第三十四話

「公開だ」

 有沢琢磨が言い、味気ないブリーフィングルームに声が反響する。手紙をしたためる手を留めて、日計洋一が顔を上げた。鷺澤朱里は彼の隣で手紙の文面に縫い止めていた視線を外し、部隊長である有沢の仏頂面を見上げた。その顔はどこか呆けており、眼差しには覇気がなかった。

 狭いブリーフィングルームに中隊員が勢揃いしている。壇上に立つ有沢を中心に筆記用の小さな卓がひじ掛けに据えられたパイプ椅子が五つ並べられ、台形に並べられた前三つには東雲南津子と鷺澤朱里、日計洋一のドライバー三名が腰掛けていた。続く後ろの二つには日向道夫と花園咲が座している。他にも三十席ほどが並べられていたが、この他に利用しているメンバーはいないため、非常に閑散とした空気が室内に満ちていた。

 一月十六日。去年ならば出初式宜しく、長袖の戦闘服で駐屯地を走り回っていた。まだPG教練課程に入る前の基礎教練課程の話だ。鉢塚二等陸曹ほどではないが――今となってはほとんどの物事にこの文言を付け加えることができる――厳しく激しい教練は、専門教練ではないために体力的なものが多い。ひたすらに基礎、基礎、基礎……そうすることで、如何なる戦闘でも耐え抜く基本的な力を身に着ける。戦車、PGTAS、歩兵と種々様々に存在する兵科の技術は、その上に初めて実る。

 過去の記憶に比べれば、この時分に半袖で過ごすことにもすっかり慣れてしまったものだ。若者二人が薄らと汗を帯びた肌を戦闘服の短い袖に擦り付けて拭う。

 この二人も成長した。有沢は深い感慨と共に若者たちの視線を受け止める。アフリカの地を踏んだ時、熱気と緊張で頬を蒸気させ、眉根を寄せていた二人。今はまったくの平常心で、次に来る戦いを考えているようだった。少なくとも、鷺澤は。日計の眼差しには、相変わらず覇気がない。

「なんです?」日計が呑気に問い返した。

「PGTAS技術の情報が開示された」有沢は少し眉を潜めながら言った。「二時間ほど前だ。ドイツのファイフェンベルク社へ向け、内閣承認印の押された技術資料が発送された。そこから随時、NAD社、エシア・エルミーニュ重工へ第二世代相当の技術を供与するとの声明が出される。ある意味で蒼天の生産ライセンス譲渡と言えるほどの技術開示であるという。これだけでどうにかなるものでもないが、非常に大きな決断と言えるだろう」

「国防機密の身売りとは……有沢さん、ついに黒田防衛相が折れたのでしょうか」

 東雲の問いに、日向がゆっくりと首を振った。

 昨今の日本に対する摩擦を強めていた常任理事国からの外交的圧力は筆舌に尽くしがたいものがあった。それらを一身に受け止めていたのが外務省と防衛省である。とりわけ防衛省には、第三世代PGTASの技術を独占して世界制覇を狙っているのではないかと言外で揶揄されることもしばしばであった。

「いや、黒田さんは総理の指示無しで方針を転換するような人ではないでしょう。これは総理が決断なさったと見るべきです。きっと防衛相おやじは、最後まで外交官相手に電話口で怒鳴り散らしてたことでしょうさ」

「山岸重工は、既に蒼天改良型へ生産ラインを変更しているそうです」

 全員が花園を見やる。彼女は肩を竦めて全員を見つめ返した。日向以外に対しては口下手になる彼女の声に、中隊員は妙に敏感になっていた。

 言葉の外にある意を汲んで、日計が便箋に目を落としたまま割って入った。

「PGTAS技術の開示により、日本は世界の要請に応えたことになる。少なくとも、安保理はこれまで通りの内容で批難することは不可能になるでしょう。元々の内容が、技術の開示か積極派兵かを選べという色合いも帯びていましたし、反日勢力は急減速せざるを得ないでしょうね」

「それが蒼天の改良とどうつながるの、日計くん?」

「要はどの手札を切るかという問題でしかない、ということだよ、鷺澤。日本はPGTAS技術の開示というカードを切った。対価として先進諸国はPGTAS技術を手にするけど、日本は蒼天を改良して性能の優越を維持する。さらには、PGTAS技術は一朝一夕にものになるものではない。そうですよね、花園さん?」

「その通りよ。ドライバーの方々は操縦の感覚からつかめていることもあるでしょうが、とかく、PGTASは扱いにくい代物です。ただ機体を製造できれば運用できるものでもありません。性能だけでなく、熟練した整備士とノウハウを最も多く蓄積しているのは我が国、ひいては陸上自衛軍です。米独は異なる技術体系を取り組むために四苦八苦するでしょう。結果として改良される機体は、わたしたちにとっては馴染み深いものですが、彼らにとっては扱いにくいものになるに違いありません」

「日向さんの言葉を信ずるのなら、大滝総理はとんだ食わせ者として世界に名を轟かせるでしょう。ここまで引っ張って国際世論の批難を滝行のように浴び続けたのも、安保理に後戻りできなくさせることが目的だと考えれば納得がいきます。結果として、PGTAS技術の開示は最高のタイミングで行われた。政治的発言力のプライオリティは元のままですが、もう安保理は同じネタで日本を強請ることはできなくなる。総理はそう思量されたのでしょう」

 青年の澄み渡った洞察に、各人が思考を反芻して咀嚼している間、花園は驚きに目を丸くしながら頷いた。それこそ、彼女が得た推理に他ならなかったし、その結論に至ったのは一晩考えた後だ。ここでPGTAS技術開示の報せを受けたばかりの日計が、手紙をしたためながら片手間に言い当てて見せた。その一事で、彼の才能――あるいは異能の片鱗に触れた気がする花園だった。

「特技下士官として日計君と同意見です。付け加えるのなら、我が国にはまだ改良型蒼天に加えて、紫雲も存在します。わたし達は末端要員なので全貌は測りかねますが、第三世代PGTASの量産計画もないとは限りません。少なくとも、蒼天以上の性能を持てばいいのです。日本が優位性を維持できるからこその情報開示とみるのが妥当でしょう」

「結局、おれ達は政治的駆け引きの材料ってことだな」唇を尖らせ、日向がぼやいた。「いや、厳密に言えば皆、四人のドライバーが、か。アフリカ派遣も紫雲を国内に置かないのが目的じゃない。蒼天改良型とその先の量産機調達に目途がつくまでの時間稼ぎのために、安保理の目を他のところに向けさせるためだったのか。日計の言う通り、飛んだ食わせ者だぜ、あの総理は」

「不服か、日向?」有沢が口角を吊り上げて問うた。彼自身がそう思っていないことは問うまでもなく明らかだ。

「いいえ、そんなことはこれっぽっちも。みんなが生きて帰って来てくれるなら、このくらいどうってことないです。甘んじて受けますよ。ですが、帰ってこない命もあります。こいつは堪えますよ」

「人が死ぬことが、か?」

「人の死が人の手によって扱われていることです。まるで人命が手札のひとつみたいにね」

「フム。わたしからしてみれば、兵士として扱われつつも、同時に貴様らの命も扱う立場であるわけだ」

 興味深いな、と再び不器用に微笑むと、有沢は壇上に置いてあったパイプ椅子のひとつを引き寄せて広げた。どっかりと腰を下ろし、ギプスの外れたばかりの右腕の調子を見るように摩る。東雲の意味深長な視線に鷺澤は気付いた。そういえば、東雲の寝台の上に散らかっていた書類の束が、そっくりそのまま男子部屋に移されたのだと思い出す。リハビリにはちょうどいいのだろう……多分。

「やれやれ、政治の不始末を付けるのはいつも兵士だ。だが、我々が不平を漏らしても始まらん。軍人の怠慢と腐敗が、結果として間違った行いとして認められるのは、歴史が証明している。最善を尽くして戦うしかない。アフリカ戦役でさえ終わりが見えないが、政治幕劇の駒として立ち位置を決めあぐねるより、兵士としてどのように敵を倒すかに腐心しようじゃないか」

「はい、一尉」

 声を揃えて返事をする中隊員へ向けた咳払いを挟み、彼は壇上から身を乗り出した。

「では、本題だ。まずは現状を確認しておこう。ケニア戦線は全面に渡り、再度ヘルフィヨトルによって圧迫されている。だがカンパラ方面は反比例して比較的小康状態にあるようだ。西アフリカを除けば国連首脳部が想定した敵戦力有限論は裏付けされたと見るべきだろう。少なくともそう考えなければ、我々の手が回らん」

「考えすぎて動けなくなるより、とにかく動き続けて結果を見る、ということでしょうか?」

「その通りだ、鷺澤。ともかく、攻勢主面を支えるナイロビが危険な状況にあることは疑いない。ビシルの戦いから多少の安定を実現しているとはいっても、アフリカ戦役全体では未だ人類が劣勢に立たされていることは変わりがないのだ」有沢は鋭い目で、今しがた発言した鷺澤を凝視した。「戦局を一気に優位まで引き上げるには何が必要だと思う、鷺澤三尉?」

 階級を強調したのは、これが軍務であることを思い出させるためだ。鷺澤はしかつめらしく考え込む。セミロングより少し伸びた髪がはらりと胸元に垂れ、それを勢いよく跳ね除けた。

「戦況は好転しないまま、ずるずると劣勢へ引きずり込まれています。人類が最も善戦しているといえるのは、今、正にこの時です。ですから、可能な限り強大な一撃を敵勢へ加え、アフリカ大陸における主導権イニシアチブを奪還するしかありません」

「正解だ。お前の考えるように、参謀本部はこの困難な戦局打開のために大規模な反攻作戦を立案している。そしてその舞台はここ、ケニア戦線だ。我々陸上自衛軍にも参戦せよとの命が下った」

 狭いブリーフィングルームの空気が、ぴんと張りつめた。音が聞こえてくるほどだ。日計がボールペンを走らせている音だけが、虚ろに室内に響く。その筆圧が一段と高まり、彼らしくもない緊張で顔が強張っているのに、有沢は気付いた。

「遅かれ早かれとは主持っていましたが」視線を上げることもなく、日計がひび割れそうな空気を破る。「参謀本部も、やっと事態の打開に乗り出したということですね。乾坤一擲の大博打でどうにかしようと試みる、と」

「ああ。遂にな」

「その打開すべき事態というのは、具体的にはどういうことですか?」

「守るだけじゃ勝てない、ということよ、朱里ちゃん。自衛隊が自衛軍になったのと同じ理由。戦争を終わらせるには耐え忍ぶだけでは不可能なの。どれだけ犠牲を出そうとも、敵の根拠地を叩いて降伏するか自滅するかを選ばせる。そうしなければ、たとえ停戦状態に陥ったとしてもいずれ再燃する羽目になるわ。特にヘルフィヨトルの場合は政治を放棄しているから、現状、戦争を終わらせるには無人兵器を一機残らず駆逐するしかない。そのためには攻撃がいちばん。そうでしょ?」

「なるほど、納得です。申し訳ありません、一尉。よろしければ続きをお願いします」

「構わん、疑問があるなら言ってくれ。第一技術試験旅団は、戦略的重要さを否が応にも増している。各人が持つ価値観も醸成されなければならない、というのがわたしと、まあ、修一の考えだ」

 東雲が驚きに眉を吊り上げた。

「小林主任が? あの人が仰るのならば間違いありませんね」

「わたしの言っていることは信用ならんのか? まあいい。とにもかくにも、アフリカで我々は反撃を行う。主要な作戦目標としては先ほど述べたように、敵主力群を撃滅して戦力的優勢を我が方のものとすることだ。二次目標として、ケニア戦線をタンザニア国境まで押し戻して防戦主体の局面から一転、敵を喜望峰へ押し戻す攻勢転移の足掛かりとすること。このためにおおよその備蓄弾薬及び燃料が投入され、第三管轄軍全てが万全の状態で戦うこととなる」

 大袈裟な溜息をつきながら、東雲がパイプ椅子の上で大きく仰け反った。軋む椅子の上で張り出す胸を見やり、鷺澤は自分のものを見下ろす。次いで日計に視線を走らせた。花園は微笑みながら真顔に戻って我が身のことを案じた。日向が口笛を吹き、即座に彼の後頭部を花園が叩く。

 一連の出来事に気付かない様子で、東雲は天井に向かって言った。

「随分と具体的に作戦内容が報されましたね。先日、マルサビットで最初の五人を人間と区別するのが極めて困難だと判明したばかりだというのに。防諜に気を遣ってもいないことからすると、陽動でしょうか」

「可能性は無いとは言い切れんが、これほど大規模な反攻作戦を隠しきることはもとより不可能だろう。ましてやヘルフィヨトルがその気になって、最初の五人と同じレベルの人型を投入して来ればこちらの情報など筒抜けになる。人間と同じ姿形で生活等式も同一だ。見分けはつかんし、阻止できるとも思えん。既にあらゆる電波を監視されているらしいこともある。機密など気休め程度のものにしかならん。いっそのこと公開したほうが駆け引きもしやすいのではないかな」

 仰け反った姿勢を元に戻して前かがみになって指を組むと、東雲は真剣な眼差しで有沢を見つめる。

 機先を制して、日計が口を開いた。相変わらず、ボールペンを握ったままだ。

「一尉は、敵が本当に諜報戦へ乗り出してくるとお考えなのですか?」

「お前はそうは思わないのか、日計? いくら人の姿をしていても奴らは人間ではない。ならば敵だ。奴らは血を流しこそすれ、無人兵器と同じだけの意味と価値しか持たん。それはお前がいちばんわかっているんじゃないのか」

 全員の視線が、手紙を書き続ける日計へ注がれる。彼はボールペンをノックして先端を引っ込めてから顔を上げると、有沢の鷹の目を正面から見つめ返した。

「自分は、たとえ神が相手であろうと、戦うだけです」

 初めて有沢が不快そうに眉を潜めた。かえって、青年は毅然とした態度で彼を見つめ返す。

 悪い空気だ。鷺澤はそう感じた。日計の様子が、ナイロビへ帰ってきてからおかしいことには誰もが気が付いていた。会話をしていても上の空だし、上官が話しているというのに手紙をしたためるような彼ではないはず。

 日向が素早く彼女へ目配せして微かに首を振る。瞑目しながら、彼女は唇を引き結んだ。鷺澤とてどうにもできない。彼がこうなったのは何がしかの原因がある筈なのだが、マルサビットの一件から、彼はどの中隊員とも少し距離を置いていた。それは鷺沢に対しても同じで、拒絶の意思は感じられないのだが、とにかく何かに集中しているようであった。

 同じことを悟ったのか、東雲が目を合わせてくる。彼が何かをため込んでいるということだろう。彼自身、気が付いていない何かを。

「今日は以上だ。解散してよろしい」

 有沢の一言で、日計は立ち上がった。肘掛に固定されていたテーブルの上にある手紙を手に、さして急ぐ風でもなく部屋を出て行った。退出する間際に一礼していく。後を鷺澤が追いかけた。

 必然的に残ることになった四人が、部隊長の元へ集まって来た。彼は目を指圧しながら、眉根に一本皺を刻んで唸る。

「東雲、日計はいつからあんな調子だ?」

「マルサビットから帰ってきてからです。いいえ、あの尋問から解放された直後からでしょうか。不機嫌というのでもないみたいですけど、何かに気を取られているように思えます。危なっかしくて見て居られません」

「あのまま戦闘任務をこなすのは無理だ。必ず何かしでかす。日向、お前はどう思う。何かを感じたか?」

「自分が奴の様子に気が付いたのは、玉響の最終調整作業をしている時です」

「つまり、昨日の午前中だな」

「はい。神経接続回路からの入力情報をモニターしていましたが、ヘッドギアから送信される脳波形に大きな乱れがありました。チャンネル五つにまたがるほど大きなもので、システムが警告するほどの異常な数値です。ラップトップから警報音が鳴った時は驚きましたよ。声をかけたらすぐに元に戻りましたが。何か考え込んでいて、それが如実に神経接続回路を通じて現れたのだと推察しますが……」

「精神が乱れるほどの悩みごととは尋常ではないぞ。やはり原因は奴らか。どこまでもわたしたちを苦しめてくれる」

 最初の五人との接触。それ以外に考えられる要素はなく、四人は一様に悩み込んでしまった。そこで誰しもが抱く疑問が、再び鎌首をもたげる。

 堪えきれない東雲が溜息を吐いた。

「有沢さん、日計君が選ばれた理由は、本当にわかってないんですか」

「少なくとも藤宮陸将補はご存じない。だが考えてもみろ、東雲。おれたちでわからないことが、他の人間にわかってたまるものか」

 なぜ、ヘルフィヨトルは日計洋一を選んだのか。その理由が誰にもわからなかった。

 AFCHQ参謀本部では彼を長時間拘束しての事情聴取と報告書の作成を通し、事態の全容を掴もうと躍起になっていた。彼が一言一句、詳らかに語り出した当時の状況と会話の記録を厳重に秘匿して、盗聴ならびに撮影した各種情報、他関係者の証言を取りまとめ上げても尚、得られる推測は何もなかったのである。あったとしても突拍子のないものばかりで、果たして本当にそんな理由で戦争をするものだろうかと首を捻ってしまう。要は、敵の意図と日計の潔白さを秤にかけて吟味しているのだった。

 楊李鳴からは中隊員に対してのみ情報の共有が許可されているらしく、誰しもがギガスに一矢報いたのが日計洋一の駆る紫雲四番機、玉響であったからであろうと考えたが、その説にしても他に理由らしい理由が見当たらないが故の最有力な説であった。つまり、真相は闇の中で、南極大陸の中心に座する最初の五人の下へ赴かなければ正確な事情は知りようもない。

 対話の内容も取り留めのないものであったことから、いまのところ判明している事実はふたつ。ひとつは戦線が小康状態にあったのは日計との接触を目的としたものだったこと。もうひとつは、それに足る何かを見込まれ彼が選ばれたことだった。

「君のような存在を探し求めていた」

 ラガード・トリセクスカという男が、そう言ったという。それはギガスをも倒しうる力を持った戦士の存在なのか、それとも、彼の在り方そのものを指しているのだろうか。

 マルサビット基地襲撃は実質的な被害だけに留まらなかった。さらには参謀本部のメンバーである、第三管轄軍司令の楊李鳴大将、アメリカ陸軍第七軍司令官、マーティン・ホッグス大将などの異例の口添えがあったこともあり、青年を中心として国連内部では様々な派閥の対立が顕在化した。これを契機に、互いに衝突を始めたのである。

 式典の最中にアレクセイ・アルツェバルスキー大将の突拍子もない言動で日計が世界の矢面で臨時の記者会見を行うこととなった一件は、国際世論に大きな波紋を呼びかけた。これに際してアメリカと中国という、日本と国際情勢下で摩擦を生じている国家から友好的な発言があったことは、第七PG中隊の各人にとっても驚きを禁じ得ない出来事であった。その裏にはPGTAS技術の開示が内々に伝えられていたのだろうと予測でき、そのために安保理からの態度が軟化し始めている兆しだったのだろうか。

「とにもかくにも、日計君のことは朱里ちゃんに任せるしかありませんね。わたしたちが何を言ったところで、彼には馬の耳に念仏です」

 良くも悪くも、鷺澤は日計へ多大な影響を与える最たる要因だ。戦況が予断を許さぬものとなりつつある昨今、ここで彼に途中退場などという選択肢はない。

 アフリカで経験してきた戦闘は他の部隊よりも激しく、ましてやギガスとの戦闘で彼が感じた恐れは計り知れない。有沢などは、よくも平常心でいられるものだと脱帽するほどだ。体力的には若い方が有利だが、精神面ともなれば、若いほどに脆いのが世の常である。

 有沢が仏頂面で呟いた。

「剣は錆びることに気付かない、か」

「有沢さん?」

「東雲、日向、花園。日計から目を離すな。どんな些細な問題であっても、わたしに報告しろ。しかし干渉はするな。もう少しだけ様子を見るが、それでも改善が見られない場合は、荒療治も必要になる」

「荒療治っていうのは、つまり?」

 日向の問いに対して、有沢は微笑んだ。

「鉢塚流の教育法だ。あいつにも、鉢塚二曹の教えは刻み込まれている筈だ。そいつを呼び覚ましてやるだけだ」

 ははあ、と日向は間の抜けた声を上げた。

「そいつは、念仏よりかは馬に効きそうですね」





 足を踏み鳴らして格納庫へ向かう。周囲で通りすがる兵士たちは彼の顔をみとめて視線を投げるが、そのどれにも眼差しを返すことはせず、ひたすらに前を向いて険しい顔つきのまま通り過ぎる。背の高い格納庫の群れは港湾都市の山積みにされたコンテナ群のような圧迫感を放ち、その周りに余裕をもって取られた舗装路の上をあらゆる種類の車輛と人員が行き来する。等間隔に建てられた背の高い照明塔と監視カメラが物流を監視し、基地管理のためだけに据えられた中央監視所がつつがない運用を統括管理する。

 ここから自衛軍が詰める兵舎までおおよそ一・五キロほど離れている。頭を冷やすというより、とにかく歩いていなければ何かが追い付いてきそうな感覚に促されるがままに足を運んでいく。

 考えているのは、太腿の大きなポケットに押し込んだ手紙のことと、振り払ってきた思いやりについて。会議室から飛び出した日計洋一を追ってきた鷺沢朱里はめげずに彼の苦悩を聞き取ろうと言葉をかけ続けたが、思いやりよりも孤独を必要としていた彼は頭を振って彼女を拒絶し、そのまま相乗りの電動地上車に飛び乗ってここまできたのだった。

 何も考えないようにしながらひたすらに手足を動かしていると、気付けば目的地へと辿り着いている。聳える巨大な門扉を斜に見上げ、日計は立ち止った。目前にした格納庫の屋根は高く、今も多くの整備員が来るべき戦闘に備えて巨人の肌をモップで磨くか、油をさしているに違いない。邪魔をするのは気が引けるが、あらためて兵舎以外で誰にも会わずに済む場所となると、この時間帯は格納庫くらいしか思いつかない。むやみやたらと歩き回っては戻れなくなる恐れもあった。

 屋根の向こうには、いつものナイロビ基地を照らす熱い日差しはない。上空には今朝方から厚い雲が垂れ込めて空と大地とを分け、今にも雨が降り出しそうだ。同じように曇った心に皮肉な共感を覚える。どれだけ自分が不安定だからと言い訳をしたところで、やってはならぬことをしてしまったという罪悪感は決して消えない。これ以上は何も考えまいと気を引き締めても、人間である限り心から逃れることはできない。

 今は誰と話しても毒を吐いてしまいそうだった。それは文字にしてみても同じで、便箋を意識しながら、がらんとした格納庫の入口へ早足で向かう。正面ハッチは開いているが、これは換気のためで、通常の出入りはその脇にある人間用の通用門から行うようにという立て札がかけられていた。タグを翳して扉を開き、中を覗くと、意外にも人影はなかった。先日の玉響の整備作業がひと段落し、一日休暇となったのだろう。働き詰めではいつか動けなくなる。

 人間とは言葉を交わさなければならないだろうが、機械を相手にすれば誰に迷惑をかけるでもない。文字通り、独りになれる。自分にはそんな時間が必要なのだ。誰へともなく、言い訳じみた言葉を胸の内で唱えながら、日計は顎に伝う汗を拭って格納庫の中へ入った。

 紫雲が四機、二機ずつ向かい合わせで佇んでいる南側へ歩いていく。周辺を固めている情報保全隊員のうち一人が駆け寄って来て、何か用かと問うた。どうやらこの格納庫への入庫者は全員が検閲されているらしい。今回はIDが日計のものであったので、異常発生かと真っ先に駆け付けたのだろう。日計が機体を見に来ただけと答えると、彼は安心したように袈裟にかけた自動小銃をひと揺すりし、所定の位置へ戻っていく。

 ふと思い付き、その背中に声をかけた。

「すみません。他国の工作員が射殺されたことの経緯を教えてもらいますか」

 彼は訝しみながら振り返った。後味の悪い出来事であるのは承知しているが、自分でもなぜそのことを問うたのかはわからない。とにかく知るべきだと感じた。

 見るからに年長であると思われる彼は直立不動のまま、は、と目の焦点を日計の両眼から少し上にずらした。日計はすぐに後悔した。自分が上官であることをすっかり失念していたのである。彼としてはどれだけ気の重いことであろうと答えなければならない。揺れる心のままでは、自分が思い描いた通りの行動とは正反対の態度が相手を傷つけてしまう。それに気が付くのが遅すぎた。

 まったく、人間ときたら。知らずにそう考えている自分に驚き、嫌悪した。顔には出さないようにしていたつもりだが、情保隊員の彼は敏感に日計の機嫌を察して、心なしか背筋を伸ばした。

「警告はしたのですが、それでも強引に近づいてきたために威嚇射撃を行いました。その後に懐の拳銃を取り出す動きをしたので、やむなく発砲し、射殺いたしました」

「そうですか。すみません、ありがとうございました」

 三等陸曹の階級章と紺色の日本国旗を袖に縫い付けた彼は、怪訝な顔から生真面目な表情に戻って敬礼をした。軍隊では、部下は驚くほど上官の感情を察知する。苛立っているのか、上機嫌なのか。彼も日計の言動から何かを感じ取ったのだろう、それ故にいつもの雑談などは交わすことはなく、きびきびとした足取りで格納庫内の詰め所へと戻っていった。それを問う気にもなれず、彼が仲間たちの元へ戻るのを見ずに歩き出す。日向と花園が使っている、格納庫片隅にあるパイプ椅子をずるずると引きずり、それを玉響の目の前に置いて広げ、腰を落ち着ける。

 巨人は物言わぬままに青年を見つめ返した。紫雲の頭部は、避弾経始と空気抵抗の低減を図って前後に細長い多角形をしている。全部両面に抉りこまれるように穿たれた四つのカメラアイは正面から見て均整の取れた台形の頂点を模るように配置されている。頸部の可動域を敵弾から保護するために少し盛り上がったと、頭部と同じく前後に細長い胸部が頭部を支える。肩は胸部のやや前方に据えられているため、直立しているのにやや猫背気味になった姿勢が、今にも飛びかかろうとする剣士のような風格と威圧感、そして荒々しさを醸しており、さらに下方には弾薬ラックの設けられた細い腰部、腰の前まで伸びる長い膝部を備えた脚部へと繋がる。見た通り、前後に長いシルエットであるため、武装装備時には重心がかなり乱れて不安定になる。これを打ち消すためのウェイトスタビライザーは背部に装備されているが、現在は格納庫のラックに固定されているため、それらは縮んだ状態で背部にぴったりとくっついていた。

 ギガスとの戦闘でかなりの損傷を負い、修復が完了しているため、隣に並ぶ紫雲二番機、蒼古と比してかなり真新しく見える。新しく塗布された純白の塗装と滲むことなく穿たれた部隊番号、そして日本国旗の赤い丸が滴った血のように映えて見えた。

 新品同様の兵器は荒々しさと威圧感をあまり感じさせないものだが、今の紫雲も同じように感じられる。初めて見た時のような、無機質な戦闘兵器としての武骨な印象が、日計の中から消えたためだ。玉響は頼もしく、手強い。自分もそう在れればいいのに、と思わずにはいられないほど、白銀の巨人は荘厳さすら感じさせる佇まいをしていた。東富士演習場の格納庫で初めてこの機体を見た時、蒼天とは違ったその異様に圧倒されたものだ。

 ようやく独りになれたというささやかで昏い満足感が胸に染み出してくるが、ぽっかりと開いてしまった穴を埋めるほどのものでは有り得ない。元に戻せるのなら、それは失ったことにはならないのだから。

 一体、ぼくは何に動揺しているというのか。落ち着いて頭を捻ってはみるものの、はっきりとした答えが何も返ってこないことに苛立つ。マルサビットで最初の五人と顔を合わせたことは、自分の中で気持ちの整理がついていた。となれば、原因はあと一つしかない。

 伸びてきた黒髪を掻き上げて懐から便箋を取り出し、自分への死刑宣告書のように何度か内容を読み返して、後で書き直すことに決めた。文面の端々に、伝えるべきでない強い言葉が記されている。文字は口頭とはまた違ったニュアンスを含むものだ。本当に何かを伝えたいと思うのなら……ましてや誰も傷付けたくないと願うのならば、こんな手紙を渡すべきではない。

 文字を紡ぐことは苦ではない。誰にしてもそうだろうと思う。何かを書くことが難しいのではなく、自分の想いをどれだけ正確に伝えられるかに不安を感じる。他人とは自分にとって真に理解できない概念だで、それ故に己の常識が通じない存在であるが故だ。今の自分が持つ限られた語彙の中から最適なものを選択しなければならず、それでも確実とはいえないから、辛い。

 言葉は不完全な媒体で、これは言語フレーム問題ともいえる。言葉は言葉である以上、実態に適った表現が存在しえない。レトリックは互いに同じ意味を共有することで価値を見出すから、ありのままを表現する場合、言葉だけでは足りない。だから人は言外に意図を含ませ、ニュアンスというものを用いる。雰囲気を肌で伝えることで相手の胸中に新たな意味、その人が持つ常識に見合った情報を喚起し、言葉は補完される。手紙ではそれができない、ということだ。

 まったくもってローランの言う通りで、本当に自分の気持ちを伝えるのは、面と向かって言ってやるのがいちばんなのだった。日計は腹立ちまぎれに、友人の忠告を聞き入れるべきなのかと頭を抱えた。

 歩美にはなんと伝えるべきか。アッチソン・ローランに提案されたことを、本当に鵜呑みにしていいものだろうか。今のところ、心の表層に泡のようにふつふつと浮かんでくる思いはそんなところだ。彼にも悪いことをしてしまった。

 アフリカ大陸は危険だ。それは誰の目から見ても確かであり、明らか過ぎた。妹の歩美とてそれを把握した上での申し出だろうし、そうでなければ意味がないと考えているに違いない。かえってこの自分は、家族が日本にいてこの地獄から逃れているのだと思えばこそ、後顧の憂いを断っているのである。それはとても大切なことだ。奇妙なことではあるが、誰かを守る時にその場にいることが最も理に適っている。そう、本当に守りたいのならば、紫雲に乗って日本へ帰るべきなのだ。

 いいや、違う。仮に日本へ戻ったとしてもヘルフィヨトルの存在が消えるわけではない。根本的な解決にはならないばかりか、紫雲は日計洋一という個人が所有する兵器ではない。偶然にもこの自分以外に担い手がいなかったというだけのことで、原因と結果が逆転することはあり得なかった。兵器を私物化して一個人の利益に還元するなどは以ての外である。

 自分は何のために戦っているのか。胸に問いかけ、それは鷺澤のためだといつものように答えを返す。なるほど、それは真理だ、今までにないほど理解できた気がする。

 結局、鷺澤がアフリカへ来たから、自分もアフリカへ来たのだ。彼女が戦うと言ったから自分も戦う。簡単なことだ、ぼくがいちばん大切に想っているのは彼女なのだから。

 いちばん大事なものを定めてしまえば、思考が進み始めた。ローランの言にも一理あるだろう。日計歩美は他でもないこの自分の妹だ。手紙や電話では説得できない意志の強さを自分がいちばんよく知っている筈だ。どれほど手紙の枚数を重ねたとしても、健気な妹は全てに目を通してくれるだろうが、それでは不十分なのだ。文字でも言葉でも伝わらないものを、他でもない自分が伝えてやるべきではないか?

 頭の中では、彼女をここへ連れてきて、玉響の肌に触れさせ、兵士になるなんて以ての外だと怒鳴りつけてやるのが適当な方法なのだと思える。防衛装備庁の戦史研究部の資料映像を見せてやったっていい。どれだけの手段を以てしても歩美の意志を蔑ろにしたいのだ。

 改めて玉響を見上げた。そしてやはり、視線を便箋へ戻した。どれだけ見つめても巨人は答えてくれない。あんな大きな手で、手紙も書けるわけもない。

 物憂げに溜息をついた時、物音がした。パイプ椅子が置かれて広がる。隣に腰掛けるのは、ベージュのポロシャツと緑色のスカートを履いた長髪の女。横顔はいつになく素っ気ないもので、よそよそしさすら感じられるほどだった。

「寄ってみたら、見えたから」

 望月美奈子は、言い訳がましくそういった。日計は無言のまま、目の前のある一点を凝視する。玉響の股の下にある何も無い空間を。鷺澤ならまだしも、今、彼女に何を言うべきかが定まる筈も無い。かける言葉が無いのだ。

「困ってしまったのね」

 当然だろ、と心の中で返す。そうでもなかったら訳もなくPGTASの格納庫になんて来ない。こんな鉄の棺桶みたいなところに来るもんか。

 彼女はしばらく黙りこくって、共に目の前の玉響を見つめていた。やがて首をひねり、青年の気難しい横顔をまじまじと見つめた。

「やっぱり隠し事はしたくないから言うわね。わたしは朱里ちゃんに頼まれてここに来たの。目的はあなたと話すことで、元気づけてあげること」

 その告白は、視線を人型兵器から引きはがすにじゅうぶんな衝撃を彼に与えた。

「それは……なんですって?」

 間の抜けた声に望月は僅かに愛好を崩したが、すぐに元の仏頂面に戻った。

「なんとかしてあげてって言われて来てみれば、あの子がわたしに頼むのも道理ね。日計君、すごく怖い顔してる。あなたのことだから他人よりも自分を責めてしまっているのでしょう」

「仰る通りです。自己嫌悪と自己憐憫で何とか勝機を保ってますよ。いけませんか?」

「自分を傷付けて他人を救えるのなら、世界は今頃ハッピーエンドでしょうね」

 顔に火が付く。あまりにも恥ずかしくて、日計は彼女から顔を逸らした。

 なんと情けないことか。部隊の仲間や想い人だけでなく、部外者である筈の――そのはずだ――望月にまで気をかけさせてしまうとは。彼女からの好意を知りつつも無視し続けているこの自分を気遣ってここへ来たのだ。鷺澤にしても恋敵である望月に頼み込むほどに自分の身を案じているのだろう。

 愛おしいと同時に、顔向けできないという自己嫌悪が溢れ出てきた。押し流されないように拳を握りしめながら、日計は言った。

「鷺澤から、その……どこまで聞いたんですか」

「大雑把にだけど、大体の事情は理解したわ。さっきのミーティングでやらかしたとかなんとか。有沢一尉と気まずいことになった、このままだとあなたが殴られるか、もっとひどいことになると心配してたわ。わたしは、あなたほどあまり近くであの人たちを見てはいないけれど、相当な切れ者だって聞いてる。世に名高い有沢敬二海将補の息子であり、今や世界最強のPGTAS部隊を率いる英傑」

 玉響のつま先に合わせていた視界の端から、彼女が身を乗り出して顔を覗き込んでくる。

「そんな人とやり合うんだから、あなたも相当よね」

「ええ、とびっきりですよ。今のぼくって厄介者ですよね。自分にしか解決できない問題は誰にでもあるというのに、それに対して助言してくる友人や、自分の道を懸命に進もうと勇気を出している家族を蔑ろにしているんですから。男らしくないし、愚かだ。ちくしょう、自分で自分が嫌なんです。今は誰とも話したくない」

「そんなことないわ。今までのあなたが優しすぎただけ。こんな地球の裏側でいつも誰かのために戦って、傷付いているんだもの。そんな事を繰り返していたら、誰だって不安になるでしょう。普通に生きていくなら絶対に付かない傷跡で、あなたと朱里ちゃんはいっぱいだから」

 それは違う。自分は戦いを恐れているのではない。むしろ、戦いを好んでいるからこそ、こうしてやってこれたのだ。

 驚きにひきつった笑いがこみ上げる。思いがけず明らかになった本心は醜悪で、不名誉だ。結局、自分はそこまでの人間でしかなかったのだろう。

 そんな彼の心を無視して――あるいは、理解して――尚も彼女は言った。

「偶には人のせいにしちゃってもいいじゃない? 自分の行動は自身だけでは完結しないんだから。何をしたところで、誰かへ影響を及ぼすから行為になる。ということは、自分の行為の半分は相手の責任ってことよ」

「さすがにそれは横暴な気がしないでもないですけど。ああそういえば、マルサビット基地で飛行機から降りた後、鷺澤と何かあったんですか」

「どうして?」

「あんなにいがみ合っていた二人が途端に仲良くなれば、誰だって気になります。停戦協定でも成立させたんですか。なんていうか、男のぼくには想像できないや。他意はないですけど、女性はもっと暗い争いをするものだとばかり思っていましたし。気を悪くさせたなら謝ります」

「そんなことはないけれどもね。うーん、そうねぇ……言うなれば共同戦線かしら。彼女との関係は決して対立ではないし、あなたが考えているような泥沼化は絶対にしないわよ」

 人差し指を顎に当てて、彼女は言葉を自分の海馬から引き出した。その響きが聞き慣れないものだったので、日計は少し顔を顰める。

「『日計洋一が困るようなことはしない』。それを不文律として二人で決めただけよ。思い出すのも嫌でしょうけれど、日計君、マルサビットの時は本当に嫌がっていたでしょう? それはわたし達にとって不本意なことだから、やめようってことになったの。何しろ、あなたのことが好きですものね、お互いに」

「ぼくのため、ですか」

 両手を見下ろし、そんなに自分の何が価値があるのだろう、と自問した。そんな思いを見透かして、望月は再び微笑んだ。

「自分を卑下しないで。人間の価値なんて見る人によって千変万化するものだから、思い詰めても真理なんて見つけられない」

「……マルサビットから帰って来てよそよそしかったのもそのため?」

「気付いていたのね」

「気付きますよ」

 どうしようもなく悲哀な色を湛えた微笑みに胸を痛めることも許されない。その感情に応えることができないのだから、どのような埋め合わせをして、慰めの言葉を口にしたところで、全てが偽善にしかなり得ない。謝ることも、笑い返すことも、全てが嘘だ。できることは、何もしないということだけ。彼女へ影響を与えることを放棄する。行為を行わない、しかし彼女は自分へ好意を向けざるを得ない。

 一人を愛するということは、別の誰かを愛さないということなのだと、日計は気付く。愛するという行為は、単独の個人や概念にしか通用しないものだと、わかった。特定多数の誰かを愛するということはつまり好きということだ。それが恋と愛の違いでもあるのかもしれない。

 これから自分は、鷺澤朱里ひとりを幸せにすることはできても、その代償として望月美奈子もうひとりを不幸にする。まったくもって、この世界は天秤で成り立っているのだと思い知らされる。一方が持ち上がれば片方が沈み込む、終わることのないシーソーゲーム。子供のように無邪気さを孕むのでもなく、ましてや大人らしい冷静な意識の元に成り立つわけでもない。誰しもが日常的に、呼吸をするように他人の不幸を幸福に変換している。

 マルサビットからナイロビに帰って来た直後から、望月は露骨にこちらを避けていた。食堂で顔を見かけても気付かないふりをしていたし、格納庫に立ち寄って会話をすることもなくなった。こうして顔を突き合わせて話をすること自体が久々だ。

「正直に言えば、寂しかったですよ。ぼくは妹しかいないけど、姉の一人と絶縁したみたいで物足りませんでした」

 よせ、やめろ。何を言ったところで、彼女を元通りに戻すことなんてできやしない。

「そう言ってもらえるととても嬉しい」

「美奈子さん。ぼくを嫌な奴だと思っているのなら、そう言ってください。自覚はしていますから」

「そんなことないわ! 今でも、あなたのことが――」

「なら、どうして? あなたがぼくを避けるのは鷺澤との約束だけじゃない筈だ。彼女はあなたにとって競争相手であることは変わらない。大人しく言いつけに従うのでもないでしょう」

 この女性はどこまで哀しい表情ができるのかと思えるほどに、その鎮痛な面差しは直視できるものではなかった。

 かさぶたで覆われた傷口を再び開くかのように、望月は恐る恐る口を開く。

「東雲さんに言われたの。あなたを想って終わりなら、それまでのものだと。そう、わたしにはあなたを愛することしかできないのよ。だから心の底から朱里ちゃんが羨ましいと思う。わたしは、あなたと一緒に幸福にはなれるかもしれないけれど、共に不幸になることなんてできやしないから」

 しとしとと雨粒が落ちるように、望月は泣いた。静かな涙に呼吸を乱すこともなく、大きな瞳から煌めく涙が滴り落ちていく。

「わたし、考えるの。人は共に喜び合うより、共に悲しみ合うことが大切だって言い聞かせる。笑い合うことなんて誰とでもできるから。笑顔を見せても、泣き顔なんて、見せられるものじゃないでしょう?」

 日計洋一は泣いていない。

 望月美奈子は泣いている。

 つまり、そういうことなのだろう。

 彼女をここまで追い詰めているのは自分の概念でしかない。日計洋一という存在に惹かれた女が二人いて、彼女は少し遅かっただけ。それだけで、交わるかもしれなかった人生が別の方向へ弾かれてしまった。誰の責任でもないことは明らかだが、非があるとすればどちらなのだろう。これを仕組んだ人格が存在するわけでもなく、当事者たちが悪意をもってこのように仕向けたのでもない。あるとすれば運命や神といった形而上の存在だけ。

「君は、神を信じるか?」

 ラガード・トリセクスカはそう言った。仮に、南極にいるであろうヘルフィヨトルの首魁が、神に準ずる何かだというのなら。

 こんな運命を紡ぎ続ける誰かがいるのなら。

 爪が肉に食い込んで血が滲むほど、無意識の内に握り締めていた拳を意識する。

「本当は、あなたとはもう話さないつもりだったわ。けれど、朱里ちゃんがね、わたしの言葉なら届くって言ってくれた。だからわたしはここへ来たの。わたし、なんでもするわ。日計君が立ち直るためなら――」

「もういいです」

 日計は立ち上がった。どこへ行くでもなく、ただその場に佇んで地面を見つめる。

 彼自身は気付かなかったが、彼の決意は殺意さえも帯びるほどの激しさを伴って、望月にも感じ取れた。息をのんだ彼女は、ほんのわずかにたじろぐ。

 行き場のない怒りだけが胸の内からふつふつと湧き上がってくる。自分の喉元へ突き立てた憤激は喉を切り裂き、何か温かいものが心の表層にじわりと染み出す。自らが流した血であるのか、それとも彼女たちの優しさなのかがわからない。わからないことがこれほど痛ましいとは。

「ぼくには、あなたを癒すことはできない」

「わたしだって、この痛みを取り除くことなんしたくない」

「ぼくには、あなたを愛することはできない」

「愛することは、愛されることではないから」

 立ち上がり、彼女はくるりと回った。スカートの裾が舞い上がり、白い大腿が露わになった。

 日計は目を逸らした。まるで忌むべき何かを避けるように。

 そこで気付く。鷺澤朱里は彼女を通して、自分へ何かを伝えようとしている。望月を許したのは、一重に彼女自身がこの役に適任ではなかったためだ。

 強かな女だ。それ以外の感想を、日計は抱くことができなかった。

 しかし、その強かさの振るわれる理由が、意味が、自分にあるとしたら?

 愚かしいことだ。どれほど愛した女であろうとも、その狡猾さを肯定することは踏みにじられる人間の尊厳の否定にすぎない。誰かを利用して善行を為そうとする試みほど醜悪なものはない。善意は当人のみが振るう権利を持つ。他者を媒介にした良心など何の価値もない。

 だというのに、嬉しいと感じる自分がいた。

 望月の短い舞踊が終わる。彼は立ち上がり、彼女の視線を真っ向から受け止めた。その体のなんと華奢なことか。心は安らかな状態ではあり得ないだろう。荒れ狂う大海のように落ち着かない煩悶を抱えているに違いないのに、浮かべた笑みは清々しいものだった。

 ひとつの道を歩むと決めた人間の潔さが、そこにあった。





 男女の仲とは例えるならばきっと、水と油だ。そのふたつがどれだけ長い間を混ざり合っていられるかの時間で示されるもので、いつかは分かたれるもの。考え方の違う人間が二人集まれば、必ず相違が生まれる。愛情によって全てを理解し合えたという錯覚が現実に目覚めた時、関係は転機を迎える。

 人間とは愚かで頭の悪い生き物だ。何せ自らの長所を帳消しにするほどに同士討ちを好む。自分の理論が相手の論理に敵わないことに憤り、理解を拒み、争いへつなげる。それが迅速で効率的な解決手段だと本能的に気付いていて、感情が行動の全てを統括するには至らないが故だ。

 戦闘本能は生存本能でもある。知性は常に世界に抗い続ける。寿命、事故、心情、悲劇。あらゆる概念に対して人間は抗うから、きっと、戦うことを放棄したら生きてはいけない。ただそこに存在するだけの肉塊に過ぎない。それは自然界が証明している。どんな生き物も、植物ですら根差す土の領域を巡って争っている。

 人間だけが。そんな思考をするのには理由がある。それは、人間には知性と、心があるからだ。我々の獲得した機能は本能とせめぎ合い、否定すべき行為を遂行させる。戦争がそのひとつだ。

 それらが人間が進化の過程で獲得した機能。争いに特化した戦闘という概念に自らを変容させることができる。

 人間の暗闇に満ちた領域を、鷺沢朱里は憎んでいた。

 もちろん、人である以上は彼女もこのくびきから逃れることはできない。日計洋一がそうであるように、個人の人格から伸びる戦闘欲求に振り回されない日が来ないとも限らないのだ。

 本人は自分の好戦性に戸惑い、嫌悪を覚えながらも、周囲の人間には隠し通せていると思い込んでいるに違いない。確かに、鷺澤以外の中隊員に気取られてはいないようだが、最も気付かれたくはない相手にはお見通しであった訳だ。

 愛する者が戦いに飢えていることに彼女が気付いたのは、ギガスとの戦闘で脳震盪を起こして失神していた彼が、病院で目を覚ました時だった。

 以前から、自分や東雲南津子、有沢琢磨が戦いに臨むのとは全く別のベクトルを彼が辿り始めていることを、彼女は敏感に感じ取っていた。言葉の端々、仕草の数々。彼を見ていればわかる。どうして他の人が気付かないのかと、不思議に思うほどだ。それでも、どこか違うとは感じていたものの、どこが違うかはわからなかった。

 日計洋一は命のやり取りを決して恐れない。たとえ殺し合いを楽しむ輩がいるとしても、その根底にあるのはやはり恐怖であって、それら負の感情を快とするか不快とするかの違いだ。戦闘時に特有の興奮状態に陥るのはどのような兵士でも変わらない。機会は平等に与えられていて、狂う時期が少しばかりずれているだけの話。

 極論、人は自分以外のためには戦わないし、何も行動を起こすことはない。他人のために犠牲を払うのは、つまるところ悪行が自らのためにならないと知っているから。誰にとって利益であるかではなく、己にとってどれほど不利益となるのかを判断基準としている。偽善に満ちた誇りと名誉の天秤は魂の問題だ。どれほどの唯物論者であっても、人間が精神と肉体で構成されていることを考えずにはいられない。人間の心や精神を現す物質が存在したり脳内の神経細胞の活動で再現し得るものだとしても、それは心が存在する証明に他ならないのだ。観念論も唯物論も、精神の作用を否定することはできない。

「わたし、しつこすぎたのかなぁ」

「何を馬鹿なこと言ってんの、この能天気カップルの片割れは」

 呟く声を、隣に立っていた東雲南津子が聞きとがめた。

 手に持っている携帯端末から顔を上げる。女子部屋として割り当てられた兵舎の一室である。二段寝台の下段で仰向けに寝そべり、上段の底面を見つめている鷺澤の顔を、東雲が脇にあるパイプ椅子の上から覗き込んだ。揺れた彼女長い髪が鼻を掠めてくすぐったい。心なしかシャンプーのにおいまでするようだ。

「まったくいいわよね、うちの若者は。戦争中に恋愛にかまけていられるんだもの。わたしなんて春どころか氷河期に突入してんのよ?」

「彼氏いないだけじゃないですか。まだチャンスはありますよ」

「それがこの歳になると辛いものがあるのよ。ましてやわたし、陸自の尉官よ。そりゃ、日計君みたいな好青年の部下が迫ってくるなら考えるけど、そんなの漫画の中だけ。春どころか季節という概念自体が消滅したようなもの。だからあなたの悩みは贅沢だから、忘れてしまいなさい」

「酷いなぁ、東雲さん。わたしだって、彼以外のことで悩みもすれば考えもするんですよ?」

「でも今は日計くんでいっぱいでしょ、あなたの脳内メモリ。あんなに思い詰めた顔をすることなんて、今までに無かったじゃない」

 むっつりとした沈黙を小さな笑い声で掻き消すと、彼女は端末を自分のベッドの上に放り投げた。パイプ椅子を前後逆にして背もたれに腕と顎を乗せ、堪え切れない笑みを浮かべる。

「時間が経てば、どれだけ自分の悩みが汚れたものかって思い知らされる。そうやって苦しいのも今の内。きっと笑って話せる時が来るから、心配しないの」

「東雲さんだってまだお若いし、そのことで心配してるんでしょう。ま、悩んでいる側としてはどうでもいいですけど。苦しいのには、変わりませんから」

「違いないわね。で、望月さんのことも考えてるんでしょう。どう思ってるの、あなたは」

「二尉、失礼ながら人の恋路を邪魔する奴はって諺、ご存じないので?」

「存じ上げないわね。ま、アフリカで蹴られるなら馬じゃなくてキリンあたりじゃない?」

「ちょっと面白いですね、それ」

「でしょでしょ。で、話を戻すと。これはあなた達だけの問題ではないでしょう。あなたたちの恋路は、わたしたちの歩く道と密接に関わっているのだから。紫雲に乗るだけで世界からは注目の的。出る杭は打たれるのだから、自覚しなさいな」

 この問題を抱えたまま、悪化の一途を辿っている戦いの趨勢に飲み込まれることは防がなければならない。指揮官である有沢だけでなく、東雲もそうした危機感を抱いていることは考えるまでもない。彼女は上官であり、こちらは部下である。問題意識の持ち方は異なるが同じものを見ているということだ。

 鷺澤はごろりと体の向きを変え、彼女に向き直る。問いかけるように小首を傾げると、艶やかなセミロングが頬から目の上に垂れた。

「ほんっと、東雲さんってなんで結婚できないんでしょうね。綺麗だし、スタイルいいし。引く手数多じゃないんですか」

 大袈裟に溜息をついた東雲はそれを言うなとばかりに、右手を顔の前でひらひらと振る。

「褒めてるのかけなしてるのかわからないけれど、その意見には同意だわ。身を固めたいとは思わないけど。これって女のジレンマよね」

 事実、彼女は美しい。女として羨ましい限りだ。ふくよかな胸に引き締まった身体、大きな黒瞳に長い黒髪。意志の強さが宿った瞳に魅了されない男がいるものだろうか――いる。記憶にある限り、第七PG中隊の男子メンバーは全員が堅物といえるほどの生真面目だ。有沢は言わずもがな、日向は花園にぞっこんであるし、日計洋一は……無意識の内に東雲と自分を比べてしまうから、あまり考えたくはない。

 声をかみ殺しながら、鷺澤は笑みを隠すために枕へ顔を押し付けた。

「前から聞こうと思ってたんです」綿を通したくぐもった声に、もがもがと口を動かしながら鷺澤が言う。東雲は黙ったまま次の言葉を待った。「東雲さんって、今までに彼氏いました?」

「黙秘」即答だった。

「そんなぁ。取り付く島もないじゃないですか」

「人のこと気にしてる場合ですかって。それで、彼には何か言ったの?」

「美奈子さんにとりなしてもらいました」

「はあ? 望月女史に?」

 素っ頓狂な声を上げる純朴さも彼女の取り味だと、鷺澤は思った。

「だってわたしが言っても、今の日計くんは聞きやしません。わたしにできるのは彼に感情をぶつけることだけです。で、彼はそれを受け止める。それがわたしたちの接し方で、いちばん自然体でいられる。けれど今の彼には、そんな余裕はないんです。彼は今、何かを背負って喘いでいるから。だから必要なのは、わたしみたいに喚き散らすことしかできない五月蝿い女じゃない。美奈子さんみたいな、静かに優しさを心に染み渡らせることのできる人なんです。そう、荷物を肩代わりしてあげるんじゃなくって、『大丈夫?』って手を添えてあげるような」

 自分は助けにしかならない、と鷺澤は自覚していた。日計に愛情を与え、彼の努力を促すものだ。どれほど自分が肩入れしようが、その結果として彼が前へ進めるのなら、すべからくそれは日計自身の成果だろう。かえって望月には異性の全て、それこそ心の表層に浮かんだ染みまでをも抱擁する優しさがある。過負荷状態になった彼の心には抗生物質として作用するだろう。気付かぬ間に心身に浸透して効果を及ぼす。

 自分も、彼に優しさを抱いているのには変わらないと、鷺澤は大きな悲哀と共に考えた。他の女と自分を、彼にとって必要かどうかの天秤にかけるのはどこまでも心苦しかった。単純に女の嫉妬で片付けられる問題にしては堪え切れないものがある。彼を愛するのが自分だけでないという事実は受け入れ難い。

 こんな時、そうした女らしい楚々とした柔和な気性の為人はいい。それこそが、望月に対する反感が募り続ける最たる原因なのかもしれない。

 他人にあって自分にないものを疎ましく感ぜられるのは、批難されるべきことなのだろうか?

 東雲は腕を組み、唸った。

「このままだとまずいわよ、朱里ちゃん。どのような理由であれ、日計君の態度に有沢さんはいい顔をしていない。現に中隊には悪い影響が出てる。あの人や日向君が彼を蔑ろにすることはないけれど、これ以上に不安定な状態になると彼自身が戦場でどうなるか予測がつかない。そしてその損失は計り知れないものになるのは目に見えている」

「戦闘に支障が出るのはわかってますが、わたしの口からはなんとも言えません。極論として、わたしの問題ではないですから」

「後押しすることはできない……わね?」

「ええ、はい」

「一日でも早く元に戻るといいのだけれど」

 何に、という議論を抜きにしながら、東雲はパイプ椅子からそのまま寝台に倒れ込んだ。

 確かに、どちらにしてもこのままではまずい。自分としては手を打ったが、それが奏功しているかどうかの確認は必要だろう。もしかしたら彼の罪悪感を増させるだけのような気がしてきた。望月にも当たり散らしてしまったら、いちばん傷付くのは彼自身。それがわかっているようでわかっていないのが日計洋一でもある。いわば、自分の能力を認識しないままに仕事を遂行するプログラムのような危うさが、彼にはあった。

 居てもたってもいられなくなった鷺澤は立ち上がり、ちょっと様子を見てきますといって部屋を出て行った。東雲は寝台の上から片手をひらひらと振って見送る。

 一先ず格納庫に向かった。日計は塞ぎ込むと必ず玉響を見に行く習慣があったからだ。望月にもその旨は話してあり、頭も下げた。彼女は何も言わずに頼みを聞いてくれた。ありがたいと言うべきか賢しいというべきか。少しでも彼と接触できるほうを選択したのだろう。それでいいと思う。自分だってそうしてきたのだし、他人を咎める道理もない。

 貞淑な女を少し見習うべきかとも思ったが、そうなれば自分の存在意義が危ういことに気が付いた。どんな結果を招こうが、自分は自分らしく彼に愛されていたい。ならば、このままいつでも自分の胸に舞い戻ってくるのを待っていればいいのかもしれない。しかしわたしらしくあろうとするのならば、こちらから働きかけざるをえない、と鷺澤は自覚していた。人は、自分らしくあろうとすることにも頭を使う。指向の末に形成される自己は欺瞞かもしれないが、他に自分と言えるものが彼女にはなかった。

 格納庫の搬入扉脇にある人員用扉を押し開くと、むっとした空気が押し寄せて来た。一歩を踏み入れて、玉響の傍には誰もいないことに気付く。背面に装備されているコックピットハッチが開いている所からすると、乗り込んでいるのでもなさそうだ。

 情報保全隊員が駆け寄って来て、日計三尉は退出されましたと言った。軽く礼を言って戦闘服姿でぶらぶらとナイロビ基地の内部を歩き回る。

 格納庫にいないとなればどこだろう。司令棟はまず除外して、恐らくは兵舎か。望月を連れているのならば娯楽室などではないだろう。格納庫周りには影も形も無いため、どこか人気のない場所へ移って話し込んでいるのではなかろうか。

 今しがた出てきたばかりの兵舎へと足が向く。一応ラウンジスペースをひとつひとつ覗いて確認していくが、見知った顔にも出会うことは無かった。それでも、椅子に座る兵士達はこちらの顔を覚えているらしく、誰か探してるのかいと自衛官の一人が声をかけてくる。階級章を見れば二等陸尉。敬礼しながら日計の居所を問うと、さっき廊下を階段のほうへ歩いていったと話してくれた。礼を言って、屋上だろうかと見当を付ける。長く歩いてくたくただ。昼過ぎに部屋を出てから既に一時間。そろそろ夕暮れ時の朱色に空が染められていく時分である。

 夕暮れ時に屋上で話しこむとは日計らしい、陳腐なロマンチシズムだ。横浜港襲撃事件直前の逢瀬を思い出しながら、次は自分がこの屋上に呼んでもらいたいものだと頬を膨らませた。

 階段を一足飛びに駆けあがって屋上へ上がる。鉄製の殺伐としたノブを回せば、アフリカの空気が隙間から入り込んで髪をめちゃくちゃにした。セミロングのそれを鬱陶しそうに脇へ除け、鷺澤は屋上へ一歩を踏み出した。

 日計がいた。望月もいる。しかし異様であったのは、彼が片膝をコンクリートの床面に着き、その肩を抱く彼女の姿だった。

 ばたん、と扉が閉まる音に気が付いたのか、望月がこちらを振りむく。その顔は鬼気迫っていた。

 心臓が跳ねる。これはいったい、どういうことだろう?

「朱里ちゃん!」彼女はほとんど悲鳴と変わらない声で叫び、「助けて!」

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