第三十三話

 もう一度の慌ただしい出撃からの帰投後に、毎度お待ちかねの熱いシャワーを頭からかぶる。汗と電子機器や潤滑油、装具に染み付いた自分のにおいを石鹸で洗い落としても、重々しい疲労は肉体のそこかしこに蟠り、まるで鉛を括りつけたように手足が重い。蛇口をひねって湯を止めると、大きな溜息をついた。

 ナロク平原における空挺降下任務を終えた後、増援部隊と入れ替わるように最寄りの航空基地へと後退。二時間程度の休息の後、舞い戻ったUC=1の腹の中へ運び込まれ、A109号線を南東に下った先にあるマキンドゥ前線基地へ砲撃を加える敵部隊の撃滅作戦へ参加。複数の機甲部隊と共に一日がかりでこれを後退させたところで、ようやくナイロビ基地の兵舎へと戻ってきたのだった。

 度重なる戦闘で消耗していく自身の体力を明確に感じた。意を決してセパレーターで仕切られたラウンジを出て脱衣室へと向かう。ハートライトとメイソンは先にあがって、プールへと駆り出した。ナイロビ基地ほどの大きさの基地になると、運動用の大型プールが常設されていた。彼ら二人は他に目的があるのかもしれないが、ローランはこれ以上何かをする気にはなれず、今日一日をぼうっと過ごすことに決めていた。

 用意されているバスタオルで水分を拭きとって下着を身に着ける。部屋から持参した米軍支給の半袖シャツと戦闘服のズボンに手足を通し、ドライヤーで入念に髪を伸ばしながら乾かした。いくつかの房の毛先が曲がっているが、気にする余裕もなく着替えを突っ込んだ袋を肩にシャワールームを後にする。

 いくつかひび割れが目立つ、埃っぽい通路を歩いていく。いかにも急造といった体の兵舎だが、意外にも住み心地はいい。アフリカらしい暑さと湿気には参るが、空調関係は基地のエネルギー収支の改善により設置が進みつつあるし、食堂で出される料理も多彩で美味い。日差しや雨からは逃れられるので、扇風機ひとつでもあれば猛暑をしのぐことは容易い。

 ぶらぶらと通路を歩くだけで多くの兵士から声をかけられた。ハミングバード中隊はどこでも有名人だ。賞賛の言葉を浴びながらどうにか人気の少ない道を見つけて通り過ぎ、広い兵舎の目的地にようやく到着する。

 娯楽室の入口から中を覗き込むと、軽い喧騒が支配する室内で意外な人物がソファに腰掛けているのが見えた。ローランは炭酸飲料の缶を自販機で二つ買い込んで彼へと近付いていく。

「よう、ヨウイチ。何してるんだい」

 日計洋一が振り返り、驚きに眉を吊り上げた後で笑みを見せた。この青年はどこまで人が好いのだろう。ローランも笑い返しながら、戦闘服姿でくつろいでいる彼へ缶を手渡した。既に水滴がびっしょりとついているので、軽く振ってやる。日計は軽く礼を言って艦を受け取り、蓋を開けた。

「ローラン。また出撃だったのかい?」

 隣の兵士が気を使って席を空けてくれた。今度は二人で礼を言う。スプリングのへこたれた、自分と同じくらいくたびれたソファに腰を下ろした。

「そうだよ。今度も緊急出動スクランブルと同じくらいの急な出撃だ。アフリカのあっちやこっちに駆けずり回ってるよ。まるで九一一でさ、呼ばれたら何をおいてもひとっ飛びってわけだ」

「日本だと一一〇番かな。税金泥棒って言われることはないかい?」

「アハハ、ここに納税者はいないからその心配はない。まったく、この調子じゃ太ることもできやしないよ」

「本当にご苦労なことだ。そういえば、鷺澤は逆に太りそうって嘆いてたよ。君達と違って、ぼくらは缶詰さ。彼女も空から飛んでみるのがいいかもしれないな。いちばんに落ちていくんじゃないか?」

「ガリレオが見たら、さぞ驚くだろうな。羽根と鉛は一緒に落ちるのにってね」

 朗らかに笑い声をあげる。他の兵士たちがこちらを見て、どのような二人かを認めて噂話を始めた。疲れていることは変わらないが、そんなことも気にならないくらいに清々しい気分になる。日計洋一は人好きのする青年で、ローラン自身も周囲からそう感じられている節はあるものの、その彼をして憩いの時を楽しませるほどに、日本人の青年は屈託のない為人をしていた。

 さほど広くもないラウンジはナイロビ基地の兵士達のたまり場で、主に兵舎や司令棟の中に間借りしている。娯楽室という名に相応しく、様々な娯楽用具の置かれたテーブルがいくつも置かれ、それ以外の場所でも楽しめるように、トランプなどの簡単なテーブルゲーム用品が複数供えられていた。ラウンジが満員なら、兵舎の自分の部屋で複数人集まり、これらで時間を潰すこともできる。部屋の二隅には大型のプラズマテレビが置かれ、周りにスプリングのへたったソファが放射状に置かれている。今はさらにその間をパイプ椅子が埋め尽くし、映画上映用の簡素な劇場になっていた。何人もの兵士達が、最近話題の新作映画も揃う中、どういう訳か二十世紀末のハリウッドで製作された恋愛映画などを見て、互いの恋愛観をぶつけ合っていた。

 よくある戦地の息抜き空間だ。質素ながら書籍やプリンター、インターネットも完備されている。勉強をすることもできれば娯楽に興じることもできる、正に兵士の自由が具現化したような場所で、彼らは次の出撃へ向けて英気を養う。一度死ねば、二度と帰ることはできない身の上だから。

 しかし、軍隊の行先ではいつでも経済が根を張り、待ち構えているものだ。このラウンジでも兵士にとっては無料でどれも楽しむことはできるが、費用は国連からしっかりと支払われているし、アフリカ大陸でも最も人口密度の高いこの場所で商いをする者は数多い。ナイロビ基地内の自販機に、自分の作った銘柄の飲料をひとつでも販売させる交渉に成功したのなら、楽に暮らせるほどの人財産を築くことができるだろう。

 穏やかで長閑なこの空間でさえも金で動くことを知りながらも、兵士たちは笑顔を絶やさない。彼らが金を出すわけではないし、さらに言えば、楽しめるのは今の内だからだ。もらえるものはもらっておく。たとえお偉方がどれだけ顔を顰めようと、である。

 缶の中身を喉の奥へ流し込んで、日計はローランをちらりと見やる。

「ハートライトとか、みんなは元気かい?」

「あいつはいつもの調子だよ。敵を倒すよりも女の尻を追いかけるほうに忙しいんじゃないかな。それでも流石に疲れてるのか、最近は収穫が無いみたいで。自分の不手際を任務のせいにするんだから、救えないよな」

 中央アフリカの隅々までを飛び回る空挺部隊の特性上、多くの味方部隊の救援に応えてきた。通常の地上部隊と比して、助け合うよりも助けることが多い。元より空挺部隊は機動力が第一の武器で、第二に火力である。航空優勢下における正面戦闘域から外れた位置へと即座に展開し、可能な限りの素早さで最大限の火力を叩き込む。つまり、空挺部隊とはその特性を生かした戦闘を遂行する場合、支援と奇襲の二通りに目的が大別される。

 対ヘルフィヨトル戦では、敵の重要施設への攻撃などは行われない。無人兵器群は人間と違い、物資集積や寝床の確保に建造物を構築する必要はなく、レーダーや地対空誘導弾、はたまた地対地巡航誘導弾にしてもほとんどが自走化されている。たとえ敵の無人戦闘機その他の濃密な対空防衛網を突破して強引に空挺降下を行ったとしても、既にそこに攻撃目標は存在しないだろう。

 そのため、ハミングバード中隊を始めとする各種空挺降下部隊の主任務は窮地に陥った味方部隊の支援へと限定される。そうした戦術的背景のみならず、前線では砲兵支援のような、時間を挟んで到来する救いの手より、実質的な戦闘単位としての増援部隊が切実に必要とされる場面が圧倒的に多い。

 任務が終わると、ジェーン・マクファーティ大尉は必ず自分が助けた部隊を訪れ、現場指揮官に到着が遅れたことを詫びた。中隊員はその背中を遠巻きから見つめているだけだ。前線指揮官たちの反応は様々で、喜びを露わにして謝意を表す者もいれば、なぜあと数分早く来れなかったのかと檄する者もいた。ローランたちは、その叱責を黙って受け止めるしかない。ジェーンは毅然と胸を張りながらも、申し訳ありませんと再びの謝罪を口にするしかない。

 中隊員の目には、三つのものが映っている。ジェーンの細い背中、味方指揮官の怒りの表情、そして無数に転がる兵士たちの骸。

 何を言い返すことができるだろう。自分達が間に合わなかったこと、それは紛れも無い事実なのだ。

「これではハチドリではなく、まるでツバメだな。虫をつつくのに大忙しだ」

 そうジェーンがぼやいていたのを思い出してローランは口の端を吊り上げた。

 疲労困憊、満身創痍でも自分が飛び続けるのは、仲間のためだ。誇らしい思いと共に、ローランは日計を見やった。

 第七PG中隊折れない剣。彼らこそ、兵士足るその信念を体現した存在だ。有体に言えば、ローランにとって仲間とは、前線で死んでいく救う対象でしかなかった。或いは、この手で救えなかったもの。彼自身が自覚することはその優しさ故になかったが、肩を並べて戦う存在は三機のパットン、四機のパンターを置いて他になかった。

 世間では、米独日のPGTAS部隊を比較して騒ぐことがひとつのエンターテインメントとなっているが、ローランにしてみれば競争相手などではなく、戦友だった。

 見も知らぬ、ただ同じ人類だからという理由で死地に迷いなく飛び込んだ彼らには、敬服こそすれ、批難されるべき何物も無いはず。畏怖の眼差しで彼を見つめていると、あることに気が付く。日計は手に何かを持っていた。便箋のようだ。二つある。飾りっ気のない白い型紙で、横に罫線が引かれただけの簡素なデザインは軍人だらけのこの背景に妙に浮いて見えた。

「なんだい、それ。書いてあるのは日本語?」

「ああ、これか」ボールペンをノックして先端を収納し、「妹と両親からの手紙が届いてね。家族からの便りってやつさ。ここで読みがてら、どう返事をしたものかと考えてたってわけ」

「そっか。邪魔しちゃったかな」

「そんなわけあるもんか」

「ありがとう。ところで、ご両親と妹さんの手紙は別々に送られてくるのか? ぼくの家なんかはひとつにまとめて送ってくるけど」

 彼はぱちんと指を鳴らした。

「良い質問だ。いつもは一緒なんだけど、今回は別に送られてきてる。それに妹は両親からのほうと自分の分、両方に書いてる。さあ、こいつはどういう意味だと思う?」

「ははあ、なるほどね。つまり、妹さんは君に何か言いたいことがあるけれど、それを家族には見せられないということか」

 青年は無言で頷く。なるほど、あまり顔色が芳しくないのは妹からの手紙が原因なのか。こうした些細な出来事に心を囚われ、ああでもない、こうでもないと考え込むのも彼らしかった。

 プルタブを起こして倒しながら、できるだけ何でもない風を装って一口を飲み下した。

「相談には乗るよ。なんて言ってるんだ、君の妹は?」

 彼は大仰な溜息をついた。便箋のひとつを恨めしそうに見つめる。

「ローラン。君、兄妹は?」

「妹はいないけど、姉が一人。本国の防空軍で電探員をやってる」

「そっか。歩美――妹のことなんだけどね。ぼくより二つ年下で、昔から色々と可愛がってたんだ。日本ではもう大学受験の季節で、御多分に漏れずあいつも進路選択の時期に差し掛かった」

「野暮なこと聞くけど、どこか旅行へ行ったりしないのかい」

「日本だと、大学に行くか就職するかの二択なんだ。といっても、就職難で高卒の就職口は多くはない。ほとんどは大学進学で、少しだけ自衛軍にいく。ぼくの場合は高卒で自衛軍の基礎教練課程に入って、適性試験の後でPG科の第二教育大隊に進んだ。だから珍しいことでもないんだけど……妹が、自衛軍に入りたいから見学しに行くなんて言い出した」

「それで頭を抱えてるのかい。で、彼女はどこへ行こうとか、少しは自分の考えがあるの?」

 彼は手紙を置き、人差し指で床を差した。

 何とも言えず、ローランは額を抑えて唸る。この青年の心労が少しばかりどころか、痛いほどに理解できた。自分の姉がアフリカ戦役に身を投じる、いや、一日だけでもこの地獄の地で生活をすると考えただけでも、たまらない。

「そりゃまた、どえらいことだな。アフリカは地獄だぜ。地球上で最も人が死んでいる土地だ。いくらなんでも、自衛軍に入りたいってだけで見に来るような場所じゃない。もっと他にも見るべきものがあるはずだ」

「否定する言葉もない。まったく何を考えているんだか」

「頭の痛い問題だけど、なんというか。この兄にしてこの妹ありって感じだな」

「どういう意味だ?」

「物事の核心を突く鋭さというのかな。きっと、妹さんは自衛官に憧れているのではなくて、自分の成し遂げたい何かのために自衛官になりたいんだろうな。だからこそ、君はもちろんのこと、ご両親は反対してるんだろ」

「いや、ぼく以外の誰にも話してないみたいだ。独りで決心して勝手に伺いを立ててきた。とにかくあの手この手でこっちに来るつもりらしい。自分が自衛官になるかは自分で決めたい、だからこの目で兄さんの仕事を見に行く。そう彼女は言ってる」

「フム。一応聞くけど、ヨウイチは反対なんだろ?」

「ちくしょう、ローラン。当然だ!」

 右手で目を覆って日計は呻いた。ローランは彼の感情を手に取るように理解することができた。

 成人を迎えた姉。ハイスクールを卒業してから民間職を経て、苦労して手に入れた平凡な人生をかなぐり捨てて軍への入隊を打ち明けたあの日。家族で最後に卓を囲んで摂った夕食を鮮明に覚えている。

 あの日の献立は母が腕によりをかけてつくったビーフストロガノフだった。父が首元に広げたナプキンに取り落としたスプーンが茶色い染みをつくり、母はヒステリックに喚き散らしたので台無しだったが。「命を粗末にするな」「そんな子供に育てた覚えはない」などの怒鳴り声が砲弾の如くテーブルの上を飛び交い、驚きから懇願、そして命令に変わる両親の説得にも意思を曲げないと見るや、終いには「この親不孝者が」と罵られる姉に、ローランは心から同情した。

 一通りの騒動が済んだ夜遅く、ローランは姉の元を訪れた。いうまでもなく、姉は勘当同然の宣告を両親から受けながらも意思を曲げなかった。部屋の扉をノックすると、意外にも涙ひとつ見せない姉の気丈な顔が覗いた。部屋に入っていいかと尋ねる弟を招き入れ、キャロライン・ローランはそばかすの散りばめられた頬を緩め、弟を部屋へ招き入れた。

 その日はシチューを出すくらいに寒かったのだ。せっかくのストロガノフもあまり口にできず――ローランはその日から、この料理を二度と口にすまいと心に決めた――コーヒーを手土産に彼女の部屋を訪れたのだった。

 あなたが来るなんてね、と彼女は言った。引っ込み思案だが誰よりも優しい弟の最大の理解者が、姉だった。大勢の人間が都合のいいようにローランの優しさに漬け込む中、彼女だけはよりおおらかな優しさを弟に与えていた。

 アッチソンは心の底からの疑問をぶつけた。どうして死にに行くような真似をするんだ? 本国に居れば一先ずは安全なのに。父さんや母さんの言うこともわかるよ。ぼくは、姉さんを死なせたくない――。

 姉は弟を愛おしそうに見つめ、今までち同じように、癖の強い茶髪を優しく撫でてやった。

「あなたが悲しそうな顔をするから、わたしは戦いに行くのよ」

「どういうこと? ぼくが弱いから、姉さんが戦わなければならないということかな」

「そうじゃない、そうじゃないのよ。強いとか弱いとかじゃなくて。あなたにも、いずれわかる時が来る」

 その翌日、ローランの姉は両親から勘当されながらも入隊した。

 だが実の所、ローランは弟として姉が軍に入隊することは反対していた。それは両親のような、生命を第一に考えるあまりに人間としての自由意志を封じるためではなく、現実をよく調べ上げた上での憂慮だった。

 南極戦争の中で、合衆国は最も兵力を派遣している主要国のひとつだ。北米大陸の防衛を司る防空軍であるとはいえ、最前線に出されない日が来ないとも限らないのは、今でも変わらない。ヘルフィヨトルの無人戦闘機は技術革新を重ねた、現代の有人戦闘機に比しても圧倒的な機動力を誇る。だから苦戦している。そうなれば最終的に頼りになるのは数だ。レーダーなどその最たるもので、対レーダー誘導弾による破壊と新たな配備のいたちごっこが続く。その流れの中で、戦闘指揮所から隔離された電探員のコントロールセンターも攻撃対象に入るのではないか、ということだ。

 ただひとつ、アッチソン・ローランに理解できたのは、自分が守りたいモノがあって、それを傷つける何かを目前とした場合に人がどんな行動を取るかということだった。

 ならば、と彼は思い立つ。

 三年後、ローランは姉を追いかけるようにしてアメリカ陸軍へ入隊した。姉の選択に心からの敬意を抱き、その在り方を正義と捉えたがために。

 両親は首を振って、もはや何も言わなかった。姉と同じようにお前も家族を裏切るのか、と言い放っただけだった。両親の冷めた視線に対して、ローランは悲しそうに言葉を返した。

「姉さんもぼくも、家族を裏切ってなんかいない。父さんや母さんだって、わかっているくせに」

 しかし弟のほうはアフリカへ送られ、今や人類を代表するPGTAS部隊のドライバーを務めている。様々なやり取りの後でローラン家は半ば和解し、聞くところによれば姉も両親と手紙のやり取りをしているそうだ。メールで済ませないのは、ディジタルの冷たさではなくアナログの暖かさを求めるが故だろう。姉らしい気遣いだった。

 日計の妹も同じ理由で、わざわざ手紙という手段で訴えたに違いない。人間は守ることには抵抗を感じないが、守られることに慣れるべきではないのだ。

「前の手紙で、ぼくは歩美に自衛官にだけはなるなと伝えた。たとえ妹でも他人の人生に口を出すのは憚られる。だけど、人生の中でこんなに悲しい決断だけはしてほしくなかった」

「戦ってほしくないから、戦う。そのために戦っているんだものな、ぼくらは」

「そうだ。軍人は誰かのためにいる。戦火を身を以て食い止めることで、故郷の平和を維持することがぼくらの使命だ」

 自分が命を投げ出せば誰かを救えるかもしれない。それはきれいごとだな、と、ローランは自嘲気味な微笑みを口元に閃かせる。

 日計は不機嫌そうに便箋を振り、封筒の中へ戻す。ラウンジの奥で上映されている映画鑑賞会の場から、一際高い喧騒が響いた。つまらない内容でもクライマックスは盛り上がるらしい。

「戦う意味は人それぞれだけれど、ぼくの場合は鷺澤朱里のためだ。それがここにいるいちばんの理由。もちろん、家族のためにだって戦ってる。これじゃ本末転倒だよ。誰かに隣にいて欲しいとは思っても、追いかけて欲しいなんて願ってもいなかったんだからな」

「まだ妹さんは入隊するって決めたわけじゃないんだろう? 一度なら猶予はあるさ。こっちに来させてやれよ」

「アフリカに?」信じられない、と目を丸くして、「危険にもほどがある! いつ敵が来るとも知れないんだぞ。たとえナイロビ、いや、マルサビットにいたって、ヘルフィヨトルはやってくる。君の方がよく知っているだろうに」

「だからこそだ、ヨウイチ。この場に立って、君の言葉で言ってやるのがいちばんだ。電話もダメだぞ。面と向かって話さないと説得なんて無理だ」

「歩美に一度も会ったこと無い君が、どうしてわかるんだよ」

「兄妹だろ? 君を見てればわかる」

 彼は両眉を吊り上げると、封筒を小脇に抱え、飲料を一気に飲み干して立ち去った。去り際に小声でありがとうと言っていくあたり、本当に好青年だと思う。

 ローランは呆けたように、面白くもつまらなくもない表情で佇んだ後、缶を片手に上映コーナーへふらふらと足を向けた。上映会場から湿っぽい音楽に味付けされた、陳腐なラブストーリーのクライマックスが流れている。

 人間の心を慮るより、大衆映画の恋愛事情を読み解く方が簡単だろうな。ローランはそう思いながら、空いたソファに尻を沈め、やがて眠り込んだ。





 新宿駅西口から見える超高層ビル群、その麓を中心として多くの居酒屋や飲食店が軒を連ねている。歌舞伎町とはまた違った客層の男女が入り乱れ、不況の中で揉まれた一日の愚痴をぶつけ合った。ささやかな愚痴や慰めが重なり合い、酒場は活気づく。他愛のない話をするために声を張り上げねばならず、どこもかしこも怒鳴り合いにも似た会話が交わされた。店員たちは忙しなく客の間を歩き回り、発電機へ給油して回るように酒を運び続けた。

 誰もが疲れていた。働けど働けど、心のどこかで燻る焦燥感が身を焦がしていく。不安が過らない夜はない。明日の生活のために懸命に働けど、その成果がどれだけの慰めになるのかは保証されない。経済的な問題は戦後日本の持病ともいえるものだが、さらには横浜港襲撃事件と九十九里浜要撃戦は日本国民の心に大きな爪痕トラウマを残していた。辛い現実であっても、ないよりはましだ。現在の社会そのものが消滅することに比べれば、不況など屁でもない。そんな気概からか、日本国民はがむしゃらに働き続けていた。

 戦時下の経済とは得てして好転し難い。戦争に金をつぎ込んでも明確な利益リターンは決して返ってこない、消費一辺倒の経済活動だからだ。軍需産業を除けば、経済のあらゆる備蓄を消費する速度が圧倒的に勝る。国は消耗し、国民は疲弊する。不況と戦争は待ってはくれない。人類全体が南極戦争という生存闘争に身を賭している中で、個人の苦労やプライバシーといったものは軽視される傾向にあることも、国内に沈んだ空気が蔓延する要因ともなっていた。個人を優先して人類が滅びてはそれまでだと政府は啓蒙し、戦費ばかりが嵩んでは兵士が増えていき、そして一斉にいなくなっていくだろう。

 都会のビルの隙間を流れていく疲れた顔の中で、決して見ない顔ではないものの、本来ここにいるべきでないものがあった。スーツ姿の男が一人、路上をふらふらと歩いていく。酔っ払いを装いながらも、目的地は確かなようだ。無数に並ぶ暖簾を見分け、仏頂面でひとつの店に入っていく。人目を避けるように雑居ビルの地下階へ続く階段を下り、数多の人々の脂で汚れたノブを押し開いた。

 大衆酒場というべきそこは本来の喧騒からはほど遠い隔絶された空間となっていた。ほどほどのスペースに壁から伸びる木製の卓をベンチ式の座席が挟み、片面は厨房とつながったカウンター以外に客席はない。大勢を収容して横柄に稼ぐ経営ではないらしい。天井には申し訳程度の冷房設備とシーリングファンが顔を覗かせ、少し明度の低い照明と卓上で明かりを灯している注文端末が卓上で目立つ。

 しんと静まり返った店内、いちばん隅の卓についている男が手を挙げて合図を寄越した。店に入った男は上等な背広のポケットに手を突っ込んだままつかつかと歩みより、相手の苦笑いも無視して斜向かいに腰を下ろした。

「ご苦労さん。駆けつけ一杯、どうかね」

「これはこれは。いただきます」

 まだ営業時間の筈だが、寡黙な店主が一人で肴に包丁を入れているところを見ると、この好々爺と浅からぬ関係らしかった。人払いをするには、金か信頼かが必要になる。店内には他に客らしい姿がない。密会というやつか。そう読み取り、海上幕僚長である有村宏は微かにそれとわかる程度に頭を振りながら席に着いた。

 突然の呼び出しであった。自衛軍は統合幕僚監部に所属している有村にとって、本省寄りに身を置いている幕僚監部参事官からの召集を断ることはできない。あらゆる意味で、防衛省の参事官や理事に名を連ねている人間は国家の命運を握っている。明らかな反発行為こそ内閣に示さないものの、防衛省は警察庁と違って独立不羈の精神が強い。ヘルフィヨトルの出現がそのように舵を切らせた。戦争となれば、軍部が発言力を持つのが世の常である。

 まだ七時を過ぎたあたりだが、既に目の前の男――統合幕僚監部参事官、頼成恒久は熱燗の猪口を傾けていた。空いた瓶がふたつほど転がっており、肴の皿もひとつ空になっていた。まだ五十歳ほど、政界ではまだ若いで通る年齢だが、その風格は粗削りながら威圧的なものがあった。いわば覚悟を決めた歴戦の剣闘士グラディエーターとでも表現すればいいだろうか。

 身構えているばかりいても仕方がない。どのような話題を振られても対応できる余裕を残しておかなければならなかった。

「もう始めていますか。時間には間に合ったつもりでしたが、申し訳ありません」

「時間より五分は早いが、あと十分早ければ尚いい。いや、謝るのはわたしのほうだな。年甲斐もなく、少し飲みたくなっただけだよ。年寄は先行きが短いからせっかちなんだ」

 そう言って笑う頼成に、有村はぎこちなく頷き返した。馬鹿真面目だなとまた笑い、猪口を乾かした。

 有村にとって、これは歓迎されるべき状況ではなかった。誰にも聞かれない裏話など、政治家らしいくだらない駆け引きの舞台の出来事である。どう考えても軍人の出る幕ではないように思われる。汚職や機密を暴かれた時、政治家は頭を下げるが反省の色など見せない。自分の行いが世間から非難されるべきものではないと信じているのだ。それはある種の強迫観念といえる。国が倒れようとも、その意志に背くのが民主主義国家の政治家というものだ。

 少なくとも、有村はそうして伸し上がってきた。それがどうだ。海上自衛軍は南太平洋海戦からこっち、自衛三軍の中でも役立たずの烙印を押されているのが現状だ。横浜港襲撃事件、九十九里浜要撃戦と、日本領海への侵犯どころか陸地への上陸を許してしまった。今も苦心して、大平洋方面における敵の海上部隊を牽制し続けている。護衛艦は一朝一夕に補充が利かないのみならず、戦車や戦闘機ほどに数を揃えることもできない代物だ。今も舞鶴、呉の造船企業が総出で新式護衛艦を建造しているが、予算と納期の都合から有事の際の必要数を揃えられているとは到底思えない。

 恐らくはその辺りが、自分が呼び出された理由なのだろうなと勘繰った。頼成恒久はタカ派として知られている。防衛省の中でもかなり好戦的な部類だ。既に十六年前となった第一次侵攻の折、オーストラリア戦役で外国籍の妻を亡くしたことが、彼がヘルフィヨトルに強硬姿勢を執る端緒となった。

 理解できぬ話ではない。大切な人を失えば、その原因を滅したいと願うのは人の性だ。だからこそ人々は戦えているのだが、馬鹿と鋏は使いようというやつだろう。

 どちらにしても、妙な話であれば断ろう。そう腹を決め、有村は店主に熱燗をもう一本注文する頼成の白髪と黒髪の混じった頭を見つめた。

「頼成さん、もうお仕事はおあがりになったので?」

「いや、実は戻る予定がある。目を通さないといけない報告書があってね」

「酒を飲んでですか」

「書類仕事ではなくて、人と会わねばならんのでね。執務室の中だけに仕事が閉じこもっていればいいのにな。塵も積もればとは言うが、あの諺は欠陥だらけだ。良くないものも積もるのだからな」

「気苦労が絶えませんな。筆を持たないとはいえ、あまり飲み過ぎないでください」

「こんなもの、帰り道で醒ますさ。酔いどれ参事官だなんて言われんようにな」

 曖昧に頷き返す。参事官が顔を合わせて話さなければならない事案とは何か。彼らは統合幕僚監部の運営と監視が主な職務のはず。各省庁との調整は政務官の仕事だ。最終的な責任を負って決裁を済ませるのは黒田幹久であろう。

 食えない男だ。有村は薄くなり始めた髪を撫でつけながら、運ばれてきた熱いおしぼりに手を付けた。

「今日は暖かいな。お蔭でコートを着ずに済む。そろそろ二月の時分にしては異常だ」

「そうですね。地球温暖化が加速度的に進んでいるらしいですからね。第二次大戦に比べればまだましといったレベルでしょうが、この戦いがいつまで続くものやら」

「部隊の機械化が大幅に進歩したからな。排気量は増えたが、その分、生産現場では温室効果ガスの排出制限を順守しようとあくせくしている。海幕長の君には釈迦に説法だろうね」

「いえ、とんでもない。微力ながら国に尽くそうとしてはおりますが、目の端からこぼれるものは多いもので」

「ヘルフィヨトルがどうしているのかは知らんが、エコな戦争とは妙なものだ。人類が滅亡するより早く地球がダメにならないようにという配慮なんだろうが、なりふり構ってはいられない筈だ」

「敵も環境には配慮しているのではないですか。装甲兵器群の中心にいるのは人間ですし、鉄屑だけ残っても仕方がないでしょう。厳密に言えば違うようですが、それを推し量る能力は今の人類にはありません。先日もマルサビットでひと騒動ありましたが、彼らとて地球環境の崩壊は望むところではないのかと。野生動物には手を出してはおりませんし」

「そうだな。して、どうだね、任務のほうは。最近は陸が予算をほとんど持っていっているだろう? 本来、我が国に必要なのは空自と海自だ。水際要撃など現実的じゃない。地理的優勢があったとしてもだ。海上で敵をどれだけ沈められるかが勝負なんだ。そこで戦いは八割がた、決まる」

「我が軍は弱体化しています」言ってから慌てて付け加えた。「海上自衛軍の、という意味です。南太平洋海戦から、艦艇の損耗は完全には解決しきっていません。補充するにも兵士が要り、訓練も必要です。装備の更新もしたいのですが、戦車のようにいざというときは拡張すればいい、などという思い切りもできますれば……」

 頼成は猪口の底を見つめて渋面をした。海自の立場に立っているというアピールなのだろう。同情的な彼の姿勢とは裏腹に、有村は警戒心を強めた。

「文官であるわたしが言えた義理ではないのだが、予算面では泣き寝入りするしかない。今現在、人類が最も有利に戦える戦場は地上だから相対的に陸自が幅を利かせている。さらに言えば、国民がいるのは土の上だからね。いざというときの盾の役割は陸自が担うし、実際の作戦行動も陸が中心になるだろう」

 有村には財務相の反対を飲み込み、部下である全海上自衛隊員に涙を飲んでくれと頭を下げるは毛頭ない。どれほどの苦境にあり貧しい装備であっても、兵士を送り出さねばならないのは有村宏その人であり、自衛軍の一柱であるならば戦わなければならない。最高指揮官たる彼が、憐れみや苦悶の表情を浮かべるわけにはいかない。絶望的な状況に立ち向かう兵士達の勝利と生還を信じていなければならない。

 店主が熱燗と秋刀魚の造を持って来て、卓の上に置いて無言のまま引き下がった。寡黙な男だ、と有村は頼成がさっと手に取った酒を猪口で受けながら、その背中に気付く。

 異様に姿勢が良い。それだけでなく、足運びもどこか覚えがある。特別警備隊SBUか一空か。見覚えが無いから恐らく陸の人間で、もしかすれば特殊作戦群かもしれない。どちらにしても、こちらへ興味あり気な視線を送ることもないのに、気付けばひりつくような気配が肌に刺さる。

 人間であるならば、感情を完全に殺しきることなど不可能だ。心は能動反応ではなく、受動反応だからだ。外部からの刺激を受け、人と人との繋がりを維持し、境界はだに触れ自己を実感するために心はある。周囲に他人がいる限り湧き上がる概念は無視できない。しかし、極限まで感情に鈍感になることはできる。ほんの一握りの人間にのみ付与された後天的な才能だ。徹底的な人格の否定と、それに耐えうる忍耐の末にこそ得られる極地。無我の境地とも言われるもの。

 この店主は頼成の息のかかった兵隊だろう。有村は猪口を乾かして、景気づけに二杯目を自分で注いだ。上等だ。それほどまでに念を入れるのならば、こちらもそれ相応の対応をしようではないか。

 一度相手と見定めた途端、有村の頭の中で頼成の個人情報が渦を巻いてぶちまけられた。そのひとつひとつを拾い上げて検分し、相手の弱点を探る。

 頼成は本省でも名の知れた男だ。修羅の如き野心とヘルフィヨトルへの憎しみに燃え、その信念は揺るぎない。妻子の件から、彼は政治に邁進してきた。元々、太平洋に面している日本国内において自衛軍を擁護し、強権的な極右思想を掲げる政治派閥は存在していた。百年前の大戦を覚えている者は全員が他界していたが、歴史はそうそう色褪せるものではない。そして、記憶は歴史へと脚色されるものだ。

 国際世論は日本の軍事的暴走を危惧した。生憎なことに、環太平洋地域で先進国と呼べるのは日本と中国。南シナ海でのひと悶着を経て、米国その他により大陸へ封じ込められた中国の政治的立ち位置はここで顕在化した。散らばる島嶼群を統括して防衛する主体は日本国以外にあり得なかった。そのため、右傾化は特定の団体に由来するものではなく日本国全体の意思でもあった。

 中でも声高に敵殲滅と自衛軍増強を叫ぶ頼成はしかし、有村らの目には別のものとして移った。即ち、あまりにも純粋な主張から彼は憂国の士として認められるに至ったのである。許容される環境を用意したのは時代であり、ヘルフィヨトルだった。

 当初は似て非なるものとしてタカ派から疎まれていた頼成は、一転して彼らの中枢に招聘されることとなる。彼は防衛省を中心として各省庁に人脈を築き、今日まで自衛軍の作戦行動の円滑化や指揮系統の整備等、あらゆる「戦い」を行ってきた。

 有村には、日本国民を守らねばならないという使命感で誰にも負けているつもりはない。しかしながら、全てを投げ打ってまで敵を滅ぼそうとする気概までは持てなかった。頼成のように、直接的に有村が被害を被ったのではないからだ。南太平洋海戦時、一兵卒でしかなかった彼は死にゆく仲間達を横須賀で見送ることしかできなかった。そのため、彼が望むのは純粋な防衛戦争であり、頼成と同じく国力増強を切に必要と感じてはいるが、武力を行使する主目的は頼成とは対極に位置するものだった。

 託されたとは感じている。太平洋に赴き、最後の一隻まで奮戦した同期や世話になった上官たち。有沢敬二海将のせがれが、そういえば陸自にいるらしい。あの折れない剣で指揮官を務めているとか。今度、時間があれば調べてみよう。

 頼成は小皿に生醤油を注ぎ、山葵をのせて口の中に放り込んだ。満足げに喉を鳴らし、さらに酒を煽ったところで有村を睨んだ。それまでの穏やかな空気が剥がれ落ち、薄く開かれた瞳はアルコールの霧が晴れて剣呑な眼差しを射込んできた。

「海上幕僚長である君にここまでご足労願ったのは、他でもない。少しばかり協力――いや、助力を願いたいことがある」

 遂に来た、と声には出さなかった。努めて冷静に、はい、と返事をする。

「まず、我々は仲間だ」さもありなんとばかりに自ら頷いて見せ、「そうだろう、有村君。同じ日本国民であり、日本人であり、こうして酒も酌み交わしているのだから。わたしが君に頼みごとをしても何ら不思議はない。わたしは日本のために働いているし、それは君も同じことだと確信している」

「自分としましては、ここであなたから直接の命令を受けることはできません。如何なる事情であれど直属の上官である荒巻統幕議長を通していただきたい。それならば、どんな命令にも従いましょう」

「間の抜けた返答をしながら、その答えをわたしが返さないことを知っているんだろう」

「何のことでしょうか?」

 フン、と頼成は鼻で笑い、若造めと呟いた。秋刀魚を口に運んでまた熱燗を飲み下し、再び口を開く。

「統幕議長には話せないことだし、これは命令じゃなくて『お願い』だ」

「自分にはどちらも同じように聞こえますが」

「荒巻を通して直截に言えることなら苦労はしない。それくらいは察しがつくだろう。君も馬鹿じゃないんだ、児戯はやめにしないか」

「はっきり申し上げておきましょう、頼成参事官。わたしは正規のものでない命令には従うつもりはありませんし、これこそが児戯です」

 有村の言葉をまったく無視して、頼成は猪口を乾かし、新しい酒を注いだ。

「黒田さんにも、その周りの政務官にも話せないことだ。わたしは君を見込んでこの話を持ち掛けているし、人を見る目はあるつもりだよ。日本を守るため、そう、真に国民の安全を守るために、国益のために戦おうという思想を持つ人々が国内には存在している。わたしは、彼らのささやかな代表を務めていてね」

「戦いと仰いましたか。まさか――」

武装蜂起クーデターなど、起こすつもりは毛頭ない」

 断固たる口調で頼成は否定した。どうだかな、とほぼ同時に有村は胸中でぼやいてみせた。

「この国を立て直して戦いに勝利するために、そのような非現実的な手段はとらん。政権にも興味がないし、そもそもそんなことをしたところで国民感情は我々には傾かない。言っておくが、これはわたし個人ではなく我々全体としての意見だ」

「では、何を趣旨として活動なさっているのですか。現状維持ならば、活動を起こす意味も無い」

「ヘルフィヨトルを殲滅できればそれでいい。もっと大きな視点で言えば、南極戦争を終結させる。それが日本国における最優先事項であり、我々の悲願なのだ。経済は建て直しの時期を見誤り、今や軍需一辺倒の経済体制で自転車操業を行っている。下町の工場では狂ったように薬莢や戦車用の金属部品を製造している。複数あった財閥系重工業企業は合併を繰り返し、国内の防衛産業では競争というより共存の色が強い。このままでは国民が飢えて兵士だけが生き残ってしまう。百年前の再現、それでは本末転倒だ。兵在って国は無しとは、民主主義国家の職業軍人にとっての悪夢だ」

「具体的に、あなたはどうなさるおつもりですか。武装蜂起も首都占領もしないのでは、そのような強硬姿勢は後に尾を引きますまい」

「賢しいことを聞くな。君が聞くべきはわたしのことではない」

 鎌をかけたつもりが、自分の喉元に包丁を突き立てられたことに有村は気付いた。冷や汗が背筋を伝って降りていく。心なしか、店主の気配が鋭いものに変わった。

に」唇を舐めて、有村は言った。「何をしろと言うのですか」

 少し乗り出した姿勢を元の位置に戻し、頼成は襟を整えた。

「特に、何もする必要はない。仲間から同志になってくれればそれでいいのだ。そして、我々は国家に歯向かおうなどとはまったく考えていない。重ねて言うが、何も行動を起こさないことが我々の主義だ」

「しかし、主義があるならば主張するのが道理です。何もしないのならば何も考える必要はない。しかしこうしてわたしに話しているということは、あなた自身の思想に基づく行為でしょう。矛盾していますよ、頼成参事官」

「尤もだな。では話そう。君は、検体アルファについて知っているか?」

 有村は頷いた。

「ランドグリーズ事件で回収した、黒いPGTASの残骸でしょう。聞いたことはありますが、詳しくは存じ上げません」

「そうか。まあ、わたしも知識としては似たようなものだ。では質問を変えよう。回収されたのはそれだけだと思うか? アルファの次はベータ、ガンマとあるのではと思わないかね」

 この議論の先に何があるのかを察することができず、有村は視線を泳がせ、とりあえず秋刀魚の一切れを箸ですくった。頼成は小皿を取って醤油を注ぎ、彼の前に出した。軽く会釈をして、有村は脂ののった魚を吟味する。旬であるはずなのだが、非常に味気なく感ぜられた。

「他に何を回収したというのです、我が国は?」

「簡単な話だ。考えてもみたまえ。子供でもできる三段論法だよ。敵の一機が反乱を起こして撃破されたという情報は世界に伝わっている。しかし、いち早く現場に赴いた自衛軍――当時は自衛隊という中途半端な武力組織だったがな――がランドグリーズの残骸を回収したことを、各国は知らない。いや、勘付いてはいるのだろうが公にはしていない。そのほうが都合がいいからな。確証はないし、自分達がその情報を手に入れた場合に大きなアドバンテージにもなる。今もインテリジェンスの連中は、あれを探すのに腐心している筈だ」

「つまり?」

「フム、少し話が逸れたな。わたしが言いたいのは、機体があるのならばその中身があるということだよ。黒いPGTASは最初の五人が駆る超兵器。となれば、機体を回収したのならば、当然――」

 あとはわかるだろう、と頼成は肩を竦めて見せた。有村は開いた口を意識して閉じ、彼の言ったことの信憑性を考えてみた。

 そもそも、ランドグリーズが黒いPGTAS同士の戦闘で大破した際、とてつもない規模の爆発が観測されたという。十メガトンの爆発にも匹敵するものだ。無論、爆心地に居た筈のあの機体が現存しているという時点で寒気を覚えるのだが、それ以上の意味合いを頼成は言外に含ませていた。

 お互いに核兵器を喉元へ突きつけたまま動けない冷戦時代へと戻らずに済んでいるのは、ヘルフィヨトルの戦闘力が人類のそれに合致した水準であるに他ならない。彼らは人類を徹底的に排除しつつアフリカ大陸と東南アジア方面で北進している。

 これまでの戦闘で明らかになったのは、敵は人類を排斥しつつも、必ずしも人類絶滅に乗り気ではないということだ。人類を抹殺するのならば、手っ取り早く生物兵器を用いればいい。無人兵器には毒ガスは効かないのだから。核兵器による報復があったとしても、無人兵器群が本気になれば南極などどうとでも守れるだろうと、有村は考えていた。アレースのエネルギー投射砲ならば、高精度でタイムラグ無しの長射程砲撃ができる。

 しかし今まで戦場で化学兵器らしいものは一切使用されていない。確認されたのは通常兵器のみ。だが、PGTASを出せばPGTASで対抗してくるあたり、情報収集に余念がなく、ほぼ同時期に同種の兵器を投入することで均衡を保とうとしているかに見えてならない。人類が核による焦土作戦に入れば、敵はISBMでも撃ち込んでくるだろう。

 頼成恒久の言が正しく、ランドグリーズに搭乗していた最初の五人、そのうちの一人が回収されているのならば、彼らをピンポイントで狙う何かができるかもしれない。彼はそう仄めかしているのだろうか。だとすれば、そんなことはさせてはならない。無人兵器を主な攻撃対象としているからこそ今の戦況はある。人類が人間に準ずる、あるいはまったく同一である彼らを狙い始めれば、彼らもそれに応じて、これまで以上に徹底的な対人戦闘を行うようになるだろう。それこそ、毒ガスのひとつでも撃ち込まれて不思議ではない微妙な戦略的均衡の上に、今の戦況はある。

 これは厄介な問題だ、と、有村は腕を組みたくなるのを堪えた。ここで頼成の思惑に乗るべきか、乗らないべきか。差し当たって彼の言葉を鵜呑みにするならば、武力による国内の混乱は無いと見ていい。ではどうするのか。正々堂々、こちらの陣営が擁する人物を閣僚として政府を動かす。あの切れ者で知られる大滝史彦を切り崩せるかはわからないが、やってみる価値はあるかもしれないと有村は考えた。

 そう、頼成の動機は正にそこにあるのだと、唐突に悟る。彼は統合幕僚監部の参事官として名を連ねてはいるが、政務官並びに黒田防衛相が処理しきれない安保理からの圧力を肩に受ける立場でもあった。特にタカ派で知られる彼は日本のありもしない覇権構想――少なくとも、有村はそう信じている――を練っている首謀格としての扱いすら受けたこともある。それほど安保理からの摩擦は強かった。そして物は擦り合わされれば熱を持つもの。燻っていた亡き妻の復讐心が再燃し、あらぬ方向へと情熱を傾けてしまうのではないか。

 頭の中で言葉を並べて一通りの検証を済ませた上で、有村は口を開いた。

「先ほどの、同志なんやらというお話に戻りましょう。承ってもよろしいのですが、ひとつ条件があります」

「何かね」頼成は刺身を箸でつつきながら、上目遣いで有村を見た。

「いつでも足を洗えるように取り計らっていただきたい。無論、あなた方の存在を口外することは決してないとお約束いたしましょう。来るもの拒まず、去る者追わずの姿勢でお願いしたい」

 頼成は鼻を鳴らし、秋刀魚を口に運んだ。

「舐められたものだ。そんな言葉を信じるものかよ。好きなだけ腹を探らせてそのまま家へ帰せと?」

「お怒りになられるのも御尤もですが、正直なところ、頼成参事官のお話は半信半疑なのです。本当に、日本国内でそのような思惑が動いているのかと目を見張るしかありません。何しろ今は戦時下です。政変とまではいかずとも、挙国一致の防衛戦争の礎を揺るがすようなことをして何の益があるのか」

「君が我々のお目付け役になると?」

「いいえ、取り持つのです。失礼ながら、参事官殿の仰る思想、行動指針は何者の承認を受けた、或いは意思を組んだものではありますまい。日本は、たとえその実存が疑われようとも民主主義国家です。国民の承認を受けた政府の他に、行政その他を取り仕切る機関は有り得ません。しかし、超法規的な措置でしか国を守れないというのならば、政府を脅かさない範疇で行動をとる必要があるとも理解できます」有村は熱っぽく身を乗り出した。「ここはわたしの言葉を信じていただけませんか。わたしも軍人です、言葉に二言はありません。それに、女房子供もおります。道義に恥じる生き方は致しません」

 抜け目のない、もはや好々爺の仮面が剥がれた激情を瞳に湛えて頼成は有村を睨み付ける。

 揺るぎない視線に対抗するのではなく、有村は全てを受け止めた。その上で自分を表現できる余地が無いことに気付いた。何度も経験した感覚だ。海上幕僚長になるまで武勲を立てられなかった代わりに、この自分には天賦の才ではなく権謀術数こそが真に必要だったのだ。相手を許容することは第一歩だ。その上で対抗策を考える。

 今は、視線を揺るがせるべきではない。はったりをかます時だ。

 背筋を伸ばし、有村と頼成は睨み合った。歳はひとつかふたつほどしか違わない筈だが、どういう訳か頼成のエネルギッシュな迫力に気圧されてしまう自分がいた。

 やがて頼成は頬を緩め、溜息交じりに座席の背もたれへ体重を預けた。

「負けたよ。わかった。その条件でいこう」

 緊張が解け、有村を虚脱感が満たした。なんとなく手に猪口を握ると、頼成が熱燗を手に取って振る。

「ほら、呑もう。堅苦しい話はもう無しだ」

「はい、ありがとうございます」

「気付いているようだがね、あいつは西普連から一空を経た強者た」頼成は顎をしゃくって店主を示した。「実家が割烹だったとかで、そっちに戻った奴なんだ。わたしは参事官になりたての頃に、ちょっと彼と面識ができてね。暖簾を構えてからというもの、静かに飲めるのはここだけだ」

 目をやると、店主の鋭い眼差しとぶつかった。軽く会釈をすると、彼は微笑んで自分の仕事に注意を戻した。

「その気になれば、包丁が首に刺さってもおかしくはなかったということですね。想像するにぞっとしません」

「おいおい、もうそういう話は無しって言っただろう。さあさあ、飲めや食えや、だ。秋刀魚の他にも刺身はある。今日はわたしの奢りだから、存分にやりたまえ」

「いただきます」

 有村は肴に箸をつけた。ふと、一瞬前の選択を誤った自分をつまんでいるような気分になった。

 店主のことは単なる紹介ではあるまい。必要ならばこちらを消す手駒がひとつはあるという、頼成からの圧力だ。

 厄介なことになった。少しだけ味のするようになった秋刀魚を、熱燗で強引に胃の腑へと流し込む。

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