第三十七話

 格納庫にある情報保全隊詰所内で一人の男が、指定席である何の変哲もないパイプ椅子に座っていた。彼の目の前には数多の封筒が山を為しており、そのひとつひとつを丁寧に検分していく。封筒の中に病原菌のひとつでも付着していようものなら燃やしてしまうのではないかと思えるほどに厳しい眼差しだった。

 味気ない便箋のひとつを封筒に戻しながら、許可印と共に封を閉じる。机の上に置かれている「済」と油性ペンで書かれたボックスへ抛り込む。もう何度繰り返したかわからない所作を精密機械の如く行う男の指先はしかし、その正確さに似つかわしくなく微かに震えていた。

 隊員からの手紙を受け取る彼らの家族は、この封をした人間が自分であることを知らずに内容を読むのだろう。無味乾燥とした封筒の山に目をやりながら、長年の軍務で感じてきた虚しさが幾度目かに鎌首をもたげた。

 言葉とは、タイムマシンだ。どれほど単純で質素なものであろうと、載せられた言葉と想いは色褪せることはない。空気を伝わってどこかへ消えてしまうと信じているのは悲観主義者だけだ。言葉はあらゆる媒体――人間にでさえも――宿る。しかし完全ではない。そして不完全であるからこそ、言葉は己の不備を補完する。人間は孤独だと哲学者たちは苦悩の表情と共に語るが、言葉は互いの心の距離を縮める。ゼロにはならないかもしれない。触れられないかもしれない。だが言葉を使うしか選択肢が無い。誰かと何かを伝えあうのならば。

 矛盾を孕んだ立場であっても、彼はその確信をいささかも揺らがせることは無かった。他人の心の内を透かし見るようなこの行いは職務であり、彼自身が人のプライバシーというものを軽視することと決して等号で結ばれることはない。

 今日も暑い。陽の暮れた詰所で、自衛官が家族へしたためた手紙を全て検閲していくのには骨が折れる。何しろ量が多いしつまるところが覗き見だ。地球の裏側にいれば誰でも家族が恋しくなるというものだろう。いつ死ぬとも限らぬ激戦地では尚更、隊員達の心の声が如実に便箋へと浮彫になって見えていた。誰かが複雑な心境を余すことなく書き記したものを、必要ならば黒い線で塗りつぶしていく仕事。長い間この仕事を続けてきた。何よりも彼らのためにと思い込むのは偽善だろうか。中には部隊指揮官が戦死した隊員の家族へ宛てたものも含まれていた。身体的疲労とは別の重たい何かが埃のように心の表層に降り積もっていくのを感じ、彼は何度目かの溜息を吐いた。

 自衛軍では機密性の高い部隊と同伴・随行する部隊などの区分けもなく、PGTAS技術漏洩を防ぐために隊員への検閲は徹底されている。現在までのところ、黒線で塗りつぶすことは何度かあったが、意図的な機密漏洩に当たるものは喜ばしいことに見つけていない。仮に軍規に違反しても、厳しい処罰は国へ送還されてから下される。ようやく故郷へ帰れるかと思いきや、英雄ではなく犯罪者として扱われるのは忍びない。

 情報保全隊員を始めとするカウンターインテリジェンスの任務は即ち、国益を守ることにある。国防機密はそのまま重要な国家秘匿情報だ。知られてしまえば現場の人間が厳しい状況で命のやり取りをすることになりかねない。

 防諜部隊である情保の指揮官である神崎敏夫三等陸佐が特に気を配っているのが、第七PG中隊のドライバーと整備員の身辺についてだ。

 紫雲の管理だけでも骨が折れる彼らに対し、保全隊員たちはかなり気を立てていた。何しろマスメディアによるパパラッチや、先進各国から遣わされる工作員とは水面下で激しい駆け引きをする日常である。ほとんどは彼らと、彼らの駆る唯一の第三世代PGTAS、紫雲に絡む。世界は本気であの期待の秘密を解明しようと試みている。いち部隊にどれだけの労力を費やしているのか、想像を絶する圧力と権謀術数を相手にしているのだ。

 しかし隊員達は衝突することもなければ不満を言わない。なぜなら、彼らの矛先は自らへ向けられている。隊員達が抱く自戒を紐解くのならば、こうだ。

 共に戦う仲間たちの私生活を覗き、自分達は後方の安全な基地で、国連から派遣される諜報員や工作員を相手に仕事をしなければならない。それは無人兵器群を相手に胸を張って戦う兵士とはまったく異なる。人間相手の濡れ仕事だ。こんなことのために自衛軍へ入隊したのではないと燻る者が大勢いたが、そのような純真で熱意のある人間にしかこの仕事が務まらないのもまた事実だ。

 彼らを束ねる神崎とて、抱えるジレンマに首を傾げることは一度や二度ではなかった。彼の場合は部下の存在が、毅然とした態度で職務に邁進し続ける動機として存在している。部下よりも自分を後押しし、律する要因があるに過ぎない。そうした職務に対する責任を抜きにして、情報保全隊を構成する多くの隊員にとって、味方から違反者を炙り出すことに生きがいを感じている人間はごく少数だ。少なくとも、神崎はそうした隊員を歓迎していない。使命感は構わないが、悦に浸るのは下衆というものだ。

 後ろ指を指される仕事であるからこそ、プロとして毅然とした姿勢で臨む高潔な精神が要求される。第七PG中隊のひとり、日計洋一三等陸尉の手紙を検閲し終えた彼は、普段はあまり考えないようにしている手紙の内容について思いを馳せた。

(妹をナイロビ基地へ、か。ぞっとしないな)

 近々、大規模な反攻作戦が実施される予定だと聞く。この時期に民間人を招くのはかなり危険な行為だ。本来ならば許可など下りよう筈もないし、人命を重んじるのならばありえない選択肢である。

 だというのに真剣に検討し始めている自分に気付き、どうしたものかと神崎は生真面目に考え込んでしまうのだった。

 アフリカ派遣戦闘群に参画している自衛官たちは、故郷から遠い彼の地にありながらも、黙々と任務を遂行し続けている。それは遠いからこそだ。これが日本を舞台にした一大決戦とあれば、誰しもが不安で眠れぬ日々を過ごす羽目になるだろう。銃を手に取ったとしても、力みすぎて的を外してしまうに違いない。自分達が危険な任務を背負うことで、家族や友人を守れるのなら。そう考える兵士が大半だ。

 日計の妹がナイロビへ来るのは、彼の戦闘行動に支障を出しかねない。紫雲は蒼天と違い、一朝一夕に調達できる装備ではないし、ドライバーにも先天性の強い特別な選定方式があると聞く。ここで迂闊に損耗を重ねるのは得策とはいえなかった。

 常に天秤としてどちらかへ傾いてきた。しかしこの問題について柄にもなく、神崎は非常に迷っていた。

 あくまで個人的な見解を述べるならば、日計をここに呼びつけて何かしらの助言をしてやりたかった。彼にとっては、機密情報の塊ともいえる彼らが他国の工作員に拉致されないよう、気付かれない形での護衛を行っている状況である。ここは戦場なので戦時国際法の上では軍人は軍服を着用しなければならない。そのために情保の隊員は濃紺の制服に身を包んでいる。この措置はいざというときに戦闘服姿となった場合、容易に周囲へ溶け込むことも狙うと同時に、制服着用時には防諜部隊が目を光らせていることを周囲に知らしめる効果もあった。良くも悪くも、情保隊員は紺色の服を着るという擦り込みが為されているわけだ。これは人混みに紛れて誰かの身辺警護をしたり、格納庫周辺を自動小銃を担いで巡回する際に非常に役立った。

 椅子の上で腕を組み、窓ガラスの奥に見える紫雲を睨み付けるのが、思索に深ける彼の癖だった。そんな中、むっとした空気を肩で切りながらひとりの青年が詰所を訪れる。簡易なプレハブの扉は開きっぱなしで、扇風機が唸りを上げながら一度でも室内の気温を下げようと無駄な努力を続けていた。

「神崎三佐。ここにおられましたか」

 思考の迷宮から戻って入り口を見やる彼の目に、まだ若い男性隊員が敬礼しているのが目に入った。几帳面な答礼をしながら、彼は封筒を机の上に置いた。

「澤村か。柏木はどうした」

「格納庫周辺を阿部と一緒に回ってます。もう一回りしたら戻ってくるでしょう。ついでに報告しておきますと、定期巡回において特に目立った異常は見られませんでした。PGTAS情報開示からこっち、工作員の影は霧散したように思えます」

 これまでは紫雲の情報を掠め取ろうと、自衛軍の間借するPGTAS格納庫にはありとあらゆる情報工作機器が仕込まれていた。それらを見つけて処分し、所有者の調査と洗浄処理を行うのも彼らの仕事である。同時に、生身の人間が格納庫内の情報を掠め取ろうと隙を窺ってもいた。これまでは巡回するごとに不審な人影を見つけることがほぼ通例になっていたが、ここにきて澤村は異常なしと報告する。その理由は彼が口にした通りだ。

「彼らとしては行動目的がなくなったのだろう。情報開示は正当な外交筋を経て譲渡されるものだから、こんなアフリカの僻地で覗き見したものよりもよほど信憑性が高いものだ」そこで神崎は思いつき、「待てよ、そういえば……ちょうどいい、座れ」

「はっ。失礼いたします」

 情報保全隊の中でも最年少なのが、澤村と柏木だ。二人とも二十三歳。アフリカ派遣戦闘群の中で最も年齢が低いのは、意外にも第七PG中隊の日計、鷺澤だが、数歳の差を挟んだ若者の比率は自衛軍内でも比較的多い。勿論、背景には南極戦争へ備えた軍備増強がある。

 澤村はお調子者の柏木を嗜めるブレーキ役だ。若いのに妙に落ち着いている性格が目に留まり、調べてみればジャカルタ事件で家族を亡くしている一人だった。そのせいか、マルサビットで日計洋一の警護を買って出た経緯を持つ。歳も近く同じような悲劇を背負う彼からなら、いい助言を聞けるかもしれない。

「茶でも飲むか? もらいものだが、こいつがなかなかどうして美味いのだ」

「是非、いただきます。もう喉がからからで」

 近くのマグカップに、冷蔵庫から取り出したペットボトルの烏龍茶を置く。中を覗いた澤村は目を丸くした。いつも沈着な彼らしくもない感情の露見に、神崎は一入の感慨を抱いた。

「どうしたんですか、そんな量の烏龍茶。尋常な量じゃないですね」

「ああ、これか。昼間に東雲二尉が持って来てな。皆で分けろと言って置いて行った」

 何度か瞬きを繰り返して神崎の言葉を咀嚼した澤村は、几帳面に首を傾げた。

「一体全体、どうしてそのようなことに?」

「こんなプレハブの中では熱中症になってしまう、というのが彼女の言い分だ」

「フム、なるほど」澤村は顎を抑えて考え込み、「時折、自分達のほうでも話題に上がるのですが。なぜ東雲二尉は結婚できないのでしょう? あれだけお綺麗で優しい女性が独り身を貫くのはなかなか厳しいのでは。三佐はなにか、特殊な事情などをご存知で?」

「馬鹿をいえ。女性のプライベートまで詮索する権限は与えられておらん」

 お互いに薄い笑みを口元に閃かせると、神崎は開けたペットボトルから直接、口に烏龍茶を含んだ。

「ところでな。少し貴様に聞きたいことがある。隊員のプライベートに踏み込むかもしれん。嫌なら答えずともいいが、どうする」

「答えはイエスですが、当てて見せましょう。日計三尉についてですね」

 ほう、と明らかな驚きを込めて声を漏らす神崎を、澤村は興味深そうに見つめている。

「察しが良いな、その通りだ。なぜわかった?」

「彼は先日、体調不良で倒れています。その原因については様々な憶測が流れているようですが、自分としてはアフリカへ来てからの疲労が重なり、それが表出しただけかと考えています。身辺警護官としてマルサビットでは三尉の警護を行っておりましたから、その経験からなにがしかを問われるのではと」

「悪くないが、違うな。彼の不調は聞き及んではいるが、お前を呼んだのはまったく別件だ。日計三尉についてのことであるのは間違いないのだが」

「そうですか。それで、ご用件とは?」

 あっけらかんとした彼の受け答えに神崎は苦笑いした。

「日計三尉の妹が自衛軍への入隊を逡巡しているらしい。わたしは日計三尉のプロファイルは目を通しているが、どうも妹も兄に似てしたたかな性格のようだ。悪くは思わんが彼と同じように頑固者のようだな。その妹が自衛官になりたりと騒いで、近々こっちへ来たいと言い出した。三尉はこれを阻止しようと妹の説得に骨を折っている」

 机の上の便箋の山から日計洋一のひとつを取り出し、神崎は顎をしゃくってそれを示した。

「この件に関して、わたしは彼に助言をするか迷っている。そのわたしも彼についてよく知っている訳ではない。そこで実際に言葉を交えた君ならば、と考えたんだ」

「なるほど。いくつか疑問はありますが、まず、なぜ隊員のプライベートにそこまで踏み込みなさるのでしょう。お聞きしてもよろしいでしょうか、三佐?」

 さして慌てる風でもなく、神崎はペットボトルを机の上に置いた。

 彼自身、どう答えればいいのかが咄嗟にわからなかった。そもそもが、日計を気にかける自身の感情にさえ戸惑っているのだ。それは言葉にできようはずもない、口に出してしまっては先なきことだ。

 だから、ここはありきたりな言葉で流すことにした。

「世界で唯一の第三世代機、そのドライバーが心身ともに健康であることに越したことはない。それらについて報告をする義務がわたしにはある。彼の妹の一件は、彼の精神を挫いた一因かもしれん。調査をする必要を感じている、それだけだ」

「わたしは、三佐、あなたが個人的な興味関心で日計三尉に注目しているのではないかと危惧しているのです。僭越ながら、ただの職務以上に彼を注視しているのではないかと気が気でありません。諜報、防諜に限らず、情報保全隊員に私情を挟む余地はありません」

「職権乱用をして、わたしが隊員の個人の事情まで踏み込もうとしているだけだと言いたいのか」

「職権乱用ではありません、それはもう越権行為です。お聞き苦しいこととは存じますが、諫言いたします」

 本来ならば上官への不遜な態度に一喝している所ではあるが、澤村は決して愚かな男ではない。若者らしい暴走しがちな価値観からはほど遠い為人だ。家族を亡くした者に特有の、現実を客観的に捉えようとする冷たい物の見方。神崎はそのすべてを許容していた。勿論、彼は前線に配置換えを出す程度にはここでの仕事に殉じ切ってはいない。いずれ叶うと返事をし続けて今日まで使ってきた。いずれ彼の身を滅ぼすことになろうとも、この青年の昏い復讐の念を理解すればこそ、こうしてアフリカまで抜擢せしめたのだから。

 日計洋一がストレス性の自律神経失調で気を失ったことは、情報保全隊の中ですぐに情報が共有された。ベイカーという軍属の医師に連絡を取り、詳細な症状についても聞いている。神崎の言った通り、紫雲のドライバーはその安否が気遣われるべきであるからだ。有体に言えば、アフリカ派遣戦闘群に同行している情報保全隊は、最も第七PG中隊を思いやっている部隊でもあった。

 そうした彼らをして、二〇四八年は激動の年だ。一月七日には国籍除法の抹消された工作員が紫雲の暗幕内に侵入、再三の警告の末にさらに接近を試みたためにやむなく射殺した。懐にはありふれた型式で、どこで生産されたかもわからない中国製のものを複製した拳銃があったが、弾倉はひとつしかなく、何がしかの脅迫の元に日本国へ揺さぶりをかけるために派遣された政治工作員であることは容易に想像できた。

 こうしたことから日本国に対する圧力はあらゆる面で高まっていたが、先日のPGTAS技術の開示によって、日本をめぐる安全保障理事会を始めとした先進各国との政治摩擦はかなり軽減された。その背景には、日本国が他国のPGTAS技術向上に伴って自国配備機の改修目途が立ったことがある。他国が性能を向上させても、まだ一日の長は譲らないということだ。

 当然の成り行きながら、各国はこの動きを即座に察知した。しかし日本と肩を並べずとも、他の国々との間で「第二の日本」となるべく、国際開発競争が水面下で激化させている。これまでもドイツ、アメリカ、日本の間でPGTASの開発競争関係はあったものの、技術の伸び悩みで停滞していたのが実情であり、先進各国の技術開発はほとんど頭打ちになっているとみていい。日本の知見があまりにも進みすぎていたのだ。ここへ欧州連合を加えて新たなスタートを切った開発競争は、今後どのように展開していくのか。誰にも予想はできず、その様相は冷戦期の兵器開発競争をも凌ぐものになるだろう。

 そこへきての、日計の体調不良である。第三世代機のドライバーが倒れたことが、情報保全隊に情勢が新たな局面を迎えたことを悟らせた。

「日計洋一三等陸尉が倒れたことについては、第三国の関与を完全に否定することは能わず」

 極論、彼の不調が他国の妨害工作ではないと断定できるだけの根拠が見つけられなかったのだ。この兵舎、ナイロビ基地の全兵士が容疑者だとしても過言ではない。神崎は報告書にそう記した。アフリカ派遣戦闘群に同行している情報保全隊は警戒レベルをまたひとつ引き上げることとなった。

 敵の諜報対象が、マルサビットの一件を受けて紫雲そのものからドライバーへと移ったとして行動指針の策定が行われた。

 だからこそ日計の身辺のみならず、第七PG中隊については情保そのものがさらなる情報を共有すべきだった。神崎はそう結論付けて、澤村へ向かって居住まいを正した。

「わたしはいつでも職務に忠実だよ、一等陸士。君と同じように、我々は日本国自衛軍に所属するいち自衛官であって、それは個人へ向けられるべき武力や権力ではない」

「はい、三佐」澤村は愛想を崩すこともなく頷いた。

「それで」神崎は続けた。「最近の日計三尉をどう見る。君の言葉でいい。聞かせてくれないか」

 しばし迷った末に、澤村は折れた。パイプ椅子の背もたれに体を預けると、疲れているのだろう、両目を手で擦る。

「はい、三佐。年が明けてからですが、三尉は疲れています。無論、彼だけではありませんが。戦闘群の誰しもが極度の疲労により異常をきたしつつあります。特に日計三尉は打ちのめされているように見受けられました。事実、そうでしょう」

「ブラック・ニューイヤーでギガスと戦ったことも尾を引きずっているだろうか。それともマルサビットか?」

「何よりも決定的だったのはマルサビットでの一件であったと、自分は考えます。敵からの殺意を受けるのは兵士として当然ですが、味方からの悪意は彼の認識の外であったに違いありません。また、彼は疲れているものの、その原因は己の内に何かを見出している、または見失っているからではないか、とも考えます」

「マルサビットの件は、彼の苦悩とは無関係ではなさそうだな。彼自身、一度は群内で普通科連隊の兵士と不祥事を起こしている。自身の行為と他人の評価が必ずしも釣り合うものではないと、身に染みて理解している筈だ。彼は賢いから、貴様の言うようなことはないだろう。わたし個人の感触としてもそう信じるだけの根拠がある」

 神崎は、澤村が日計を愚か者と言っているのだろうかと勘繰った。早くに悲劇に見舞われた若者にありがちな、錯覚の入り混じった達観の為せる技なのではないか、と。だとすればそれは不遜極まりないことだが、澤村の次の一言で神崎の疑念はどこかへと吹き飛んだ。

「それは違います。我々は自衛軍です、三佐。日計三尉は自らが『横浜の英雄』、『九十九里の折れない剣』などと奉られても有頂天にはならず、”海を超えれば日本のPGTAS技術独占姿勢の象徴”としてしか見られないと認識していたと、小官は思量します」

「どういう意味だ? 詳らかに話してくれ、澤村。君には言葉があるだろう。じゅうぶんな情報量を付与するには、言葉を重ねるしかない」

「自分は個人的に日計三尉に興味がありますから、よくわかるのです。国内では疎まれ、ここアフリカでは活躍次第で受け入れてもらえる、そう、ビシルのように。三尉はそう考えていたことでしょう。日本よりは受け入れられやすい、何しろ世界のために最先端の戦力を動員するのだから。自然にそう感じても不思議ではありません」

「彼からしてみれば期待を裏切られただけでなく、屈辱さえも受けたということか。ともすれば、日計三尉が海を超えて戦いに臨むことに疑問を挟む危険もある、と」

 澤村は頷く。さらに彼は、だからこそ参謀本部でギガスの撃破による勲章授与を受けた際、反日勢力に露骨な妨害を受けたことが予想外だったのだろうとさえ述べた。日本と世界で認識が違うのは当然だ。一方でどこに行っても人間は人間でしかない。どれほど人生を積もうが若者でしかない彼の不覚であったのではないか、と。

 崇高なもののためにアフリカの土を踏んだというのに、何処へ行ってもしがらみや政治情勢が人間の醜い一面を露呈させてきた。理想主義で高潔な精神を持つ日計洋一が、その現実に打ちのめされたことは、確かに想像に難くない。

 責められるべきではない。仕方のないことだったのだから。他人の思惑とは裏腹に当人の中では勝手な感情が芽生えるのが世の常である。

「そう言う君も、若いというにも若すぎるほどだろう。違うか、澤村。君の過去については、僭越ながら知っている。詮索はせん。だが驕っている部分があることは自覚するべきだ」

「自分は、三佐、自身がよくできた人間とも思っていませんし、他人と比べてみるべきところのある誰かであるとも感じてはいません」

「日計洋一もそう言うだろうよ。有り様は容易に想像できる」

 俯き、マグカップの縁を見つめながら、澤村は呟いた。

「そう……かもしれません。わたし自身意識はしていませんが、それこそ三佐の仰る通り、日計三尉も同じであると言えるでしょう」

 持ち上げかけたペットボトルを下ろして、澤村は床の一点を見つめて何かを考え始めた。こうなった時の彼の口からは、決まって有用な指摘が飛び出すことを神崎は知っていた。辛抱強く彼が考えをまとめるのを待っていると、やがて彼は口を開いた。

「いや、つまり……三佐、わたしが言いたいのはこうです。むしろ日計三尉は、自覚したからこそ神経失調を起こしたのではないでしょうか。自分がどれだけ何も知らず、奢っていたかを痛感した。そこに疲労が重なれば、今回のような事態に陥った説明がつきます」

 腕を組んだまま、神崎は澤村の言葉を吟味した。

「その想像は当たらずとも遠からずというところだろうな。だが、彼が疲れていることは同意見だ。論ずるべき可能性はまだ残ってはいるがね。これはあまり深い問いかけではないのだが、彼が倒れたのは第三国の仕業だと思うか?」

 澤村は口角を少し上げた。酷薄な笑みだった。

「このようなお話をなさっているのですから、あなた自身は毛ほどもそう考えてはいないのでしょう?」

「結論から言えばな」神崎は烏龍茶を大きく煽った。「こんな事態を見越して警護を付けていたというのが、最も強い理由だ」

「ですが、他にもその主張を裏付ける状況証拠が散りばめられています」

「その通りだ。実機性能や運用データを得るためには、彼らとしては紫雲に動いてもらわねばならないだろう。第三世代PGTASのドライバー育成は一朝一夕に訓練でどうにかなるものではないと聞いている。どうやら先天的な才能で左右されるものらしい。四機の紫雲は戦術データリンクで戦場で繋がれているだろう、その情報だけでも欲しいようだな」

「第七PG中隊には勝ち続けてもらわなければならないということですね。そうなれば、第三国としてはむしろ三尉を守る側へ向かわなければならない。もちろん、政治的判断というものが介入した可能性も否定できませんが」

「そういうことだ。参謀本部が次回の大規模作戦で紫雲をどのように位置づけるのかはまだわからん。存外にてこずっているのかもしれんな。情報を欲しがる一派の存在が比重として重いものにならざるを得んだろう」

「機密情報として問題はないのでしょうか。第三世代機の稼働情報など、それこそ国防にとって重要極まりないものではないですか」

「わたしも気になって、整備兵に聞いたことがある。日向特技下士官から言わせれば、そんなものを取ったところでどうにもならんとさ。各駆動系の性能数値は出されるだろうが、その下支えとなる技術の蓄積は結果から導かれるものではない。『これだけの強度・性能があれば同じ動作ができる』と目標値を設定できるのが関の山で、ではそこに至るまでにどうすればよいかという道筋が不明のままでは意味が無い、と」

「なるほど。ですが、三尉を害して得をする派閥や勢力が存在するのは今も事実です。極端な話、ヘルフィヨトルがそれを望めば――」

 青年は言葉を飲み込み、ばつが悪そうに顔を顰めた。誤魔化すように烏龍茶を口に含み、必要以上の時間をかけて飲み込んだ。

 紫雲は人類にとって諸刃の剣。これを排除するためならば敵とでも手を組む集団がいる。国連軍は必ずしも一枚岩ではない。それはマルサビットで証明されてしまったではないか。

 そう言いかけて澤村は口を閉じたのだろうと、神崎はその心を読み取った。何のことは無い、神崎も同じ考えを持っているからだ。だからこそ何も言わずに、ただ黙ってペットボトルを再び手に取った。誰にも聞かれていないとはいえ、同じ人類を疑うことはそれだけで利敵行為だ。疑心暗鬼は心を蝕む。目の前に巨人がいたとしても、背中からナイフを突き立てられるとなれば地獄だ。

 しばらくの沈黙の後で、澤村がぽつりぽつりと話し始めた。

「マルサビットの件ですが……わたしには、いつまで経っても人間を理解することができないのではないか、そう感じてしまいました。今こそ、人と人とが手を取り合ってあの黒い奴らを蹴散らすべきなのに、現状は足を引っ張り合うどころか、命すら狙い合っている始末だ。虎視眈々と蓄えられる準備は、人間に対してのものが大半です。三佐、いったい人間われわれは何をしているのでしょうか?」

 若者の真摯で切実な問いかけに、神崎は居住まいを正した。幸か不幸か、彼はその問いに対する回答を用意していた。

「いいか、澤村。人間が人間を理解できると夢想するなど傲慢でしかないと、わたしは思う。人がこの頭で一生の内に理解できるのは、所詮、その行為の意味や感情の理由だけだ。なぜ我々は戦うのか。なぜ愛情や憎悪が生まれるのか。人間が人間を理解した時、全ては言葉で言い表される記号としての意味しか持たなくなるだろう。その時こそ、我々は滅びる。わからぬからこそ意味があるのだ」

「わからないことが尊いと仰りたいのですか。それこそ本末転倒だ……決して解き明かされることのない謎は、ただの悪意です」

「確かにそうかもしれん。だが、貴様の得たい回答が即物的な価値観の元に判断されるのならばどうだろうか。価値とはつまり、自分が及ばないものの尺度で語られるものだ。手が届かないからこそ価値がある。違うか?」

 澤村は手の中にあるペットボトルへと視線を落としてしばらく考え込んでいたが、やがて途方に暮れたようにプレハブの外に見える紫雲を見やった。

 純白の装甲板が、アーク灯の眩しい灯りを反射している。だからどうした、何を小さなことで悩んでいるのだと言わんばかりの輝きを、四体の彫像のような人型兵器が語り掛けてくるようだ。

 彼らからしてみれば、剣は剣である。それだけでいいのであって、存在意義やその先に待ち受ける結果を追い求めるのはナンセンスだ、ということなのだろうか。

 目を細め、澤村は呟いた。

「南極戦争に勝つことは、人類にとって大きな価値であると認識されているでしょう。だということは――」

 手が届かない。その事実がより一層、彼らの心を疲れさせた。





 後部格納庫から降りると、軽い嘔吐感に襲われて袖口で口元を押さえる。久方ぶりにティルトローター機でなく単発のヘリコプターに乗ったため、一発のエンジンによる動揺と傾いた飛行姿勢が意外に体にこたえる。それとも眠気を払うために、朝にコーヒーをがぶ飲みしたせいか。老いのせいもあるだろうが、認めたくない事実だ。克明に見て取れる事実を直視するには相応の精神が要求される。自身が条件を満たし、現実を目にしたとしても、その後にどう感じるかは当人次第だ。耐え忍んで歩き出すか、重みに膝をついて倒れ伏すか。重力と同じで、生まれた、或いは生まれる前から慣れ親しんだものでも心臓に突き立つナイフ足りえる。

 群馬県は赤城山の奥深い山中に、擬装網で覆われた発着場がある。赤外線を含むあらゆる電磁波を遮蔽し、人間の視覚に対して高度な擬装効果を持つ彩色で、一見してその一面が人工物であると認識することは不可能だ。厳重な擬装が施されている発着場を、衛星軌道を巡る監視衛星がいない空白の時間を狙って着陸したヘリは忙しなくローターを回し続けている。

 この場所をどこから隠すのかと言われれば、それはあらゆる政治的思惑に対して、だ。外見上の擬装の他にも、施設が利用するあらゆるインフラが隔絶されていた。赤城山の険しさとも相まって、正に陸の孤島と言って差し支えない環境が構築されており、政府の秘密施設――このような言葉を使うとは思わなかった――として運用するにじゅうぶんすぎる条件を備えていた。あくまでも人間の建造物であるために当然の好条件だが、これを誰にも知られずに事を為すための労力を考えれば不可能に近い。ある意味で偉業といえるが、その性質上、この技術が称賛を受けることはないだろう。そうなった時点で、この施設は失格なのだから。

 ローターからの下降風にスーツの裾がめくり上がる。乱れる髪を片手で押さえながら、見たことも無い制服に身を包んだ憲兵に誘導され、ぽっかりと開いた地下へと続くハッチの前に立つ。これには大きな意味があった。何しろ、防衛大臣である彼にとって見たことがないということは、およそ考え得る限り、日本国自衛軍の所属であることも確認が取れない事態であるからだ。管轄は国連だった、などと種明かしをされても驚いてはならない。

 深く続いている縦穴を見下ろすと、照明で照らされた細い管内に梯子がかかっているのが見て取れる。思わず憲兵を見やると、彼は鉄面皮を微塵も崩すことなく言った。

「どうぞ、お早く。時間が長引けば秘匿に問題が生じますので」

「しかしこいつはなんでも、スーツでは険しくないかね、君」

「たとえ総理大臣閣下であっても、この梯子で出入りしていただいております」

 つまりは、大滝史彦もここへ足を運んだことがあるということだろうか。それともこの兵士の比喩でしかないのだろうか。最早、思量するまでもない疑問を無視し、黒田幹久は意識して縦穴に視線を戻した。大きく息を吸い込んで吐き出すと同時に、最後の迷いを断ち切った。どうせ今さら後には退けぬのだ。この事案に誰が関わっているかなどは後で考えればいい。少しでもこの場所の情報を頭に叩き込むために努力をすべきだ。私企業の新入社員よろしくメモを取るわけにもいかないのだから。

 皮肉気に口元を歪めて、黒田は憲兵を振り返った。

「今さら文句など言わんさ、君のようにな」

「恐縮です」

 彼は慇懃に頭を下げた。そして下りるように身振りで促される。黒田はできる限り、周囲の景色を目に焼き付けてから梯子に手をかけた。

 予め言葉にはしない方法で情報伝達し、秘書官に追跡をさせたため、ここがおおよそ赤城山の近くであることは判明しているに違いない。詳らかな位置は彼にも知らされない徹底ぶりで、レーダーでなく目視による飛行経路確認が主な手段となるが、何もしないよりはましだ。

 そこで軽く催した吐き気の原因に思い当たる。ヘリ機内は窓に暗幕がかけられ、三半規管の平衡感覚と視界のずれでひどく酔ったのだ。

 改めて、黒田は頭の中にある施設の資料を思い出していた。

 元々、山奥に配備されている部隊や研究員が、間違いなく実在する自衛官や技官の名前で構成されていることにも違和感を覚えたのが端緒となった。草原敏夫から受け取った簡易名簿を現職または鬼籍に入った者とクロス検索をかけた結果、きな臭い事実が浮かび上がってきたのだ。

 黒田が”いる”と認識していた隊員が、実際に基地司令に掛け合ってみると”いない”ことになっている。その逆は有り得ず、幽霊のように誰もが存在していると信じているが、実際には顔を合わせたこともない人間がいた。つまりは、最高指揮官たる各幕僚監部の認識する人員と、各駐屯地を統括する司令との間で、把握している隊員の名簿に微妙な差異があり、さらにこれを目立たなくさせるような細工がいくつか施されていたのである。

 言うまでもなく、これは自衛軍の存続に関わる一大事である。有事の際、人員の所在確認から生命安否の情報が不確定であることは、徹底した指揮命令系統による組織的行動を旨とする軍組織にとって致命的だ。これを防ぐために徹底した人員管理を行うべきかとも考えたが、それも無駄かと考え直す。現在まで誰も気付かなかったのならば、把握しきれないほどの工作が水面下で行われているに違いない。対症療法は有効であるかもしれないが、常に後手に回らざるを得ない化かし合いに終始するのが落ちだ。。

 こればかりは組織の長である自分の手の及ぶところではない。黒田は歯がゆい思いと共に自らの敗北を認めた。

 一方で、仮に大滝がこの件に関与しているのならば、自分の出る幕はないだろうという確信もあった。何より、大滝は第四世代機の設計概案をまとめるよう自分に指示した。その瞬間に、自分はこの場所へ来ることになっていた、またはそのような想定がなされ、問題はないと判断されていたのだろう。恐らくは小林修一がその手引きをしたのだ。草原へと情報を流すことによって、意図的に自分はこの場所へ足を運ぶことになった。小林が「思ったより早い」などと電話口で口にしたのはその証左か。

 大滝の第四世代PGTAS開発の指示は後に受けた後発辞令であったことは明白で、そこには既に「第三世代PGTAS開発計画」が存在しており、稼働している機関があったというのがもっともらしい仮設か。準備の裏には思惑がある。そうなれば大滝と小林が、黒田をここへ誘導することを決めた引き金となった出来事がある筈だが、心当たりはあるようで無い。

 梯子を下りている途中から、明度が下がったように感じる。顔を上げると、先ほどの隊員がハッチを締めてハンドルを回し、密閉していた。まるで潜水艦だと黒田は思った。縦孔には遠ざかるヘリのくぐもったローター音が響き、途中にはLED灯がいくつかあるために手元に不安は無いが、これほど機密性の高い施設であるならば、知ってしまった自分の処遇も変わらざるを得ないだろうと黒田は腹を括った。

 ようやく地下に降り立ち、スーツの袖で額の汗を軽く拭うと、背中から懐かしい声がかけられた。

「ご足労おかけしました、黒田さん」

 振り返れば、そこには小林修一が不敵な笑みと共に立っていた。味気ないシャツの上にいつも通りの白衣を羽織り、ポケットに突っ込んでいた両手を引っこ抜いている。

 これまでにない違和感を感じ、思わず黒田は後じさりそうになった。足を踏ん張って堪え、振り返って小林と正面から相対する。

 以前までは清々しい好青年のように感じていた彼の瞳に宿る理知的な輝きが、殺風景な白い廊下の上ではぎらぎらと狂気とも思える輝きに変貌しているように見えたのだ。しかし見直せば、そこに立っているのは狂気に取りつかれた男ではなく、黒田の記憶にある通りの穏やかな一人の男に相違ない。奇妙な安堵を感じながら差し出してきた手をがっちりと握り返し、黒田も笑ってみせた。

「元気そうで何よりだ、修一君。それと、これくらいは何ともないぞ。腐っても軍人だった男だ。秘書にはよく車を使えと叱られとる。歩かねば錆びるというのにな」

「そうですか……そうでしたね。性急で申し訳ないのですが、お時間はいつまでよろしいのですか?」

「明日の夜に発てば大丈夫だ。秘書は連れてきておらんが、流石に時計くらいは見れるだろう?」

 冗談めかして言うと、小林は苦笑した。それほどまでに、この通廊には人いきれも何も感じられない。一人で残されれば、時間が止まったような錯覚さえ覚えるほどの静寂が満ちていた。

「社会に潜むあらゆる危険は、ここにはありません。警備体制は万全ですし、そもそもあなたは客人だ。無下にする理由など毛の頭ほどもありはしませんよ」

「そうだろうとも」

 彼は微かに表情を強張らせた。その素直な感情の露出に黒田は愛想を崩しかけた。小林修一という人物が変わっていないことに安堵したのである。だからといってここで頬を緩ませていたら、これまで温めた親交もふいにするところだったろう。この男は人間の機微を敏感に感じ取ることに長けていて、科学者でありながら人心を第一に考える思考をする。

 一方で、当初から抱いていた疑念が鎌首をもたげ始めた。防衛相である黒田にさえ一言も伝えなかった小林に対し、彼は普段の付き合いから自分が偽られていたのではないかと勘繰った。人間は誰でも他人には見せない一面を持つ二面性を保持している。社会の顔と自分の顔だ。人間は社会という枠組みの中で生活を執り行う。食事、睡眠、生殖、仕事……健全さは考慮しなくとも、行為の積み重ねである日が一日を作りだし、陽が落ちて昇ればまた一日が始まるというシステムの枠組みの中で営みが続く。そうして一年を乗り切り、次の十年を見据えるのだ。

 社会は生活を支える大きな柱であると同時に、周囲から隔絶させる壁でもある。人間は社会を通してしか、他人を見ることができない。たった一人、自分の未来だって描くことはできないだろう。どれほど嫌気のさす明日であろうとも、どれほど小さな人間関係であっても、他者の存在が自己の周囲に営みを作り出すという事実と、自身で形成し得る生活の狭間で意志を彷徨わせることとなる。不思議なことに個人の概念は依然として存在していた¥が、どれほど他人が多くとも、決して踏み込めない人間の内面性は無視できない。無意識に行われる心理的葛藤は、どんな人間でも抱き得るものだからだ。心とはその中で発生する化学反応的な衝動といえる。

 必然的に、人はふたつの顔を持つようになる。鏡の中から見つめ返す自分の顔が、必ずしも自分以外の誰かへ向けた表情と似通っていないのと同じだ。自分の意志は、必ずしも行動の全てを自覚できるわけではない。それでも意識しているのならば、どちらかが嘘となるわけだ。無意識から表出した、有意識の中で相手を欺こうとしてしまう。

「それで」黒田の思索を振り払うように小林は言い、「どうします。少し休憩なさいますか。ここまでは大変なフライトだったでしょう」

 最悪の乗り心地を思い出し、忘れかけていた吐気が胃の奥からせり上がってきた。

「あの妙なヘリコは、君の発案かね。並みの閣僚なら二度は吐いてるだろうな」

 苦々しい黒田の言葉に、小林は屈託のない笑みを浮かべた。

「わたしの下にいる機密保持監督官の発案です。彼女はこの施設を運営する副主任でもあります。それでは、まずはお部屋にご案内いたしましょう。どうやらお疲れのようですから、何か軽食でも用意させます」

「いや、平気だ。それよりも実機を見せてもらえるか。そこで詳しい話も聞きたい。もちろん、話してもらえるだろうな?」

「ええ、ある程度までは。そうでなければお呼びもしませんが、先に念押しさせていただきます。今日、ここで見たものを口外しないでください。必要最低限以上の人間へ情報を伝達した場合、拘束並びに更迭の処分が降ります。これは我々の独断ではなく、日本国行政により執行される処分となり、たとえ防衛相であるあなたでさえも免れることはありません」

 防衛大臣といえどもその対象になりうるのか。これは予想以上に大きな力が働いているらしい。もしかしたら日本国内からの圧力ではないのかもしれない。国連主導の計画であるかもしれない、という推測が一層色濃くなった。

「つまり、黙っていれば何も変わらないんだろう? 今まで通りに生活できるということだ。他の多くの秘密がそうであるように」

「そう解釈していただいても支障はないでしょう」

 監視がつくかどうか、それについては黒田は何も触れなかった。後々になって伝えられるだろう。今この場で自分の執務室へとんぼ返りし、「秘密の軍事工場を見た!」と騒いだところで変人扱いされるのはこの自分だ。何しろ、誰も見も知らぬ都市伝説めいた世田話にしかならないのだから。

 先ほどの隊員が梯子を滑り降りてきて背後に影のように付き従い、先頭に小林が立って歩き始めた。

 小奇麗な白衣に身を包んだ彼は、いくらか痩せて見えた。気迫や醸す雰囲気などは特に変わっていないように思える。少し胡散臭く思うのは、この場所を隠し、次世代PGTAS開発計画を隠されていた事実がそうさせているだけだ。彼自身は何も変わってはいない。そう信じようとしたが、いつの間にか疑心暗鬼に陥っている心理を自覚した。

 変わらない人間などいるのだろうか。自分とて、一介の自衛官であったころから大きく変わってしまった。変化していくのは自分だけでなく、時代や社会でさえもそうなのだ。不変が実在するならば、それは人間の魂や信念といった、形なき概念だろう。形が無いからこそ不変でいられる。不変ゆえに、形を必要としないのだ。

 殺風景な廊下を歩いていくと、やがてエレベーターに突き当たった。無骨な骨組みでかたどられたもので、よく工事現場などで使われるような代物だ。整備は良く行き届いているものの、ここ数年の年季ではないことに黒田は気が付く。

 小林が首から下げているタグを取り出してリーダーに翳す。がらがらとやかましい音を立てながら格子状をした扉が左右に身を引き、エレベーターの中に三人は乗り込む。あの憲兵がボタンを押下し、モーター駆動音が頭上から遠ざかって行った。音はうるさいが、箱の動きはなかなかに滑らかだ。よく手入れがされているらしい。

「潜るのか。何メートルくらいあるのかね?」

「深さ一五七メートルの位置に穴を掘り、空間を確保しています。立体容積は二万三千立方メートルあります。インフラ関係についてはお話できません、足が付くと困るので。ざっくりといえば、八百人が生活するには困らない設備が整っています」

「なんと、でかいな。こんなものが今までに建設されていたとは、素直に驚きを禁じ得ない。食糧や水はどうなっているんだ。外部搬入しかないだろう」

「色々と裏技がありますが、資金についてはご心配なさらず。防衛予算から振り分けている訳ではありませんし、予算表にない金が流れているわけでもありません」

「なに?」

「退職金ですよ。このご時世とはいえ、政治家が辞めれば何千万という金が動く。不思議なことに景気とはほとんど関係ない。尤も数十人規模でというのは無理です。適切な貯金をしていれば、金を受け取らずとも生活はできますので、その分をこちらに回してもらうんです。帳簿上は基金や個人に渡されたことになります。これが結構な額になりまして、運営費はそちらから拝借しているという次第です。他、あの手この手で集めています。膨大な額になりますが、建設費のあとはランニングコストしかかかりませんから」

「それだけで構築と運用ができるものだろうか。業者にだって守秘義務を課すことは難しいだろう。事は機密だ、そうした人員は?」

「装備さえあればどうとでもなります。黒田さん、これは献金問題や横領とは違います。国家の、いえ、人類の存亡がかかっているといっても過言ではない。そのような揚げ足取りで批難されるようにはなっていません」

 それから三人は黙りこくったまま、延々と続く箱と共に地下へ落ち込んでいった。

 響いてくるモーターの駆動音とワイヤーの擦れる音が、どこか不安を募らせる。このまま水の底に沈められて殺されるのではないか、というありえない想像すら働く程だった。

 そのまま一分は乗り込んでいただろうか。唐突に減速すると、エレベーターは最下層で停止した。扉が開き、目前には敬礼して出迎える二人の憲兵がいた。自動小銃ではなく、自衛軍では採用していない海外製のPDWを抱えている。コンパクトに銃床を折りたためるタイプで、ブルバップ式に伸びる弾倉の幅を見ると四五口径弾を使用するタイプのようだ。拳銃弾の中でも大口径のものである。自衛軍ではごく一部の部隊しか装備していない口径で、主に使用されるのは日本人の体格に合った九ミリ口径か、威力を増した四〇S&Wだ。つまり、万が一ここで何かが起こったとしても、後々の調査で明らかになるのは陸自とは関係の無い装備品ばかりということだ。予算にも計上されていない幻の銃器を保有するのは、政府の勢力ではない。とかげの尻尾切りめいた言い逃れができるようになっている。亡霊が武器を持って立っているわけだ。ぞっとしない想像であることは認めよう。

 長い通廊には、左右に均等な間隔で据え付けられたハッチの数々があった。デザインは白と灰色で統一されており、漂白されたような通廊を青白い顔色をした研究員が行き来している。天上には雑然とした通期ダクトやケーブル類が這っており、一見すれば航空母艦のようでもあった。時折、二人の憲兵と同じように武装した兵士の姿も見えた。どちらかといえば彼らを守るというよりも、逃げ出さないように監視している看守のようだ。彼らが亡霊ならば墓守といったほうが正しいのだろうか。

 中央を黒田らが進んでいくと、さして驚く風でもなく行き交う人々が挨拶をしてくる。ほとんどが会釈で、兵士は敬礼をした。見紛うこと無く、それは黒田が慣れ親しんだ陸自式のものだった。足を止めることなく彼らに挨拶、または答礼を返す。自分がここへ来ることは既に説明されていたらしい。雰囲気だけを見れば、それは防衛装備庁の技研を視察するのと同じようなものだが、何しろ外界が見えないのと、換気もあまりじゅうぶんではないこともあって、閉塞感は凄まじいものがあった。誰もかれもが病みつかれているのも無理はない。

 ふと歩みを止めて研究員の一人に話しかけようとすると、後ろから憲兵に歩くように促される。どうやら独自に何かを問いかけることはできないらしい。全ては小林の口からのみ語られるということか。

 そのまま歩き詰めて突き当りにある三メートルほどの幅を持つ廊下とほぼ同じ横幅の大型ハッチの前で、一行は足を止めた。小林が再びリーダーへタグを翳すと、その半分が開く。彼は手招きをしながら奥へ入っていった。

 入口を潜り、黒田はまさしく息を飲んだ。

 今までの閉塞感はどこへやら、開放的な空間が目前に開けていた。百メートル四方、高さ三十メートルほどの空間には五十人ほどの白衣や作業着を身に着けた人々が動き回っていた。活気というほどでもないが、黙々と仕事に取り組む人間の集団に特有の熱気が感じられる。

 入口から正面には、左右それぞれに二機のPGTASが正面に吊り下げられていた。船の碇めいた、巨大な鎖で引き上げられている人型は凄まじい存在感を放っている。向かって左の機体は鎖によって支えられながら佇立しているようだが、右の機体は明らかに地に足を付けて自立している。前者は全身を漆黒の塗装が施されて、影のように黒ずんで大破している。所々に内部骨格と思わしきフレームが露出しているため、一見して稼働しそうにはなかった。後者はアーク灯の光を鈍色のくろがねで弾き返しながら、静かに佇む。見事に背筋を伸ばして直立しているようだ。紫雲は微かに前傾していたが、こちらはより洗練されたシルエットと、二足歩行をする人間らしい直立不動の姿勢が目を引く。

 牢獄へ捕えられた太古の巨人を思わせる二機は、その塗装はほとんど正反対であるものの、どちらも似通った空気を醸していた。それは狂気ともいえるかもしれなかった。

 背筋を駆けあがる悪寒が、これは危険なものだと黒田へ訴えた。冷たい地下の空気に触れた肌がぴりぴりと逆立つ。この二機は、どちらがより危険かの基準しか存在しえないのではないか。

 声もでない黒田を振り返り、小林は平坦な声で告げた。

「もう少し近寄りましょう。ここからだとよく見えませんから」

「わかった」

 情けない声にならないように努力はしたつもりだ。

 隊員を連れて三人で歩く。程なくして灰色の巨人のほうへ近寄り、小林は立ち止まった。手を振って彼を示す。

「始めに聞きましょう。黒田さん、これが何かおわかりですか?」

「なぜ、そんなことを聞く」

「察しはついていらっしゃるのでしょうし、お見せしたいもののひとつでもあるので」

 その通りだ。次世代PGTAS、それがどうやら第四世代機であろうということまでは黒田は推察していた。だから”ここで見ることになるのは一機のPGTAS”であろうと思っていた。

 眼鏡をかけなおして、小林はさして感慨を抱いた風でもなく、黒い機体と灰色の機体を交互に示した。

「こちらが第四世代機、『玄奥』です。あちらが検体アルファ。十六年前に日本が回収した、別名ランドグリーズと呼ばれる黒いPGTASの一機です」

「ここへ収容していたのか!」わかっていても、声を上げずにはいられなかった。「つまり、第四世代機は、黒いPGTASの複製なのか? だとすれば凄まじい戦闘力を持つんだろうな」

「いいえ。ワンオフ機体であることには変わりませんが、製造は全て人類が行っています。部品流用しているのは認めますよ。そのため、黒いPGTASほどの苛烈な戦闘力はありません。想像を絶する破壊力も無ければ、空を自在に飛ぶこともできない……まだ、今のところは。その構造の全てを模倣することは、金属組成や動力機関の関係から不可能と考えられています。正真正銘、黒いPGTASはこの世に唯一つ、唯一無二の存在なのです。だから五機ともが異なる性能と形状を有している。ちなみに、内部動力機関だけはそのまま検体アルファから拝借しました」

「複製ではなく、中途半端な模倣か。だが……PGTASには変わりがないのだろう? 同じ兵器分類だし、見てくれからして酷似しているのだから」

「その表現も正確ではありません。十把一絡げにPGTASとまとめることはできないのです。我々人類からしてみれば、黒い塗装を施された有人人型機動兵器を黒いPGTASと呼称しますが、彼らのそれは別の技術体系に基づいて製作され、偶然に同じ人型様を獲得した戦闘兵器であることが、研究しているとよくわかります。事実として、先に配備されたのは敵のほうです。反力作用、エネルギー投射など、その根本には真理に近い物理法則群が適用され、超過額の産物を解読することは今の人類の科学レベルでは不可能だ。だからこそ、人類のPGTASは今も地べたを這いつくばっているのです」

「雲をつかむような話だ。それでは、ヘルフィヨトルは複数の知性体が集合しているというのか。最初の五人は異種知性体である、と君は考えているわけだな」

「有体に言えば、そういうことになるでしょう。しかし、それほど単純な説明が行えるような概念ではないことは確かです。マルサビット襲撃事件があったとはいえ情報が少なすぎますので、断定はできませんから」

「第四世代機の、第三世代機との明確な差異はなんだ?」

「様々ですが、いちばんの違いは機関出力の劇的な向上です。何しろ黒いPGTASのものをそのまま流用していますから。現行兵器の大半はディーゼル、蒼天の場合は複合タービンですが、それらは内燃機関で発電し、各部のモーターと油圧を併用したアクチュエータを駆動させます。ドライブシャフトでは関節駆動を行えないためです。しかしこの玄奥の生産電力は通常出力で九メガワットで――」

「九メガだと!?」

 黒田は素っ頓狂な声を上げた。九メガワットは、最新鋭の軍用艦艇が搭載する補助発電機の出力、その二倍には匹敵する膨大な発電量だ。理論的には、この機体ひとつで、重量としては百倍以上に匹敵する大型兵器と同等のエネルギーを行使することができる。正に規格外といえよう。

 両手を挙げて小林は黒田を宥めた。

「落ち着いて聞いてください。玄奥は豊富な電力から、従来機を遥かに上回る反応速度と出力で手足を駆動させることができます。さらに、大電力は関節動力やベトロニクスでは消費しきれないために、六〇ミリ電磁投射砲レールガンを主武装として使用することも可能にしました。一四〇ミリ滑腔砲を遥かに上回る射程と威力です。紫雲製造のノウハウからより強固な防護力を得、あらゆる面で現代兵器の頂点に立つ一機です」

「操縦方式は神経接続を踏襲するんだろうな。それ以外にスペックを引き出す方式が無い。第三世代機の紫雲では、神経接続の反応速度に機械駆動系が付いていけていないように思えた。それが解消されるわけだ」

「仰る通り、神経接続回路を用いた直接操作方式は変わりません。同時に関節数も増やしています。整備の手間はかかりますが、自衛軍は優秀な整備兵が多いので無視できるでしょう」

「桁違いの出力で細やかな動作を可能にしているということか。主武装となる電磁投射砲レールガンとやらの火力はどうなんだ。そもそもが実用的な性能水準を確保できているのか。陸上型は国連軍でも実用化が見送られているものだと聞く」

「国連といっても主にアメリカ合衆国ですが、電力確保の面で難があるようです。実用的なものを運用するには、十数トンの装輪式セミトレーラー数代に砲設備と発電設備を積載し、さらに射撃管制用の観測装置をも含めた複雑なシステムが必要になってくる。大型の動力機関を採用できる艦船と違い、陸上型は電力の確保がとても難しいのです。VADSひとつを運用するのにも複雑な無線ネットワークを必要とすることを考えれば、これが採算に合わない。その金を使って、PGTAS用の火砲を揃えたほうが費用対効果にも優れる、それが向こうの考えです。砲門が増えればそれだけ大軍に投射する火力も、時間単位で増大しますしね」

 全兵力が機械化されているヘルフィヨトルとの正面戦闘において、誘導弾を撃ち落す高射システムの構築は人類側にとって最優先事項である。エアランドバトルに代表されるように、現代軍隊の戦闘は三次元的に展開される。第一次世界大戦では無類の強さを誇った戦車が空からやってくる爆弾には無力な由縁だ。地上兵器は三次元空間上における戦闘行動を苦手としていた。

 さらに航空機の戦闘力を高めたひとつの要因が、第二次大戦後に急速な発展を見せた誘導弾の登場である。飛躍的に命中率を高めて射程距離も伸びた空対地兵装の登場は、航空優勢の優位性を急激に高めた。誘導弾はもとより対空兵装として開発されたもので、陸での戦いに勝つために、制空戦闘は例外なく熾烈を極めるようになった。これは制空戦闘機がパッシヴ・ステルス機能を獲得するまで続く。

 ステルス・キラーとして名高い航空自衛軍のF=3が第一次侵攻後に配備されるようになると、機動性において比較するべくもない敵無人戦闘機への対処として、可視光映像から目標を追尾する新たな誘導方式が採用された。多くの場合、IRSTとSARHを併用したもので、複数の情報を組み合わせることで微弱な電波反射でもはっきりと敵影を捉えることができた。しかしいかんせんコストがかかり、莫大な戦費を強いられる南極戦争において首脳陣を悩ませている。

 そこで、国連軍は発射から着弾までのタイムラグが小さくて済む電磁投射砲の開発が推し進められたが、小林の言うように一門を設置するだけで多くの設備を搬送せねばならず、機動力という一点で選択肢から除外された。加えて戦術レベルで用いられる光線兵器の投入も検討されたがこちらも断念される。PGTAS開発による予算圧迫と、戦術データリンクを用いた広域ネットワーク戦闘で、既存のレーダーでも多角的に敵機を捉えることで精度を補えたことから、高射システムの改良という形に落ち着くこととなった。その分の予算が人型兵器の開発へ投入され、技術の先進はそのまま、他兵器への性能向上の役割も果たした。

 飛来する無数の誘導弾を発令所から一括管理して即座に対応を行う水上艦艇のAWSを応用し、戦線にまたがる広大な体積の防空空域を保持するに至った国連軍は、今日まで敵の無人戦闘機、あるいは超音速の誘導弾を撃ち落し続けている。小林の言によれば、玄奥はそうした最高の対空高射システムや、自走砲にも勝る曲射砲撃支援、さらには戦車顔負けの超長距離陸上戦闘の全てをこなすことが可能であるという。

 その玄奥が用いる兵器システムの中枢を担うのが、幻に終わった未来兵器、電磁投射砲レールガンであった。

 超音速で飛来する敵誘導弾さえも、ドライバーが冷静に対処すれば迎撃の容易である。玄奥は他にもPGTAS用火砲の全てを使用できるため、弾薬が尽きたとしても他兵器の砲弾をを使用でき継戦能力は従来機以上にある。

「既に電磁投射砲については運用試験を完了しています。こちらは距離千五百メートルの砲撃で、RHA換算一八〇〇ミリの貫徹力を示しました。実用有効射程範囲は五千メートル。これに加えて玄奥は四七式対甲射突槍や、従来の把持式火砲の全てを運用できます。背部武装ラックも紫雲までの一基から二基に増設され、腰部にも機関砲程度の武装ならば同時に装備できる兵装搭載量ペイロードがあります」

「……恐るべき性能だ。ランニングコストも馬鹿にはならんだろう」

「そうでもありません。所詮は一機ですし、代替部品も比較的容易に製造できます。製造方法については極秘とさせていただきますが、運用面においてご想像なさっているほどに融通の利かない代物ではありませんよ」

「IOC《初期作戦能力》獲得はいつだ」

「今のところ各動作を管轄するルーチンの構築は完了しています。ですがそれらを管理統括する中枢システムの構築に手間取っており、NCRS《神経接続調整システム》もドライバーが決まっていないため調整未定です。恐らくは、第七PG中隊員の誰かが搭乗することになるかと思いますが、実戦配備は当分先でしょう。世界には、まだ彼を見せるには早すぎる」

 玄奥。その名の通り、この機体は人類にとっての希望の光となるのだろうか。それとも、我が国の立場を脅かすほどの脅威として、人々に認識されるのだろうか。背筋も凍るような思いを一入に味わいながら、一通りの説明を小林から受けた後、黒田は歩き出した。小林と隊員が物言わず付き従う。

 黒田の大きな背中を悪寒が絶え間なく走り回る。この地下格納庫は寒すぎる。隊員達がぴっちりと軍服を着こみ、研究員が白衣を身に着けている理由がようやくわかった。恐らくは使用電力を最小限とするために、空調関係は入れられていないのだろう。ストーブを焚こうにも密閉空間とあれば換気も関係してくる。

 検体アルファ――ランドグリーズの目前まで歩み寄り、黒田は二十メートル近い漆黒の巨人、その遺骸を見上げた。

 隣りに立った小林が、博物館の自動音声のように無感動な説明を始めた。

「ランドグリーズの特徴は、何よりもその反力作用でした。第一次侵攻では運動エネルギーから熱エネルギーまで、あらゆるポテンシャルを逆転させていたことが確認されています。鉄壁の防御であったことは疑いようもなく、同様の原理を駆使して飛行能力も獲得していました。ギガスのものとはまた違ったもので、あれは力場として空間に固定したものでしたが、より高度な技術が用いられ、一定の範囲内であらゆる事象を司ります。固定武装が無い代わりに完璧な防護能力を獲得していたんです」

「わたしも資料映像で見たことがある。超音速で突っ込んでいったAPFSDSが位相の逆転に耐え切れず、燃えていた。その破片が散弾のように攻撃者へ降り注ぎ、大変な被害をもたらしていた」

「いきなり正反対の方向へ、速度やエネルギーを保持したままベクトルだけを変えますので無理からぬことです」

「黒いPGTASは、どれもが超常的な能力を持っている。技術を抽出したのか。あの力を自分のもののにしようと、君はどれだけの骨を折った? そしてそれは完遂されたのか。わたしにはそれが気になって仕方がない」

 小林は訝しげに黒田を振り返った。

「どうしたのです、黒田さん。むしろ”そうなればいいではありませんか”。人類は容易にヘルフィヨトルを一掃できる。それだけでなく、日本が世界の覇権を握ることも夢ではない」

 無神経とも思える彼の言葉に、黒田は体ごと向き直った。その瞳は怒りに燃え、偉丈夫の身体の各所から蒸気が立ち上るような威圧感が彼を圧倒する。既にこの格納庫へ足を踏み入れた時の気後れは微塵も消え失せており、付き従う憲兵がPDWの銃把を強く握りしめた。

「戦争には勝ち方というものがある」恐ろしく低い声に、傍らに立つ隊員がたじろいだ。「戦争は人の命を燃料として燃え上がる炎だ。騒いだ後は鎮火しなければならない。さもなければ山火事めいた、周囲の人々までをも焼き尽くす災厄となるだろう。強すぎる炎は疎まれるのだ」

 迫力という言葉では形容しがたい、まるで野生の熊を前にしているかのような空気を受け流し、小林は車に構えた体を黒田へ向けた。

「このようなことを、わたしが本気で言っているとお思いですか」

「君はどれだけの激情に苛まれようが、脳味噌だけは絶対零度を保持しているような男だから、そんなことはないだろう。だが、わたしは一人の政治家として、国民が血を差し出して贖われる平和というものを憎まなければならない。たとえ冗談であっても、だ。わかるか、修一君。こいつは仁義の問題だ」

 眼鏡の奥の瞳で意味深長な輝きが閃き、彼は俯いた。悪いと思っているのならば言葉で謝罪する筈だ。

 黒田は憮然とした表情で、朽ち果てた巨人を見上げた。玄奥と違い、こちらにはほとんど人の姿がない。腐った死骸には虫がたかる。まったく別の印象を抱きながら、ふと、彼はある疑問を抱いた。

「ひとつ、聞きたいことがある」

「なんでしょうか」

「コックピットはどこだ?」

 小林は白衣のポケットに突っ込んでいた手を引っこ抜き、黒いランドグリーズの胸部を指さした。「紫雲とほぼ同じです。既にご存知かと思いますが、あの機体のレイアウトは黒いPGTASを模倣しているので」

「技術は抜き出せないが、猿真似はできるというわけだ。なるほどな。では、もうひとつ質問だ」黒田は再び小林を睨んだ。「搭乗者ドライバーは?」

「と、いいますと?」

「搭乗者がいた筈だ。生きてはいなかっただろうが、生体組織くらいは回収したのだろう」

 小林は黙したまま、終ぞ答えることはなかった。

 程なくして、居室へご案内いたしますと隊員が言った。明日までに黒田が過ごすことになる部屋へ案内するという。格納庫から出ようと、隊員について歩いていた黒田は、背中に視線を感じて振り返った。

 小林修一は既に技術陣の中に紛れ込んでいた。玄奥の前に立って、あれこれと指示を飛ばしている。

 感じた視線を辿った先には、黒い巨人の半壊した頭部があった。一対のカメラアイに、黒田は肩を竦めた。

(そう睨みなさんな。お前さんが思っているほど、人間は大したものじゃない)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る