第三十五話

 消毒液の清潔な香りが、各人から立ち上る汗のにおいと入り混じって鼻腔を刺激した。不快感を感じるのはそのせいだろう。医務室に集合した中隊員らは一様に顔を顰めてはいるが、医療の現場特有の居心地の悪さだけがその原因ではなかった。

 最低限度の生活水準を指標にして建設された兵舎の中では、医務室はそこに詰める人間の体調を考慮して最適な空調が行われている。さらには感染症の予防のための防疫設備や隔離治療室も備えるため、外気をそのままに取り込むような構造にはなっていない。胸に吸い込むのは純粋な意味での空気ではなかった。これほど人工的な手を加えられた空気を吸い続けるのは逆に健康を害するのではないかとさえ思える。涼しい風を吸っては吐いて、目の前に横たわる青年の胸が上下するのを、複数の男女で見つめる奇妙な時間が過ぎていく。

 ただ一人、寝そべる彼を全員で見つめているのはまるで葬送だ。死者を弔って今生の別れを告げる場面。まるで棺桶の中を見つめているようだと鷺澤朱里は感じたが、そんな不吉な想像を振り払うように頭を振った。

 望月美奈子に至っては涙で顔をくしゃくしゃにしている。有沢琢磨だけが鋭すぎる視線を、遺体よろしくベッドに横たわる青年に射込んでいた。厳しさと憤りの混じった眼差しはしかし、青年へ向けたものではない。彼をここまで摺り減らした己自身か、南極戦争を始めたヘルフィヨトルに対してか。まるで、念じれば彼が独りでに起き上がるかと信じているかのようだ。その視線の先を幾度目かになぞりながら、鷺澤はぼんやりとした頭で考える。

 どうして彼がそこまで青年に対し険しい態度を取っているのか、鷺澤には理解できた。何故なら、彼女も同じように、心の表層にふつふつと湧き上がる自戒の念を怒りへ転嫁しているからだ。部下の異常を見抜きながらもここまで悪化させた事実は、清廉潔白な人格故に矛先を自分へ向ける。同じような男を愛しているからよくわかった。

 隣の部屋へ続く扉が唐突に開いた。視線が注がれる中、先ほどまで多くの機器を用いて青年を診ていた民間の医師が姿を現す。短い金髪を携えた、緑色の瞳が印象的な初老の女医だ。まだ壮年というには若いようだが、ナイロビを始めとしてアフリカで医療に従事する者特有の、世界の不条理を憎む、挑むような眼をしている。顔に刻まれた皺のひとつひとつに、命を看取って何かに苦悩する人生が表れていた。

 女性医師は白衣のポケットに突っ込んでいた手を大義そうに引っこ抜くと、顔の前で一頻り振った。

「脳波に心拍、血圧と現段階で判明するあらゆるものを検査したけれど、異常は見られなかったわ。こうなると血液検査までしたいところだけど、発熱もしていないのに血を抜いたところで意味はないでしょう。とにかく命に別状はない。安定していると言えます」

 何人かの大きく息を吐き出す音が重なって響く。その内のひとつが自分のものであると鷺澤は気付いた。

 患者が何ともないことを確認できたからか、女医は嬉しそうに微笑むと、すぐに仏頂面に戻って顎をしゃくって日計を示した。

「でも、肉体が不調を訴えていることは事実だから油断はしないでちょうだい。人間は機械のように、意味もなく唐突に失神したりしないものですから。何も症状を呈していないことからすると、恐らくはストレス性の自律神経失調の結果、眩暈を起こしてそのまま意識を失ったと思われます。要は気を張り詰めていて、少し緩んだ時に、ふわっとね。前線に近いからかしら、ナイロビだと無視できないほど多いのです。一時的なもので、休息を取ればきちんと回復しますよ」

「丁寧なご説明、痛み入ります。感謝します、ドクター」

 深々と、有沢は頭を下げた。女医はもう一度手を振る。今度は年相応の女性らしい笑顔と共に。

「礼には及ばないわ、一尉。むしろ助かる患者を寄越してくれてありがとう。とにかく、この寝台は空いているからこのまま寝かしておいて、目が覚めたら少し経過観察をした後、帰隊してもらうことにする」

 軍人に対して階級を抜きに命令口調となるのは、医師が彼らを救う存在であるからだ。或いは、彼らが殺し損ねた何者かを。

了解イエス・メム。何人かで、もう少し付き添っていてもよろしいでしょうか」

「もちろん。仲間が傍にいてあげるのがいちばん、彼には心強いわ。何かあったら遠慮なく呼んでちょうだい。わたしは奥にいるから。もしいなかったらベッカーという名前で呼び出して」

 ぶらりと医務室から女医……ベッカー医師が出て行った。しばらくまた彼の様子を見つめていた有沢はひとり頷くと、わたしは執務があるといってその後を追いかけていった。日向と花園が携帯端末に整備班からの着信を受けて席を外し、最終的に望月、東雲、そして鷺澤の三名が彼の元に残る。如何せん突然の出来事だったため、各人が仕事を放り出して駆け付けたのだ。

 ナイロビ基地の上空を緊急離陸した空軍機の編隊が響かせる、ターボファンエンジンの甲高い排気音が轟いた。少し立て付けの緩い窓ガラスが不安になるほど振動し始め、それが収まる頃、東雲が言った。

「マルサビットであいつらが何かしたのかしら」

 口走った疑問に、東雲は彼を見つめたまま首を振った。あいつら、というのは最初の五人のラガード・トリセクスカとエセックス・ブレイナンを指していることは、すぐに鷺沢には理解できた。

「いいえ、それはないわね。どんな細工であれ、この三人や情保隊員、他の多くの兵士に影響が出ているはず。生物化学兵器の真骨頂はそこにこそあるのだし」

「敵の兵器によるものだとしたら、既に彼やわたしたちの命は無いでしょう。やはり、ベッカー医師の言うように神経性のものでしょう」

 人類抹殺のための細菌兵器散布。ぞっとしない話だ。瞬く間に死の息吹が大地を舐めるように吹きわたり、無人兵器が人のいない大地を跳梁跋扈する光景を思い浮かべてしまう。国連軍の装甲兵器には核戦争下での戦闘行動を想定したNBC防護システムが完備されているが、それでも戦闘行動に重大な支障が出ることは避けられない。歩兵は消え、敵ほどに柔軟な行動の行えない戦闘車両の群れが為す術もなく蹂躙される。

 縁起でもない想像はするものではない。顔を上げて東雲の憂えた表情を見つめた。

「東雲さんは……機体と彼の症状が関係しているとお考えですか?」

 わざと言葉を濁したのは、隣に望月がいるためだ。彼女はあくまで民間の扱いであるため、軍事機密を聞かせるわけにはいかない。さらに、この医務室も盗聴されている恐れがあった。国連軍の管理下にある物品は基本的に情報保全隊による洗浄が行われているが、空間的、量的に全てを網羅することは不可能に近い。

 言外の意を汲んだ東雲が頷く。

「因果関係は否定できないでしょうけど、専門家ではない者の意見は無用の長物ね。こればかりは早とちりするわけにはいかない」

 第三世代概念実証機である紫雲の不備。というよりも、神経接続操縦方式による人間への健康被害というべきか。そうなれば最悪だ。信頼性は極限まで落ち込んだと判断され、稼働率が大幅に低下する事態にも陥りかねない。日計洋一の症状は中隊員全員へといずれ降りかかる問題となるだろう。

「とりあえず日計くんの命に別状はないですし、東雲さんは戻られてはいかがですか。執務や日向さんたちとの打ち合わせがありましたよね?」

 迂遠な言い回しだが、確かに意図は伝わったらしい。東雲は頷き、踵を返した。

「そうね、後ろ髪を引かれる思いだけれど、任務を放棄する訳にはいかない。噂の反攻作戦のこともあるし、準備をするに越したことはない。それじゃ、何かあったらすぐに報せてちょうだい」

「了解」

 彼女は去り際に意味深長な視線を望月へ投げて、医務室を後にした。

 さて、と気を取り直して鷺澤は望月を振り返る。彼女はもう泣き止み、鼻を啜りながらハンカチを取り出して赤い目を拭い続けた。アフリカに勤務する女性全てに言えることだが、化粧はすぐに汗で流されてしまう。化粧品会社は流れにくい商品の開発競争を行っているが、こればかりはあまり改善の兆しがないし、暑苦しい中で化粧をしようとする女性はあまりいない。

 それでも美しさを損なわない相貌を正面から見据え、鷺澤は言った。

「美奈子さん、大丈夫ですか?」

「ええ、なんとか。それにしてもよかったわ。彼が無事で。何事もないのよね?」

 理由のわからない怒りが湧きあがった。全身の毛が総毛立つのを感じる。

「ええ、ベイカー医師の話では。でも、そもそもはあなたが彼に何かをしたんじゃないですか?」

 ショックを受けたのか、望月は口を開けて顔面を蒼白にした。すぐに憤激で顔が赤くなる。芝居だとすれば大女優ね、と冷めた目で感情の移り変わりを観察する。

「何を、言っているの? わたしが彼に何かしたと? あなた、気は確かでしょうね」

「もちろん、今ここで眠っている彼よりは正気に近いでしょうね。あの時、屋上で彼と何を話していたのはどうしてですか。そもそも屋上へ行く必要があったの? 二人きりになれる場所を探していたとか?」

「言いがかりだわ。わたしが彼を害して何になるのよ。わたしは彼を――」

 先に続く言葉を口にすることを、鷺澤は許さなかった。最後に残っていた理性のタガが外れ、両手の拳を握りしめ、燃える瞳で彼女を睨み付ける。

 湧き上がった怒りと殺意に、望月はひっと声を上げて身を引く。彼女が一歩を下がるごとに鷺澤は二歩を詰め、望月のシャツの襟をつかんで引き寄せる。視界一杯に、悲鳴を上げる寸前の女の顔が広がった。

「日計くんは紫雲のドライバーよ。誰であろうと機密情報欲しさに国連へ身を売ったとしても不思議じゃないし、その価値は値千金だから。最初から怪しいと感じていたわ。突然に彼に興味を持って近付いたのは何のため? 内気だなんだって言っているみたいだけど、本当にそうなら、格納庫で機密の塊である紫雲のドライバーに話しかけたりするものかしら」

「わたしが彼に会ったのは、そうしたいと思ったからよ。国連の工作員なんて、酷いわ。好きな人に自分を見てもらいたいと願うのは、女として当然のことでしょう? あなただって同じのはず」

「誰があなたとなんか。自分可愛さに離れることしかできないくせに」

「いいえ、同じよ」

 彼女も怒りの色を露わにして声を震わせた。力を込めて鷺澤の胸を押し、体を離す。

「あなたは彼と横浜で出会ってからずっと、彼の一番だった。だから理解できないんでしょう。愛されたいのなら、愛するしかないっていうことが。誰かが喉から手が出るほど欲しいものが無償で与えられていることに、そろそろ気が付いたらどうなの」

 それはわたしが強制したことじゃない。そう言いかけ、鷺澤は言葉を飲み込む。怒りで沸き返る炎の中で、この女性の芯の強さに驚きを禁じ得なかった。それは彼女が国連から放たれた工作員なのではないかという、今まで薄々感じていた疑問を薄めさせる程度には説得力を持っている。

 僅かな間隙に入り込んできた冷静さが、一時の怒りに身を任せていた己への嫌悪感を誘った。東雲ならば、また「若い」というだろう。その青臭さが今の自分に本当に必要なものなのかがわからず、困惑して目を逸らしてしまう。

 鷺澤朱里を突き動かしているのは愛情に他ならない。思慮を超えて働く感情に左右されやすい若者らしいと言えるだろうが、無条件に肯定されるものではないことくらい彼女は自覚している。激しく揺れる内面は時化た海原となって波打ち、彼女自身を大きく揺らして止まなかった。

 愛されたいのなら、愛するしかない。なるほど、これは真理だ。何をせずとも愛される無償の愛情ほど人の願望に昇華されうるものはない。いわば直結された外部燃料。誰かに愛されていると思うからこそ、報いたくなる。

 確かに、わたしは日計洋一に愛され過ぎたのかもしれない。だからといって誰かへ頭を下げたり、哀れみの感情を持つことは毛の頭ほどもない。望月が吐露した心境は嫉妬とはほど遠いものだった。無論、清廉潔白かもしれない彼女とて、自分へ羨望の眼差しを向けないわけにはいかなかろう。そう思いなおし、言葉を探して唇を強く噛み締める。

 彼女が受けたい愛情が一身にこの身に降り注いでいる。鷺澤は力なく、日計の横たわるベッドの端に腰を下ろした。そして両手で顔を覆い、強くこすった。

「ごめんなさい、美奈子さん」

「いいのよ」

 彼女は手を伸ばして、その胸に少女を抱き寄せた。姉がいたら、こんな風に慰めてくれたのだろうか。そんな疑問は、傾けた頬に落ちる彼女の涙の熱さで霧散した。

 それは女の涙だった。

 自分は泣いているだろうか、と、疲れた意識の中で鷺澤は思った。或いは、こんなにしとしとと、誰かを温める夏の雨のような涙を流せるだろうか。

 そうでなければ、きっと機械と変わらないのだ。





 殺風景な部屋に物々しい空気が重く満ちている。居並ぶ誰もが苦しそうに眉を潜めているが、中には単純に大人数が押し込められて立ち上る熱気に不快感をあらわにしているだけの者もいる。アフリカの熱い空気は容赦なく室内を摂関している。気温は三十五度に届かんばかりに上がり、空調は焼け石に水ながら水冷式のため、湿度は不快な数値まで上昇していた。

 第一次侵攻から自衛軍を始めとする各国軍の女性比率は劇的な向上を見せたとはいえ、それでも男ばかりの職場には変わりない。指揮官として並ぶ女性隊員たちは、意外にも男性隊員ほどこの空気を気にしてはいないようだった。どこかでそうやって麻痺してしまわなければ、ここまでやってこれはしなかったのだろう。

 だが、やはりこの場には緊張した空気が満ち満ちている。既にかなり感じられる不快感が緊張で倍加していた。

 そのような状況でも口を開かずに押し黙った男女へ向けて、藤宮守陸将補は軽く眼鏡をかけなおした後で厳かに告げた。

「第三管轄軍司令部が決断したようだ。全員、近々予定されている反抗作戦については様々な場所で耳にしていることと思う」

 居並ぶ陸上・航空自衛軍の指揮官たちが息をのむ音がはっきりと聞こえる。その眼差しに興奮した光が宿るのを、有沢琢磨は昏い気持ちで眺めていた。戦闘ともなれば真っ先に敵の矢面に立つであろうPGTAS部隊のいち指揮官である筈の彼は、各人の顔つきから内心の叫びを見て取った。

 遂にこの時が来たか!

 鬱屈とした感情が顔に出ていなければいいが、と、杞憂が心に浮かぶほどに、有沢にはこの定例会議に対する熱意というものが欠けていた。冷め切った覚悟は、勝利よりも敗北を思い描いたものであろう。

 一月二十六日のことであった。二〇四八年始めの月が終わろうかというこの時分に、ヘルフィヨトルの攻勢は激しさを増している。特に日計洋一が倒れてから今日までの戦闘経過は凄まじいもので、隊内での異常と共に高まる敵の攻勢には相関関係があるのではないかと疑ってしまうほどだ。

 フロントラインには充実した装備と人員を持つ防衛部隊が出撃を繰り返していたが、止むことのない波状攻撃と緻密で正確な連携を取る無人兵器群の打撃力を前に、ゆっくりとではあるが確実な敵の北上を許していた。第三管轄軍指揮官である楊李鳴大将は追加の中国軍歩兵部隊の派兵などを行いつつ、総勢十万近い装甲兵器を押しとどめようと指揮棒を振るっている。だがその努力もいつまで保つのか、暗雲の立ち込めている戦況だった。先日のミーティングで鷺沢朱里が指摘して見せた通り、国連軍は日に日に疲弊している。最大限の一撃を敵に加えるには、明日、いやすぐにでも行動を起さなければならない。

 最も深刻なのは戦線正面でなく側面の戦況だ。南東に位置するモンバサ付近から、敵軍は一斉に北西へと侵攻を開始した。これらによってナイロビ基地は東と南から挟撃される形となり、単純な一面を構成していた防衛線は二正面作戦の様相を呈していた。ただでさえ伸びきった戦線の各所で人類軍の反撃も虚しく、ケニア国内の実に二割が敵の勢力下に収まり、この自然豊かな大地から人類の国家体制が排斥される日も近い。

 ケニア戦線が押し切られることを、参謀本部は強く危惧している。マルサビット基地の東まで押し込まれれば、第二次侵攻からAFCHQ参謀本部は二度目の移転を余儀なくされるだろう。言うまでもなく、前線の将兵の士気にかなり大きな影響を与える。決して楽観できる状況でない。ケニア周辺に攻め込んでいる敵勢を受け流すことができなければ、ビクトリア湖を中心として広がる複数の湖を利用した、カンパラ周辺の防備も圧迫される。そうなれば大勢は決したと言っても過言ではない。

 参謀本部は最終的に、ケニア戦線の安定化を第一戦略目標とした大反攻作戦の立案に取り掛かっていた。予てより敵の気勢を削ぐための予断作戦立案は為されていたが、実行するために必要ないくつかの条件が偶然に揃ったために今回の運びとなった、と藤宮は語った。

 藤宮はパイプ椅子に並んで座る指揮官たちの前にあるスクリーンにスライドを投影させた。そこにはケニア=タンザニア国境付近エイサ南部と注釈で記された衛星写真が、場違いとも思えるほどに無造作に貼り付けられている。

 居並ぶ自衛官部たちが前のめりになり、どこの土地かもしれぬ写真を食い入るように見つめた。衛星写真には簡単な緯度と経度が記されており、それはモンバサから北西へと進んだ地点を示していた。藤宮は、これが第四偵察軍の高高度無人偵察機が撮影したものであり、日時は本日未明のことであると付け加えてから、しばらく各人の顔色が青く変わっていく様を見つめていた。

 居並ぶアフリカ派遣戦闘群の指揮官たちが何も反応を示さなかったのは、一重にその余裕がなかったからである。

 衛星写真には、アフリカはケニアの草に覆われた平原が広がっている。薄い緑色をしたアカシアの木を中心として様々な低木が繁茂しており、ヘルフィヨトルの侵攻はやはり人類のみを対象にしたものなのだと再認識させた。

 なぜなら、草原の只中に墨を落としたように、大地には黒い染みが広がっており、そこに自然は当然のように併存していたからである。

 幾重にも放射状に伸びていく黒い隊列は、その全てが四足歩行戦闘車であることは疑いようもない。直上からの撮影のためにシルエットからどのような武装が砲塔に搭載されているのかは不明。そもそも、個体の識別すらも怪しいほどに密集している。すし詰め状態だ。隊列の間を埋めている、葉の上を這うアブラムシのような黒点は補給を行う無人機だろう。

 他に隊形の一角を占拠しているのは四角い形状の戦車型。反対方向には浮遊機型の丸い影。さらには膝をついて静かに佇む量産型PGTAS。自走榴弾砲の長砲身ははっきりと見て取れた。片隅にはPGTASの把持式銃砲を立てかけた武装ラックのようなものも見え、設置型の地対空誘導弾、分散配置された支援用の垂直式誘導弾発射装置VLSなどもあるようだ。

 考えつく限りの敵の兵器が、広大な大地を埋め尽くさんとばかりに広がっている。沈黙が、鍛え抜かれた男たちの肩にかつてない重圧をかけた。

 筆舌に尽くしがたい、夥しい数だ。ビシル平原での戦いで相手取った敵軍よりもなお多い。これらを全て撃破し得るだけの弾薬があるのかどうかさえ疑問に思えてくる。大軍を相手取るには補給線への攻撃が定石だが、恐らくこれだけの規模ならば携行弾薬だけでじゅうぶんに国連軍主力を退けるだけの戦力を持つだろう。

 暗澹たる室内の空気を払拭すべく藤宮は咳払いをし、声を張り上げた。

「よく聞け。まず敵戦力を説明する。第四偵察軍主導でこの画像情報を解析した結果、概算で以下の数字が出た。浮遊機が四〇〇〇、四足が二万、戦車型五〇〇〇、PGTAS一〇〇〇――」

 室内がどよめきで満たされる中、藤宮守が最後に告げた事実が、彼らの喉元に剣を突きつけた。

「――さらに、ギガス、及びボレアースと思われる機影を確認している」

 一転して再びの沈黙が、ブリーフィングルームの端から端までを満たした。今度は重いというよりも、空気そのものが固形化してしまったのではないかと思えた。心臓の鼓動すらも場違いに思えるほど、時が停止した室内で彼らの顔が緊張に引き締まる。そしてその視線が一点に注がれた。

 有沢琢磨が、眉間に皺を寄せてその眼差しを一身に受け止めた。

 単騎で人類を滅ぼし得る戦闘力を持つ黒いPGTASが二機。ギガスだけなら、反射力場をビシルで打ち破っているためにまだ勝機はあるだろう。だがボレアースを同時に相手取ることにもなれば、勝算は万に一つも無いとみていい。肉薄した近接戦闘は紫雲にしか遂行できない戦術行動であり、ギガスの巨体に対して有利だったからこその成功だ。機敏で小回りの利くボレアースがあれを護衛しているとなれば……有沢は最悪ともいえる状況を前に、黒く塗りつぶされた写真を睨み付けることしかできない。

 ボレアースは紫雲より一回り大きい程度のサイズしか持たない、高機動型のPGTASだ。主武装は、彼らが装甲材として使用している金属と同等以上の強度を持つと見られる長刀のみ。遠距離兵装は装備しておらず、ただ刀を振るってあらゆる兵器を切り裂きながら戦場を蹂躙する。全長十二メートルもの刀身を振り回し、背部に搭載された推進装置で時速七百キロ以上の高速を叩きだす。数多の戦車が、装甲車が、人間が、この機体の餌食になった。刀身は幾重にも浴びた血液と燃料をどす黒く光らせた悪魔の姿は多くの兵士に恐怖を植え付けた。

 仮に紫雲が、ビシル防衛戦と同様にギガスの懐に入り込んだとしても、この小回りの利くボレアースに阻止されてしまうのは想像に難くない。それは考え得る限り、国連軍にとって最悪のシナリオだ。機敏な動きをするボレアースとの格闘戦ともなれば、いかな紫雲といえども対抗できるかどうかはわからなかった。

「群長殿、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「許可する、一尉。言ってみろ」

「はっ。参謀本部から、我々――つまり、第七PG中隊に対して、何か言及などはされておりますでしょうか」

 藤宮は腕を組んだ。

「これから話をするところだ。いいか、諸君。これだけの規模の敵軍を相手にするだけでも骨が折れるのはわかるだろう。たとえ核爆弾を用意したところで敵を殲滅することは容易でない」

 骨が折れるどころではない、というむっつりとした沈黙を無視して、藤宮は言った。

「即ち、我々は力だけではなく、知を用いて敵を討つ。柔よく剛を制すのだ。敵の規模を鑑み、参謀本部は作戦を三段階に分割した。段階を踏んで、この大規模な敵軍を殲滅しようと企図している。場合によっては黒いPGTASの撃破も目論み、ケニア戦線の安定化を図るのだ。作戦上の最終目標は即ち、黒いPGTASを含めた敵軍の殲滅となる。無論、優先順位はつくがな」

 途端に、指揮官の間から暗い憤激が煙のように立ち込め始めたのを、有沢は肌で感じ取った。彼自身も少なからず、参謀本部への不満を覚えずにはいられない。

 軍隊とはある意味での不可塑性を持つ組織であるから、上に立つ人間がどんな理不尽を言っても、兵隊は従わなければならない。皮肉にもそれが健全な軍隊だ。規範に則ることで暴力は方向性を定められ、人々に容認される形態へと落とし込まれる。軍が政府へ矛先を向けた事例など歴史を顧みれば道端の石のように多く見つかるであろうが、民主国家の軍隊とは、いかに市民の意に沿った形で武力が行使されるかが焦点となる。言い換えれば個人の欲求や国家権益ではなく、多くの人間の善意が戦争を引き起こす。そして自衛軍は、今や日本政府の承認の下、AFCHQの指揮下にあった。

 明らかに劣勢で、暗い洞穴にさす一筋の陽光より勝算の見えない戦いと言えども、命じられれば赴くのみ。そう心に決めた男女を憤らせるほどの不条理に満ちた命令の根源は、間違いなくギガスとボレアースだった。参謀本部のメンバーに「口ではなんとでもいえる」と諭したところで、両者の見解には決定的な違いが生まれてしまう。

 百聞は一見に如かず。目で見て肌で感じなければわからない情報というものは、確かに存在してしまうのだ。

 藤宮は毅然と胸を張ったままに続けた。彼でさえ胸中穏やかではないに違いない。これまでの戦闘で、藤宮は陸将補という階級でありながら可能な限り前線へ出張って危険を引き受けてきた。隊員たちが暴発しないのも、彼の人望あってのものだ。

「作戦は支作戦と主作戦に分けられる。支作戦では敵の兵力をこちらの戦いやすい決戦領域へと誘い込むため、少数部隊での陽動という形になる。主作戦はさらに二段階に分け、第一段階で敵兵力を減退させる奇襲攻撃を敢行し、その後に態勢の整っていない敵軍を相手取った第二段階が待ち構える。これらを完遂せしめればこそ、アフリカ大陸における敵兵力の減退はおろか、人類が反撃の一振りを敵へ打ち下ろすことになるだろう」

「質問は」

 隣に立っていた鮫島誠が語尾を上げて問うと、複数の指揮官が手を挙げた。彼は順々に指名して処理していった。

「こちらの取りうる戦術行動、作戦計画には、意見を具申する余地はあるのでしょうか。言ってしまえば、この作戦の中での我々が取り得る行動自由度を知りたいのです」

「参謀本部は予てより予断作戦、及び戦闘計画を立案している。前線からの声が届く余地はあまりないだろう。実際の戦闘ではパッケージ化された作戦行動を実行していくことになる。その節々では通常の戦闘と何ら変わらず、諸君らに自由裁量が認められている。ただし、パッケージから逸脱しない範囲で、だ」

「ギガスに対しては対抗策があるとはいえ、ボレアースに対し我々に打つ手はあるのでしょうか。通常兵器だけで奴らを撃退することは不可能です」

「黒いPGTASを相手取った戦術行動については、目下研究中だ。アフリカにおけるボレアースの存在という事実自体が近頃判明したばかりで、具体的な方策は何ひとつ無いと言っていい。現場で遭遇した場合には持てる火力を最大限投射しろ。後退すれば容易に追いつかれるため、迎え撃つのみだ」

「航空兵力による爆撃戦術は行えないのでしょうか。航空優勢さえ確保できれば、あるいは敵を一掃できるでしょう」

「過去最大規模の対空砲兵と航空部隊を招集する。航空優勢確保には全力を傾けるだろう。国連第五方面艦隊が支援に加わることにもなっている。間接砲撃に加えてあらゆる支援を行うとのことだ」

 藤宮は、指揮官達の不満に可能な限り答えた。それはそのまま、前線に赴く将兵たちの怒りに他ならなかった。ひとつとして、藤宮が彼らの精神をなだめすかせるほどの納得のいく回答はできていない。それでも時間は過ぎていくものである。やがてブリーフィングルームの貸与時間限界の十分前になり、鮫島が各自解散させた。こうして作戦を通達する部隊は、日本国だけではない。第三管轄軍全体で同じように作戦の告知が行われている。そして兵士たちが怒りを爆発させているはずだ。

 有沢は何も言わずに時間が終わるまで彼らの声に耳を傾けた。第七PG中隊の運用に関する声が上がれば懇切丁寧な説明を行ったが、それまでだった。答えることと納得させることは両立させ難い。無論、機密に関わらない部分までではあるが、ほとんどは技術的な要件でなく、戦術としてどれだけの行動が紫雲に行えるのかに焦点があてられた。

 最後に、藤宮は兵士達の不平不満を全て自分に通すように、その際の将兵への周知は不要である旨を伝えた。

 退出していく上官たちの最後尾について有沢が部屋を出ようとした時、藤宮は手でそれを制する。

 問いかけるように片眉を上げる彼へ、藤宮は少し残れと耳打ちした。ごつごつと音を立てる半長靴の靴音に紛れてしまいそうに小さな声だった。

 人気のなくなった室内で、群参謀までもが退出した後、藤宮と鮫島、そして有沢が残った。

「一尉」彼は眼鏡を外した。戦闘服の懐からクリーナーを引っ張り出し、レンズを拭き始める。「これは内々の話だ」

「ボレアースについて、でしょうか?」

「流石に察しがつくか」

「ええ。ブリーフィング中になさった回答は真実と見てよろしいのでしょうか」

 苦々しさを微塵も見せることなく、藤宮は眼鏡をかけなおし、頷く。

「そう思ってくれていい。司令部は黒いPGTASは自衛軍の役目だとも言いそうな勢いだ。つまり、対応策は我々が捻り出さなければならない。そこで、だ。そもそも紫雲でギガスとボレアースを相手取ることは可能なのか?」

「それにつきましては――」先ほど答えました。と言う前に、藤宮は威圧的な視線を射込んで来た。

 彼は言った。

「先に伝えておこう。わたしは味方を鼓舞するために、希望的観測を交えた君の個人的見解など求めてはいない。現実を教えてくれ、一等陸尉。正しい情報でなければ正しく判断などできん。さもなければ負けることもできないだろう」

 有沢は恥じ入った。無言のまま一礼する。

 負けることもできないとはどういう意味だろうか。藤宮守の婉曲な言い回しに、頭を下げながら内心で首を傾げる。

 つまり、今まではいくら敗北しようとも次があったのだ。ジュバでもキンドゥでもビシルでも、敗北の後に新しい戦いが待っていた。だがこの戦いで一手でも戦局を見誤るようなことがあれば、稼働するほぼ全ての部隊ごと殲滅されるだろう。明日の反撃など夢見る間もなく、第三管轄軍は壊滅する。自衛軍は限りなくシビアな状況に置かれている、その重圧を藤宮は感じているのだ。

「勝機はありません、群長殿」

 悲哀な色が現れないように細心の注意を払って、有沢は言った。口にするだけで息苦しくなる。

「ギガスのみならば、未だに反射力場が復活していない可能性を考慮に入れ、撃破できる見込みはあります。ですがボレアースを相手取るには、既存のどんな兵器も柔軟性に欠け、そして決定打に劣ります」

 両者の間に満ちた沈黙を破ったのは鮫島だった。

「あれの資料映像を見たが、凄まじいの一言に尽きる。六十トンの主力洗車を複数串刺しにして放り投げ、背後から迫る超音速の誘導弾を長刀で切り払っていた。あの猛々しくも獰猛な戦いを見ているだけで、搭乗者の好戦性が伺える。このままでは、継戦能力の続く限りに我が軍は蹂躙されるだろう。文字通り、奴は剣が折れるまで殺し続けるに違いない」

「遺憾ながら小官も同感であります、一佐。敵の攻撃を防ぐ術がないにもかかわらず、こちらの攻撃は必ずしも有効ではない。近接戦闘は人類にとって最も不得手とするものであり、対処できるのは恐らくPGTASのみでありましょう。そのような戦闘で効果を発揮するのは紫雲のみであり、それでもじゅうぶんではありません」

 黙り込む鮫島に代わり、今度は藤宮が口を開いた。

「有利不利を挙げても意味が無いほど、彼奴は人間の手に負える相手ではない。いいか有沢、参謀本部は自衛軍に黒いPGTASの対処を命じるだろう。そしてわたしは、任せるほかない。その前にも試練はあるが対抗できるとすれば君達しかいない。単純な消去法だ、ちくしょうめ」

「どういうことでしょうか?」

「先ほどの話だ。まだ正式な辞令ではないために説明はかなわんが、君には伝えておこう」

 突然に老け込んだように見える藤宮はしかし、毅然とした声色で告げた。

「主作戦の第二段階はな、PGTAS部隊のみで敵地へ赴いて機動攻撃を仕掛け、敵戦力を減退させるという馬鹿げたものなのだ。我が戦闘群からは巣鴨の第二二一PG大隊と、君の第七PG中隊がこの作戦に組み込まれる。巣鴨は指揮官、貴様は懐刀というわけだ。間違いなく、戦闘の矢面に立たされる。君達は数万の敵軍を相手取り、たった――たった数百のPGTASでそれらを相手取らなければならない」

 彼は眼鏡をかけなおすと、踵を返して壇上に戻った。鮫島と有沢が震えるその背中を見つめていると、不意に振り返り、教壇のように張り出した台の上に人差し指を音を立てて突き立てた。

「それだけじゃない。ギガスと、ボレアースの、目の前に、だ。これの意味が理解できるか?」

「はい、はっきりと」

部下をそんな地獄へ送れと、上の連中は言っているんだ。勝ち目など万に一つもありはしない戦いだ。決戦を考えればどう考えても弾薬が足りず、砲兵支援も高性能榴弾しか期待できない。近接航空支援CASなど以ての外だし、噴進弾は撃ち落される可能性が高い。飽和攻撃も本戦までお預けだ。弾薬は温存されなければならないからな。文字通り孤立無援で、諸君らは敵と相対するのだ」

「群長殿。我々はどんな命令にも従いますし、必ず完遂して見せます。それに、まだ確定した訳ではないのでしょう?」

「もう、既定路線として話し合われているんだ! いいか、今更言うのも心苦しいばかりだが、わたしはビシルで君達が信頼に足る兵士だと知った。多くの者と同じように、第一技術試験旅団は信頼性の低い、ただの実験部隊だという認識を捨てた。君は取り分けて優秀な指揮官でもあり、部下でありながら敬服に値する戦士だと。だが、今回はその信頼と畏怖を捨てさせてほしい。今回の作戦で間違いなく君達は死ぬだろう。二十歳を過ぎたばかりの若者も含めてな」

 項垂れるようにして、藤宮は演壇の表面に視線を落とし、穴も開くかと思えるほどに強く睨み付けた。

「だが、次回は? 次々回は? ギガスとボレアースを各個撃破する機会は来るだろう。来ないとも限らん。何も、今戦う必要はないのだ。その時を待てば、それで事足りる。なぜ、上層部はこんな簡単なことがわからないのだろう?」

「戦うべきでない時に戦うように命令が出ている、ということですね。最善ではない。それが我慢名ならない、と」

「その通りだ」

「マルサビットでは、我が隊の隊員のこともありました。まさか、参謀本部内で我が国に反発する一派が関与しているのでしょうか」

「考えたくはないが、大いに有り得るだろうな」と、鮫島。「わたしと群長は、この件に関しては本国へ報告するのが妥当だという意見で一致している。外交ルートを通じてでも君達を守り通したい。時間はかかるだろうが、今の日本の発言力は増しているから夢物語でもあるまい」

「ありがたいお言葉ですが、辞退させていただいてよろしいでしょうか。我が国はPGTAS技術の開示によって、安保理でもようやく常任理事国との摩擦が軽減され始めた矢先です。ここで彼らに反感を募らせるような言動は慎まれるべきです。国益を損なう結果ともなりません」

「身命を賭して国に尽くす、か。まさか君の身を案じているのに、当人から拒否されるとはな」

 皮肉めいた鮫島の言葉に、有沢は深々と頭を下げた。

「頭を下げるな、一尉」藤宮が苦悩の表情で、「確かにそれが軍人としての在り方であり、義務であって、正義だ。職業軍人ならば尚更な。市民のために、我らは命令には従うべきだし、その中で最善を尽くす。しかし自衛軍とは、人が死ぬことに最も敏感な軍隊だ。訓練でも人死にはあるというのに、奇妙な体質だ。だがわたしはそれは正しいと思う。断じて、意味があろうとなかろうと、人が突然に死んでしまう世の中は気に食わない。戦って死ぬにしても何か意味を与えてやりたい。わたしはそう考えている。君は、そうではないのか?」

 死ぬにしても、無駄死にはさせない。それが藤宮守が、自らの魂に課した誓約なのだと理解するのに時間などかからなかった。

 参謀本部、ひいてはアレクセイ・アルツェバルスキーなどの、第三世代PGTASである紫雲や日本国自衛軍そのものを忌避する勢力にとっては今回の作戦は青天の霹靂だっただろう。黒いPGTASに対抗できるのは紫雲だけ。ギガスやボレアース単体ならばまだ生き残る確率はある。

 二体同時とあっては、どう足掻いても生き残ることは絶望的だ。

 いつまでも答えられないまま、有沢はひたすらに胸の内に散らばった覚悟をかき集めることしかできなかった。



 よく考えておけ、という一言と共に解放された有沢琢磨は、その足で東雲南津子を捕まえに歩いた。今回の一大反攻作戦について、副指揮官として真っ先に作戦概要を聞かせておく必要がある。現状で日計洋一が使い物になるかどうかの判断はその後だ。まずは何をするのかを見定めなければ、何をすべきかが定まらない。

 あの青年を避けているのは否めないな、と廊下を歩きながら有沢は自嘲的な感慨が胸に溢れるのを自覚する。恐れているのではない。むしろその逆だ。このままいけば、日計へ向けて辛い一言を放ってしまいかねない。部隊長として使えないと判断した戦力は、即刻外科手術的な対処が必要である。これから控えている作戦の重要度に関わらず、どれほど小規模な戦闘であっても、万全を期す義務が指揮官にはある。だからこそ、日計には立ち直ってもらいたい。誰にもわからない彼の苦悩を軽減できるのは、鷺澤だけだ。

 あの二人の若者はこれ以上ないくらいの清涼剤だ。部隊に良い影響を与えている。それは隊の設立から全員と顔を合わせている有沢が切実に感じ取り、感謝している部分でもあった。

 若者が来るのと同時に、日向と東雲は雰囲気が柔らかくなった。上官としてではなく、年長者としての役割が彼らの姿勢を変えたのだろう。活気にあてられ、花園も頻繁に笑顔を見せるようになり、今では引っ込み思案から抜け出そうと懸命にコミュニケーションを取ろうと努力を重ねている。本当に、あの二人が来るまでは雑談こそすれど、その顔に花の咲くことなど稀だったのである。

 彼らが習志野駐屯地へと東雲に連れられてやってきたその日、第七PG中隊は完成したのだ。互いに慣れていないからこそかもしれないが、真の意味で仲間であると認め合った裏には、若者たちの存在が大きく寄与しているのは間違いない。確かに存在したが、変化は革命的なものではなかった。一方で、緩慢で保守的なものでもなかったといえる。少なくとも、見ていて不快感は感じない流れであったのは確かだ。

 有沢の見た限り、あの二人には痴情の縺れなど皆無であることがさらに僥倖だった。男女関係はどうしようもなく醜い一面がある。愛情とはつまり欲望でしかなく、愛し合うと言うことは欲望のぶつけ合いに他ならない。殺し合いもそう次元の違う話とも思えない彼だった。実際に及ぼす影響が異なることは大きな差異ではあるが、根源的な意味合いで等しいのならば大差ないと考えられる。

 自分は、と、有沢は胸中で独り言ちる。恐れを感じている。大人と比して純真無垢と言ってもいい彼らの真っ直ぐさは正に剣のそれだ。羨ましい、自分にも純朴な時期があったのだなと感慨に耽りつつ、しかしこれからはそうもいくまいと首を振る。

 有沢の抱いている危惧は、若者たちが生きるか、死ぬかという次元で論ずるものではない。死にながら生きている者、生きていても死んでいるような者。情熱に身を焦がすのならば、いずれ身体か、精神が先に燃え尽きるだろう。灰の中から蘇るなどというのはお伽話だ。人間は、誰も帰っては来ない場所へふとした拍子に飛んで行ってしまう。アフリカでは、特に。

 兵舎のラウンジにある自販機で大量の烏龍茶を買い込んでいる彼女を見つけたのは、十分ほど基地内を歩き回った後だった。ポニーテールにまとめた黒髪が少し痛んでいるのを見る。彼女も気が滅入っているのだろうか、そういえば背中が少し丸くなっているようにも見えた。

「東雲、ここにいたのか」

 声をかけると、その黒瞳に光が無いのを見て取った。これは重症だ、と口から出そうになった言葉を飲み込む。

「有沢さん」烏龍茶の山を見下ろし、頭を下げる。「すいません、敬礼ができなくて」

「構わない。しかし、とんでもない量だな。少し貸せ、手伝おう」

 両手で抱え込むようにしていたペットボトルを少し引き受けて、ぼそぼそと礼を言った彼女と共に廊下を歩いた。

 自衛官がちらほらと見え、通りすがった者は敬礼して視界の端を流れていくが、行き過ぎた後ではてと首を傾げていた。あれほどの烏龍茶をどうするのだろうか、まさかあの二人で飲み明かすのでもあるまい、と。この奇妙な二人の道行きは、兵士たちの間に光速を超えて広がり、烏龍茶の使い道を言い当てるという遊びが流行ったのは別の話だ。

 黙ったまま廊下を歩いていく。ペットボトルの擦れる間の抜けた音が、半長靴の音に紛れて何とも気の抜けた空気を醸した。お互いに何を話題にすべきかはわかっていたが、ここで話すことでもないので、適当に会話をして時間を潰す。

「なんなんだ、この量は……ぜんぶ一人で飲むつもりか。まるで底なしバケツだな、お前の胃袋は」

「有沢さんって偶にデリカシーの欠片もないことを言いますよね。一人で飲み切れる訳ないじゃないですか、こんな量」

「お前なら軽く飲んでしまいそうだがな」

 じろりと有沢を横目で睨み付けて、彼女は黙った。冗談のつもりが怒らせてしまったか。むっつりとした沈黙を従えたまま、今は五階にある女子部屋の前までやってくる。

 ナイロビ基地には各部隊用の簡易執務室が設けられているが、一室に机を運び込んで部隊長の執務が行えるように改装されたものに過ぎない。誰かと話をするにも椅子に座らなければ狭いことこの上ない。資料を管理するくらいが精々で、二人とも、隊の運営に関する執務は全て自室で行っていた。第七PG中隊の場合、防諜用に紙媒体で保管されているので、尚更であった。その脇に用意されている男女部屋は隣り合っているので往来には特に不便はないのが救いかと言われれば、用があればすぐに呼び出されることをメリットと呼ぶかは賛否が分かれる。

 女子部屋の入り口で立ち止まり、開けた扉から中に入って寝台の上に烏龍茶のペットボトルを放り投げる。東雲がその場で手招きした。妙な噂が立っても厄介なので、有沢は入り口を開けたままにして足を踏み入れた。

 敷居を跨ぐと同時に男部屋とはまた違ったにおいが鼻をくすぐる。どうにも落ち着かないのを顔には出さず、寝台の間に立って二人は向かい合った。

「それで、日計君のことですよね」

「それもそうだが、まずは先ほどの会議について連絡しておきたくてな。例の反抗作戦、決行される運びとなった。噂が現実になったということだな」

「順序が逆ですよ。事実から噂が垂れ流される。火のない所に煙は立たぬって言うでしょ」

「フム、確かに。どちらにしろ藤宮群長から直々にその旨が通達されたのだ、後戻りはできない段階まで来ているのだろう。上の連中は本気で、たった一度の戦いで全てを覆すつもりらしい」

 多分に皮肉の混じった上官の言葉に靡くこともせず、東雲は思考停止した頭で紡いだ言葉を吐きだした。

「ならば、後はどう戦うかということですね。敵戦力はどれほどが想定されているのですか。それとももう第四偵察軍から詳細な情報が?」

「後者だ。現在確認されている敵軍はビシル防衛戦に比して二倍以上、ギガスとボレアースの存在も確認されている。弱り目に祟り目だがさらに泣きっ面に蜂の状況だ。国連はこの戦いで、アフリカ戦役における主導権を取り返す算段を付けている」

「楽観を超えて無謀ですね。火薬庫の前で焚火をしてただで済むと考えているんでしょうか。まさかアフリカくんだりまできて、お偉方が皮算用をするとは」

 これほど気持ちよく切り捨てられることもあるまい。胸のすく思いで、有沢は微かに口の端を上げた。

 彼女はふくれっ面のまま持ってきた烏龍茶のひとつを手渡してくる。浅い溜息を吐いて有り難くもらい受けた。封を切って一口飲み、少しでも涼しい風を求めて入り口脇で壁に背中を預ける。

 自分も口を付けながら、東雲は言った。

「こうして大っぴらに言うのも気が引けますが、参謀本部も馬鹿じゃありません。机上の空論を実施に踏み切るのには相応の根拠がある筈です」

「それは希望的観測というやつだよ、東雲」

「わかっています。けれど、士気はどん底です。少しでも楽観的にならなければ腰を上げられそうにありません」

「無理もない、か。わたしもそう信じたいが、藤宮群長の口振りでは確たる勝算など無いようだ。ギガスとボレアースの対処を丸投げされた」

「本気ですか? 二体の黒いPGTASを撃破できると踏んでいるのでしょうか。ともすればただ単に追いつめられているのか。実際の撃破方法について何も指南も無いところから見ると嫌な予感がしますね」

「両方だろうな。勝ちすぎた、ということもある。劣勢が覆ってもいないのに、馬鹿みたいな話だが」

「かといって、勝たないわけにもいきません」

「その通り。だが、実態としては参謀本部内部での派閥争いで要らぬ圧力が生まれたというのが実情だろう。李鳴大将がこの無謀な作戦にゴーサインを出すとは、どうしても思えん。妙な話、あの人はわたしと同じ価値観を持っている気がする。直に話したこともないが、日計や鷺澤から聞く限りは、まあ、そんな感触だ」

 へぇ、と東雲は目を丸くして不躾に有沢を眺めまわした。

「珍しいですね、有沢さんがそんな感覚的なことを仰るなんて」

「わたしだって愚痴りたいときはあるさ」言ってから、有沢は申し訳ない気分になった。これまで、東雲とは公私混同を避けて、職務以外で言葉を交わすことはあまりなかった気がする。だというのに、こうして彼女が落ち込んでいる時に限って愚痴を言いに来るとは、いったい何様のつもりだ?

 だが当の本人はあまりきにしていないようだ。形の良い眉を顰めて、指で額を揉む。

「頭が痛くなってきました。これって労災認定できます?」

「諦めろ。そのための給料だ」

「安っぽい給料だわ、割に合わない。使いどころが無いから溜まる一方なのが救いですけれど。ちなみに、最優先戦術目標はどこにあるんでしょうか。まさか、本当に一機残らず殲滅させるとか言いませんよね?」

「最悪の場合、ある程度の敵兵力を削減できればそれでいいと考えている。黒いPGTASについては、日本国に敵愾心を抱く反日派とできる限り生き残らせようとする親日派がせめぎ合っているだろうな。先日のマルサビットの件もある。こればかりは現場で対処するしかない」

「厄介なことこの上ない。どうしてわたしたちの声は無視する癖に、自分達の言いたいことは平気で口にするんでしょうか?」

 無責任を絵に描いた連中だからさ――そう言いたいのとなんとか堪えて、有沢は諌めるように東雲を見た。彼女はまるで悪びれる様子もない。かくいう有沢自身にも、兵士の生命を軽視しているとしか思えない上層部の言動にどんな擁護もしたくはなかった。政治の上で扱われる兵士ほど哀れな命はないのではないかと思うほどに。

「しかしこれではっきりしたな。参謀本部内での派閥争いは、かなり激しいレベルまで高まっているに違いない。第三管轄軍には戦線を縮小して将兵を休ませるべきだというのに」

「藤宮群長本人は何か?」

「この作戦自体に反発しているかどうかは定かではないが、紫雲を無駄に損耗してしまうのではないかと強く危惧している。黒いPGTASを撃破するには時期尚早で、今回でなくともそれは可能なはずだ、と」

「上官は事態を正しく把握しているようで何よりです」

「口が過ぎるぞ、東雲二尉」

「申し訳ありません。ああ、もう。紫雲以外にも黒いPGTASを討ち取る火力があればいいのに。対甲射突槍を量産して蒼天にも配備すればいいのでは?」

「技術的見地から搭載が可能かどうかは置いておくとして、戦車に載せるとしても反動と重量の問題がある。PGTASの複雑な衝撃吸収機能があってこその対甲射突槍だ。それに精度の問題もあるから、近距離での使用に限定される。蒼天の機動力でも懐に潜り込むには足りんし、近接戦闘に必要な柔軟な動きができない。やはり紫雲専用武装だな、あれは」

「地雷が使えれば、色々と解決すると思うんですけど」

「それこそたらればの話にしかならん」

 アフリカ戦役、ひいては南極戦争における地雷の使用は全面的に禁じられている。国連軍は反転攻勢まで視野に入れていた。地雷の多用はその後の自軍侵攻ルートを狭めることになりかねない。さらには、戦後処理はいつの時代でも最重要課題として認識されている。一国内ではなく、アフリカ大陸全域で地雷処理など、国連総出で行ったところでいつ終わるとも知れない大事業だ。それでも局所的に重要な戦闘では使用を許してもいいのではないか、という声がひっきりなしに前線から上がるのも無理からぬ話である。地雷は防衛側にとって、費用対効果の大きい理想的な兵器のひとつだし、確実な効果を期待できる信頼性の高さが売りだ。

 だが、一概に地雷を使えば問題が解決するかと言えばそうではない。ヘルフィヨトルの数的主力である四足歩行戦闘車は、戦車型やPGTASに比して接地面積が極端に低い。スパイク状の金属体を装甲化された脚部が地面に突き立てて直立しているからだ。地雷を踏んだとしても本体である砲塔部には被害が無い。

 地雷の戦術的効率を考えるよりもしかし、藁にも縋りたい思いになる。とどのつまり、あらゆる手を尽くしてでも現状を打開したいと考えているのは有沢自身だった。彼の肩にかかる命は自分のものだけでなく、若者二人と一人の女であるのだから。

 圧倒的多数と自分の知古。命の重さをより現実的に感じ取れるのはどちらであるのか。

「それで、命令を承服されたのですよね?」

「無論だ。先に言うが、群長殿からは拒否権を与えられた上でわたしの一存で承服した。批判があれば遠慮なく言え。如何なる馬事雑言であっても甘受するつもりだ」

「フフ」東雲は怒るでもなく、口元に手を当てて嬉しそうに笑った。

「なんだ?」訝しみながら、有沢は問うた。

「いいえ。これだけ難色を示しながら、二つ返事で返すのはとてもあなたらしい。普通の指揮官だったら上官に直訴くらいはするんじゃないですか? 日計君にとりなしてもらうとか。あの子、どういう訳か李鳴大将とは顔見知りらしいですよ」

 足の先から力が抜けていく感覚に懸命に抗いながら、有沢は唇をきつく噛み締めた。

「誰しもが明らかに死地と呼ぶ場所へ赴くことに、恐れこそ感じれど首を横に振らないのは異常だ。わたしはおかしいのだろうか、東雲。こんな決断ばかりしていて、本当にいいのだろうか?」

 吐露された苦悩の欠片を、東雲はやはり、嬉しそうな微笑みと共に受け止めた。そこで気付く。彼女は、わたしが弱音を吐くのを待っていたのではないか?

「このような言い方は失礼でしょうが」彼女は背筋を伸ばし、ラフに敬礼。「それでこそ有沢琢磨ですよ」

 それは答えになっていない。そう口にしようとし、やめた。東雲が励ますように微笑んでいる。

「わたし達が折れなければ、まだ勝機はあります。日向君たちを招集して話し合いましょう。何か打開策がなければ本当に死んでしまいます」

「東雲」

 ペットボトルを手に部屋を出ようとする彼女の背中に、有沢は声をかけた。

 なぜかはわからない。本当に生きては帰れないかもしれない。そんな直感がそうさせたのだろうか。だとしても。なぜ、彼女に声をかけなければと思ったのだろう。

「なんです?」

 数瞬間迷った末に、彼は首を振った。

「いや、なんでもない。格納庫に皆を集めろ。手配を頼む」

「了解しました、一尉」

 今度はきっちりと彼女は敬礼し、退出した。

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