第4話
「丸紅さん、話がある」
「なんですか?」
「頼むから、ワシをここから出してくれないか?自分の事は自分で面倒を見れるしな。歩けるし、着替えられるし、トイレに転ばずに行けるし、ベッドから出られるし」
啓太郎は丸紅さんに真顔を向けて話した。
「以前も話しましたが、火を消し忘れて家が火事になりそうだったことや、コンビニ行って自分がどこにいたか分からなかった事がありましたね」
丸紅さんは啓太郎の資料に目を通さずに答えた。
「頼む、ここから出してくれ」
「だめです」
丸紅さんは首を横に振った。啓太郎のの顔が赤くなり、
「何故じゃ!」
とベッドをバㇷっと叩いた。丸紅さんの体が硬直した。
「ワシはここから出たいだけじゃ。ワシの望みはそれだけなんじゃ」
丸紅さんは頷いた。だが、目はオドオドしていてビビりの性格をあらわにしていた。
「か、家族の方達の意向を尊重・・」
「庄司はワシを重荷だと思っておるのか?それが奴の意向なのか」
それに対して丸紅さんは何も答えられなく、椅子に背をゆだねた。啓太郎の息は荒れていて、当分収まりそうになかった。ただ嵐が過ぎ去るのを待つだけしかなかった。
「そうか、そうか、お前たちの考えていることはわかったよ。誰が、誰が、お前を育てたんじゃ?」
「え?啓太郎さん・・・」
「まさか自分の息子から邪魔者扱いされる日が来るとはな。飼い犬に噛まれたとはこれじゃよ」
「啓太郎さん、私はあなたの息子ではありません」
「庄司、ここから出しておくれ。頼む。態度を悔い改めるから」
「私はあなたの息子じゃありません。あなたに家族はいません。貴方の家族は全員事故でなくなったんです」
言ってはいけないことを言って、丸紅さんの目は丸くなった。啓太郎の荒れていた息が止まっていた。時間が止まったかのように動かなかった。そして一言だけ
「嘘だ」
丸紅さんは激しく謝った。啓太郎は首を横に振り、そしてそのままベッドから転がり落ちてしまった。
「嘘に決まっている。嘘に、嘘に」
次の数週間、啓太郎の体は劇的に弱まっていった。もともと細かった腕は骨が浮き彫りになり、デタラメにツギハギされた老人の皮が強調されていった。
啓太郎は一人でトイレに行くことも、尻を拭くことも出来なくなっていた。
終いには他の老人との交流も拒み始めて、ベッドの上で1日を過ごすようになった。別に誰も外から啓太郎に会いに来る人もいないので、寝室のドアは一日中開かなくなっていた。
朝ごはんが運ばれても、啓太郎は動かず、魂が抜けたような表情を浮かばせていた。
「何も食べていないですね?」
年配のスタッフが啓太郎に声をかけたが、老人は冷たくなった味噌汁を見たまま何も答えなかった。手元にある資料と啓太郎を見比べながら年配スタッフはこう思った。人は、弱まる時は一気に弱まるものだ。入院した時の、冗談ばかりを言っていたあの顔の面影はとっくに消え去っている。
年配スタッフは記録資料の上にペンを走らせた。すると丸紅さんが部屋に入って、年配のスタッフに耳打ちをした。
「どうしますかね?生きているのは確かですが、死んだミイラのようですよ」
年配のスタッフはいつの間にか寝てしまった啓太郎を見ながら囁いた。
「明後日、別の施設に移しましょう。ここにいるべきじゃない」
二日後の朝。
「おはようございます」
丸紅さんは寝ている啓太郎さんの体を揺らした。啓太郎はゆっくりと目を開けた。丸紅さんは瞼の後ろにある黒いドットが動くのを確認して、啓太郎を着替えるのを手伝った。
「今日、違う施設に行きますからね、そこの方が楽ですよー」
啓太郎の服、財布、靴をバッグに入れながら言った。写真を手にした時、この老人が哀れに見えてきた。以前から
丸紅さんは啓太郎の軽い体を支えてベッドから車椅子に移した。
啓太郎を乗せた車椅子がスムーズに廊下を進んだ。その様子を太郎がチェスの席から眺めていた。
「・・・啓太郎」
そう呟いて、自分もいつかそうなるのだろうと思っていた。戦うのを辞めると弱くなっていく、啓太郎が語っていたのを思い出した。車椅子に沈むちっぽけな啓太郎の
姿に深い哀れみを覚えた。
〜ー
蝉の鳴き音が老人ホームの外で待ち構えていた。丸紅さんは手で顔に影を作り、片手を車椅子に添えていた。燃えるコンクリートの上を渡り、大きな福祉車両の前に進んだ。
「啓太郎さん、これから車に乗せますねー」
丸紅さんはポケットの中に手を突っ込んで、鍵を探し始めた。するとガシャン!と音がした。
そして丸紅さんの顔が青くなった。いつの間にか自分の足元に啓太郎と車椅子が倒れていた。
「啓太郎さん!」
肩や顔を叩いても啓太郎は反応しなかった。そして、あろうことに啓太郎は息をしていなかった。
「助けを呼ぶんで、待っててください!」
老人ホームに駆け込み、受付のテーブルに両腕を付きながら怒鳴って助けを求めた。そして、突然沈黙に落ち顔が固まった。初めて啓太郎さんに会ったとき、彼は聴こえないフリをして楽しんでいた。啓太郎さんは喉に食べ物が詰まったフリをしていた。そして、いつも出ていきたいと思っていた啓太郎さん・・・。
丸紅さんはハッとした。
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