老人ホームから脱出
@Kairan
第1話
背中の痛みで目が覚めた。ここに来て二日目、啓太郎の老体は新しいベッドに慣れていなかった。
横になったまま、啓太郎は鶏のように細い手首をベッドと背中の間に差し入れ、皮に浮き上がっていた背骨を摩った。化石のように硬く、丁寧に扱わなければすぐに砕けそうだった。
このままじゃ寝れんなと思い、今度はベッドの操縦機を光のない寝室で手探りした。見つけるのに時間がかかったが、ようやくボタンをグッと押して機械音と共にベッドが動き始めるのを感じた。
啓太郎の背骨を矯正するようにパキパキと砕く音がした。啓太郎は息苦しくなって、唸り声をこぼした。ま、まあ、これで少しマシじゃろう。
このまま眠りに落ちたかったが、今度は啓太郎の遠くなりつつある耳に色々な音が飛び込んで邪魔をしてきた。部屋の空調機、廊下を移動する車椅子、乾いた咳、スリッパのヒタヒタ。気になって寝れないじゃないか。啓太郎は大きなため息をした。
もうすでに起きている患者もいるのだろう。部屋にあかりをつけて、時計を見ると朝の6時を指していた。時計のガラスには薄っすらと寝室のベッドで横になっている老人、啓太郎の姿が映し出されていた。
白いパジャマ、灰色の薄い髪、そしてシワが顔の殆どを形成している。啓太郎は大きな部屋の中にいる小さな自分の姿や、前にしか進まない時計の針を見ると、急に人と会いたくなった。
そこでベッドに装着されている呼び出しの赤いボタンを押した。
すぐに廊下から近づいてくるスニーカーの駆け足が聞こえ、ホッと安心する。
部屋の外で足が止まる音、そして咳払いがした。
「し、失礼します!」
20代前半の男の看護師がドアを開けて顔を覗かせた。汚れが一つもない白衣が小太りの体にピッチリくっついている若者だった。顔が丸く、笑顔のビームが大きく開かれた目と共に啓太郎に届いた。
頭を下げて挨拶をしたかと思うと、腕の間に挟んでいた回覧板が床に落ちて、資料紙が飛び散ってしまった。若者は声をあげて地面に伏せたが、その拍子に今度はペンが遠くに弾んで行く音がした。
「おはよう、丸紅さん」
「す、すみません。お、お、おはようございます」
チリひとつない床に慌てて這いつくばる様子が可愛かった。ニヤニヤしながら若者を見て、さっきまでの静かな孤独感がなくなったを感じた。
「おはようございます、えーっ・・・」
丸紅さんは回覧板に目を落とした。
「啓太郎さんですね。名前を覚えるのが苦手でして・・すみません。今日はどうですか?」
丸紅さんの喉が唾を飲み込むのが見えた。鼻ではなくて口で呼吸している。緊張しているのが啓太郎にすぐにわかった。その一方で、啓太郎は急にふざけたい気持ちが出て来た。この若者にはそういうのを引き出す才能があるのかも知れない。
「すまんの。丸紅さん、次のビンゴゲームが、いつ行われるか聞きたいんじゃ」
「えーっと!」
丸紅さんが回覧板の紙を急いでめくる音が響いた。
「ビンゴは夕方の5時30分です」
啓太郎は口を半分開け、手を耳に置いて、
「あー?」
と間抜けな声を出した。丸紅さんの目が資料から啓太郎に登った。
「夕方の5時30分です」
同じ口調で丸紅さんは言った。啓太郎は顔を梅干しのようにクシャクシャして、今度は腹に力を入れて大声で言った。
「あー?」
「だから、夕方の5時30分です!!!!!!」
「馬鹿野郎!そんなに叫ばなくても聞こえてんだよ!」
丸紅さんが宙に飛び上がり、資料が室内に雨のように落ちた。
「き、聞こえるんですか?」
啓太郎はお腹を押さえながら笑い、涙を拭きながら頷いた。丸紅さんは呆然としたまま動かなかった。
〜ー
啓太郎は川崎老人ホームに二日前から入居していた。ここは山崎市から車で20分かかかる山奥の施設で、人里から切り離された静かな場所だった。
啓太郎は自分より一回り年上の太郎という老人とチェスの駒をボードの上に並べていた。
「太郎ちゃん、3千円でやりましょうや」
と啓太郎は指を三本見せて言った。
「元社長にしては気前が悪いですな」
元社長というのは啓太郎が入居日から周りに言いふらしていた冗談だった。
「今は棺桶に入る前の身なんでね。棺桶代ぐらい残さないといけないんですよ」
啓太郎は自分の言葉にニヤリとしながら笑った。
時々バカにならないと息が詰まってしまう。特にこの施設ではユーモアが必要だと。施設に入居した初日に思った。何故なら人生の終わりに集まるこの場所には常に死の匂いが漂っていたからだ。
二人の側をキー、キーという悲しい音がした。啓太郎が振り向くと、そこには意識があるのかないのかが分からないようなお婆さんがスタッフに車いすで運ばれていた。お婆さんの首が辛うじて頭が落っこちるのをくい止めていて、斜めになっていた。皺にしてはあまりにデタラメで深過ぎる溝。老人の顔だったものは、その奥にすっかり隠れてしまっている。瞳の残骸は伸びきった瞼に潰されて、もはや何も視えていない。
すでに何も視えず、何も聴こえず、恐らくは考えることも止めて久しいこの老婆。さっきまで冗談を言っていた啓太郎を不安にさせた。
「あれはヨネさんだよ。可哀想に。誰も会いに来ない。あんなに弱っちゃって、もう生きていても死んでいても一緒だよ」
太郎ちゃんはチェスの駒を並べながら呟いた。
老婆の口元が微かに動いて、薄い息と一緒に言葉が出てきた。
「家に帰りたい」
スタッフがハイハイ、帰る日は近いですよ、と答えた。
「今・・帰りたい」
ヨネさんはそのままスタッフに玄関まで押されて行った。
「ヨネさん、今日は天気が良いですね」
スタッフは自動ドアの外の世界を見ながらそう言うと、自動ドアの横のボタンを数桁押した。
ドアが開いて、二人はそのまま出て行った。そしてドアがすぐに閉じた。
啓太郎は老婆とスタッフがいた玄関の方を眺めていた。
ここに来て二日目。屍婆のように変わり果てた人間を何度も見た。彼らのそばを通る度にゾッとした。どんなに頑張って生きても、結局は自分もああなるのか?だとしたら人生は虚しいものじゃないのか?と答えのない人生の質問
が頭の中でグルグルしていた。
「啓太郎さんや、チェスを始めたいんじゃが?」
啓太郎の顔を覗き込みながら太郎は言った。2年間山崎老人ホームにいた太郎は、人生の答えをすでに見出したか、それか考えるのを止めたような穏やかな顔をして今日チェスをしている。
太郎ちゃんを無視して、啓太郎は立ち上がり、無言でドアの方に寄って行った。薄いガラスのドアの向こうには駐車場。その先には緑に覆われた降り坂があった。
啓太郎はドアを押そうとしたが、ドアはビクともしなかった。
「おーい、啓太郎さん、戻りなはれ」
太郎ちゃんが座ったまま腕を組んで呼びかけてきたが、次の瞬間、慌てて立ち上がって啓太郎に飛びついていた。
啓太郎がドアを叩き始めていたのだ。ガン、ガン、ガンッ。
「なんで、開かんのじゃ?」
外には小鳥がコンクリートの上をチョンチョンと跳ねて、啓太郎の叩く音に驚いて飛んで行った。
「パスコードがあるからですよ」
啓太郎の後ろにスタッフが現れた。スタッフは眼鏡をかけていて、落ち着いた様子で啓太郎に近づいた。
「このドアの向こうに何があるんじゃ?」
啓太郎の視線は真っ直ぐとスタッフの目を捉えていた。
「向こうは駐車場ですよ。あまり近寄らないでくださいね」
「あの婆さんはどこに行ったのだ?」
「別の施設です。ヨネさんはもう少し特殊な助けが必要なんですよ」
黙っていた太郎ちゃんが口を開いた。
「さあさあ、チェスをしようじゃないか」
太郎ちゃんは笑顔を無理して浮かべ、啓太郎の腕をチェスの席に引っ張った。
「チェスの相手が待っていますよ、啓太郎さん」
太郎ちゃんは啓太郎の腕をグイッと握り締めた。
「何をしているんじゃ、バカモン」
「ワシは質問をしただけじゃ。何が悪い」
啓太郎は笑いながら言った。そして二人はチェスの席に戻った。
「ドアを叩くなんて可笑しいじゃなか。ボケたのか?」
啓太郎は肩をすくめて、白いポーンを前に押した。太朗ちゃんはすかさず黒のポーンで反撃した。
「ワシは自分がここに来るとは思っていなかった。9時から5時まで毎日働いてきて、抜け目のない性格、まだまだ地に足がついている筈じゃ」
啓太郎はそう言いながら、太朗ちゃんの白のビショップを黒のクイーンで取った。太朗ちゃんはしまった
と言わんばかりに目を閉じて、言い返した。
「みんな同じことを言うよ。ただ、みんな徐々に実家に戻れることを諦めていくんだよ」
「諦める?それじゃあ、ここで死ぬのを待つってことじゃないか?」
と啓太郎は言ったが、入居する前からうすうすそれは分かっていた。何も言わなくても強く伝わって来ることは多い。
啓太郎は次に太郎ちゃんのクイーンの駒を駆逐した。
あの婆さんのように自分も蝉の抜け殻のようになるのかという不安。自分は残りの人生をどう生きたいのだろうか?このままここにいて良いのだろうか?ここ二日の疑問がまた暴れ始めた。
「太郎ちゃん」
「あん?」
負け戦さをしている太朗ちゃんは面白くなさそうな顔をしていた。
「あのドアのパスコードを知っているか?」
太郎ちゃんは一瞬驚いたような顔をした。そして目をひそめて暫く考え込んだ。
「それはこのチェスの結果次第じゃな」
太郎ちゃんはチェスのボードを逆さにして、白のポーンを前に動かした。
啓太郎は頷いた。
20分後、啓太郎はチェスに勝利し、パスコードの暗証番号を入手した。
「228649」
太朗ちゃんは忠告した。
「馬鹿はやめたほうがいい。余計に自由行動が制限されるだけじゃ。人生の終盤でそれは地獄じゃぞ。尊厳が奪われるだけだ」
ここにいるだけで尊厳が奪われるじゃないか。そう思って、啓太郎は今夜中に老人ホームを出て行くことを決めた。
ーー
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