第5話
啓太郎劇場の最終章が始まった。
啓太郎は、丸紅さんがポケットに手を突っ込んで車の鍵を取り出そうとしている間に体を思いっきり揺らした。丸紅さんが視界の中でゆっくり傾き始め、啓太郎はコンクリートに落ちた。髪の毛が硬い地面をなぞり、辛うじて頭をぶつけるのを免れた。啓太郎はすかさず口から白い泡を思いっきり吹き出した。
丸紅さんの悲鳴が駐車場に響いた。啓太郎は呼びかけを全部無視し、白目を彼に剥き出しにした。丸紅さんが駐車場を去る足音に耳を済まし、老人ホームの自動ドアがかすかに開く音がしたと同時に立ち上がった。
早速、肉体の老いの全てが、ここが限界だ、ここがお前の戦いの終着点だ、と喚き立てていた。立つだけで自然の冷たい空気が、啓太郎のひどく老化した肺へガラスのかけらのように突き刺さっていた。
それでも老いや痛みに屈することは許されない。生きる事は尊いが、あの婆さんのように生き過ぎて、自分が知らない場所で腐っていくのは何よりも酷い。あんな事になるまで生きていたいとは思わない。頭の中で色々な思いが騒いでいた。
啓太郎は肉体に鞭打って山道を駆け下り始めた。道路だと車で追って来た時にすぐに見つかってしまうので、道のない森の中に倒れ崩れるように飛び込んだ。
泥沼の中を進むように足は重かった。啓太郎は老人ホームの寝室の中で密かに足腰を鍛えていたが、無理は無理だった。動け、このポンコツが。啓太郎は思うようにならない自分の体を呪っていた。
後ろを振り向く事なんて出来なかった。やる時は前だけを向いてやれ。親父が啓太郎に言っていた事に従っていた。
老化してボロボロになった体が動かなくなってしまうかもしれない。あと少しでいい。だが、今はだめだ。
「うわっ」
石に躓き、啓太郎の体は前に飛んで行った。次の瞬間、目の前が暗くなり、口の中で泥と血の味が飛び散った。
老人の口がぱっくり開き、痛みを訴える声、そして同時に空気を吸おうとする喘ぎが森の中に響いた。
立ち上がる体力なぞなかった。啓太郎は地面に倒れたまま震える手で、懐から家族の写真を取り出した。転んだ拍子に写真が泥だらけになっていた。
もう自分に家族がいないことなんて知っていた。事故で家族全員が自分より先に亡くなっていた事を忘れた瞬間なぞなかった。呪いのようにこの数年間自分の頭の中につきまとっていた。
ここで死ぬのだろう。老化が全力で意識を押しつぶそうと躍起になっている。いや、ダメだ。
老人は蚊のような雄叫びを放ち、自分のバッグを開けた。中には靴、服、そして財布が入っていた。
ーーーー
タクシーは町から離れてカーブが多い山道を走った。灰色の雲が空を覆い尽くしていて、フロントガラスのワイパーは激しく叩く雨を一生懸命に振り払っていた。
時折、タクシーの運転手はバックミラー越しに後ろの老人を観察していた。老人の服は雨に濡れていて透けていて、弱々しく息をする皺だらけの肉の塊を見せていた。嫌な仕事だなと思い、この客を乗せたのを後悔していた。
車は道路に溜まった水を弾きとばし続けて、誰もいない山の奥へ奥へ進んだ。
「ここで大丈夫ですか?」
運転手は墓場の前で車を止めて、衰弱した老人に振り返った。しかし返事はなかった。何度か話しかけたが老人は答えてくれなかった。死んだか?と驚いて席から飛び上がりそうになったが、老人は微かに目を開けた。外を見て、小さく頷いた。
「払わなくてもいいですよ。お爺さん」
老人はまた頷いて、ドアを開けて外の世界に出て行った。
運転手は帰り道、老人の形がした雨水が後ろ席に染み付いていたのを気にしていて、何度も舌打ちをした。これじゃお客は乗せられないな。街に戻り、ガソリンスタンドに入った時、老人の財布が後ろ席に置かれていたのを見つけた。ハッとした運転手は視線を山の方に向けた。
〜ー
啓太郎の前には、漢字が刻まれている墓が山を埋め尽くしていた。雨はその全ての墓石を黒色に染めていた。
墓の間には真っ直ぐ伸びる砂利道があり、その道を啓太郎はフラフラしながら登った。
足が地をつく度に靴から雨水が滲み出ていた。もっとも、啓太郎はそんな事を気にしていなかった。
立ち止まった墓石には庄司、和枝さん、翔太くんの名前が刻まれていた。その文字を一つ一つなぞり、一人一人の顔を思い出した。彼らが死んでから、生きているのが虚しかった記憶が甦った。
「待たせたな」
目を閉じた啓太郎の顔は久しぶりに穏やかになっていた。死んだ後に天国があるか地獄があるのかないのかは分からない。でも少なくとも自分のやり方で最期を選べたのは良かった。
老人ホームから脱出 @Kairan
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