第2話
スタッフの数が少なくなる夜中の2時に施設の脱出を決行する事にした。
夜の10時。啓太郎は部屋の電気を消して、時が過ぎるのをベッドの中で待った。
もともと啓太郎は病院や老人ホームといった、弱まった者が集まる場所が嫌いだった。消毒の匂いが嫌いなのかもしれない。しかし、2度だけ嬉しかった時があった。息子の庄司が病院で泣きながら生まれた日、そして30年後に和枝さんが一生懸命孫の翔太くんを生んでくれた日。小さな赤ちゃんを二回も腕の中に持つ事を許してくれた病院に、世界に、神に感謝していた。
翔太、翔太。手の中に収まるぐらいの繊細な宝を両手で持ちながら、天使はこの世にいるのかも知れない
と啓太郎は思った。
すると目から涙が静かにベッドの上に流れ落ちた。嬉しくて、そして家族と離れているのが悲しくて。
啓太郎は起き上がって涙を拭いて、ベッドのランプの光をつけた。そして側にあったタンスを開けて、中からボロボロの紙を取り出した。それは翔太くんが書いてくれた手紙だった。何度も読み返してきたのでセロテープで傷ついた所を貼り付けなければいけない所が多かった。
「おじいちゃん げんきですか?ぼくはげんきです」
冒頭を読んだだけで、啓太郎の手は喜びで震え始めた。長年生きた男の鉄の心を、こんな幼い文章が一瞬で溶かしていたのだった。
3歳が文字を読むことなんて出来ないと知っていながらも、老人ホームに入る前の啓太郎は机の前に座り、頭をひねって手紙を書き、何度も翔太に送った事があった。
ある日、翔太くんから返事の手紙が一通届いた時、思わず涙が出て、亡くなった妻の墓の前に行って手紙を読み聞かせた事があった。
午前1時30分。啓太郎は家族の名前を一人一人呼び始めた。
「庄司、和枝さん、翔太」
ベッドで寝返りをうった。
庄司、和枝さん、翔太くん・・・。
今から行くぞ。待ってろ。
ーー
啓太郎はベッドからスッと降りて、靴を履いた。山を下るのにどれぐらい時間がかかるだろうか?啓太郎は2時間を見積もった。そして最寄りの公衆電話でタクシーを呼ぶつもりだった。
寝室のドアを静かに開けて、頭を廊下に突き出してあたりの様子をうかがった。廊下には電気がつけてあった。誰も
転ばないようにしたいのだろう。幸いな事に誰もいない。だが、昨日の夜は定期的に部屋をチェックするスタッフがいた。こちらに来る前にできるだけ遠くに行かなければいけない。時間はなかった。
廊下を歩く度に自分の足音が施設に響いて、心拍数が上がった。少し歩いただけで汗が大量に出ていた。
玄関では丸紅さんがスマートフォンを眺めていた。啓太郎は廊下のカベに張り付いて、暫く息を潜めた。
こっちに来ない事だけを願った。こんなかくれんぼをしたのは子供の時以来だった。ただ今度は人生のかくれんぼの中で最も怖く、そして最もワクワクしていた。
丸紅さんは事務室の中に入って扉を閉じた。
今だ!啓太郎は自動ドアの前のパスコードに飛びついた。ポケットからパスコードが書かれた紙を取り出した。
2・・・2・・・8・・・急げ、急げ。間違えるな。目が遠くて数字が輪郭でしか見えないのが悔しかった。・・・6・・4・
「啓太郎さん。一体何をしているんですか?」
振り返りたくなかった。後ろを恐る恐る見るといつの間にか丸紅さんが幽霊のように立っていた。
「ちょ、ちょっと外の空気を吸いたくてな。今夜はなかなか眠れないんじゃ」
「部屋にもどって窓を開けてください」
啓太郎はそのまま9のボタンを押した。
「け、啓太郎さん。いい加減にしてください」
悲鳴をあげて丸紅さんは啓太郎の腕を掴んだ。その瞬間にドアが開いて、冷たい夜の風が流れ込んできた。二人の髪は激しく風に揺れ、取っ組み合いが始まった。
啓太郎の意外な力強さに丸紅さんは驚いてた。それもそうだった。ここで戦わなければ、出て行くチャンスを失う。啓太郎は丸紅さんを床に押し倒した。そのまま啓太郎は外の暗闇の中に飛び込んでいった。
外は月と施設からこぼれる光と駐車場を取り囲む森の輪郭しか見えなかった。
「啓太郎!いい加減にせい!」
別の声が後ろでしたと思いきや、啓太郎に誰かが抱きついていた。太郎ちゃんだった。
「すまんな、啓太郎さん」
太郎ちゃんが叫んだ。
「離せ!離せ」
啓太郎は怒鳴った。だが太郎ちゃんは腰に巻いた腕を離さず、全体重を使って太郎を地面に倒そうとしていた。まるでラグビーのようだった。太郎ちゃんは言った。
「どのみち、遠くまで行けないんじゃよ。捕まって規則により罰せられるか、山の中で怪我をして取り留めのない事になるかも知れんのでな」
「だからってお前には関係ないだろう」
振り払おうと啓太郎はもがきまくった。太郎ちゃんの目は赤くなっていたのが見えた。同時にこの男の本性が透けて見えた。つまり、太郎ちゃんも昔、この施設を出ようとしたが失敗した。だから他の者が脱出で成功するのを許せない。太郎ちゃんはそういうちっぽけな男だった。
そう思った瞬間、丸紅さんの両腕が啓太郎の肩を引っ張っていた。そして、そのままレセプションの方まで引きずられて行った。ドアが閉まる瞬間、啓太郎の動物のような叫びが施設にいるすべての人たちを起こした。
ドアは静かに閉まり、中に流れ込んでくる風を止めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます