第三十九話

 二〇四八年二月三日。国連軍アフリカ戦役前線司令本部第三管轄軍隷下、イギリス陸軍第二十師団が「リーオン作戦」を敢行する。作戦は綿密に計画されたもので、開始時刻から移動時の彼我の距離、時間、速度までが計算されている。統計学者たちは、これが人工知能の吐き出した、ヘルフィヨトルを誘引するに最も効果のある作戦計画だと豪語したが、前線の兵士たちの指揮は上がらなかった。

 陽動作戦として計画されたリーオン作戦の性質上、それが喩え可能であつたとしても、戦闘に勝利することはできない。敵を攻撃し、損害を抑えながら行う撤退戦の様相を呈するだろう。そして敵正面からの撤退はかなりの困難を強いる、難しい作戦だ。あらゆる面で劣勢であると言える第二十師団にとって、この作戦は兵士の命をいたずらに消耗するだけの愚策としか思えなかったが、命令とあらばと黙々と戦地へ移動し、準備を整えた。

 エイサ南部に集結している膨大なヘルフィヨトルの勢力へ向け、第二十師団は正確無比な誘発攻撃を開始。入念な準備により、一個師団という戦闘単位が完璧な統率力を発揮して完璧な協調射撃を実施する。

 AFCHQが企図したのは至極単純な作戦だ。平原が広がり、大軍同士がぶつかり合う会戦において戦術的に有利なエイサ北部はVD881平原で、敵主力部隊を包囲殲滅すること。そのためには、敵を平原の南部付近に集結させなおし、人類側に有利な状態で戦端を切る必要があった。モンバサ方面の補給路と直結した位置から敵を引きはがすことも目的のひとつで、つまりはあらゆる手を使って少しでも自軍に有利な位置、時刻で矛を交えるための下準備といえた。

 ひとたび動き出せば巨大な衝撃力を持つヘルフィヨトルの軍勢を防波堤の如く押し留めるために、国連軍は三段構えに配置した野戦特科、砲兵部隊を用いた分厚いフロントラインを構築していた。突撃破砕射撃はいかな鉄の鎧をまとった装甲兵器と言えども有効であり、第一次侵攻を経て新規開発され、実戦投入された対装甲用に調整された自己鍛造榴弾などの導入はかなりの効果を上げている。適切に距離を置いた三つの凹形陣が時間差を用いて砲撃、移動することで、同時着弾と対砲兵射撃のリスクを避ける戦術である。

 地上兵力のみならず航空兵力も増員された。ロシア連邦空軍第五航空コマンドが丸まる参加する。砲兵部隊は各小隊単位で複雑なローテーションの下に陣地転換を繰り返して対砲兵射撃を回避する。その中に高射部隊の発射車輛がまったく別の防空任務のために入り乱れていた。つまり、航空部隊を掻い潜って砲兵陣地へ飛来する敵機は、即座に撃ち上げられる地対空誘導弾によって撃墜される。

 陣地各所には厳重に擬装が施された対空捜索レーダーが複数存在、設置されている。個々のレーダーが得た、RCSが極限まで低減化された機体から跳ね返ってくる微かな電波を頼りに得た位置情報を、一度後方で集約、それらを戦術データリンクを介して各部隊へ分配する方式が取られていた。光速で飛びかう無線通信だけでなく光ファイバーを用いた大容量回線をも併用し、信頼性を確保しながら即応性の高い防空体制の構築に成功していた。

 「リーオン作戦」における最大の懸念材料は、第二十師団がこれらの支援が受けられないことだった。地上部隊は限られた兵力で、大軍と相対せねばならない。最低限の航空優勢を取ることを参謀本部は約束していたが、既に開始されている制空戦闘の行く末は暗い。

 一万人の機械化歩兵師団が平原を疾走していく。戦車を先頭に歩兵戦闘車と装輪式の装甲兵員輸送車が走行と同時に軌道を交錯させ、素早く四つの隊形に分かれた。指揮中枢を担い、師団防空・砲兵部隊を従えたやや後方の指揮通信大隊と、その他の戦力で構成された戦闘大隊だ。菱形に展開した各部隊のうち、敵の正面に位置する部隊はふたつの大隊で構成されて分厚い衝角となる打撃部隊を構成し、両翼は各一個大隊の規模を持つ火力支援部隊。上空には中露の戦闘攻撃機が飛来し、長距離空対空誘導弾を迫りくる黒いシルエットへ撃ち放ち、凄まじいジェット推進音が後に響く。

 天候は土砂降りの雨。雲の上では清々しい青空を振り仰ぎながら、国連軍機が四機、高度二万メートル付近を超音速巡航で北へ駆け抜けた。正反対の距離七十キロの位置から、雲海より九機の無人戦闘機がズーム上昇してこれを追撃。失速寸前に機首を翻して躍り出た軌道は互いの進路を逆方向に、高度だけを違えた状態で接敵した。

 国連軍機はこれをレーダーで捉えていた。出力をMILへ引き上げてすかさず編隊を整えたままスプリットS。九十度ロールしてからのピッチで速度を稼ぎながら後方占位を狙うも、無人機は大加速してこれを回避する。直後に隊形を二つに分けてターン。推力にものを言わせた大旋回で、国連軍機は斜め前方から敵機と交錯することとなった。

 編隊長が直感で散開ブレイクをコールした編隊が散り散りになる。主に上方へ逃げる機体が多く、反応の遅れた一機が精密な機関砲斉射で火球となった。通信回線を満たす激しい呼吸音とジェット推進音のみがこの世の全てと錯覚するほど、彼らは戦闘に没入していく。

 雲の下では、泥にまみれた人々が懸命に大地を蹴っていた。無限軌道が水溜りを蹴散らし、泥をはね上げて停車する。歩兵戦闘車と装輪装甲車の後部ランプが開き、完全武装をした歩兵たちが仏頂面で次々と降りてくる。小隊付き軍曹たちが雷鳴のような怒号を兵士たちの背中へかけ、装甲車輛の間に広がる空隙を人影が埋めていく。

 雨か――目を細めて空を見上げて、一人の兵士の唇がそう紡いだ。

 軽金属と合成化学繊維によって軽量に仕上げられた鉄帽を振り、雨粒を払う。半長靴がケニアの大地にめり込み、無限軌道の轍に新たな跡をつけた。蹴り上げる泥に戦闘服が汚れることにも構わず、手にしている大型の自動小銃、その薬室に雨水が入らないよう気を遣う。ダストカバーは発砲直前まで開かない仕組みだ。

 エイサ平原における季節外れの雨は昨日からだ。小乾季にしてはひどくまとまった量の雨が降っている。幸先の悪さに舌を巻く兵士が後を絶たない。古来より、こうした予兆めいた事象に敏感なのが兵士だ。問題は、それが吉兆であるかどうかであり、結果として集中力を削がれることとなる。

 軍曹の皿に後ろから指揮官が怒鳴り、男女は背筋を伸ばした。恐怖にひきつった顔が、地平線を埋める敵軍へと鋭い視線を射込む。

 事細かに計画された交戦手順に従い、前面に展開している戦車部隊が砲撃を開始した。扁平で角ばった装甲に身を包んだ巨大な主力戦車が、僅かな丘陵でハルダウンし、滑腔砲を撃ち放つ。衝撃波と共に発砲炎が収まる前に、完全同調した機動でスラローム、敵弾回避。微かに盛り上がった尾根に沿って部隊は急速展開し、やや後方から追い縋るようにして歩兵部隊が陣地を敷く。積極的防御作戦と銘打たれた戦術で、携行対戦車火器や重機関銃の銃身が彼方の敵軍へ向けられた。どれもが対装甲用に調整されており、歩兵の自動小銃にも軽装甲車輛程度の装甲なら貫徹する硬芯徹甲弾頭が配られている。

 程なくして、匍匐している兵士達の腹に響く何かがあった。厚い雨が降りしきるカーテンの向こうで、報告を受けた戦車の車長がパノラマサイトの暗視機能を用い、砲手が放った砲弾の軌跡を追った。

 彼は無線機を手に取り、生唾を飲み下してから無線を通じて配下の車輛へ告げる。

<ブレナンよりアベル。地獄が開かれたようだ。地平線が全て敵で埋まっている。見たことも無い大軍だ……今日降っているのは墨じゃあないよな?>

 指揮通信車の内部でこの報告を聞いた師団長から直々の命令が下った。

<アベルよりブレナン。狼狽えるな。パッケージD44を実行。各ユニット、攻撃開始。繰り返す、攻撃開始。砲兵は所定の座標へ第一弾、続いて支援座標への支援砲撃よろしく>

 主力戦車に続いて、後方に展開している中央集団の砲兵が攻撃を開始した。長砲身の一五五ミリ自走榴弾砲が四発を同時に発砲。装薬を調整して同時弾着させ、空中炸裂した自己鍛造榴弾が軽装甲兵器を打ち砕いた。その結果を前線に出張っている着弾観測車輛が確認する。

 夥しいまでの敵集団に爆炎が咲き乱れるも、微々たる損害しか与えられない。砲撃を続ける車輛の砲手たちは望遠鏡越しに息を飲んだ。

 薄らとではあるが、敵軍の後方に揺れる巨人の姿が見える。配下に従える漆黒の悪魔たちよりさらに後方でゆったりと歩いているそのシルエットは、節々が細い異形であった。

 見紛うこと無く、ギガスだ。

<ギガスを確認>

 正面隊形を指揮する大隊指揮官が言った。声が震えていないのは指揮官としての矜持か。

<位置、マイク・〇一三・〇二〇。ボレアースの位置は特定不能。アベル、指示を請う>

<アベルより各部隊。ギガスは無視せよ。通常兵力のみを攻撃せよ>

 この言葉を聞いた兵士達は毒づいた。

<あんなでかいのを、見てみぬふりをしろって? 赤ん坊でも無理だぜ>

<老眼鏡がなくても見える。ビック・ベンに足が生えて歩いてるようなもんだ>

 軽口を叩いても、彼らは笑わなかった。遂に敵部隊が軽装甲車輛の射程圏内に入り、砲撃を開始したからだ。機関砲の規則正しい発砲音が互いの耳を塞がせる。

 軽量な小銃弾に対する防護能力だけを与えられたような軽車両、そのルーフに設置された対戦車誘導弾が放たれる。有線誘導方式のそれらと機関砲が次々と発射されていった。砲兵からの支援攻撃の効果は疑問符が付く程度だったが、前線部隊による苛烈な攻撃が開始されると目に見えて敵影が減り始めた。

 しかし、それは同時に敵の射程圏内にも入ったことを意味してもいた。

 歩兵戦闘車の一輌に、戦車型の放ったAPFSDS弾が直撃。車体正面を軽々と貫徹した浸徹体は、前部機関室を通り過ぎて戦闘室内の車長と砲手を膨大な運動エネルギーで赤い霧に変換し、焼夷効果で瞬く間に蒸発する。後部兵員輸送スペースは無人だったために無事だったが、全壊したエンジンから燃料注入孔までが高温の浸徹体に晒されて引火した。砲塔が吹き飛ぶほどの爆発が起こり、周囲を動き回っていた兵士数人が飛び散った装甲板の破片に体を切り裂かれ、断末魔の叫びを上げることなく絶命する。

 未だ原型を留めている死体へ、衛生兵が反射的に駆け寄った。機関銃手と対戦車兵装を所持している兵士をそのままに、ライフル隊員が走って煽りを食った負傷者の介抱を助ける。

 盛り上がった土の向こう側から機関砲弾が袈裟に着弾し、空中炸裂弾が鉄の雨を降らせた。耐榴弾防護能力のあるヘルメットをかぶっていない者には容赦なく死が降り注ぐことになった。頭蓋骨を貫通して粉砕された脳や肉片が戦友を赤く染め上げ、悲鳴が上がる。その声さえも砲声に飲まれて消えていき、さらに上空を飛び回る航空機の爆音に飲まれた。

 敵部隊が一・五キロの距離にまで迫った時、師団本部から遅すぎる後退の指示が降った。

 装甲を施された兵員輸送車両の多くは、予め輸送スペースに余裕を見込んでいた。複数の車輛が撃破され、人員の全てが後退できなくなる状況を想定したためである。

 しかし予想以上の損害により、幾許かの歩兵はやむなく装甲車の屋根に飛び乗った。急速に後退していく味方部隊を守るように戦車が前に出る。歩兵戦闘車が中衛を担い、薄く張り出した尾根を盾にしながら師団が後退していく。

 敵部隊と速度が同調されるにつれ、砲兵部隊は陣地転換位置をシフト。高射部隊は雲の向こう側から時折飛来する誘導弾を迎撃するために仰角。自走榴弾砲が戦術データリンクを通じて協調射撃を行い、群れを成して突っ込んでくる五千機ほどの敵先頭集団へ砲弾を撃ち込んだ。

 追撃戦が展開される。黒い波から逃れるように、野生動物や樹木を薙ぎ倒して装甲車輛が後退していく。この時、既に第二十師団の陣形は単純な凹形陣となっており、先頭を走っているのは指揮通信車を含む装甲車部隊だ。

 師団が疾走していく中、敵の攻撃により戦車や歩兵戦闘車が大破する。取り残された車輛から炎に巻かれて飛び出した隊員を、四足が容赦なく機関砲弾で引き裂いた。

 ケニアの平坦な広野では、装輪式車輛のほうが速度が出せる。作戦計画に沿った道筋を辿って第二十師団は北上。

 師団長は手元にあるMPDを操作して音高い舌打ちを漏らした。

 既にこの段階で、一割の兵士が死傷していた。





 照明の落とされた会議室で烏龍茶のペットボトルを受け取る。どういうわけか全員が同じものを飲んでいた。東雲南津子が山と抱えて持っているらしい。自販機まで買いに走るのが面倒くさいとかなんとか言っていたが、他の隊員が揶揄するのを聞いているとただ単に呆けていて買い込みすぎただけのようだ。しかし本当は出不精なのだろうかと勘繰りつつ、だから彼氏もいないのかしらん、などと邪推してしまう。

 日計歩美は、そうした妙に横着なところが彼女の愛嬌だと思った。完全無欠の女傑ではなく、少し抜けた所もあるお姉さんくらいの気構えでいてもらったほうが、こちらとしても接しやすい。男の目だって惹けるだろう。女である歩美の目から見ても相当な美人で、これは鷺沢朱里も太鼓判を押しているから間違いない。

 彼女自身は生まれてこの方、男子にちやほやされたいと願望を抱いたことはなかった。それは兄の影響が強いといえば強かったかもしれない。泰然自若とした人間を見ていると、何故だかこちらの感情の起伏までもが平坦なものになっていくようだった。

 そんなことを考えながら戦闘のショックをやり過ごそうとしていた時、スクリーンが青一色に戻り、部屋に電気が灯された。薄暗い室内が煌々と照らし出され、歩美は目を瞬きながら青色一色になったスクリーンを見つめる。

 先ほどまで、そこに映されていたのだ。大勢の人々が蹂躙されている状況が。

 隣に座った東雲が厳かに問う。

「どうだったかしら」

 視線が全て自分へ向けられていることに気が付く。皆、あの戦術図が消えたことで緊張感は解けているものの、集中力を切らしてはいない。対象がこの自分に移っただけだ。まだ授業は続いているらしい。これが学校のそれならばこれほど手に汗握ることもないだろう。

 教材は人間の命。戦争という言葉はこれ以上ない、具体的な現実となって歩美の肩に伸し掛かる。

 手にしたペットボトルを肘掛の上に置いた。

「ナイロビ基地に来てからずっと感じていたことがあります。飛行機に乗った時からここは戦場なんだって気付いて、でもまだ自分は何も知らないんだって思い知らされて、その連続なんです。こんなに短い時間なのに、少し理解できたかと思うとどんどんわたしのわからない覚悟や犠牲を突き付けられる。いつか、これに終わりは来るのでしょうか?」

 どう足掻いても、平和とは血の上に贖われるものである。

 平和の対極にあるものが戦争である限りは避けようのない事実だ。平和の前には必ず戦争という現象が必要不可欠であって、そして、血が流れない戦争などない。社会現象や時代の風潮、一人の手に余るほど大きな何かを手に入れるならば、同等の何かを差し出す必要がある。命であるなら値千万であり、他は意味も価値もない塵芥と同じ。そうすることで世界はバランスを保っている。あっちを引けばこっちを押す、といった具合に、誰かが助かれば誰かが死んでいる。バランスとは非情なもので、そこに個々人の意志が介在したとしても、総量は人類として測られて決算される。

 悲劇も奇跡も、対極であるが故に等価として扱われるのが現実だ。

 日本は、太平洋に面してヘルフィヨトルの脅威を間近に受けている、先進国の中でも地政学的に重要な位置を占めている。海洋国家であるにもかかわらず、無人艦艇部隊を正面から迎撃できるだけの戦力は無い。世界有数の海軍国だが、東南アジアではいよいよ陸戦以外で押され始めていると聞く。第一次侵攻時の南太平洋海戦の傷は、それだけ大きかったということだろう。

 ところが、平穏な生活は今も続いている。この瞬間でさえも、日本では普段通りの営みが行われているのだ。

 全く信じがたい事実ではあるが、朝起きて、仕事をして、帰り、眠る。それが当たり前の人間の一日というものなのだ。南極戦争の最中でも、平和なところは平和なのだな、と漠然と受容して生きてきた。なぜ平和でいられるのかと思考することもなく、誰もが日々の生活を享受している。

 歩美は、何も知らなかった自分が恥ずかしくてたまらなくなった。それでいて、彼らの仲間になりたいなどと、どの口が言えるというのかと恥じ入った。痛みを知らないということは即ち、理解していないことだというのに。

 第七PG中隊の面々が、無感動に歩美を見つめている。一人一人の目を見つめながら、彼女は不思議に思わずにはいられない。

 なぜ彼らは、こうも平然とした様子でいられるのか。たった今、何百という人間が死んだというのに。彼らの心理が理解できず、唯一つ、確かなことを実感する。

 多くの人間の中から選び抜かれた、精鋭無比を背負って立つ兵士。それがこの中隊であり、兄の目指した何かではないか。世界最強の四文字で表すには言葉足らずの強者共。彼らはその強さ故に選ばれたのではない。ただ選ばれ、そして強かった、というだけの話だ。剣は選ばれるだけ。自らを選ばせることなど、できはしないのだから。

 言葉が見つからず、彼女は心境を吐露した。

「わたしはどうしたらいいんでしょうか。どう考えても、皆さんのようにはなれない」

 しばしの沈黙の後、洋一が優しく言った。

「そんなに大したものじゃない。誰かになれないなんて当たり前だろう。お前はぼくになれないし、ぼくもお前にはなれない。優劣じゃない、違うだけなんだ。違うことは、誰でも同じことなんだよ」

「でも、さっきのイギリス軍みたいに誰かが死んでいるのに、わたしは何をしているんだろうって思う。こんなことでいいのかなって。でも、何もできない。それが歯痒いの」

「勘違いしてるみたいだけど、そんなことはぼくたちだって同じだ。温存されると言えば聞こえはいいけど、どんなに理屈をこねたって、他国軍と同じようには戦闘に参加できていないのが実情だ。ぼくらが出れば助けられる命は、少なからずあるだろう。慢心だと言われればそれまでだけど、本当に、これがぼくらの勘違いだったのならと願わずにはいられない」

「こんなの、悲しすぎるわ」

「忘れなければいい」兄は粘り強く、妹を諭した。「いいかい、歩美。変わることほど恐ろしいことはないし、変わらないほど難しいことはない。ぼくはお前のためにも戦ってる。我儘を言わせてもらえば、お前がいつも通りに、友達と笑っていられるだけでぼくの勝ちなんだ。それだけで、負けないんだよ。わかるか?」

 歩美は俯き、黙って頷いた。頷くしかなかった。

 兄は卑怯だった。



「紫雲を見てみたいか?」

 夕食前に聞かれたので、歩美は心底から驚きながらも即座に首肯した。実の兄からの言葉でなければ冗談半分に笑い飛ばすところだ。何しろ、日本国の政治的、軍事的に最も重要な兵器を間近で見られるというのだから。

 入隊するかどうかはともかくとして、この目で第三世代機を見ておきたいという気持ちは多分にあった。間違いなく人類最高の科学を結集したものであるし、人並みには工学的好奇心は持ち合わせているつもりだ。しかし国の最高機密をこの目で見られるとは予想だにしなかった。知り合いが芸能人だから、などというレベルの話ではなく、これは本当に夢なのではないかと首を傾げるほどだ。

 私服のままだと目立つから、と鷺澤朱里が貸してくれた陸自のスカートとワイシャツに着換える。洗濯の手間が増えるだろうと言うと、彼女は笑って手を振った。義理の妹みたいなもんじゃない、と。既に結婚まで視野に入れているということか、と意味深長な敗北感と共に歩美は袖を通した。

 部屋から出た所で待っていた洋一は、歩美の胸のあたりがだぼついているのを見て笑った。

「あいつ、でかいだろ。着痩せするタイプなんだぜ」

 そんな風に、歩美は兄の口から破廉恥な冗談が飛び出るなんて思ってもみなかった。そんな軽口を聞き咎めて部屋から出てきた鷺澤との、痴話喧嘩めいた二人のやり取りを、歩美は遠い世界の出来事のように呆と眺めていた。姦しくもあるが、この戦地においてこれほど穏やかな時間を過ごせる人間とは何なのだろうと驚く。

「一般人のわたしが、最新兵器なんか見ていいの。そうしようとして、工作員は射殺されたんでしょう」

 格納庫へ向かう途中、日暮れで赤く染まった舗装路を兄妹で歩きながら歩美は問うた。

 何も聞こえていないかのように、洋一は真っ直ぐに前を見つめて歩いていた。

 歩美は基地内を慌ただしく駆けずり回っている輸送トラックや、格納庫移動のために路面を低速度で行き過ぎるMBTを横目で見た。洋一が妹を事故に巻き込まないよう、周囲に抜け目なく視線を送っているのだと気が付いたのは、傍らを勢いよく輸送トラックが通り過ぎた時だった。洋一は歩美の腕を掴んで抱き寄せると、自分の身体を盾にして庇った。やがてトラックが通り過ぎると、何も言わずに身体を離して歩き出す。

 自衛官というのは誰もかれもが過保護だ、と、歩美は兄の硬い胸板を意識しながら思った。

 非日常の中に溶け込んだ二人を興味深そうに見やる兵士はほとんどいなかった。歩美も陸自の服装であるとはいえ、階級章や日の丸を剥がした状態だった。せいぜい軍属として見られる程度であろう。何よりも、誰もが自分の仕事に集中していた。物を運ぶだけでも軍隊では気を使うのだ。何せ、彼らが操るのは一機数十億の血税なのだから。

 いかほどなものかと思われるほどに、歩美は基地に溶け込んでいた。軍服のサイズが違うから、よく見れば誰にでもばれると洋一は言った。果たしてそうだろうかと思わずにはいられない。居心地が悪いことに変わりはなかったが、周囲はそれほど気にしてもいないようだったから。

「許可は取り付けてある。ただ、機密保持の誓約書には名前を書いてもらうことになるだろう。どっちみち保全隊員が日本でも出張ってるだろうから、間接的な監視下には置かれるけど、今と何も変わらないよ」

 曖昧な返答だった。深読みすればどのような意味とも取れる賢しい回答。

「それって、生活を覗かれるってこと? 国防機密って、とても厳しく管理されているんでしょう」

「どうしてそう思うんだ。現に紫雲の映像はメディアにだって出ている。公然の秘密は存在しない」

「政府がPGTAS技術を開示したじゃない。開示するってことは、ばれてないことが前提になるわけだし」

「フム、我が妹ながら鋭い指摘だな」

 有沢琢磨の真似をしているのか、洋一は不愛想に言った。

 歩美は彼の肩を小突いた。

「茶化さないでよ。わたしだけじゃなくて、父さんや母さんの生活にも関わるんだから」

「ごめん、ごめん。まあ、監視っていうイメージではないな。確認という表現のほうがしっくりくる。それほど細かく見ているわけではない。ぼくだって検閲を受けて手紙を書いてるけど、黒線なんかどこにもないだろ?」

「それは……兄さん、すごく気を使って手紙を書いてくれてるから。わたしは知ってるよ、兄さんがどれだけ頭を使って、優しく言葉を綴っているのか。わたしたち家族のために、どれだけの犠牲を払ってくれているのか。だからこそ、わたしはアフリカくんだりまで兄さんを追いかけてきたんじゃない」

 洋一は一度だけ、妹の夕陽に染まった横顔を見やった。その眼はとても優しく、眩しそうに細まっていた。「そっか」と小さく呟き、心なしか緩やかになった歩調を彼女と合わせる。

 しかし機密に関わることなのだから、恐らくは電話の盗聴くらいはされるのだろうと、歩美は腹を括った、それほど、紫雲を見る価値はあるように思えたし、そんなものに負けてなるものかと反骨心を抱いてすらいた。

 紫雲の情報は、安保理が躍起になって欲しがっているものだ。個人ではない、世界を動かし得る力を持った国家権力が、である。そこまで重要な第三世代PGTASの価値を想像できるだろうか。この自分は、世界が求めて止まないほどの何かを操る男の妹なのだ。

 洋一は最早、家族の手の届かない所へ行ってしまった。彼を取り巻くのは、友人知人の他愛ない会話ではない。人間の命が失われることが日常の、戦争の日々なのだ。

「兄さんは」歩美はたまらず、兄を引き寄せるように言う。「もう、兄さんじゃないのかもしれない」

 洋一は立ち止まり、彼女を見やった。どういう意味かという問いかけの視線に、歩美は応える。

「どうして兄さんは、世界から疎まれたり、自分よりも遥かに大きな何かを前にしても、顔色一つ変えないの。それが、わからない。わたしなら壊れてしまいそう。ギガスの時だって、日本にいるわたしたちが怖くてたまらないくらいの場所で、兄さんは――」

「ぼくはぼくだよ」

 お前のほうこそ、何を言っているのかわからない。そう言いたげに、洋一は眉を潜めた。歩美は胸中で渦巻く思いを、赤子が毬を転がして遊ぶように持て余していた。この感情をどう伝えればいいのかもわからない。わからないことだらけだ。自分自身のことさえ茫洋として判然としないのに、どうして兄のことを理解したつもりになっているのだろう。

(わたしは悔しいんだ)

 唐突にそう悟った。家族として共に過ごしてきた自分が理解するよりも、兄はもっと短い時間で、第七PG中隊の面々と深い絆を結んでいる。命のやり取りをする現場を共に潜り抜けたのだからそれも無理からぬことである。

 だけど、と歩美は思う。わたし達は、家族なのだ。兄さんをいちばん理解しているのが自分たちだと錯覚しているだけだと両親が知ったなら、どれだけ悲しむだろう。そこにあるのは寂しさだけかもしれない。成長は時として何かを置き去りにする。その何かが、自分の中から転がり出たものだとは限らない。

「わたしは兄さんのことをわかったつもりになってた。兄妹だから、あなたのことをよく知っているのはわたしだろうって、鼻高々だったのね」

「今もそうだよ」

 彼はゆっくりと頷いたが、彼女は対照的に首を横に振った。

「そうじゃない。わたし、ダメな妹だわ。家族だから家族をわかってあげられるって、無条件に信じ込んでた。有体に言えば、兄さんを他人だと感じていなかった。自分の一部くらいに感じていたのかも。だから――鷺澤さんたちに取られちゃったって、思ったのかもしれない」

 最後の一言は余計だった。

 歩美は視線を落とし、夕陽で赤く染まった舗装路の影を見つめる。それはどちらの足から伸びたものだっただろうか。

「それで」語尾を上げて、洋一は先を促した。

「兄さんは家族のためにも戦ってくれてる。わたし達の兄さんにとっての存在の重さって、どのくらいなのかしら。わたしは兄さんを大事に思ってる。でも、兄さんは?」

 歩み寄り、洋一は妹の華奢な肩に手を乗せた。長い茶髪が汗で湿った頬に張り付いているのを、そっと指で剥がしてやる。

「まったく。いつの間にか、大人びたことばかり言うようになったな」

 眩しそうに目を細めているのは、陽射しが強いからだろう。西日は鋭い角度で、兄の顔を照らしていた。

「お前はぼくの妹だ。だから包み隠さずに言おう。ぼくは今、鷺澤朱里のためにアフリカの大地に立っているし、自衛軍にも入隊した。だけどそれは、決して家族を無視している訳じゃないんだ」

「嘘よ」

「ぼくは」洋一は粘り強く言葉を継いだ。「家族に手紙を書いた。最初に、お前が手紙を寄越してくれたからだ。それがどれだけ心の支えになっていたと思う? 表沙汰にはなっていないけど、ぼくはこっちに来て、紫雲に乗っているからという理由で殴られたこともある。同じアフリカ派遣戦闘群の自衛官にだ。痣が疼くと嫌になりそうな時もあった。当然だ、戦争なんて辛いことばかりで、ぼくは仲間のために命を投げ捨てるつもりだけど、返ってきたのは感謝ではなくて鉄拳だ。おまけにここは馬鹿みたいに暑いし、当然のように死にかけることもある。それでも頑張って来れたのは、鷺澤のためにだけだろうか? 違う、とぼくは断言できる」

「皆のためとか言うんでしょう」

「結果的にそうなっているだけだ。ぼくが――紫雲が――ここで戦えば、ヘルフィヨトルはアフリカ戦役に注力せざるを得ない。紫雲は今のところ、奴らにとって最優先撃破目標だからだ。ぼくが戦っている限りは、日本は安全かもしれない。上等だ。ぼくらが健在な限り、日本へは絶対に手なんか出させるもんか」

 言ってはいけないとは感じたが、歩美は関を切ったように口から飛び出す言葉を止めることはできなかった。

「なら、兄さんはアフリカで死ねるっていうの?」

 瞬間、彼は悲しそうに瞳を陰らせたが、すぐに元の毅然とした表情に戻って、言った。

「ああ、その必要があるなら、ぼくはここで死ぬ。ぼくが死んで、お前たちが守れるのなら。だけど、ぼく以外に家族を守ってやれる人間はいないし、任せるつもりもない。少なくとも、今は。こんな時代だ、誰もが自分のことで精一杯だ。だからぼくは生きて帰りたい」

 歩美はもう何も言わず、兄の手を優しく振り払って歩き始めた。洋一はその後ろに続いた。追い抜こうと歩調を速めてきたが、片手を振ってそれを制した。泣きそうな顔など、兄に見られたくなかった。



 しばし無言のまま歩いて気を落ち着けると、遠景に紛れるようにして広大な基地を背景に並ぶ巨大な建造物がいくつも見えて来て、間近に迫った。巨大な扉が据え付けられ、中からはマンションが飛び出そうなほど大きい縦に長いかまぼこ型をしている。その扉の上には白いアルファベットと数字が並んでおり、洋一の足取りからそこを目指していることがわかった。

「あそこ?」

「そう。BH122番。自衛軍のPGTASはあそこに間借りしてる」

「頻繁に場所が変わるの? PGTASって大きくて、百トンもあるんでしょ。動かすのも一苦労って感じがする」

「お前が考えているよりは軽快だ。電動モーターの進歩は目覚ましいし、サスペンションだってでかいから、驚くほどスムーズだ。尤もそれは蒼天だけで、パットンなんかはがしゃがしゃ動くよ。あれはあれで頼もしいけど、長い間乗ってると尻が痛くなってくる」

「やっぱり日本製って優れてるのね。加工貿易も馬鹿にできないか」

「いいや、優れているんじゃない。異質なんだ」

 その通りかもしれない、と歩美は頷いた。先ほどの講義を受けては、そう感じざるを得なかった。紫雲のドライバーは異常者だ。平凡な人間ではありえない。

 改めて、自分が自衛軍へ入隊するかどうかを考える。

 平穏な世界を守るのならば、暴力の世界へ足を踏み入れることだ。それが最も効果的で確実な方法。平和を脅かす暴力を、暴力で粉砕する。これまでの人類史に名だたる戦争は、結果として他者の平和を摘み取ることで終結していた。争いの凄惨さは流れた血の量に比例する。血は大地を肥やし、そこに平和が根差す。枯れれば、また水をやるだけのこと。

 軍人は、せっせと大樹に血を運ぶ妖精のようなものだ。バケツはさしずめ銃といったところか。足りないとみれば自分の喉さえ掻き切る……そんなイメージが歩美の脳裏に過った。

 格納庫の主搬出扉の脇に据え付けられた人員用出入口を潜る。

 歩美は足を止め、呆けたように、目の前の光景に目を見張るばかりだった。

 幾多の巨人が居並んでいる。物言わずに天窓から降り注ぐ朱い陽光を浴びているのはPG=21、蒼天だ。二十八機の――PG大隊は三十二機が定数だから、四機四名が戦死した計算になる――彼らが何かを訴えかけてくるようで、歩美はなかなか足を前に出すことができない。物言わぬ圧力を感じる。彼らは、ここへ来るなと諭しているのだろうか。それとも誘っているのだろうか。

 先にタグを翳して中へ入った洋一が、気遣わしげに彼女を振り返った。

「どうした。あんまり見慣れないから、びっくりしたか?」

「なんだか、兵器なのに人型をしているだけで親近感が湧いちゃったみたい」

 強がりを言って一歩を踏み出せば、後は自然と足が向いた。機械的な足運びで洋一の背中に続き、向かい合う巨人の間を、天井を見上げながら歩いていく。

 全長十八メートル、重量九十トン強を誇る蒼天のオリーブドラブに塗られた装甲板は、傷だらけだった。塗装はしなおされているものの、外殻装甲板に刻み付けられた弾痕までは隠せない。胸部装甲を袈裟に撃たれている機体もある。追加で現地改修されている防塵フィルターが背部の廃熱ベンチレーターに取り付けられ、膝部の長いサスペンションには鋭い刃らしきものが溶接されていた。洋一は、あれでアフリカの樹々を蹴散らして歩くのだと言った。市街地の電線も切断できるのだそうで、現地改修型として本省にも要請を出しているらしい。日本は市街地と森林が混在しているから、PGTASの活動にあのカッターは必要不可欠と考えられているのだそう。

 傷付き、尚も戦いのために余念のない準備をしている人々が、洋一へ向けて手を振ってきた。調子はどうだ、隣のべっぴんさんは誰だ、なんて問いかけに彼は大声で妹ですと答えた。なんだつまらんという一言で、格納庫に明るい笑い声が満ちる。

 誰もが疲れた顔をしているのだが、溢れる活気に歩美は圧倒された。そして、折れない剣という名は自衛軍全体に当てはまるのではないだろうかと考えた。不撓不屈の魂を持つ人々。遠い異国の土を踏み、水を飲んでも変わらぬ闘志。

 兄に隠れるように、歩美は顔を俯けて歩いた。

「なんで、PGTASができたのかな」

 照れ隠しに咳払いして、兄に問うた。

「藪から棒にどうしたんだ」

「蒼天は、わたしが兄さんと見た戦争映画にも出てこないし、戦車とかとはスケールも形もぜんぜん違うから」

「言われてみればそうだなぁ。こういう兵器は実現不可能だと思われてたし、今でも疑問視する声はある。欧州じゃ標準機の購入を渋る国もあるし、既存の戦車や戦闘機のほうが遥かに安上がりだ。要するに、戦争をするには他にもいい武器や兵器がたくさんある。お前がそう感じるのも無理はない。だけど、現実にPGTASは、もはや対ヘルフィヨトル戦に不可欠な存在だ。この機動力と火力は、ちょっと他の兵器では代替できない」

「これを使わなきゃ、ヘルフィヨトルには勝てないのね。いいえ、こんなに大きくて力強い蒼天でも勝てないほど、ヘルフィヨトルは強いんだ」

「そんなことは絶対にない」洋一はぴしゃりと言った。「今からだって、人類が真の意味で結束したのなら、あいつらなんかひと捻りだ。そうしようとしないというだけ。愚かだとはぼくも思うけど、それが現実。どうしようもない」

「人はいつまでも団結しようとしない、ということ?」

「そうだ」

「人間が嫌になっちゃった?」

 先ほどのこともあるので何か言い返されるかとも思ったが、兄は何でもない風に答えた。

「時にはね。でもぼくが紫雲を使えるのは、人類のために行使するからだ。それは確かで、動かすことはできない。人間は人間のためにしか生きていけないものだから」

 洋一は手招きし、妹を格納庫の隅へ誘った。そこには白い帆布で仕切られた区画がある。隙間から見える空間を見やりながら、兄の苦悩が垣間見えた気がした。同時に、有沢琢磨の言っていた意味も。先ほどの洋一が言っていた言葉の意味さえも。

 国のために戦う。あるいは世界のため。美しい大義名分と自己犠牲の精神を持って送られた兵士達は、軍事的ヒロイズムと紙一重の、結局は隣の仲間のために戦う。「人類のため」という言葉のニュアンスは、聞く側と口にする側でかけ離れている。誰かを守るために戦っているのに、どうしようもない愚か者ばかりを助けるとは。自分たちの目の前で、昨日まで笑い合っていた友人が死んでいくというのに、帰ってみれば人間を貶める権謀術数ばかりが目に入る。

 どれほど無為に感じられる戦争でも戦い続けていられる兄の支えとなっているものこそが家族であり、鷺澤朱里なのだろう。

 周囲で忙しく整備に勤しむ整備員にしてもそうだ。ボルト一本のがドライバーの死へと直結する。誰が手を抜くことなどできようか。

「だから、兄さんは鷺澤さんのために戦うのね。世界に価値が見いだせないから、あの人のためと信じている」

「違うよ」

「でも、わたしと鷺澤さんじゃ、鷺澤さんを選ぶでしょう?」

「――――」

 微笑み、歩美は兄の手を握った。

「気にすることはないわ。父さんや母さんだって同じだと思う。あの人のこと、すっごく好きなんでしょ。兄さん、鷺澤って名前を口にする度に、めちゃくちゃ幸せそうだもの」

「参ったなぁ。妹から恋愛話をされるとは。兄としては立つ瀬がないというか、なんというか……」

 苦笑いと共に、洋一は白い帆布を捲った。

「鷺澤さんのどこがそんなに好きなの?」

「全部って言いたいところだけど、聞きたいのはそういうことじゃないんだろ?」

「こればっかりは女子高生のさがだから、答えてよね」

「訂正すると、ぎりぎり女子高生、な。うん、そうだな。敢えて言うのなら、彼女の心が好きだよ。鷺澤は、自分の心を偽ることは決してしない。だから、彼女の言葉なら信頼できる。たとえ『嫌い』と言われたって、自分の言葉より確信を得られるだろうな」

「それは辛いわね。好きな人から拒絶されるのは、いてもたってもいられない気分になるから」

 すると洋一は、軽く笑い声すらも上げながら答えた。

「仮に彼女から、嫌いとか、死んでしまえと言われたって、きっとぼくは落ち込まないと思う。死にもの狂いで自分を磨いて、また惚れさせてみせるさ。ほら、ここだ」

 大きすぎる愛情を目の当たりにした余韻を感じる間もなく垂れ幕を潜り、歩美は息を飲んだ。

 四機の紫雲が、二機ずつに向かい合って格納されていた。関節をロックされた状態で、少数の整備員が備品を片付けるために右往左往している他には人影がない。先ほどの蒼天の周囲にいた人々と比べて物々しい雰囲気に感じられるのは、彼らの触れているものが世界最高の兵器であるからだろうか。

 蒼天のように屹立してはおらず、やや前傾した姿勢。前後に細長い頭部と、蒼天よりも細く洗練された多角的なシルエットが目を引く。装甲は純白で、天窓から浅く差し込む夕陽に染められている今ですら眩く感じられるほどだ。舞い上がる埃が幻想さに拍車をかけ、まるで太古の昔の神々の神殿に入り込んだような錯覚を覚える。

 いつもこのように隔離されているのかと尋ねると、洋一は首を横に振った。工作員の一件から厳しい情報保全態勢が敷かれているのだという。といっても、このように隔離するのは基地の人員が増えたり、保全隊の人数が減る夜だけで、でき得る限り機体を晒すようにしているらしい。確かに、歩美の目から見ても整備員とは思えない濃紺色の制服を着こんだ隊員たちが、自動小銃を手に巡回している姿が目に留まった。

「どうして? 見られちゃまずいのに」

「基本的に、見られるだけじゃ詳細はわからない。エンジンやモーターが露出しているわけじゃないから。だからお前にも見せることができるし、この帆布はその配慮。それこそ、ここから北にいったワチールにある兵器試験場にでもいかなければ、不明な点のほうが圧倒的に多いんだ。ま、それが表向きの理由だよ。今は安保理との摩擦もある。情報開示をしたからといって、政治的摩擦が完全に解消されるわけじゃないっていうのが政治の小難しいところさ。逆にきれいさっぱりと今までの負債を完済することもある。第三世代機をできる限り人目につくようにすれば、覆い隠すよりも親近感が湧くだろ」

「行動のひとつひとつが計算ずくなのね。戦争してるのに内輪揉めなんて」

「当たり前だ。ここは戦場だからこそだ」

 右肩に七、左肩に四とローマ数字で刻印された機体の前までやってくる。他の物に比べて新しい塗装の施された紫雲は微動だにしない。アーク灯を鈍く反射する装甲板に覆われた頭部には、台形に並んだ二対のカメラアイ。歩美には軽く挨拶をされたように感じた。誰にもわからないように、微かに会釈を返す。

 と、隣に建てられている小さな小屋から人が走り出て来た。まだ若い青年と思われる自衛官で、戦闘迷彩服を身に纏っている洋一と違って紺色の制服を着こんでいる。この暑さで襟元までしっかりと着込んでいるのには恐れ入った。額には汗ひとつ浮かんではいない。

 駆け足で近づいてきた彼とその後ろについてきた男が、洋一へ敬礼した。しかつめらしく仏頂面を顔に張り付けた二人組で、答礼されると同時に右手を下ろす。

「日計三尉、こちらが件の?」

「そうです、彼女が妹の歩美です。神崎三佐には話を通してあるはずですが。というよりも、あの方の許可なくしてはここへ入れられませんので」

「ご安心ください、しっかりと承っております。しかし、我々も同伴せよとの命令でして。行動だけは監視させていただきます。といっても、つかず離れずといいますか……目を離さない程度に」

「了解。むしろその方が安心します」

 声が聞こえるか聞こえないかという距離まで後ずさり、二人は視界から消えた。洋一はここで待つようにと言い残し、情保のプレハブまで一走りしてパイプ椅子を二脚拝借してきた。階級が下らしい二人に命じればいいのに、ここは軍隊でしょと歩美が言うと、洋一は顔を顰めた。それは仁義の問題だという。

 兄妹で並んで腰かけると、巨大な人型兵器の威圧感に気圧される。十六メートルの巨体はすっきりとしたシルエットをしているが、どこか威圧的だ。あの細い腕部で数トンの把持式武装を振り回しているのだと思うと不思議だった。こんなに細いのに、どこにそんな力があるのだろう。

 洋一は一息ついてから切り出した。

「今日、どうだった」

 予想されて然るべき質問であったので、歩美は整理した感情をそのまま口にした。

「楽しかった」

 叱られるかと思ったが、兄は盛大に吹き出した。弾けるように短く笑うと、愛おしくてたまらないという風に、歩美の茶髪をくしゃくしゃにした。

「そっか、そうだよな。やっぱりお前はぼくの妹だよ」

「兄さんも、楽しいの?」くすぐったかったが、髪が乱れるに任せた。

 手を離すと洋一は遠い目をして、目の前の機体――紫雲四番機、玉響を見つめた。それが彼の愛機であり、共に戦場を駆け抜ける相棒だ。

 本当に兄をいちばん理解しているのはこの機体なのかもしれない、と歩みは思った。

「そんなわけあるもんか。たとえそうだとしても、口が裂けても楽しいなんて言えない。けれど充実はしてる。ぼくには、玉響の操縦桿を握る意味がある。意味があることっていうのは、とても凄いことなんだ」

 兄は家族のために、戦っている。歩美はそう信じることにした。彼の言う通り、結果は変わらない。ならば、せめて彼が命を投げ出さない程度の信念さえ持っていてくれればいい。

「お父さんもお母さんも、わたしに大学で勉強して平和の一員になれって言うけれど、それって意味のあることなのかしら。そういう風に疑問を挟まずにはいられない」

「生き残るためには考え続けることだ。立ち止まった瞬間に現実に撃ち抜かれる。考えていれば、自分を変えることができる。それを適応と呼ぶ。だから、人は考えることをやめるべきじゃない。どれだけ切羽詰まった状況でも、冷静な思考を持ってさえいれば、常に最適な道を選びだせる」

「あれはどうだろう、これはどうだろうって思考することは嫌いじゃないわ。わたしが言いたいのは、考えてもどうにもならないことはあるってこと」

「でも、考えなきゃどうにかなるものもならない。いいかい、歩美。たとえ百の努力に対して一の成果しか返ってこないとしても、残りの九十九はどこかへ消えてしまったわけじゃない。どこかに残ってて、それらはきっと、本当に苦しい時にお前を助けてくれるよ」

「……うん、わかった。で、わたしもひとつ聞きたいことがあるんだけど」

「遠慮するな、言ってみろ」

「怖くて聞く気にはなれなかったけど、兄さんはわたしが自衛軍へ入隊することに反対なの?」

「お前にとって、それは重要なことなのか?」

 歩美はパイプ椅子から伸ばした足をぶらぶらと揺らした。お互いに玉響を見つめている。機体に話しかけてすらいるようだが、話しているのは日本にいる、他の同年代の兄妹と変わらない。人生の先達として、洋一は進路相談に乗っているだけだ。ただ、その場所が戦争の真っただ中の軍事基地で、最高機密の人型有人機動兵器を前にしているというだけ。

「兄さんはわたしの先達だから、まあ、重要ではあるかもしれない。有沢さんの言っていた通り、入隊するのならわたしの不覚悟で仲間が死ぬなんてことは絶対に避けたい。そのためにはどんな情報でもいいから手に入れて、吟味したい。もっと理解したい。もっと考えていたいの」

「なら言おう。兵士なんて糞の山に頭を突っ込んで、その中で深呼吸するようなものだ」

 意外な言葉に、歩美は我が耳を疑った。これまで話してきた彼の信条を全て否定するかのような言葉だったからだ。

 洋一は手を振りかざして、目の前に鎮座する紫雲四番機、玉響を示した。その横顔には怒りとも失望とも取れぬ何かが憑依しており、さながら、怒れる狂戦士のように荒れ狂う感情を表すのではなく、憂国の騎士とも言うべき寂寥感に満ちた眼差しだった。

「人間は生き物だから、何かを犠牲にしなければ生きていけない。さっきも言ったけど、ぼくはお前たちのために戦う。ところが、軍隊というのはそうさせてはくれない。必ず第三者の利害意識が挟まってくる。自衛軍が嫌にならないかってお前は聞いたよな。強いて言えば、それがいちばん嫌なことだ。自衛軍から装備を借り受けて戦っているぼくの立場から言えることじゃない。でも、戦争とはどうしても起こることであって、逃れられる保証はどこにもない。自分の主義信条とは全く無関係に戦うしかない状況も、平和と同じくらい確かに存在している。反戦論者はそこがわかってない」

「軍隊は、必ずしも否定されるべきものではない、ということ? 強くなければ生きていけないというようなものじゃない。弱い人でも暮らしていけるように戦うのが自衛軍なのに、矛盾してるよ」

「組織について言及するのならば、まさしくそうした表現になるだろうけど、少し違うかな。世界中が軍隊で戦争をするという常識に陥ってしまっているから、銃を捨てられないんだ。人間が国に固執する限りは仕方のないことだけど。もっと高尚なことに武力が用いられるのなら、少しは同士討ちの醜さもわかるってものだよ」

 その言葉を聞いた歩美は、どこからともなく降ってわいた考えを、何の気なしに口にした。

「ふうん。じゃあ、ヘルフィヨトルは、そのために戦争を仕掛けてきたのかしら。戦争における高尚なことって、有体に言えば守ることでしょ。いつも同士討ちばかりしている人類に、仲間を守るために武力を使わせたいから、攻撃を仕掛けてるんじゃない? ほら、お前たちがいつもやっていることはこんなに愚かなことなんだぞっていう、警告なんじゃないかしら」

 歩美は驚きに身を固くした。洋一が凄い勢いで振り返り、険しい顔つきで凝視してきたからだ。

「お前、今、なんていった?」

「え? え?」

「いや、そうだ。考えてみれば、そうだ。南極戦争は、人類史上初の対外的武力闘争だ。そこにある事実はひとつ、人類は団結しなければ勝利できないということ。団結の必要性そのものが戦略目的だとしたら……どうして気が付かなかったんだろう。それならあいつらの神託めいた物言いもしっくりくる」

 彼は立ち上がり、全速力で格納庫の壁に据え付けてある有線へ駆けて行った。受話器を手に取って番号を入力し、何事かを興奮気味にまくし立てている。

 離れて立っていた情報保全隊員が一人、こちらへ歩み寄ってきた。まだ若く、歩美や洋一とそう変わらない年代の彼が、訝しむ色を見せないままに慇懃な一礼をした。

「情報保全隊の澤村と申します。日計歩美さんでよろしいですね」

「はい」

「お兄さんは何を慌てているのでしょうか?」

「さあ……何でしょうか。わたしにも、よくわかりません。突然ああして電話をかけてます」

 なるほどと頷き、澤村と名乗った青年は洋一を見やった。やがてもう一人立っていた隊員へ何事かを耳打ちすると、彼は頷いて歩美に一歩、近付いた。澤村はそのままプレハブへと駆けていく。

 嘘をついた。兄は、この自分の言葉が、ヘルフィヨトルが戦争を仕掛けてきたその理由に違いないと得心を得たのだ。テレビでも言っていたことだが、洋一は人類で最初の五人と接触を持った唯一の人間。その彼をしてあそこまで興奮させているのだから、強ち的外れな回答でもなかったのだろう。

 それにしても、兄だけでなく、自分までもが著名になってしまうのは避けたい。ただでさえ、両親の心臓と胃にあらぬ負担をかけているのだろうから、これ以上に心配させれば親不孝というものだ。

 有線のある場所から、受話器を握ったまま手招きする兄へ向かって歩き出しながら、歩美は内心で溜息をついた。

 少女の背中を、白銀の巨人が見送っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る