第三十八話

 人生で初めて乗り込んだ飛行機が軍用機だとは思いもよらず、日計歩美は肩身の狭い思いでスーツケースを抱え、輸送機の手狭な乗員スペースに乗り込んでいた。当面の生活のためにたくさんの衣類を持ち込んできたが、よく考えれば行き着く先には洗濯機も何もかもが揃っている筈だ。しかし味気ない自衛軍のジャージなどよりは、他の同年代の友人たちと比べて垢ぬけないものでも自分の服を着ていたい、と夏服を引っ張り出した彼女だった。

 これは日本政府が運行している機体で、民間航空会社の保有する機体ではない。パイロットも政府に雇われた元空自パイロットが務めている。事前の説明ではそう聞かされていた。戦地へ慰問に向かう民間人を安心させるための心遣いだろうが、元軍人ということはこの空域は安全ではないことの証左ではないかと歩みには思えた。

 取り巻く情勢がどうであれ、機体そのものには特に目立った仕様はない。仮設トイレを後部格納庫に据え付ける改装が施されている以外に目立った差異は、原型機と比べて存在しなかった。格納庫自体には前線補給用に積み込んだ補給品が面積の多くを占有しており、前にある乗員スペースには他に幾人かの民間人が乗り組む。

 いつヘルフィヨトルの無人戦闘機が飛来するのかという恐怖と戦いながら平静を装っていると、隣の座席に座っていた初老の夫婦が煎餅の入った袋を渡してきた。

「お嬢ちゃん、一人で偉いねぇ。これ、差し入れ。どうぞ食べて」

「ありがとうございます。いいんですか?」

 老女はにっこりと通路越しに微笑んだ。

「いいもなにも、あなたもご家族に会いに行くのでしょう? アフリカは熱いらしいわねぇ。日本は真冬だっていうのに、着るものにも困っちゃうわ。ねぇ?」

 曖昧に微笑み返して、窓の無い機内の隔壁に目をやる。それから女性は話しかけてこなくなった。ふと目をやれば座席のヘッドレストに頭を任せて目を閉じていた。開いた口から小さないびきが漏れ、夫が顔を顰めて肘で小突いている。苦笑いで気にしていないと手を振ると、ちょうど巡検のために通りかかった戦闘服姿の自衛官を呼び止めた。

「すみません。ナイロビまであとどれくらいですか」

「あと一時間弱だよ。空中給油はもう済んでるからね、運よくひとっとびだ」

「というと、いつもはそうじゃないみたいですね?」

「遠い日本とは違って、アフリカ大陸はヘルフィヨトルの勢力圏だ。赤道以南は全て戦闘空域指定で、境界線すれすれに飛ぶのにも非常に神経を使う。北に百キロ行ったとしても、緊張感はすごいものがある。戦車なら何日もかかるけど、戦闘機なら超音速巡行で数分もかからない距離だから」

「戦闘空域ということは、ここはもう戦闘地帯の真上ってことですよね?」

「いいや、そうじゃない。敵が来る可能性は捨てきれないという意味だ。ここまでやってくることはまずないけど念のためということ」

「ということは、今は大丈夫なんだ」

 不安そうな声に、隊員は白い歯を見せて笑った。

「平気だ。むしろ、マルサビットを経由するほうが飛行時間が増えて危ない。世間じゃなんて言われているか知らないけど、空自はそう簡単にはやられない。アフリカでも屈指の腕利きが集まっていて、もう何度も敵の無人機を撃退している。今も慰問受け入れのために護衛機を飛ばしてくれているし、警戒監視態勢も強化されているから心配ない。頼りになる仲間だ」

 その時、彼は耳にはめているインカムに手を添えた。幾語か相手とやり取りをした後、軽く敬礼をしてコックピットへ向けて歩み去った。歩美は頭を下げて、こんな少女に真面目に対応してくれた彼へと感謝を捧げる。

 歩美は大きく息をついて機体の外殻を見つめた。彼の話の通りならば、あと一時間も過ぎれば目的地に到着する。そしてこのすぐ外では航空自衛軍のF=3戦闘機が飛行していてもおかしくはないわけだ。その事実は、とても異質なものに感ぜられ、歩美は人知れず息を飲んだ。

 日計歩美は改めてここが戦場なのだと実感した。同時に、自分が知ったのは兄が経験した戦いの中でも、穏やかな緊張感に包まれたほんの一部でしかないのだろうとも気付いていた。生きるか死ぬかの世界など、彼女は体験したことがないのだから、生死について考えることがそもそもなかったのだと自覚して震えを抑えようとして失敗したことは、致し方のないことである。。

 驚くべきことに、彼女は九十九里浜や横浜港の教訓があるのにも関わらず、いち国民としてその程度の意識しか持てていなかったのだ。雷に打たれたような衝撃を覚え、自衛官を家族に持つ自分ですらそうなのだから、現代の日本国民のどれだけがこの感覚を理解できるだろうと歩美は悲観的になる。平和とは脆く崩れやすいものなのだという、この心許なさを。

 国会議事堂前でデモをしていた、アフリカ派遣戦闘群に参加している自衛官の家族たちが思い起こされた。家族を死地に赴かせる事の罪深さを訴えていた人々の叫びに、共感とも反発とも言い切れぬ複雑な心境を抱く。

 確かに、政府は兄を始めとする善良な人間を戦地へ赴かせ、死なせている。だが、この危険は、誰かが食い止めねばならぬものではないのだろうか。そしてそのために犠牲が強いられるのなら、批難でなく凱歌で迎えなければならないのではないだろうか。

 ここまでの旅費と手続きを済ませてくれたのは、兄が出征する前に家を訪れた黒田防衛相ではないらしい。そうした面倒事は戦闘群の群長が取り仕切っているのだそうだ。危険を承知でアフリカへ飛ぶと決意した女子高生を無事に送り届けるのも、彼らの任務というわけだろう。

 勿論、日計家の両親は歩美の渡航に猛反対した。ただ危険というわけでなく、それで長女にまで入隊されたらという思いがあったであろうことは疑いようもない。

「洋一だけでじゅうぶんだ。歩美、お前まで命の危険にさらされては生きた心地がしない。あいつだって、お前のために戦っているんだぞ」

「見に行くだけだから。兄さんにも直に会いたいし。守ってくれる人がいるのだから、安心して」

 安易な説得だったと、今なら思う。何故なら、誰かに守られるということは、その人を犠牲にして自分が生き延びることと同義だからだ。

 ひょっとして、兄はそれが嫌で自衛軍に入隊したのではないだろうか。ありそうな話ではある。他人の人生に干渉することはもちろん、そのように誰かの上に胡坐をかくことも嫌っていた兄なのだ。

 疑問はそのままに、輸送機はそのままナイロビ基地へと降り立って行った。その間、歩美は手洗いに立つことも忘れ、一心不乱に自分の中で芽生えた新しい変化を考え続けていた。

 機内に放送が流れ、パイロットが到着する旨を告げた。歩美は我に返り、慌ててベルトを身体に巻き付ける。機体はゆっくりと減速しながらナイロビ基地上空で大きく旋回して高度を落とし、滑らかな動きで着陸コースに乗った。やや機首を天頂方向へ向けてギアダウン、フラップを開く。CCV制御により実現された高い低速安定性と熟練の腕前により、接地時の衝撃も最小限に理想的な着地。エンジンを逆噴射、ブレーキをかけ、機体は静かに滑走路上で停止した。

 機体はエンジン出力を一瞬だけ上げ、排気。脇にある昇降用タラップが伸び、降機の指示が下った。歩美は大勢が通路を行くに任せ、老夫婦と共にタラップを降りる。重たいスーツケースは、降り口で待ってくれていた先ほどの自衛官が手伝ってくれた。にこやかに微笑みながら機内へ戻る彼へ礼を言って再び頭を下げる。頭の上から頑張れよ、という声がかけられた。

 それはこちらの台詞だと思った。

 乾季であるナイロビは晴天。ジェット機のエンジン音がひっきりなしに響く広大な滑走路脇には、一台の大きなバスが停車している。軍用機と輸送機の入り乱れる背景に、古びたバスが仕事をしているのは妙な感じだった。これは自衛軍が借り上げたものらしく、迎えに出て来た自衛官の姿が運転席と昇降口にあった。そして慰問客を待ち構えていた、アフリカ派遣戦闘群に所属する隊員たちが整列して、乗客たちの到着を首を長くして待っている。歩美がタラップを降りた頃には、彼らはそれぞれの形で家族と再会を果たしていた。自分もその一員であるのに、感動的な光景に胸を打たれる。

 歩美は首を巡らせて、自分の求める人物がいないかと探った。抱擁や笑いあっている人々の中に、彼女の知る顔はひとつも無い。バス二台分の人々が移動を始める中、異国の中に一人だけで放り出されたような錯覚と抱きながら、スーツケースを片手に所在なく辺りを見回す。

 と、遠くから猛スピードでやってくる高機動車が見えた。赤い日の丸の穿たれた自衛軍のものだ。広大な滑走路の脇にある誘導路からかなりの速度のまま、高機動車は方向指示器も点灯させずに大きく進路を変更し、こちらへ向かってくる。サスペンションがたわむほどの勢いだ。そのまま徐々に減速し、彼女の前でそろりそろりと停車する。すぐに助手席側のドアが開き、一人の自衛官が滑走路に降り立った。

 見紛うこと無く、兄の洋一だった。ということは、運転席でハンドルを握っている女性自衛官は鷺澤朱里だろうと見当をつけるが、高機動車はそのまま忙しく走り去ってしまった。息を切らせることもなく洋一は歩美に駆け寄ってくる。

 すぐ手を伸ばせば触れ合えるほどの距離で立ち止まり、彼は顔を覗き込んで来た。

 少し伸びた黒髪、真っ直ぐな黒瞳。かなり日に焼けたようだが、確かに、兄の洋一だった。

「遅れてごめんよ、歩美。ちょっと忙しくてね……元気そうでよかった」

 何とか微笑み返し、歩美は思わず両手を広げた。生きているとは知っていたが、こんなに遠い場所で、いつ斃れるともわからない戦いに身を投じる家族の存在を、彼女は肌で確かめずにいられなかった。兄は驚いたようだったが、すぐに近寄って妹を抱きしめた。

「兄さんこそ、元気そうで安心した。アフリカって暑いらしいから、ミイラみたいに干からびちゃってるかと思ったぁ」

「ハハ、そんなわけないだろ。さあ、バスに乗ろう。陽射しは女の子には毒だからな。帽子でも被って来ればよかったのに」

 まったくだ、と歩美は顎を肩に食い込ませて頷きを示した。その辺りが、友人に言わせればザンネンな所なのだと自覚した。

 洋一が着換えで一杯になったスーツケースを軽々と手に持ち、そのままバスへ乗り込む。大きなガソリンエンジンが唸りを上げた。動き出したバスの車内で座席に並んで座ると、同じ中学へ登校していた昔を思い出す。奇妙なものだ。遠い異国の地であるというのに、故郷が思い起こされるとは。

 席について少しすると、洋一は車窓から基地を眺める歩美へ声をかけた。

「日本はどうだ。何か事件とかあったかい」

「いつも通りよ。いろんな理由で人が死んでる。戦闘で死亡しないっていうだけが、平和の証みたいにね。一方で、窃盗とか強盗とかは減ったわ。なんだか警察が頑張ってるみたい」

「そっか。まだ日本は平和なんだな」

「まだって、いずれ日本も戦場になるの?」

 振り返ると、洋一のばつが悪そうな顔とぶつかった。

「語弊があったな。そういうわけじゃないよ。それより、ぼくのことで何か言われることはないか。ニュースとかで……取り沙汰されているだろ」

「気にしないで。兄さんたちのことで言われることもあるけど、へっちゃらよ」

「いじめられてるのか?」

 肌が総毛立つような殺気を放ちながら、洋一は無感動な声で言った。歩美は慌てて言葉を返す。

「違うわ。だいたいは、君のお兄さんを誇りに思うだとか、ありがとうと伝えておいてくれとかなんとか、そういう類。みんな感謝してるのよ。兄さんや鷺澤さんを、人類の希望だと思ってる。黒いPGTASを撃退した、初めての人類だから」

 少しだけ気配が弛緩したが、今度は疲れたような表情を浮かべ、洋一は座席の背もたれに深く身をもたせ掛けた。

「大したことをしてるつもりはないし、これが仕事だから褒められたものでもない。ところで……本当に、ぼくのことでとやかく言われていないだろうな」

「平気よ、平気。うちの校風として、そういうのは無いし」

 兄には言えなかったが、揶揄されることはあった。英雄の妹様かよ、なんて陰口を叩く知人も中にはいる。

 そんなものは、兄への愛情の前では取るに足らない雑音でしかなかった。歩美は兄を誇りに思っているし、兄のために悪口を言われるのならば全て受けて立つ覚悟だ。結局、誰かを貶すことは不理解の証明でしかないのだから。

(兄さんにこのことをいったら、そいつの家が灰になっちゃうものね)

 冗談めかしてみはしたものの、かなり現実味のある話なのでそれ以上考えるのはやめにした。

 自宅周辺の近所付き合いにも変化が生じている。空き家の一軒か二軒を自衛軍が借り上げたらしく、私服姿の情報保全隊――たしかそういう名前だったはず――が取り締まりを強化していた。妙な悪戯をしたりする不届き者や、取材に訪れようとするメディアを締め出すためだ。政府からは、アフリカ派遣戦闘群の家族について、プライベートに踏み込むような干渉は極力避けてほしいとメディアに要請を出していた。政府というよりも防衛省からの通達であったようで、これはえげつないほどの報道合戦に巻き込まれかけた歩美ら自衛官の家族たちを大いに救った。

 日本で自分の周りに展開されていた環境を思い起こし、改めて興味津々に首を巡らせ、車窓やバスの車内を見回す。

 そのために彼女は来たのだ。

 周囲では、久方ぶりに対面を果たした自衛官とその家族が近況について語り合っている。誰しもが笑顔だ。ありったけの情報を交換しながら、人々は口々に何かを口走りながら窓の外を指さした。人の声を圧して響くバスのエンジンの音の向こう側から、地の底から響く太鼓の音のようなものが聞こえて来た。

 車窓から視線を投げ、歩美は息を飲む。

 四機の蒼天が、滑走路脇の助走路を歩いていた。最近はニュースメディアでも自衛軍を取り沙汰すものが増えているから、一般人でもこの頼れる巨人の存在は知っている。そしてPGTASの存在が、日本が世界から孤立している所以であることも。

「兄さんも、あれに乗ってるのね」

 洋一は妹の視線を追って蒼天へと視線を移し、頷いた。

「うん。PGTASだ。正式名称は人型多目的戦術兵器システム、あれはPG=21、蒼天だな。ぼくが乗っているのはあれじゃないけど、教練課程ではよく乗り込んでいた」

 いうまでもなく、彼が蒼天に乗り組んでいたのは横浜港襲撃事件が最後だ。歩美は機転を利かせて話題の方向を微妙に変えた。

「紫雲、だっけ? 第三世代なんでしょ。よくわからないけど」

「へぇ、よく知ってるな」

「自分でも調べたから。ネットだとずっと持ち切りよ。既存の兵器を全て置き去りにしたとかなんとか」

「兄のぼくが言うのもあれだけど、お前、女子高生らしくないんじゃないか。友達いるか?」

「余計なお世話。それに、今じゃ紫雲の存在は一般常識の範疇だよ」

「そんなにぼくたちって有名なのか。なんだか落ち着かないな」

「みんな知ってるわ。何度も特番組まれてるし、詳しくは知らなくても概要はわかってるんじゃないかしら。横浜とか九十九里浜とか、最近だとビシルのこと」

 車窓から首を捻って、憮然とした兄の横顔を見つめる。答えは返って来ず、話さねばよかったと歩美は胸を痛めた。

 それほどまでに、洋一は傷付いているように見えた。

 国の英雄としてもてはやされたからといって喜ぶ性質ではないとわかっていたが、あからさまに迷惑そうな顔をしているところを見ると、やはり兄なのだと安心しもする。独り笑うと、事情を察したのか、洋一も自然と笑みを浮かべた。兄妹で微笑みながら、肌の上を踊り回る暑さも忘れてこれまでのことを話した。

 言葉を交わしながら、歩美は洋一の顔に見入っていた。

 心のどこかでは、アフリカの僻地で暑さと死の恐怖とに戦いながら、気がふれてしまったのではないかと危ぶんでいた部分がある。それほどまでに、第七PG中隊の活躍は人間離れしているし、敵を倒すことは、戦闘の只中に突き進んでいくことに他ならない。心的外傷後ストレス障害PTSDになって帰国する兵士の数は史上最多となったと、アフリカ戦役について軍事評論家が声高に叫んでいるのをテレビで見たことがある。色々な統計データは政府による公式な発表から有志によるネット記事まで多くを調べ上げた歩美だが、そのどれもが、南極戦争は人間の精神と肉体に耐えうるような従来の戦争とは異なった様相を呈していることを示していた。

「人間同士の戦争ならばまだいい。敵を倒せば自分が生き残る。しかし南極戦争は、決して止まることのない破砕機の中に次々と人間を送り込み、いつか壊れますようにと祈り続けるようなものだ」

 要するに、誰にもどうすることもできないが、軍人たちは戦うことを求められるので、進んで死地へ赴くしかないという考えだ。そのような暗雲立ち込める情勢下で、まさか黒いPGTASですらも撃退するとは誰も想像だにしていなかった。家族でさえも、ギガスが自衛軍と戦闘を開始したとテレビの速報で知った時、密かに覚悟をしていたのだ。他でもない、洋一が死ぬことを。

 兄を信じ切れなかった。それを後ろめたく思うことは、もちろんある。だが無事を知った時の安堵感が、家族が薄情ではない証といえるだろう。

 ここまで有名になってしまっては日本に帰るのが面倒だ。兄はそう考えているに違いなかった。

「黒田防衛相が守ってくれるわよ、きっと。日本には意地悪なロシア人はいないし」

 察して言った歩美へ、洋一は唸った。

「そうだろうね。けど、もうあんな思いは懲り懲りだ。九十九里要撃戦の前に、大船から東京に出るだけでも辟易したんだ。ギガスを追い払った後なら尚更だ。家から一歩も出れないかもしれない。まあ、それはそれでいいか」

「すごく大変だと思うけど……嬉しくはないの? 仮にも勝ったんだし。多くの人が救われたって、先生が言ってた。君のお兄さんは幾万もの命を救ったんだって言われたけれど」

 その言葉を聞き、洋一は困った風に眉を潜めた。

「お前たちが誇りに思ってくれるのは本当に嬉しい。だけど、ぼくはぼく自身を誇れない」

「どうして? 兄さんは凄いと思う。それだけの表現しかできないのがもどかしいくらい、雲の上の存在だよ?」

「いいかい、歩美。人間という生き物は、救った人数よりも、この手をすり抜けていった命を数えてしまうものなんだ。お前にもいずれわかる――いや、お前にはわかって欲しくない。他の誰にも、絶対に」

 兄は遠くへ視線を投げながら、人生に疲れた老人めいたことを口走る。

 難しい言葉だ、と歩美は思った。その裏にどれほどの葛藤が存在し、彼に言葉として紡がせたのかは当人にしか実感できない苦しみだ。自分の胸に仕舞い込み、目当ての本が無い図書館を探し続けるように、問い続けるしかない。これまでも、これからも、彼の苦悩は心を傷付けるだろうし、他人が癒すことも叶わないのではないだろうか。

 自分のようにはなるな、ということか。歩美は兄との間に、どうしようもなく深い溝を感じ、それを乗り越えるために口を開く。

「なら、何のために兄さんは戦っているの。救うために戦っているのに、そのことを誇れないなんて、とても悲しいことだと思う」

「鋭い指摘だな。お前の疑問は尤もだけど、実は自分でもよくわかってない。もしかしたら一生わからないかもしれない」

「だというのに、戦いをやめることはしないんだね」

「自分で選んだ道だから進み続けたいという思いは、もちろんあるけど、他にも大事なことがあるから。けれど、そんな矛盾を抱えたまま納得できてしまっているのは、お前の言う通りおかしなことだな」

「わからないまま、戦っているのね。そのまま死んじゃったらどうするの」

「アハハ、そうだよな。本当にその通りだ。けれども、悩んで出る答えなら苦労はしないさ」真っ直ぐに妹の目を見て微笑み、「どんな道を歩もうとも、お前はこうならないといいな」

 洋一は手を広げて、バスの中を示した。

「手紙で言ってたな。自衛軍へ入隊するか迷ってるって。ここがお前の進もうとしている――あるいは進まないかもしれない――道への入口だ。お前には短い時間だけど、ぼくの仕事を見てもらう。そういえば、ここに来ることは父さんと母さんには話したんだよな?」

「話してはいるけど、けっこう反対されちゃった。無理矢理って感じ」

「なんだって? じゃあなんて言って家を出たんだ」

 歩美は黙りこくって俯いた。あれほどの親子喧嘩は生まれて初めてのことで、それは戦地で家族を想う洋一の前で口にできたことではなかった。

 苦笑いしながら、日計は手を伸ばして妹の頭をくしゃくしゃに撫でる。汗ばんでいるかと身構えたが、意外にもざらざらとした、男らしい肌の感触が頭皮から伝わり、身を固くした。まるで父親に撫でられているようで、これまでの兄らしい優しい指の感触はどこかへ消え去ってしまったことに悲しみを覚える。

 この短期間で兄の変わらない部分と変わってしまった部分を嗅ぎ分け、歩美はどうしようもなくやりきれない思いに囚われた。

 人間とは変わっていく生き物だ。周囲の環境が変われば感じる情報も大きく変遷していく。仕方のないことだし、適応こそが生存のための最たる能力だ。生き延びるために生物が持つ適応能力。本質は揺るがないものだとしても、心が変わっていくのは、寂しい。洋一に言えば、それは慣れるということだよ、と言われるかもしれないが、歩美は人間が賢明な生き物だと信じたかった。

(だとしても、わたしは兄さんに変わって欲しくなかった)

 日計歩美は唇を噛み締める。

 到着して十分と経っていない。だというのに、もう昔の兄妹には戻れないのだと気付いてしまった。

「もめるなぁ、これは」

 ぼくから電話しておくよと兄は言い、頭から手を離した。

 それだけで、どこまでも彼が遠くへ行ってしまった気がした。

 焦り、歩美は履いたスカートの裾を握りしめ、異国の空気に戸惑いながら車窓の景色を目に焼き付けた。



 通常の慰問客は基地外部のホテルへ向かうのだという。通常は出動に備えて待機状態の自衛官にも休暇が与えられ、歓楽街で家族と共に羽根を休める許可が与えられる。その際、携帯端末は密かにネットワークから切り離され、久方ぶりに私物の端末が彼らに手渡される。仕事は忘れて行って来い、ということらしい。意外にも残される兵士達は明るく彼らを送り出していた。

 次はいつ戦いになるかわからない。それまでに悔いのないよう、家族とはきちんと話しておくべきだ。たとえ一分、一秒であっても、共にいた記憶と時間は無くならない。口に出してしまえば元も子もない、葉の音が浮くような考えが隊員たちの共通の思いであったが、勿論、誰も言葉として伝えることはなかった。それは真に仲間を思いやり、何のために戦うのかを自覚した者に特有の温かさだった。

 しかし歩美は慰問に来たのではないので、ただ遊んで時間を過ごすつもりはなかった。いや、便宜上はそうなっているのだが、自衛官の仕事というものを見極めるためにアフリカの土を踏んだ第一目的は決して忘れていない。黒田幹久や派遣群群長である藤宮守陸将補の承諾の元に特別な認可が下り、歩美はいささか特殊な立場でここまでやってきたのだった。そこには洋一の功績や信頼が関わっていることは疑いようはなく、ともすれば彼女の入隊を待ち望んでいる節もあるやもしれなかった。

 そのため、彼女は慰問客とは別に、兵舎の東雲南津子と鷺澤朱里が使っているという女子部屋に放り込まれた。郷に入っては郷に従えということかと、突然の急展開に追いつけずにいる頭で歩美はぼんやりと考えた。ナイロビ基地は戦力の供給拠点として兵員の増加が著しい。手狭になってきているので、近々、特技下士官の花園咲も移ってくる予定なのだという。

 どれだけ平静を装うと深呼吸を繰り返しても、歩美は緊張を隠せなかった。何しろ、人類最強と謳われる第七PG中隊との面々と相部屋なのだ。そんな女子高生は自分くらいのものだろうと考え、その事実がまた彼女を舞い上がらせる。本当に、ここまで来たのだ! 兄の戦う、アフリカ大陸まで。

 一泊するためにあてがわれた部屋へと兄に案内される。兵舎は突貫工事で作られたもので所々が痛んではいたが、全体として想像以上には快適なようだ、というのが歩美の実感だった。空調は芳しくないが、空間的には見聞きしていたような狭苦しさは感じられない。整理整頓と清掃が行き届いているからだろう。

 二段になった寝台の、部屋に入って右側の上段に荷物を置き、洋一に促されるままに歩いていく。廊下を歩くだけで注目の的になっている兄の毅然とした背中に隠れるようにしながら、なるべくフォーマルなものをと、ワイシャツにタイを巻き付け、長くも短くもないスカートとジャケットを着てきた歩美は、顔を赤くして俯いて歩いた。

 人気のない階段を降りながら、いつもあのように見られるのかと問うと、まだマシになったほうだという答えが兄の背中から返って来た。

「そんなにひどい時もあったの?」

「まあ、痣をつくることもあったけどね。お前の場合は女子高生だし、とにかく浮くのは仕方がない」

「変な目で見られてるのかしら」

「否定はできないな。お前はかわいいから」

 さらりと言ってのける彼の手を握り、すぐに離す。それから黙り込んだままに兄妹で歩いていく。

 多くの人々とすれ違った。軽い敬礼を交わしながら彼が先頭に立って廊下を歩く。そう言えば洋一は三等陸尉で、陸自の大半を占める下士官よりも階級が上なのだと歩美は思い出す。一度は立ち止まって話をしていた。佐藤という名の一等陸佐――どれくらい偉いのか、彼女には知りようもなかった――と話す洋一はどこか活き活きとしているように見えた。どうやらかなり世話になっている上司らしい。豪快な性格らしい佐藤は景気づけに彼の背中を思い切り叩き、洋一は顔を顰めながらも人懐っこい笑みを浮かべる。

 一頻り洋一と話し終えた佐藤は歩美に向き直った。大柄な男性自衛官は、荒々しいが温厚な瞳で彼女を見下ろした。まるで優しい熊のようだった。

「日計の妹さんかい。なるほど、兄に似てるな」

 生まれて初めて言われた。

 とりあえず、彼女は律儀にお辞儀をする。

「はい、日計歩美です。佐藤一等陸佐……で、よろしかったですか?」

 兄との会話から判明した彼の肩書と名前で呼ぶと、偉丈夫は大きく頷いた。

「うむ、そうだ。女性に失礼とは存じているが、いくつだい?」

「今年で十八になります」

「なにぃ? その割にはしっかりしとるな。親御さんはさぞかし鼻が高いだろう。こんなところでこれだけしっかりしてるなら、世間に出ても恥ずかしくはない」

「あ、ありがとうございます」

 恐縮して呟くように言うと、佐藤は顎をしゃくって洋一を示した。

「君の兄さんには、幾度も命を助けられた。筋違いかもしれんが、君にも礼を言っておこう。本当によくできた兄さんだ」

「はあ」間の抜けた返事を返してしまい、顔の前で慌てて手を振る。「いえ、あの、こちらこそ、兄がいつもお世話になっていまして、その」

 佐藤は豪快に笑った。洋一は仏頂面のまま、視線を遠くへ固定して聞こえないふりをしている。そんな彼に聞こえよがしに佐藤は声を張り上げた。

「許せ。君の兄上はなかなか堅物でな。派遣群でも時代錯誤だと評判なのだ。謝辞を述べてもまるで受け取ろうとはしないし、酒の一杯も奢らせてはくれん。まったく、何のために成人未成年の区別があると思っているのか」

「参政権の有無ですよ、一佐。それに、成人は酒を飲まなければならないという規則もありません」

「馬鹿者、若いうちに遊んでおけというに」

 わたしは笑った。兄らしいと思った。相手への思いやりや行動の全ては、全て根源が自分に在り、その成果も自分のためであるのだと信じる姿勢。優しさとは無償であれこそ、最低限の偽善として成立しているのだ。当の本人は、ばつが悪そうに顔を顰めたが。

 また笑った後、佐藤は首を捻って洋一を見た。

「おい、日計。そういえば、彼女を中隊の連中と会わせるというのは本当か?」

「はい、一佐。第三を使おうかと」

「紫雲は見せるのか」

 洋一はちらりと歩美を見てから頷いた。

「それはまだ考えています。あれは特殊すぎますので、かえって毒にもなりましょう。異常とくべつ普遍ふつうと勘違いされては困りますから」

「おれがいまさら言うまでも無いが、先日のこともある。くれぐれも気を付けろ。いいか、情保ではなくお前が守ってやれ。それが務めだ」

「はっ」

 では、と敬礼を終えて再び歩き出した兄へ向けて、歩美は問うた。

「何かあったの?」

「ニュースになってないのか? 紫雲に近づいた某国の工作員が、情報保全隊に射殺されたんだ。再三の警告の上での処置だから自衛軍に非は無いけど、人を殺したのは事実だ。日本人は味方を撃つとかなんとか、けっこうな騒ぎになったもんだ」

 あの事件か。第三国の工作員が第三世代機に接近し、警告の末に拳銃を発砲した。結果として、謎の人物は死に、自衛軍の調査では背後関係をまるで掴むことができなかったという。ニュースのコメンテイターは、国際世論を動かすために派遣された捨て駒だったのではないかと述べていた。

 だが歩美にはそんなことはどうでもよかった。

「兄さんは、怪我とかしなかった?」

 洋一は面白がるように笑う。今の言葉のどこが彼のユーモアに引っかかったのか、彼女には判然としない。

「ぼくよりもあの機体のほうに金がかかっているんだぜ。ぼくなんか二の次さ。紫雲一機を売り払えば、横浜港の復興費用はかなり余裕が出るんじゃないかな」

「やっぱり何かあったの!?」

「いや、まあ、ぼくには何も無かったけど。兵士が自分を気にしてたらやっていられないんだ」

「それは軍隊の理屈」

「ここは軍隊さ」

 歩美は絶句し、そのまま兄の背中に従って歩いていった。

 ここが自分の飛び込もうとしている世界なのか。家族の杞憂すらも振り払う価値観、兵器の価値が人間の意味を上回る倫理観が支配する領域。それも当然かもしれない。日計洋一ではなく、紫雲がギガスを撃退したのだ。どちらが重要かと問われれば、答えはわかりきっている。

 兵舎の一角にある小会議室に案内された歩美は、到着早々に、その後の彼女の人生に極めて大きな影響を与える重要な人々と顔を合わせることになった。

 洋一が開いた扉を潜ると、いくつかのパイプ椅子が置かれているのがまず目に入った。肘掛に小さな卓が据え付けられたもので、よく高校の視聴覚室に置いてあるようなものを連想させる。よく使いこまれており、プラスチックの卓は力強い鉛筆やボールペンのペン先でいくつも傷が付いていた。

 自宅のリヴィングで洋一の隣に座り、遠い世界と時間の壁に隔たった銀幕の世界が、そこには存在していた。

 座席には座らず、指揮官が立つのであろう演壇の周囲に集まって談笑していた五人の自衛官が、戦闘服やつなぎ姿でこちらを振り返った。俳優のような金髪碧眼ではないが、じゅうぶんに目を奪われる個性的な面々だった。それほどまでに、彼らは常人からはかけ離れた雰囲気を醸している。

 部屋へ入るや否や洋一が敬礼したので、歩美も丁寧に一礼する。軽い答礼を済ませた全員の中から、背が高く厳しい目をした男が歩み出た。その間に歩美は鷺澤朱里をみとめ、お互いに会釈を交わす。彼女は微笑んでいたが、男の存在感が圧倒的で、歩美はすぐに彼へと目を移した。

 これが日本の「折れない剣」なのだろう。片隅には、兄がアフリカへ出征したその日に迎えに来た、あの女性自衛官の姿も見えた。

 目前で立ち止まった男がこちらを見下ろす。たじろがなかったのは、意志の力を総動員したためだ。それほど、男の放つ気配は他の隊員とは明らかに異なっていた。心臓が切り裂かれても不思議ではない鋭さ。明らかに彼が部隊長の有沢琢磨一等陸尉だ。テレビ番組では名前のみの紹介で留まっていた、人類最精鋭を率いる英傑。南太平洋海戦の英雄である、有沢敬二海将の息子であり、ビシル平原の戦いではギガス率いる大軍へと恐れずに立ち向かった男。

 彼は短く歩美を見つめた後、目だけを動かして洋一を見た。

「日計。この娘か」

「はい。自分の妹です」洋一は動けなくなっている歩美の背に手を添え、「ほら、歩美。自己紹介して」

「う、うん」返事はしたものの、言葉が上手く喉から出てこない。「初めまして、日計歩美です。兄がいつもお世話になっております」

「それじゃあ若いがやってきたところで、わたし達も自己紹介しましょっか」

 あの女性が母性を思わせる微笑みと共に口を開いた。目を凝らすまでもなく、びっくりするほどの美人だった。長く艶やかな黒髪と柔らかな輪郭、は、笑顔がよく似合う。

「そうだな」鷹の目を持つ男が言った。「では、ドライバーから年功序列ということで。わたしはこの第七PG中隊指揮官を務めている有沢琢磨だ。階級は一等陸尉。序列としては君の兄、日計洋一の直接の上官になる。妹だからと手は抜かん。そのつもりでな」

「年功序列だからいちばん最後の筈だけど、まあ、次はわたしね」彼女の冗談に有沢を除いた全員が微笑み、「東雲南津子といいます。階級は二等陸尉。有沢さんの下で副中隊長をやってるわ。一度、大船で会っているわよね?」

「はい、存じております。すみません、防衛省の方だと思っていて、まさかここにいらっしゃるとは思いませんでした。兄と同じ隊だったのですね」

「そうよ。まあわからなくても無理は無いし、気にしてないわ。名乗りもせずにあれっきりだったしね。見たところ元気そうで安心したわ」

 そこで、よく見知った顔と声が割って入った。黒いセミロングを揺らして、大きな黒い瞳が微笑みに歪む。

「次はわたしね。鷺澤朱里よ。あなたのお兄さんと同じ三等陸尉。部下その二ってところね。あなたのお兄さんと二人で下っ端やってるわ」

「度胸があるくせしてよく言うよ」

 洋一の言葉に、鷺澤以外が薄い笑いを零した。兄が殴られる前に、慌てて口を開く。

「鷺澤さんも知ってます。その、ここで言っていいのかわからないですけど……兄の、恋人ですよね。よくお話を聞いてました」

 聞いているこちらは耳まで赤くしているというのに、鷺澤は朗らかに笑った。それだけで強い女性だと思った。ふと、照れくさそうに微笑んでいるショートボブの髪の毛を揺らす彼女を上目使いに見つめていると、隣に立っているつなぎ姿の男が大笑した。他の兄を除いた隊員たちも同様に笑みを浮かべている。どうやらあちらも中隊公認の仲のようだ。

 ここは軍隊だ。だからこそ、そうした男女の恋愛については口うるさいものだと思い込んでいた。恐らくは有沢琢磨が話のわかる上官なのだろう、ということしか推察できなかった。なんだか喜ばしいことのように感ぜられる。

「次はおれだな」少し乱れた髪のつなぎ姿が言った。無精髭が荒々しいが、同時に精悍さも感じさせた。「日向道夫。第七PG中隊の機体整備員をしてる。女の子は大歓迎だぜ、歩美ちゃん」

「あ、ありがとうございます」

「日向さん、まだ入ると決まったわけじゃありませんから」

「なんだ日計ぃ、少しはスカウトしたっていいだろうが。減るもんじゃないだろ」

「減りますよ。主にぼくの胃壁が」

「言うようになったじゃねぇか。ホレ、次」

 その隣で照れた笑みを浮かべている、一見して奥手そうなショートカットの女性が日向に背中を押されて、たたらを踏みながら前に出た。

「は、花園咲です。日向と一緒に、整備員してます」

「どうぞよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ」花園はまじまじと歩美を見つめた後で、「あの……お兄さんとよく似ていますね」

「アハハ……よく言われます。そんなに似ていますか?」

「瓜二つだよ。まったく、兄からは考えられないくらいにいい妹さんじゃねぇか。隅におけねぇな、ただでさえべっぴんばっかりだってのに」

「文句ならぼくの両親に言ってください。車が悪いからって、車自体に悪態をついても始まらないでしょう。メーカーに問い合わせてもらわないと」

「違いない」妙に納得した様子で頷く有沢。

「あら日向君、お姉さんもそれには含まれてるのかしら?」と、東雲が静かな声で問う。

「もちろんでさ。東雲さんが一番……いや、二番目かな」

「フフフ、お世辞でも嬉しいものね。日計君と違って日向君は褒めてくれるから、女にもやりがいがあるってもんよ」

「東雲さんは褒めにくいんですよ。平均的に美人だから」

「それどういう意味?」

「どういうって……」

「歩美ちゃん、こっち来よっか」

「は、はい」

 和やかな空気で話の進む一団から、鷺澤に連れられて少し外れた位置にある椅子に座る。花園も逃げるようにその場から歩いてきて、鷺澤の隣に座った。残された男性三人と女性一人で、何やら姦しい会話をしている。兄が騒動の中心になって年長組からやんややんやと言われているようだ。

 おずおずと、歩美は言った。

「あのぅ……ここで何をするんですか?」

 これについては鷺澤が答えた。

「中隊員の、というよりは日計くんの同僚を紹介する。自衛軍についてより深く知ってもらうために、今からいろんなことを見てもらうわ」鷺澤は腕を組み、足を交差させた。「聞いたわよ。入隊を迷っているんですって?」

「ええ。両親からは大学進学を勧められていて、どちらにしようかと。学費もかかるし、入隊自体はけっこう真剣に考えているんです。本当に今回は願っても無いことで、こうして見学……みたいなことをさせてもらってますけど」

「ふうん? 最近の子はみんなそんな感じなの?」

「まあ、ちらほらと。でも、わたしの場合は兄の影響が強いんだと思います」

「そうでしょうね、本人は喜ばないだろうけど」

 わかり切ってはいるし、本人にも言われたことではあるが、鷺澤にさらりと言われると少しばつの悪い思いがした。彼女は気にする素振りもなく、東雲に首を極められている日計を流し見る。

「で。兄には言いにくいことだけど、今のところは入隊寄りってわけね」

 頷き返す歩美へ、花園がどこからともなく取り出したリモコンを差し出した。自分の座るパイプ椅子の肘掛に置かれたそれを、彼女は見つめる。

 ボタンのひとつを彼女が押下すると、騒いでいる他のメンバーの横、壇上にある大型スクリーンが天井から下がって来た。軋んだ音を立てて降りてくる白いそれを見て、有沢が一度だけ手を叩き、洋一らは騒ぎをおさめて渋々席に着いた。何とか一段落ついたようであるが、洋一がしきりに首をさすっているところからすると、平穏無事とは言えないようだ。

 しかしそんなことは、既に歩美の眼中になかった。

 何かが始まるようだ。どことなく不安な心持になるのをあざ笑うようにスライドが投影される。その青く染まったスクリーンの前に立って、有沢が軽く咳払いをした。

「さて。これから日計歩美君へ、自衛軍入隊に関するオリエンテーションを行う。尚、これは自衛軍入隊の際にはいかなるアドバンテージとしても機能することはなく、同時に自衛軍への入隊を強制するものではないことをここで明言しておく」

 歩美は洋一を見やった。彼は照明とブラインドを落とした後で席に座っていた。何食わぬ顔でスクリーンを見ていることから、視線には気付かないふりをしているのだろう。兄がそうするということは、妹である自分が反対するとわかっているからこそだろうか。

 その様子を見て、有沢が諭すように言った。

「たとえこれが君の兄の提案であろうとなかろうと関係ない。敢えて言うのならわたしの提案だ。迷いを賭して命を投げ出すことなど、誰であろうと許さん。一人の不覚悟が千人の死に直結することを自覚しろ。兵士とはそういうものだ。背負うばかりは自らの命ひとつではなく、有体に言えば自分以外の全ての生命を背負っているに等しい。生中な覚悟で務まるものではない。まずはそれを自覚することだ」

 先ほどとは人が変わり、有沢は厳しさのみが含まれた鋭利な声で言い放った。

 切り替えなどという生半可なものではない。歩美は自分の周囲に漂う空気の粒子が別のものに入れ替わってしまったと感じられるほどの雰囲気の変化を肌で感じた。首筋に刃物を押し付けられているにも似た緊張感。周囲に座る自衛官たちは当然だと言わんばかりの落ち着き払った表情で、有沢を見ていた。今や彼の言葉こそが神の啓示に等しく、何よりも重みのあるものだと言わんばかりの集中力。

 これが彼らの日常なのか――愕然としつつも、歩美は自らの認識が彼らの足下にも及ばなかったのだと思い改めた。今日一日で驚きを何度味わえばいいのだろう。軍隊という巨大な組織の柔らかい面、硬い面に触れていく。瞬間的に、自分の肉体さえも変化させてしまうほどの変わりよう。古い言葉を思い浮かべた。

 鞘に収まった芸術品ではない。抜き放たれた剣こそが本物なのだ。

 有沢は尚も言った。

「いいか、歩美君。この場で君を蔑ろにしようなどという惰弱な発想はわたしには無い。君に伝えられる事柄は多くはないし、君が人生での決断を下すに当たってじゅうぶんではないだろう。だが、ここで何を感じ、信じて、理解するかはすべて君にかかっている。肝に銘じておけ」

「はい!」

 礼を尽くすためというよりも、自らを奮い立たせるために大声で返事をした。

 彼は満足そうに一度だけ頷いた。

「いい返事だ。では、始めよう」

 まずは講義からだ、と有沢は背筋を伸ばした。

「メモは取らなくていい。全て覚える必要もない。ただ感じ取ってもらえればいい。真剣な時間というものは、嫌が応にも印象に残る記憶とそうでないものを取捨選択しているものだ」

「はい、わかりました」

「ではさっそく質問だ。日計歩美、君が自衛軍への入隊を選択肢として考えたのはなぜだ?」

 自分の頭の中で必死に言葉を組み立てた。

「兄を見ていたからです。わたしはどこかの企業で働くよりも、明確な意義のある仕事がしたいと思っていますし、自衛軍はその最たるものだと考えています」

「自衛軍にはどのような意義があると考えているのか」

「誰かを守るということは、素晴らしいことです。青臭いと自分でも思いますが、シンプルで説得力のある大義だと思います。少なくとも、わたしにとっては毎日を机に向かって過ごすよりはよほど明確なやりがいを感じられるものです」

 それが半年ほど前の兄と同じ言葉であることを歩美は知る由もなかったし、洋一がたじろぐように姿勢を揺らがせ、ある教官について思い起こしたことにも気付かなかった。

「君は自衛軍が何を守っていると考えているのか」

「日本……国家です。自衛軍の出動が認められるのは、国家や国体に関わる重大な出来事に限られていますから。勿論、災害派遣もこれに含まれます。災害や戦禍に対して積極的に働きかける防衛機構が、自衛軍だと考えています」

「なるほど、確かに国を守るという大義は崇高なものだ。しかし崇高な大義が君をより良い人間にすることは決して無い。美しい大義はそれ自体が美しいのであって、掲げる人間を変えるものではないからだ。そして美しさはどこかに醜さを集約させているものだ。例えば、理不尽な命令によって失われる生命などが一例だ。他の誰かのために命を投げ捨てろと、わたしを含めた指揮系統の上位に位置するものは叫ぶわけだ。美しいように見えるが、結局、最後に益を得るのが誰なのか不明なまま、戦わざるを得ない」

「馬鹿げているだろうことはわかっています。けれど、少なくとも自分に嘘をついて、社会の中で潰されていくよりもましだと感じます」

「何故そう思う。社会人として経済の一端を担い、汗を流すことも自衛軍の任務と同様に尊いものだ。少なくともわたしはそう感じているし、今は亡きわたしの教官からも言われたことがある。君はそうは思わないのか?」

「厳密に言えば、そういう価値観もあるとは思います。けれど、わたしにはそうは思えないのです。やはり、自衛軍で戦うことのほうが意義深く感じられてしまう」

「いいや、違うな」彼はぴしゃりと言った。「当てて見せよう。ただ単純に、君の兄が上手くいきすぎていたからだ。自衛軍へ入隊し、多くの苦労を、君は家族として見てきた。しかしその側面にある、彼の満足している部分にも触れていた。だからこそその後を追いたいだけなのだ、と」

 微かな逡巡の末に、歩美はありのままを答えることにした。完璧なきれいごとよりも、真実を好む公明正大さが彼にはあったし、そうすべきだと感じた。

「そうかもしれません。正直に言えば――そのような確信はありませんが――薄らとした自覚はあります。思い返せば、兄が自衛軍となって愚痴をこぼすことはあっても、それは『入隊しなければよかった』とか、『あんなところ辞めてやる』とか、そういった組織に対するものではありませんでした。常に理不尽な現実に相対し、ガス抜きのために愚痴を言っていたに過ぎません。そこから逃れようとすることはありませんでした」

「妹は、兄をよく見ているな」

 洋一が咳払いすると、有沢は微かに口角を上げて微笑んだ。すぐに無表情に戻った彼へ、兄の動揺を隠すように歩美は問うた。

「有沢一尉、よろしいですか」

「許可する。言ってみろ」

「わたしの動機は不純でしょうか? 自分が充実したい、”自分が安心したいから誰かのために戦いたい”というのは、とても矛盾を孕んだものに思えます」

「その疑問は若すぎる」ばっさりと切って捨てたかと思うと、「しかし、的確だ。いうまでもないことだが、我々自衛軍は日本という国家のために戦うことを大義としており、そのために存在する。アフリカに在ってもそれは変わらん。最終的には日本の国益に適うかどうかが、戦いの根底に大きく関与している。だがそれは組織としての体裁だ。大きな暴力を実行するには、それなりに確かな理由が必要で、尚且つ、万人が納得し得るものでなければならない。あるいは、実際に戦場に赴く兵士が、だ」

「ということは、わたしは異端なのですね」

「言っただろう、的確だと。これは断言できるが、実際に銃を手に取って前線で戦う兵士達の中で、本当に愛国心を持って身を捧げている人間は多くはない。むしろ職業軍人にとっては圧倒的な少数派マイノリティといえるだろう。国のために存在する組織の一員でありながら、そんなものは二の次にしている訳だ」

「なぜですか。民主国家の軍隊は国民のためにあるのでは?」

 口にしてから、教科書通りの質問しかできていない自分を恥じた。赤くなった顔が薄暗闇に紛れて見えなくなっていればいいのだが。

 今回は相手が悪かったということだろう。有沢は悪魔的な笑みを浮かべた。

「無知の知、だ。さて、では何のために我々兵士が戦っているのか。極論からいえば、兵士は兵士のために戦っている」

「国のためではないのですね。面と向かって、自衛官の方からそのように言われるとは思いませんでした」

「実情を言えば当たらずも遠からずといったところだ。戦いとは銃を撃つことではない。仲間を助けることであり、何かを守ることだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 仲間。魅力的な響きに満ちたこの言葉が、歩美の心を激しく揺らした。

 自分に仲間はいるだろうか。家族はいる。友達もだ。だが、仲間は、果たしていただろうか。自分の生涯で共に何かを成し遂げていく仲間を守る。

 命を賭けて守ることの誇り高さ。

「少し、曖昧な表現のような気がします。どんな人が仲間なのでしょうか」

「道理で分けられる問題じゃないのよ」東雲が横から口を挟んだ。「人と人は肌で分かたれているけれど、本質はそうじゃない。違う人間だけど、アフリカにいる限りは同じ人類としてこれ以上ないほどに意識できる。人間は味方、それ以外が敵。乱暴で大雑把な括りができるのは、世界広しといえど南極戦争の戦地のみ。だからこうした思想は、対ヘルフィヨトル戦に参画する兵士に特有のものなのかもしれないわね」

 大きく頷き、有沢は演壇に両手をついて身を乗り出した。

「ヘルフィヨトルの最初の五人は、少なくとも人間の形をしている。しかし実態の多くは不明だ。わかっているのは、奴らは敵で、人類は味方ということだけ。君の兄である洋一がマルサビットで直に顔を合わせ、彼ら特有の思考や概念を保有していることは確認された。が、では最初の五人とは何なのかという問いに対して明快な解答を持つ者はいない。当事者である日計、お前自身でさえもだ。そうだな?」

「はい、一尉」洋一は短く、しかしはっきりとした返事を返した。

「なればこそ、奴らと人間の違いが必要になるのだ。望むと望まざるとに関わらず、どこからが敵でどこからが味方なのかがわからねば、矛先も定まらん。これは東雲の言った通りで、それが最も重要なのだ」

 疑問を挟まずにはいられない。同じ人間でも肌の色が違うし、物の考え方や信じるものや人格までもが異なる生き物だ。ヒト亜族であっても各々が持つ人生観や経験は何物にも代えがたい、明確で確固たる線引きを個々人の間にする。個性は尊重されるべきであり、その中には人種や思想も含まれる。共通項よりも僅かな差異を持ちだして他者を貶める愚かしさだけが目立っているだろう。

 つまり、同じでも違うということだ。

 他人が自分とは違うなんてことは、小学校で学ぶことだ。自分の意思が通じない、まったく別の意志の存在に心を砕かれ、初めて人は痛みを知る。そして争いは敵愾心に火を点け、炎はいつしか燃え広がっていくもの。それが常識ではないか。

 だからこそ、その一事は大きな意味を持つのだと、有沢は言ったのではないだろうか。人間であれば味方足り得るのだと。確かにそうかもしれない。少なくとも、ヘルフィヨトルは人類すべてを敵視しているのだから、敵の敵は味方という構図が成立することもあるだろう。まかり間違ったら、無人兵器でさえ味方といえる日が来るかもしれない。仲間と信じ続けていれば、いつか理解し合える。肩を組める。人類はそれほど愚かではない。

 無邪気に信じられたらどれほど美しいことだろうか、その信念は。

 あまりにも愚直で、あまりにも純真すぎる心。混じり気のない意志は鍛えられた鋼の如く、有沢から、この場にいる中隊員から、兄の背中から立ち上っているのがわかる。

 惰弱な理想に、「その通りだ」と心の底から叫んでいる男女がいる。それこそが、「折れない剣」の姿。

 自分はこんな風になれるだろうか、と自問せずにはいられなかった。あくまで現実的な視点から、歩美は彼らを見つめた。彼らに飲まれては、正確な判断など下せないだろう。自らの心を持っていなければ、アフリカでの生活をやっていくことはできない。

 どうしても抱かざるを得ない疑問を、歩美はぶつけることにした。

「仮に、人類が内輪揉めを続けてヘルフィヨトルに負ける日が来たとしても、それでも、人類を仲間と呼ぶことができるでしょうか?」

「できる」

 有沢は即答した。それだけで救われた気になるのだから、地球の裏側へ来た甲斐があるというものだ。

「わたしは神信者ではないから、信じれば救われる、願いが届くと無責任な希望を押し付ける意志は毛頭ない。何故なら、希望とは与えられるものではなく、各々が持つべきものだからだ。だからこそ抱かせるのは難しいのだが、その強さはどのような悪意にも挫けることはないだろう」

「叶わない希望ほど、残酷なものも無いと思います。『折れない剣』が人類の希望になれるのだとしても」

 その言葉を待っていたのだと、会心の笑みを口の端に閃かせて有沢は言い放った。

「人が人の希望になるなどというのは、思い上がりだ。人は自ら輝くことはできない。だが、希望という概念が放つ光を跳ね返して、誰かを照らすことはできる。我々はそのための道具にすぎない」

 さて、と彼は花園へ頷きかけた。彼女がリモコンを操作すると、今まで青一色だったスクリーン画面に、ある戦術図が表示された。

 一見して、現在進行中のリアルタイム画像であることが見て取れた。作戦経過時間は二〇四八年二月三日一○四四時――現在の時間と同じものだ。いくつものアイコンが一秒おきに位置を変え、赤く染め上げられた一角へ向けて何かをしている。

 歩美は青ざめた表情で、兄を振り返った。

「これ、なに?」

 洋一はスクリーンから目を離さずに答えた。暗い室内で、プロジェクターの投げる光がぼんやりと彼の横顔を照らしていた。

「『リーオン作戦』だ。これから、イギリス陸軍第二十師団が敵主力部隊を陽動攻撃し、人類にとって有利な戦場へ誘導する。敵は三万以上の兵力で布陣している。見るからにわかる長方形の方陣で、攻防共に有利な隊形だな。投影されているこれは、作戦状況の実況中継だ」

「そうじゃなくって! どうしてこんなものをわたしに見せるの?」

「他でもない、お前のために見せるんだ」

 洋一は椅子の上で身をよじり、恐ろしいほど静かな瞳で妹を見つめた。暗がりであっても、その目に浮かぶ冷たい煌めきに戦慄せざるを得ない。

「歩美、これがお前が飛び込もうとしている世界だ。日本に住む人々が想像することもできない、本当の地獄ってやつさ。実地体験させることはもちろんできないが、ぼくたちがその一端を見せてやる」

 絶句したままの歩美へ向け、洋一は重々しく告げた。

「だから、考えるんだ。よく考えろ、歩美。まだ時間はたっぷりある。お前は後悔するべきじゃない。お前自身のためにも、お前を大切に思う誰かのためにも」

 何も言えず、日計歩美は躍動するアイコンの群れを投影したスクリーンを睨み付けた。一秒たりとも、見逃すわけにはいかない。

 それは、命の時間なのだ。

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