第3話
翌日。
「どうぞー」
啓太郎はドアに向かって叫んだ。丸紅さんの背中が最初に入り、そのまま朝食が乗っているトレーが入った。
丸紅さんは、何も言わずにベッドの横のテーブルにお皿を置かれた。
「丸紅さん、ありがとうな」
湯気がたつ味噌汁、カリッとしたシャケ、柔らかいご飯。啓太郎のお箸は、素早くそれらを口に運んでいった。そして卵焼きや、普段残している人参だってパッパと食べていった。早く食べすぎて咳が出た。
丸紅さんは啓太郎の元気な姿を見て驚いていた。昨日やったことをこの人は覚えているのか?
「ゆ、ゆっくり食べてくださいね。お願いします」
丸紅さんは洗濯された啓太郎の服を畳みながら言った。
ゴブー!
鈍い音が響いた。丸紅さんの手から服が滑り落ちた。見上げると啓太郎は手を口と胸に当て、目を閉じて咳を始めた。ベッドに前越しになって苦しんでいた。
「啓太郎さん!」
丸紅さんは飛び上がったが、すぐにハッとし、腕組みをして啓太郎を睨めつけた。啓太郎は演技をしていた。
「全く、最近の老人は・・・」
啓太郎はニッと笑って舌を出して、最後の米粒を口の中に吸い込んだ。丸紅さんはブツブツ文句を言いながら、荒々しく服を畳んだ。
「すんません、おかわりをお願いします!」
丸紅さんは湯気がたつご飯を運んで来た。啓太郎は感謝して受け取り、こう言った。
「明日はね、家族が来てくれるんですよ。だからちゃんと食べて力をつけないと」
啓太郎のベッドの横のテーブルには額入り写真があった。そこにはベンチに座っている啓太郎を中心に囲んだ四人が写っていた。
「静岡のアニマル何とかって言う動物園でな。静岡に行ったことはあるかな?こいつが息子の庄司と妻の和枝さん、そして3歳の孫の翔太だ」
孫の翔太は啓太郎の膝の上に乗っていて、老人の顔を不思議そうに見上げながら、手で啓太郎のあごひげに触れていた。
「ああ、この動物園なら行ったことありますよ。いつかは彼女でも作って遊びに行きたいと思っているんですけども、この仕事をやっていると中々時間がーー」
啓太郎の目は写真の家族にクギ付けになったままだった。丸紅さんの話がそれ以上啓太郎の頭に入っているようには見えなかった。丸紅さんの言葉はまるで後ろで走っている電車のような雑音であった。
啓太郎がご飯を食べ終わった頃、部屋の中に丸紅さんはいなかった。
啓太郎は残りの一日、写真を体から手放すことなく、施設の中を歩いたり、高齢者とビンゴゲームをしたりして1日を過ごした。
次の日。
丸紅さんはチラッとベッドの上で新聞を読む啓太郎の顔を伺った。啓太郎は、感情が顔にすぐ出るタイプだった。中に感情を貯蔵する事が出来ないため、怒る時は突然怒る。啓太郎の顔は昨日と同じ柔らかい表情が浮かんでいた。
消毒の匂いがするコップと錠剤を朝食のお皿の横に並べた。
「嫌じゃ」
啓太郎は呟いた。
「え?」
啓太郎は新聞から呆然とする丸紅さんを見上げた。
「薬を飲んで、ワシが眠たくなったらどうする?今日眠たくなって家族と会う時間を見逃したらアウトじゃないか」
啓太郎は丸紅さんを睨みつけていた。
「これは啓太郎さんのための薬です。そもそも家族の皆さんが飲んで欲しいと思っている薬なんです」
「この薬は頭をボーッとさせるんじゃ。好きじゃないんだよ。大事なお客が来るんだから勘弁してくれよ」
「大丈夫だから飲んで下さいね」
「たまに休んでもいいじゃろ?」
「そういう態度が薬の効果を無駄にしていくんです。継続させる事が大事なんですよ」
ハイハイ、啓太郎はそう答えて丸紅さんが出ていくのを待った。薬は飲まずに窓を開けて外に放り投げた。
朝食の後、施設内を歩き回り、軽い汗をかいた。途中で太郎ちゃんと会ったが、お互いに挨拶はしなかった。
そして暖かいシャワーでリフレッシュして、気分良く鼻歌をうたいながら、鏡の前で70を過ぎた灰色の髪の毛を櫛で整えた。
約束の時間より20分前に面会の広間のテーブルに向かった。こみ上げてくる笑顔を抑えながら座り、手を組んで指をモゾモゾと動かしていた。
約束の時間になったが、来客が通る筈のドアが未だに開かない。
「すみません、このテーブルを他の方達が使いたいんですけども」
年配のスタッフがテーブルに近づいて話しかけてきた。
「いや、息子たちが今にでも来る筈だからの」
そう言って断った。時間が来ても彼らは現れなかった。周りを見ると、チェスをしていたり、お喋りを楽しんでいる老人たちがいた。急に彼らがうるさく感じた。
啓太郎は椅子に座ったまま、ジッと待ち続けた。
「啓太郎さん、一緒にこちらに来てお話ししませんか?」
「いんや、結構。約束があるんでね」
周りの視線がチラチラと啓太郎に集まり始めていた。そんな啓太郎は本棚の小説を開いて読み始めていた。
「じゃあ、待っている間、一緒に歩き回りませんか?」
「いんや、気を使って頂いてすみませんが、息子が来るんで。ワシがここを去ればボケていると誤解されるんでしてね。約束した時間は守りたいんじゃよ」
更に30分たった。すると幼い子供の笑い声がして、啓太郎は椅子からスッと立ち上がった。
来た!やっと来た!口元が緩んだ。
「翔太くん、翔太くん!」
啓太郎の喜びは一瞬で消え去った。見覚えのない子供が来たのだ。そしてその子供は違うお婆さんの元に走って行った。
啓太郎は椅子に座り込んで目を閉じた。翔太くん、翔太くん、庄司、和枝さん・・・
「啓太郎さん、啓太郎さん」
啓太郎は目を開けた。
「んが?」
「もう遅いですよ」
丸紅さんがいつもと変わらない心配そうな顔をして覗き込んでいた。
「いや、息子たちが来る筈なんだが」
それにしては広間は暗く、さっきまでいた人たちは誰もいなかった。
「もう夜の10時を回ろうとしていますよ」
啓太郎の口からはよだれが出ていて、啓太郎は袖でふき取った。啓太郎はいつの間にか寝てしまっていたのだ。
「い、いや、息子は来ると言ったんじゃ」
「きっと今日はみんな忙しかったんですよ。もう寝室に戻ってください。さ、一緒に行きましょう」
丸紅さんは手を啓太郎の肩に添えた。丸紅さんは哀れむような表情をしていた。
啓太郎はその手を振り払った。
「自分で部屋に戻れるわい」
啓太郎は小さな背中を丸紅さんに向けて広間を去って行った。
「あ!」
啓太郎はこけそうになった。丸紅さんは走って啓太郎の肩を担いで、支えた。
「自分で出来るわ。自分で出来るわ」
丸紅さんは何も言わずに高齢者を寝室に連れて行った。自分の仕事を淡々とこなした。
「では、おやすみなさい」
丸紅さんが寝室の扉を閉じようとした。
「すまんが、そこに落ちている写真を渡してくれないかの?」
啓太郎は丸紅さんの足元を指して言った。
「足元には何もありませんよ。写真はいつもの場所に置いてあるじゃないですか」
「あ、ああ、そうじゃったの。おやすみなさい」
息子たちは一度も山崎老人ホームに訪れなかった。数週間、いや数ヶ月待ったが、誰も来る事はなかった。
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