02

ペチ、ペチと。頬を叩かれる感触があった。


「……ぃ……生き……るかい」


すぐそばから声も聞こえた。

何も見えないのは……ああ、そうか。瞼を閉じているからか。

そんな当たり前のことに改めて気付いた。


「おい生きてるかい、君」


声の主はどうやらこちらの心配をしてくれているようだった。

ありがとう。大丈夫、すぐ起きるから。

そう心の奥で呟いて全身に感覚を行き渡らせる。深い闇の底からブートする。

だがどうにも上手くいかない。意識は動いているのに、身体までの距離が見えないほどに遠い。

仕様がないのでもう少し自分自身に深く潜ってみることにした。

届かない器官、繋がらない神経に根を伸ばしていくような感覚。少しづつ自分の所有権を取り戻していく。

触覚もだいぶ復旧してきた。伝わる感触から察するに、どうやら固い地面に寝そべっているらしい。


「おーい、生きてるかと聞いているんだ」


うん。待たせてしまってごめんなさい。

でもあともう少し。もう少しだから、だからちょっと待ってい


「いいから起きろ」


「ゲヴォフッ」


そして爪先で脇腹を蹴られた。割と強めに。

突然の衝撃に、被弾箇所を押さえ地面を転がる。

肺と横隔膜が酸素を求めて暴れ出す。両手をついて這いながら、必死で呼吸を整える。

先ほどまではどうしようもなく遠かった自分の身体を、驚くほど自然に“僕”は取り戻していた。


「どうやら生きているみたいだな。体の方も五体満足そうだ」


「……今の、蹴りで、呼吸、困難、なん、ですが」


正に這う這うの体であった。

誤用ではない。いきなりケリカマシテクル危険人物から遠ざかりたいと本能が訴えている。

対して目の前の人物は。


「それだけ受け答えできていれば問題なさそうだ」


などと悪びれもなく笑って言った。

そこでその人物に興味を持ってしまったのが運の尽きたっだのだろう。

咽ぶ顔を上げ、その人物を視界に納めてしまった。

視界に納めてから、後悔した。

白磁器の肌。パライバトルマリンの瞳。

本来なら脚まで届きそうなほどに長い銀髪は、結い上げられ、月光のような輝きを放っていた。

神秘に触れた。

それを、拝謁してしまったことへの、畏敬という名の後悔。

男性口調に油断していた。

そこにいたのは―――天使だった。


「うん、大事なさそうで良かった」


いや、天使のような姿をした少女だった。


屈託なく笑うその表情にはまるで曇りが無かった。本当に悪意も害意もなかったのだろう。

そして本当に『良かった』と思ってくれていたのだろう。

彼女を構成しているものが、神秘ではなく善意だと理解できた。

だからだろう。逃避や委縮や後悔といった感情は、自然と頭の中から消えていた。


「しかし一体全体なんでこんな所で寝ていたんだ?

死亡事故でも引き起こしたい願望でもあるのか?」


「こんな所って……」


見渡して初めて気付いた。

時刻は夜。場所はどうやら細い裏路地であるらしい。

街灯もなく、どこかから漏れてくる家屋の灯りと、月明かりだけが薄っすらと差し込んでくる程度。

そんなところで寝ていれば、確かに危険極まりないだろう。

二輪車かなにかが入ってきていれば、気付かず大惨事になっていたに違いない。


「まあ、無事なようで良かったよ。死体の発見報告なんてしたことがないからな。

正直、起き上がらなければどうしようかと思案していたところだ」


その冗談のような恐らく本気の言葉に、苦笑いを伴い返す。


「良かったです。死体を作らずに済んで」


その言葉に彼女はきょとんとした。すぐに戻ってしまったが、ほんの一瞬だけ、確かに。


「さて、無事と分かったところでそろそろ行かせてもらうぞ。

これでも決して暇な身の上ではないのだ。

まだだいぶ時間に余裕はあるが、この後に約束も控えている。

あと気を付けて帰れ。この後死なれても寝覚めが悪い」


それだけ言って、彼女は背を向けた。

その背中が去っていく。それを呆然と見つめていて


「……待って」


ふと、無意識に彼女を呼び止めていた。

彼女は―――本当はそんな必要など全くありはしないのに―――律儀にこちらに振り向いた。

呼び止めて、何をしたかったのだろう。何を聞きたかったのだろう。

『ここはどこ?』『今は何時?』『あなたはだれ?』『どうして助けてくれたの?』

たくさん聞くことはあって、でも、その中で最も根本的な質問を投げかけた。


「あのう、“僕”は一体誰でしょうか?」

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