第三十六話

 苦闘しつつもどうにか書き終えた便箋を封筒に入れたところで、医務室の壁際に据えられている有線が鳴り響き、近くを歩く医務員がすかさず受話器を取る。短くふたつみっつの言葉を交わした後でぱたぱたと奥へと消えていった。ほどなくして、すっかり顔馴染みになったベイカーという女医がさして急ぐ様子もなく保留状態の受話器を手に取り、熱心に何かを話し込んでいる。

 これ以上ないくらいに言葉を選び書き上げた便箋の封を折りつける。この後に情保で検閲を受けるため、封をすることはできない。もう三度も確認した内容だから、今さら中身を見直す気にもなれなかった。長い作業の余韻に浸りながら、空調の風に揺れる彼女のくすんだ金髪を呆けたように眺めていた。しばし手の中の手紙について一切を忘れて、思考の空隙とでも呼ぶべき間の抜けた時間を静かに過ごす。

 ふと我に返り、便箋をサイドボードの上に置く。体の各所がむずむずする。そろそろ新しいチュニックに着換えようかと身じろぎして、そういえば倒れてからというもの、シャワーを浴びていないことに気付いた。

 通話を終えて受話器を壁にかけたベイカーが、白衣に手を突っ込んで寝台に歩み寄ってくる。すぐ脇で立ち止まると、屈んで寝台の上に胡坐をかいている日計の顔を覗き込んだ。問題児に説教をしに来る教師のように見えなくもない。

「ミスタ・ヒバカリ」

「はい、先生ドクター

 目が覚めてからいくつかの問診をして判明しているが、彼女は軍属としてここで働く民間人だった。非営利組織から多くの人員がアフリカ戦役に派遣され、対ヘルフィヨトル戦の後方兵站業務を支援している。だからだろうか、彼女は運ばれてきた軍人を階級ではなく、知っている限りは名前で呼ぶ。特に患者は個人として扱った。各々が冷徹な機械でなく、血の通った人間なのだと自分で確認をしているようだと、日計は感じた。

 君は、あなたは、人間なのだ。だから医務室にいるのは当然のことなのだ。部品を取り換えることはできず、あなたには治療の必要がある、と、彼女は無意識に訴えかける。そ精神というものが人間にとっていかに大切なものなのかを、彼女自身が確信しているからだ。

 青年を見つめる彼女の目には、訝しむような色がある。検査の時や、日頃の調子はどうか、戦闘で必要以上に負荷をかけていないかと静かに問いただす彼女の目は、油断なく対象を観察している。それはまるで医者としてではなく、他の判然としない疑問めいた何かに拘っているようにも思えた。紫雲の情報を掠め取ろうとする国連の特派員ということはないだろう。紫雲は神経接続で操作するため、ドライバーには二進数的なアナログ信号を瞬時に理解する特別な才能が必要になる。その事実を国連が突き止めたとは思えないし、コックピットの中すら見たこともない筈だ。

 頭の先から爪先までを眺めて、ベイカーは不満そうに喉を鳴らす。前かがみになって指で瞼を引っ張り、ペンライトで簡単な瞳孔の反応確認を行う。

 壮年とはいえまだ現役の女性なのだろう、薄らと化粧をした彼女の顔が近づいてくるので微かに仰け反った肩を意識して前に戻した。

「すっかり安定しているみたいね」面白がるように笑みを浮かべながら、「可愛いわね、女に慣れていないなんて今時じゃ珍しい。とってもいい男なのに、もう少し遊んでもいいんじゃないかしら?」

「周りから尻軽って言われたくないんですよ。ただでさえ、身体がふたつあれば、いや、自分がもう一人いればと思っているんですから」

「ふうん。日本の男ってつまらないわね。愛情は質じゃなくて量の問題としてとらえるべきなのに」

 ばっさりと、彼女は言い切った。日計は頬を掻きながら、はぁ、と気の無い返事を返す。理論的に解かれたところで、感情を語るには共感が必要だ。その点、リガルはベイカーの恋愛論に共感することはできなかった。

「自分に嘘はつけませんし、二人を一番にするなんてできませんから」

「それはあなたの良識がそうさせるのではないでしょう」

「そこは認めますよ。結局、ぼくは誰かを傷付けた後でやり返されるのが怖いだけなんです。その中で誰かを幸せにしたいっていうのが、愛するってことだと思ってるんですけどね」

「あらま、一途なこと。わたしの目に狂いはなかったわけ」

 したり顔の彼女へ、肩を竦める。

「それで、自分に用ではないのですか。今の有線はどこから?」

「ああ、そうそう。あなたの上官からだった。体調が万全なら今すぐ格納庫に来い、ですって」

 肩の荷が軽くなったのを感じる。いや、胸を撫で下ろしたと言うべきか。

 招集されるということは、見放されていないということだ。先日の一件――今日は運び込まれてから二日目だ――から、既に戦力外に数えられていてもおかしくはないと思っていたのに。有沢琢磨の度量の大きさを感じ、しかし気を緩めてはいけない、この期待に沿えるようにしなくてはと兜の緒を締める。

 自分の掌を見つめて、握って、開く。反応は良好。身体の方は、一度気を失ってしまえば奇妙な爽快感があった。今まで張りつめていた何かが一斉に解れたのだろう。人間とは不思議なもので、物質として見ることはできない精神にもちゃんと実態があるかのように、環境や感覚質クオリアに対する反応から調子を見る。

 見えもしないものを見ると表現するだの、不思議だ。先ほどまで妹への返信を認めていたからか、そのような感想が脳裏をよぎる。拳を握りしめ、その上に視線を落とした。それをベイカーは躊躇と見て取った。

「検査はパスしてるからいつでも復帰できる状態だけど、あなたの意志を尊重する。無理なら無理といってちょうだい。わたしは医師として自信があるけれど、わかるのは数字で表れるものだけだから」

「心は、目に見えない?」

「勿論よ、ヒバカリ。本人にしか感じ取れないものは確かに存在するの。不完全な状態で前線に戻れば、死ぬだけ。そんな結末は過程がどうであれ、あなたの本意ではないでしょう?」

「ならば、死のうが死ぬまいが、ぼくの本意であるのならば何の問題もないわけだな」

「本心から言っているのかしら。だとしたら、わたしは戦闘神経症と判断してあなたを引き留めざるを得なくなる」

 否定しかけた言葉を飲み込み、日計は視線を女医に合わせ、微笑んだ。

「お気遣いありがとうございます、先生。行けますとも、大丈夫です」

 ベッドの上で身を捩り、床に素足を下ろす。埃ひとつない清潔な床に蹲って寝台の足元からスリッパを出し、傍の簡易ロッカーから戦闘服を取り出す。ばりっとしたそれは鷺澤が洗濯してくれていたものだ。恐らくは意識を失った自分をこのチュニックに着換えさせたのも彼女だろう。

 不思議な確信だった。この一枚の布から伝わってくる温かみを、どうして間違えようか。

 と、日計は顔が赤くなるのを感じる。着換えさせられたということは、裸も見られただろうか。下着まで取り換えられていなければいいが、しかしそんな看護までやってくれたのならばこれ以上なく愛おしい。

「驚いたわね」

 チュニックの紐に手をかけた時、まだ傍で立っていたベイカーが呟いた。できれば見ないで欲しいがそうも言っていられない。上官から命令が来ているのだ。肌着の、オリーブドラブ色をした半袖シャツに手を伸ばしながら問い返す。

「何にですか」

「あなたの最後の言葉よ」彼女は興味津々に顎を抑え、「ここに来る兵士は、大抵の者は打ちのめされている。ヘルフィヨトルとの戦いは単純な生存闘争だけど、激しさという点では人類史上でも最高のもの。当然ながら、人間へ過大なストレスを与えている。人間同士の戦いではどのような形態であれ、意思疎通コミュニケーションの手段は存在する。だけど、南極戦争ではそのような甘えは微塵も無い。降伏すれば助かるという話ではないの。敵は人間ではなく無人兵器。文字通り、生きるか死ぬかがそのまま勝敗なのだわ。多くの兵士が、この部屋で故郷に帰ることを選んで、去って行った」

 何も言わずに、日計はズボンに足を突っ込んだ。女医の言わんとしていることは理解できるのだが、その先をあまり考えたくない自分がいる。

 構わず彼女は言葉を投げかけた。

「戦場に戻ると、なぜ決断できたのかしら?」

「その理由が、重要ですか?」

「もちろん」

「どうしてそんなことが気になるのですか。ぼくは兵士だから戦う。アフリカにいるならなおさら、そうです。ここは日本ではないんですから。現実としてヘルフィヨトルが人を殺している世界だ。殺さなければ、殺される。あなたの言う通り、理由は単純だ。誤解のしようがない明確な交戦規定に従っているようなものです」

 奇妙な理論かもしれないが、アフリカに来た理由が戦うことなのだから、その土を踏んでいる限りは戦うということは、当然のことなのではなかろうか。

、ですって?」

 女医は露骨に顔を顰めた。彼女自身が侮辱されたように感じていることは明らかだが、予想外の彼女の反応に、日計は戸惑う。

「ミスタ・ヒバカリ」出来の悪い教え子を諭す教師のように、「人間が戦うということは、己のため以外の何物でもないのよ。最終的に自己の利益となることしか生物は実行することができないように、アルゴリズムが遺伝子レベルで脳に刻まれている。これは精神論とか一般論ではなく、生物学的なものとして存在が証明されている。これは別に差別的な意図を含めているのではないけれど、あなたは日本人でしょう。あなたの属する社会はここには存在しない。つまり、このアフリカ大陸で戦うことがあなたの利益に繋がる画面が想像できない。こんな地球の裏側で命を賭す意味がどうしても理解できないわ」

「確かに、直接的にぼくに利益があるわけではありません。ならば人類のためではだめですか? ぼく自身も人間ですから、あながち的を外れた話でもないでしょう。国連軍は人類のために今も戦い続けています。それは誰もが認めるところですし、少なくとも、そうであることで矛盾は生まれない」

「軍人にこんなことを伝えるのも心苦しいけれど、人間は大義名分のために命を投げ出すことは絶対にしないわ。あなたの返答は、なんていうか……国や主義思想のためとか、そんなありきたりなニュアンスではないように感じられる。自分の中で確固とした信念があって、それに則して考えるまでもなく答えた、というのが正しいといえる。まるで機械のように、あるひとつの目的のためなら手段を択ばないというような苛烈な、それでいて歪な生き方。感情に論理は馴染まない。計算ではなく、刺されたから痛いと感じる、いわば条件反射的な空虚な返答だった」

 女医の説明を聞いて、日計は反論するでもなく、なるほどと得心を得た。彼女の言った言葉は紛れもない真実で、それを彼女は信じたがっていないだけではないのかと。

「仰る通りです。ぼくはぼくだけの信念に基づいて戦っている。しかし、あなたも言ったではありませんか。人間が戦う理由は遺伝子学的に、婉曲なものとはいえ説明がついてしまうものだというのならば、あなただってぼくと同じように、ここにいる理由を即答できる筈だ」

「それはそうでしょうね。ただ答えることはできるでしょう、同じ人間なのだから」

「それですよ」

「え?」ベイカー医師は訝しげに眉を潜めた。

 日計はオリーブドラブの半袖シャツの上に戦闘服を羽織り、胸の前を締めて袖を捲った。戦闘服の荒々しい肌触りが、療養生活で緩み始めた肉体と精神を引き締める。

「どれだけきれいごとを口から吐き出そうが、人間は人間のために戦います。それ以上でもそれ以下でもない。金のため、愛のため、誰かのために。誰もが最終的には自分や他人のためになると知りつつ、人は行動する。兵士の場合は戦うということ。それがどれほど世界から隔絶された戦場だとしても、人間は人間以外のための犠牲になんて、原則的になることはできない。結局は変わらないんです。ただ、むつかしい理屈をつける人が多いだけだ。軍事において単純なものは複雑になり得ると言われていますが、その逆もある。複雑に見えるものが、単純なことである場合も存在するんですよ」

 手早く荷物を手に持って、敬礼。女医はまだ釈然としない様子で佇んでいた。

 最後に部屋を出る前に、彼は再び一礼した。

「お世話になりました、ベイカー先生。あなたのおかげで、ぼくはまた戦えます」

 少しだけ笑みを漏らすと、女医は頷いて手をひらひらと振った。理解にはほど遠いが、その眼差しには彼女の信念が宿っているように、日計には見えた。

「どういたしまして。あなたにとても興味があるから、生きて帰ってくれると助かるわ。話はまだ終わっていないしね」

「当てて見せましょうか。あなたは医者ドクターではなく、哲学者フィロソファーですね?」

 女医は不敵な笑みを浮かべた。ミステリアスな笑顔は彼女を十歳は若返らせて見せる。

「フフ。人の生き死にほど哲学らしいことはないのよ。この仕事をしていると、どうしても考えずにはいられない。大勢死んでいくのはなぜ? 死ぬとわかっているのになぜ生むのか、と。センチメンタリズムに感染したみたいだけど、それがわたしの今の心境。無意味な生なんて、誰も望んでいないから。それは不条理な最期よりも残酷だとは思わない?」

 正に哲学者らしい苦悩の表情を浮かべて、ベイカーという女医は言った。

 何の意味も無い生誕と、その先の人生、孤独に自問するには重すぎる問いだ。彼女自身が納得するまでに途方もない苦難があり、それはとても厳しい戦いになるだろう、と日計は思う。そう、彼女も戦っているのだ。目の前で息絶えていく命、死んでいく命が、無意味なものではないと証明できれば、どれほどの人々が救われることか。答えは永遠に理解できないに違いない。死を経験すれば、生きてはいられないからだ。死にながら生きることはできない。心臓は、止まることと脈動することを同時にはできないのだ。

 もしそうなれば、どれだけの戦士が安心できるだろう。死に意味が与えられるなら。理由だけでなく、価値を付与できるならば。

 改めて、日計は敬礼した。今度は心からの敬意をこめて。

「ご健闘を祈ります、先生。とにかくこの時代を生きましょう。戦い続ければ、いつかは勝てる」

「あなたもね、三尉。幸運を祈っているわ。体に不調が出たら、いつでもいらっしゃいな。ネジを締めなおしてあげる」

 声を上げて笑い、日計は何の心残りもなく医務室を後にした。



 兵舎の階段を駆け上がり、自室に飛び込んで荷物類を寝台に放り投げる。ここまでで息が上がっていないことからすると、二日間は寝込んでいたにかかわらず、体の調子はかなり良い。油をさしたようだと思いながら、駆け足で今度は階段を駆け下り、廊下を走る。

「馬鹿者、何を廊下を走っておるか!」

 行き交う自衛官の間を縫うようにして廊下を突っ切っていくところで一喝を受け、急停止した。

 振り返れば佐藤秀則一等陸佐だった。厳つい生まれつきの自衛官は日計の顔を見るや両眉を吊り上げる。

「なんだ、貴官か。もう出歩いても大丈夫なのか? 卒倒したと聞いていたが、存外に顔色が良いではないか」

 兵士の間で噂話は光速を超えるという話は本当だったようだ。きっちりと背筋を伸ばして敬礼すると、佐藤は面倒くさそうに手を振って答礼を拒否した。戦場以外では楽にしろということらしい。

「はい、一佐。先ほど医師から許可を得て復帰いたしました。お心遣い痛み入ります」

「心配などはしておらんかったさ。いいか、廊下は走るなよ。せめて急ぎ足にしろ。事情は知らんが規則は守ることだ。そうでなければ示しがつかん」

「誰に対してでありますか」

「おれたちを嗤おうとする者、全員だ」

「なるほど」

「自分を大切にしろよ、日計。貴官の問題は、もはや貴官だけのものではないのだから」

 さあいけ、ともう一度手を振った佐藤に回れ右をする。限りなく走りに近い歩きで格納庫へ向かいながら、日計は首を傾げた。

 大切にしろ、とはどういうことだろう。鷺澤朱里や自分以外の何かを最優先とする生き方を変えろ、ということだろうか。ならば、彼はこの自分をいささかも理解できてはいまい。そんなに器用な生き方ができるものなら実行している。佐藤は聡明な男で堅実な思考回路を持っている。理論は他者を傷つける武器ではなく、世の中には恐れるに値する何かが存在するのだと知っている男だ。

 だからきっと彼の言葉の意味は、自分や自分以外、即ち世界の全てを大切にしろということなのだろう。そう解釈して、日計は先ほどよりも速度を落として階段を降り、一階の兵舎ロビーから出てまたすぐに走り出す。もう廊下ではないから最大戦速。紫雲のそれに比べれば大地を這いずるような速度だが、自分の足で走るというのは、爽快だ。

 曇り空の下、適度な湿度の空気が肌を撫でる。それほど熱くもなく日差しも無い今日は運動日和だ。体は頗る快調で枷が外れたように軽い。ゆっくりと走るバスや電気自動車を追い越して、戦闘服姿のまま格納庫へと駆け込もうとして警告灯が点灯しているのに気が付き、立ち止まる。同時に、目の前を二機の蒼天が巨大な格納庫の耐爆扉を潜って徒歩搬出されていった。非武装状態を見るに点検のためらしい。先日の玉響と同じで簡単な歩行動作による駆動系検査だろう。違いがあるとすれば機体の挙動がぎこちなく見えることか。

 赤い警告灯が落ち着くまで待つ。ドライバーにしてみれば、周囲に人がいることは歓迎しないだろう。危なげない足取りで蒼天は誘導路へと向かった。その大きな背中を見届けてから人間用の小さな扉から中へ入る。

 紫雲の足下で話しこんでいる男女の影が見えた。少し気後れもしたが、こういった問題は後に伸ばすほど厄介なことになるだろう。憂いを振り切るように走って近寄り、声をかけた。

「申し訳ありません、遅れました」

 一同の顔が自分へと向く。真っ先に鷺澤朱里が微笑んだ。彼女の笑顔を見るのは何よりもいい薬になる。だがすぐに真顔に戻ってしまった。

「日計。もういいのか?」と、日向。

「ご心配おかけしました。もう大丈夫です。先生からの許可ももらってきましたので」

「そうか。ご苦労さん」

 短いが口調から安堵しているのが感じられた。花園らも微笑みと共にこちらを見やっている。有沢は仏頂面だったが、短く「よく戻った」と言っただけで、特に叱り飛ばすこともなかった。叱責を飛ばすこともなく自分を迎え入れてくれた隊に改めて感謝した。

 東雲南津子から烏龍茶のペットボトルを手渡されて礼を言うと、彼女は有沢琢磨を振り返った。

「有沢さん。日計君にも説明したほうがいいのでは」

「もちろんだ。日計、ここに呼んだ理由について説明する。次回の作戦行動について伝達することがある。極めて重要なもので、戦略的要件だけでも想像を絶するに余りある」

 決して楽天的には受け取れない言葉選びに、微かな昂揚感と大きな不安を胸に頷いた。これまでの戦闘では、ブリーフィング以外に隊で集まって会議をすることはなかった。余程の緊急事態と見るべきか、それとも緊急性はなくともそれ相応の準備が必要な大規模作戦だろうか。ドライバースーツを着ていないところを見ると後者だろう。すぐに出動するという様子でもない。

「かいつまんで話すと、参謀本部は頭部戦線に大規模な敵勢が集結していることを察知した。総兵力三万以上の大軍で、ギガスとボレアースも確認されている。AFCHQ参謀本部はこれら敵主力部隊を殲滅し、アフリカ戦役における主導権イニシアチブを奪還することを企図している。すでに行動確定の辞令が降った。我々も本作戦に参加する予定である」

「三万って、本当ですか!? ビシルの時よりも多いのではありませんか」

「やるしかない、ということよ」

 鷺澤が表情を消し、神妙な面持ちで言った。その瞳は静かな決意の光を放っている。言外の意味は明らかだ。”わたしたちなら、やれるでしょ?”

「そういうことだ」有沢は頷き、日向と花園を示した。「現状、国連軍で黒いPGTASを撃破可能な火力を発揮できるのは四七式対甲射突槍のみだ。そしてあれを運用できるのは紫雲のみで、これは我が第一技術試験旅団にしか配備されていない。さらに確実な撃破には巧みな戦術と幸運が必要になる。前回のように、通常兵力を相手に温存されるという余裕はないだろう。全兵力を同時投入しなければ、黒いPGTASを相手取る前に物量で押し切られる。必然的に今まで以上の重責を担うことになるだろう」

「もう聞きたくありませんが、他に目標というものはあるのですか」

「あるとも。我々は一機たりとも欠ける訳にはいかん。全機生存が重要目標だ。だが、まあ、こんな状況で言うのは気が引けるが、お前が戻ってきたのは喜ばしい限りだ」

 迂遠な言い回しは、神妙な空気の中で有沢の選んだ最大限の労いの言葉だ。

 敵軍の規模は最大のものになる。自分がそこでどのような役割を演じ、味方を勝利へ導くことができるのか。大それた考えではあるが、紫雲の相手は黒いPGTASでほぼ確定したようなものだ。それ以外の選択肢は人類に残されていない。成程、緊急事態とはそういうことか。

 走ってきたので喉が渇く。烏龍茶を一気に半分ほど飲み干した。温いものでもありがたい。しかし、と傍らで山になっているペットボトルを見つめる。なぜ、誰があんなに烏龍茶ばかりを買い込んだのだろう?

「今回はボレアースまでも、ですか。確か近接格闘戦主体の機体ですよね。ギガスを相手取りながら紫雲で対抗しきるのは難しいのでは?」

「そこを今、話し合っていた。どうなんだ、日向?」

 水を向けられた特技下士官が、つなぎの肩から下げたタオルで汗をぬぐいながら口を開いた。

「ボレアースの存在は、本作戦における最大の懸念材料でしょうね。逆に言えば、あの機体を抑え込むことができれば、後はどうとでもなると思量します。ギガスは反射力場の破損後、前線には姿を現していません」

「つまりどういうことだ、日向」

「これは極めて重要なことです、一尉。恐らくは以前の戦闘後の状態そのままだと考えられます」

「つまり、反射力場の修復はできていないということか。砲煩兵器でもギガスには有効打を与えうるのか」

「状況証拠だけですが、根拠はあります。ギガスの非積極性はこれまでに類を見ないほどです。こちらをご覧ください」

 ラップトップコンソールを開いて打鍵する。自分で画面を抱えるようにして機器を持ち、他の面々が画面を覗き込む。それは現在までにおける、ヘルフィヨトルの侵攻状況を段階的に分けて表示した戦術図だった。アフリカ大陸の赤道直下の地域を中心として表示されている。

 日向は色分けにされている、第一波、第二波の敵の動きを示す矢印を強調表示した。

「これは第二次侵攻が始まって、ギガスが出没した地域も加味して表示しています。第一波、第二波は共にギガスによる一撃が戦線の主要部に加えられています。しかし現在の第三波では、どこにも出現していません。いえ、いるにはいますが、積極的な戦闘には参加していません」

「敵がそう見せかけようとしているだけでは。いざというときに我々とギガスが相対した時に、敵には反射力場が無いと思わせておけば、向こうには有利に働くはずでしょう」

「東雲二尉のご指摘ももっともですが、おれはそうは思いません。何故なら、ヘルフィヨトルは遊兵を創らないからです。全ての兵力は常に移動しているか、戦闘を行っているか、補給をしているかで、それは黒いPGTASでも例外ではなかった。第二次ビシル平原での戦いを経て消極的になったとも考えられますが、そうであるならこのように大規模な兵力で攻勢準備はしないでしょう。人類に準備期間を与えるようなものですから」

「じゃあ今のところ、あなたの論説が最も説得力があるようね、日向君?」

「そういうこってす。単純に紫雲の戦闘力を危険視しているのならば、自ら軍を率いてナイロビ基地へ進撃すればいいでしょう。ナイロビでなくてもいい。黒いPGTASに対しては紫雲を当てざるを得ないので、自ずと紫雲は現れる。後は煮るなり焼くなり好きにできます。迂遠なやり口は、恐らく万が一の場合を考えてのことだ。万が一を考えるということは、懸念材料があるということでしょう……ほい、鷺澤」

 日向が手を挙げた鷺澤に促すと、メンバーの視線は彼女に集まった。複数の視線にも物怖じせず、彼女ははきはきと語った。

「ギガスの不調ではなく、最初の五人が戦えない理由があったのではないでしょうか。たとえば最初の五人の中にも指揮系統があって、ギガス自体は万全の状態だったけれど、上官から制止されて出撃しなかっただけ、とか。日計君の言っていた、ラガード・トリセクスカやエセックス・ブレイナンが、ギガスのドライバーより上位の存在なのでは?」

 鷺澤の言葉に、日向は軽く首を振った。

「真偽は測りかねるが、おれとしてはその説を信じたくはないね。ただでさえ超科学の結晶だ、奴らは。こんな短時間で修復されるのならば、正に規格外というべきだろう。打つ手がなくなる。一気に仕留めなければ無意味ということになり、こちらの犠牲は指数関数的に増大する」

「あのデカブツが闊歩しているだけでも超常的だと思うけどもね。わたしは」

「その点は否定しません。黒いPGTASの駆動原理も動力源も未だに未解明です。沿岸警備艇よりも遥かに質量の大きな鉄塊が跋扈しているというだけでも驚異的です。でも案外、ギガスは問題ではないのかもしれません」

「どちらにしても、近接格闘戦は危険だろうな。お前が言いたいことは、こうだ、日向。ギガスを倒すには対甲射突槍が撃ち込めるほどの近距離に潜り込まなければならない。しかしそうなればボレアースが出てくる、だから先に奴を倒すべきだ、と。違うか?」

 日向は頷いた。日計はペットボトルを握って、会話の成り行きを鷺澤と同じように見守っていた。

 手でジェスチャーをして見せた彼へ、日計は自分の分の烏龍茶を手渡した。日向は一気にそれを乾かしてからまた口を開く。

「ボレアースが存在するからには、近接戦闘は極めて不利です。格闘戦が行えないのは厳しい。でも視点を変えれば、ギガスの撃破ではなくボレアースの撃破ができれば後の問題はほとんど片付いたようなものです。我々だけでなく味方も動員して、最大火力を叩き込めば光明が見えるでしょう」

 絶対防御たる反射力場が消滅したとはいえ、その巨躯故にギガスは黒いPGTASの中でも特に重装甲を施されている。機体特性のばらつきから、人類よりも進んだ科学技術を持ちながら兵器の万能化、標準化に根差した思想でこれらを製造したのではないことが見て取れた。万能な兵器など存在しないと敵は理解しており、様々な機種で巨大なシステムを形成することで欠点を補い合っている。用いられる科学技術には雲泥の差があるが、その思想は同一のものなのだ。

 エネルギー投射砲により、瞬間的な制圧力を重視したアレース。反射力場とその巨躯を用いて強行突破を主眼としたギガス。立体機動戦に最適化され、近接格闘による高い戦闘力を誇るボレアース。極めて異なる運用思想の下、各々の防御レベルにも違いがあると考えるのが妥当だ。ビシルで玉響が攻撃したギガスの反射力場発生装置は特に強固な防備が為されていたとみるべきであり、ここに五発の対甲射突槍を撃ち込んだことから、ボレアースの装甲は逆算して一四〇ミリ滑腔砲の集中砲火でもじゅうぶんに撃退可能と推測できる。問題は反射力場の存在であって、その装甲の厚さではなかったということだ。

 第一次侵攻時は五機全てが戦線で躍動していた。国連軍は幾度となく彼らと対峙し、そして敗北を積み重ねた。

 有名な資料映像がある。複数の戦車砲弾がボレアースに命中した瞬間を、偵察ヘリコプターから撮影したものだ。いずれも別の部位に対してであったが、その多くが車載の一二〇ミリ滑腔砲弾の直撃であったことが見て取れる。結果としてはボレアースの装甲を貫徹することかなわず、部隊は全滅している。

 第二次侵攻では、未だに人類と砲火を交えた機体がアレースとギガスしかいないため、ボレアースにPGTAS用火砲が通用するかの検証は為されていない。しかし貫徹は可能だと、日向は豪語した。

「どれほどの複合装甲であろうと、それは内部にいくつかの素材を封入した積層構造であると推測できます。あるいは単一の素材による均質圧延装甲である可能性も捨てきれませんが、体積からその可能性は低いでしょう。APFSDSに有効な装甲材ならば、単金属のみを用いて防護力を得ようとするとどうしても脆くなるのです。デザイン上の融通も利かせるとなるとセラミック形成技術の限界にぶち当たり、これが形状自由度を決定しています。第三世代主力戦車で曲面装甲が廃止されているのは同様の理由によります」

 鷺澤が手を挙げた。

「質問いいですか、特技下士官」

「もちろん、積極的な生徒は大歓迎だぜ」

「ヘルフィヨトルの複合装甲が人類と同じ材質というのに疑問を感じます。あれほどの装甲防護力は他の技術によって確立されているとみるべきでは」

「実はそうでもないんだ。たとえ別種の元素であるにしても、現象自体は不変だからな。浸徹の物理を遮る作用をするのは重金属に限るし、それは分子構造や脆さからくる性質だろ。普通、装甲材に転用される金属っていうのは割れやすいものだ。ギガスのように表面積が大きい場合は例外ですが、ボレアースのように機体サイズが限られるものならば、構造としてこちらに通ずるものがあるだろう。複数発を命中せしめれば、防護力は劇的に低下するものと思われる」

 そこで、日計は隙を突くように口を開いた。

「当たれば効くのはわかりました。でも、ボレアースは最高で時速七〇〇キロで飛ぶんですよ。それが突っ込んできて、嫌が応にも格闘戦になります。近接前に、砲口を追従させることはできるんですか?」

「FCSの性能を考えれば、対応は不可能じゃない。だが発砲から弾着までの偏差を最小に抑えるために一四〇ミリを使うことになるだろう。発砲から着弾までのタイムラグがコンマ一秒単位で重要になってくるぞ。砲身長は九メートルで、こいつをぶん回すことになる」

 だができないことはない、と、日向はラップトップの画面を自分に向けて再び打鍵する。画面に現れたデータを皆に見せる。中隊員が食い入るようにそのデータを覗き込んだ。

「これは第一次侵攻の際に記録されたボレアースの映像だ」

 黒いシルエットが画面を横切る。アフリカはどこかの平原であることが見て取れる。多くの主力戦車や歩兵戦闘車が砲塔を旋回させて発砲するものの、敵は凄まじい速度で地表付近を滑空していく。複数発の砲弾を避け、あるいは長刀で弾き返している。

 ほとんど人に近いシルエットでありながら、背部に翼のように広げられた推進装置が折りたためられる様は、さながら烏を思わせた。

 漆黒のシルエットが着地して地面を捲り返しながら減速すると、今度は弾けるように横向きに跳躍した。獣めいた俊敏な動きは兵器という概念の想像を絶している。操縦者には大きな加速度がかかっていると思われるが、現在のところそれが支障をきたしているとは感じられない。音声データがあったのなら、戦闘の狂気に抑えきれない嬌声を上げていたかもしれないそれが、中空からカメラの真上に長刀を突き立てにかかる。

 映像は、間近に迫った黒い機体を捉えたところで止まった。これを撮影した人物がどうなったかは察するに余りある。どんなに優秀な性能を持つ戦闘車両に乗っていたとしても、運命は変えられなかったろう。

 これが、自分達が相手にしなければならない、新たな悪魔の姿だ。

 沈黙が支配する中、花園がそれを破った。

「なるほど。戦闘機みたいに急激な機動を行うわけではないのね。慣性を無視するような動きは見せていない。戦車には無理だけれど、PGTASになら捉えられる隙が存在する」

 ラップトップの画面を閉じながら、できのいい生徒を褒める教師のように日向は微笑む。

「そういうことだ。敵の機動は意外に直線的であり、即ち未来予測が容易だ。勿論、実際の航空機や誘導弾に比べれば遥かに柔軟だが、いくら黒いPGTASと言えども慣性の法則からは逃れられないし有人なのが玉に瑕だな。おれたちが突くべき弱点は、そこだ。予測射撃の精度さえ上げればいくらでも対処法はある。必要最低限の動きで方向をベクトルに合わせて指向し、砲撃。それしかない」

「ちょっと待ってください」鷺澤が再び手を挙げた。「ボレアースでも、倒すには何発も撃ち込まなければならないんですよね。場合によっては味方を頼れるとしても、戦力になるのは車輛かPGTASに限られるでしょう。そんな状況でじゅうぶんな数の砲弾を叩き込めるでしょうか」

 いつの間にか封を開けた烏龍茶に口を付けていた有沢が口を挟んだ。

「どれほどの数を揃えようが、敵は結果として圧倒的な質的優勢に物をいわせてくる。忘れてはならないのが、敵はボレアースとギガスだけではないということを忘れるな。四足もいれば戦車型もいる。浮遊機だって何千といるかわからん。我々に投入可能な機体の全てが紫雲であったとしても、対ボレアース戦闘に割けるのは限られる。しかも、通常の無人兵器相手なら紫雲でなくとも事足りる」

 現実的に考えて、回避と攻撃は別の行為である。陸上兵器は歩兵戦闘車から戦車、PGTASまで幅広いが、押しなべて弱点を持っている。それは、決められた動作しか行えないために、回避と攻撃の両立が難しいことだ。

 射撃統制システム、及びヴェトロニクスの発達に伴って浮彫になるのが人間の精度の低さだ。皮肉なことに緻密さでは人間は被造物に遠く及ばない。精密であるが故に、人間が指定した座標が僅かでもずれれば外れてしまう。ましてや不安定な人型ともなれば、いかな蒼天と言えども走行間射撃の命中率は九割を割る。一四〇ミリ滑腔砲でなければ有効打足り得ない。PGTASは命中精度では主力戦車に一歩譲るのだ。

 その点、紫雲は神経接続することでこれら人型兵器の非柔軟な面を大きく改善した。通常の操縦方式と違って多大な戦闘能力向上を果たしたのは、一重に新たなことと、古いことを同時に実行できることが可能であるからだ。

 身を伏せながら正確無比な一撃を放ち、地面を捲り返して大減速しながら対甲射突槍を撃ち込む。さらに素早い。撃って、走って、飛ぶ。隠れることもできて、状況により多彩な戦術行動を取ることができる。日本国が夢にまで見た白銀の巨人の強みは、これをPGTASの大火力と併用して投射できることだ。だからこそ、紫雲は、強い。対甲射突槍や火砲の火力を最大限に生かすだけの潜在能力があればこそ、黒いPGTASにも対抗できる戦力となる。腕のいいPGドライバーである、ハミングバード中隊やズィーベン・スタックシェルトですら及ばない次元の戦闘力だ。

 一方で、こうした兵器の一長一短は、軍事学的なフレーム問題に対するひとつの回答でもある。先行入力や遅滞入力などの方式も提唱されたが、総じて即応性に劣った。神経接続ならば一瞬で全てを判断して即応できる。

「紫雲四機の戦力乗数は、同武装の蒼天三個中隊に勝るという結果が出ています」

 花園の言葉に、ドライバー四人は驚きに眉を上げた。彼女はどこか誇らしげに微笑みながら、日向からひったくったラップトップを叩いて情報を表示する。

「皆さんは意識していないでしょうけれど、既に撃破数は他に類を見ない程の数値になっているんですよ。四足を六二二、戦車型を一五四、浮遊機型を五十二、PGTASを四十九。そしてギガス。これだけの戦果を挙げている部隊は、他にハミングバード中隊とズィーベン・スタックシェルトがありますが、どちらの部隊も戦歴では我が中隊よりもかなり長いのです。時間当たりのキルレシオは間違いなく世界最高でしょう」

「勲章が、それを証明しているというわけか」

 そこで初めて、日計は胸に略綬を付け忘れているのを思い出した。全員の目が自然と青年の胸に注がれる。鷺澤は自身の胸を見下ろして、やや不服そうに青年へ目を移した。

 参謀本部から授与されたオリーブ葉付銀鉄十字勲章。これを受け取った者は、百万の兵士の中のたった百数十名に過ぎない。その重みがのしかかるようで、日計は息苦しさを覚える。

 ロッカーにつり下がっている正装軍服。胸にひとつだけ燦然と輝く、鉄で彩られたオリーブの葉を見つめるたびに思い出すだろう。あれを手に入れるために何人を救えたのだろうか。しかし当人たちにとっては、何人のほうが記憶に残っているのだろうと。

「ここまで論じておいて、元も子もないようなことを言うようだけれど」日向がぼそりと呟くように、「あんたらにできなきゃ誰にも無理だ。だけどそれ以上に、この作戦に参加しなければならない理由がある」

 彼はどこか悲しそうに、意味深長な感情を込めた目で有沢を見やる。

「そうでしょう、有沢さん。あなたはそういう人だ。たとえ人類全てが紫雲を装備していたって、自分たちが行くべきだと主張するでしょう」

 有沢琢磨は腕を組んでしばらく黙考した後、顔を上げて、言った。

「それは少し違うぞ、日向。わたしはそれほど自惚れてなどいない。この立場に在る者、黒いPGTASに対抗できるのがわたし達だけだからこそ、逃げたくはないだけだ。ここで我らが逃げれば、世界から後ろ指を指されても文句は言えん。お前たちを恥知らずにはしたくないし、自分もそうなるつもりはない。こいつは義務や責任とは微妙にずれた、仁義であり人情の問題だ」

「利己的な戦闘集団ですね。自分たちのために戦うのですか。部下もそれに付き合えと?」と東雲。

「兵士なぞ、皆そうだろう」有沢はきっぱりと言い切った。「職業軍人であろうとなかろうと、兵士は兵士だ。主義主張では、銃弾も誘導弾も止められない。極論はそこに尽きる。問題なのは、軍人は世間から野蛮と揶揄されようとも、自分達を蔑ろにする人々そのものを守らなければならないというジレンマを抱えていることだ。さらにいえば、それを目的にすることはない。結果として日本が守られればそれでいいし、大切な誰かが安息の日々を送れるのならば命など惜しくはない。しかし何かひとつのためだけに戦うつもりもない。日計、わかるか?」

 突然に話を振られたが、しっかりと耳を傾けていた青年は頷き返し、自らの考えを述べた。それは数日前の彼とは見違えるほどに大人びた仕草であるように鷺澤には見え、確かに鼓動が高鳴るのを自覚した。

「自分と鷺澤は、横浜港襲撃事件をきっかけに自衛軍に残りました。あの後、ぼくらはお互いのために戦おうと決めたからです。お二人は横須賀の病院でぼくたちをスカウトしに来てくださったのを、覚えていますか?」

「もちろんよ。あの時はアイスコーヒーを飲みながら、二人で柵によりかかっていたっけね」

 深い感慨と共に、日計は頷いて遠い目をした。

 あの暑い日、横須賀へ訪れた二人と顔を合わせたのはあの日が初めてだ。日計洋一も鷺澤朱里も、アレースのエネルギー投射砲から逃れるために横浜ベイブリッジから海面へ向け、百メートルの高さを蒼天ごと落下した。二人で橋梁の残骸の上に意識を失って横たわっていたところを救助され、病院へ搬送された。

 あの日から、この鷺澤朱里という女性は、自分にとって唯一無二の存在となったのだ。一人の人間として認めたということではない。彼女という概念が他に類を見ない、当たり前に自律した存在だと感じ始めた、あるいは自覚したのだ。

 人間とは不思議な生き物で、対人関係において近しい間柄の人物は、かけがえのないものだと感じつつも気付かぬ間に他人で代替してしまう。間違いなく相手を愛しており、大切に感じているからこそ代わりを求めてしまう。結局は興味関心などは移ろうもので、それは常に揺れ続けている人の心に由来するのだから、至極当然な話だ。

 となれば、愛情は錯覚だろうか。この意識でさえも?

 いや、そんなことはあるまい。

 根拠のない否定を反射的にしている自分に、日計は驚く。短すぎる思考の残滓を追いかけて、その理由を知る。

 この胸に抱く愛情が空虚なものだと宣告されては、人間である限り抵抗もしたくなるというものだ。それが有沢の言う仁義であり人情。この感情を忘れてはならない。だからこそ人間は戦うのだと、ヘルフィヨトルに思い知らせてやらなければならない。ベイカー医師と話したことが、その理由だ。

「人間は生物ですから、自分本位な行動しかとれません。ただ、心というものがあるから、自分のためになる行為の範囲がとても広くなっているだけだ。心とは、他人の喜びが自分の生きがいになるシステムのことです。だから、我々は他でもない、我々のための戦いをすればいいということでしょう」大きな感情を込めた眼差しで日計は鷺沢を見つめ、「戦う目的はいくらでも変えられる。だけど戦いに赴く理由はまた別にある」

「その通りだ。まったく、短い間に貴様らも一人前になったものだな」

 と、有沢。満足げに頷いている。微笑みさえ浮かべながら、彼は組んでいた腕を解いた。

「この中の誰も、唯我独尊を貫いている人間などいない。誰もが誰かのために戦おうとしている。それがわたしには誇らしいし、ヘルフィヨトルには理解できないことだろう。それこそが我々の武器であり、誇りで、名誉だと自覚しなければならない。最初の五人は強大であるが故に、共闘や思いやりの精神に欠けている。そこが弱点だ……」

 自分の言葉の端に浮かんだ手がかりを追いかけ、有沢はコンクリートの敷き詰められた床面を見つめる。

「そうだ、分散させればいいのだ」

 やがて呟いた彼の言葉に、日計は両眉を吊り上げた。

「ボレアースとギガスを、ですか?」

「そうだ。両者の機動力には埋めがたい差がある。上手くボレアースを挑発することができれば、合流は容易に防げるはずだ。ギガスを釘付けにするのならば通常兵力でも可能だから、日向の考え通りにボレアースを各個撃破できる公算は大きい。これは有効な戦術だろう。単純だが、上手くいきそうだ」

 鷺澤が顎を抑えて考え込んだ。有沢が興奮冷めやらぬ表情でいるのは、言うまでもなく稀有なものだ。物珍しく見込む間もなく、隊員達は彼の言った作戦を吟味し始める。僅かに見え始めた希望に、各人の瞳が熱意に煌めいた。

「戦力分散ですか」口を開いたのは鷺澤だった。「定石といえば定石ですが、そう上手くいくものでしょうか? ギガスとボレアースはお互いの弱点を補完し合う存在です。ドライバーがそれを意識しないとは思えません」

 意外にも、肯定的な意見を呈したのは日向だった。

「いや、勝算はある。黒いPGTASの資料映像はほとんど目を通したが、ボレアースは野性的な戦いを好む傾向がみられる。ギガスはといえば、巨体故に速度は出ても柔軟に対応はできない。挑発さえすれば釣り出しは可能だろう」

「方針は決まりだな。詳細を詰めよう。場所を移すぞ」

 一行は兵舎へ向けて歩き始める。最後尾について歩き始めた日計の隣に、鷺澤が寄ってきた。

 彼女の黒髪に手を伸ばし、撫でる。驚いたのか、目を丸くして見つめ返してきた彼女は、微笑みながらされるがままに頭を彼の肩に擦り付けた。東雲らは場を察して足早に歩み去る。

 手を離すと、彼女は名残惜しそうに日計の手を見つめて身体を離した。

「ありがとう、鷺澤」

 彼女はまた微笑み、彼の手を握った。

「これが女の務めってやつよ。手紙の返事は書けた?」

 胸ポケットを軽くたたき、日計は片眼を閉じた。

「おかげ様でね。ぼくは誰かを泣かせてばかりだと思っていたけれど……」

「けれど?」

「本当に馬鹿なことをしてると痛感したよ。ぼくの考えは、ぼくだけのものじゃない。そうだろ?」

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