墓参りに行った。
墓前に母を想い、手を合わせ、感謝の気持ちを白いユリの花に込めた。
嘘みたいな、晩夏の話。
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