第五章「飛び火」

第三十二話

  ――後悔は誰にでもある。あのときこうしていれば、と悔いる瞬間。皮肉なのは、その時には誰にでも、最悪の選択肢が最良の一手に思えることだ。往々にして、人々は己の選択ではなく、それを選んだ自分自身を呪う――



 日計歩美のこのところの日課は、毎朝やってくる郵便配達員を玄関で待つことだ。

 今朝は特に冷え込む。お気に入りの赤いはんてんの袖に両腕を突っ込んでマフラーを首に巻き付ける和洋折衷スタイル。時代が進んでも、日本の伝統的な防寒着はこれに限る。同年代の女友達はそれぞれフリースやパーカーなどを羽織るようだが、歩美には冬場にこれ以外の格好で家にいる心算はない。

 ぺたぺたとスリッパの音を立ててフローリングを歩き、二階の自室から玄関へ降りる。扉を前にして座り込んだ。吐く吐息が白い靄となって視界を遮る。かたぶちまで切りそろえた茶髪が凍りそうなほど冷たい。

 毎朝、きっかり五時半には配達員がカブに乗ってくる。それまでの辛抱だから、あと五分ばかりを待てばいいのだが、暑さはまだしも、寒さはなかなか堪える。しもやけにならないように両手を擦って息を吐きかける。湿った掌をじんじんと血液が廻った。

 暇つぶしに持ってきた携帯端末モブの時刻表示と睨めっこをするのにも飽きてきた。この時間帯には友人は誰も起きてはいない。SNSの画面を開いて連絡が無いことを確認してから、もう数え切れないくらいに開いたウェブ上のニュースページを開く。そしていつも通り、大きな溜息と共に小さな画面を覗き込んだ。

 人工知能技術の発達により、飽和状態に達したウェブサイトの数はさらに増大の携行を示したが、自動的に情報を取捨選択する技術を確立したことで、情報を収集、管理することは容易になった。

 見出しは無数に転がっている。キーワード検索、「アフリカ」。さらに「日本」。それでもかなりの量がヒットし、何ページもの記事が検索結果一覧に表示された。辟易しながらも最後のキーワード、「紫雲」と打ち込めば、数こそ多かれど望む記事に多少は絞り込める。

 十五年の沈黙を破った第二次侵攻が始まって既に二ヶ月が経つ。国連軍はアフリカで善戦していた。少なくとも一般人でしかない歩美にはそう見えたし、世間の人々もそう言っている。苦境に立たされながらも、舞い込んでくるのは良い報せばかり。これが望ましくない事態であると気付ける日本人は左程多くはなかった。

 曖昧にぼやけた情報に翻弄される民衆。「人類は優勢だ」と聞かされて、「それはなぜか?」という問いかけに根拠を示せない。こうした場合には実際の数字を調べ上げることが肝要だ。予測値と実際の値、それらの差異を可能な限り簡潔に把握することが、現下の状況を知る最も理想的な道筋である。

 歩美はこれについても丹念に調べ上げていた。生来の才能で、思い描く状況に対して理解する能力が高い彼女は、日本政府がひっそりと公表する数値をウェブ上で、記憶の中で確認する。それによれば、現在までで死者は三万以上、死傷者は十万を数え、破壊された戦闘車両やPGTASは一万に上る。金額にすれば天文学的な数字が被害総額に計上されるらしい。これについて推測しているサイトのいくつかを覗いただけで眩暈が起きた。

 南極戦争で先に滅ぶのはヘルフィヨトルでもなく、人類でもなく、社会機構と経済だ。そんな風に叫んでいたテレビのコメンテーターを思い出し、なるほどその通りだと歩美は納得する。素人目に見ても、これは大変な損害だ。死傷者といっても大半を死者が占め、敗北と勝利の比率は極めて偏ったものになる。だとしても統計的な数字は減少傾向にあり、十五年前のようにただ手をこまねいているわけではないのも実情だと複数の記事が伝えていた。AFCHQ参謀本部はそうした見解を出している、と。

 つまり、確かに人類は善戦しているが、それは戦局が芳しいのではなく、以前に比べればいくらかましという程度のものなのだと、歩美は知った。

 日本国の九十九里浜への揚陸作戦に短所を持つこととなった、南極戦争におけるヘルフィヨトルの第二次侵攻。先制攻撃を受けながらも日本列島が直接的な侵攻の標的とならずに済んだ理由は今でも議論されている。大別して二つの説が有力で、日本国の頑強な抵抗に膝を屈したのだと主張するタカ派と、アフリカへ注力するためにアジア方面の戦力が移動したにすぎないと主張するハト派だ。少なくとも、どちらもヘルフィヨトルへ伺いを立てていないことは事実で、マスメディアはいいように解釈をしようとする政府を批判し続けている。そして多くの国民が現状の不満を政府へとぶつけていたが、戦争は行政の枠組みを超えた情勢であるのだと、戦争を経験しないで生きてきた世代には理解が及ばない。

 善戦しようが劣勢は劣勢、戦況好転の見込み無し。アフリカでの敗北はもはや時間の問題である。そう語っているのはウェブ上やニュースメディアで活躍する軍事評論家たちだ。世論は決して人類の劣勢を認めたがらないから収まりがつかない。連日のように特番が組まれ、人々は思考することを放棄し、ただ享受する情報の波に右へ左へと流されている。現代社会は情報の大津波に飲まれつつあり、この場合、情報の信憑性よりもどちらが大きな波であったのかで決着を見る。

 しかし、難破船からからがら脱出した遭難者が如く翻弄されながらも、冷静に状況を見つめようと努力する人々は後を絶たなかった。日計歩美は、そうした数少ない有識者たちの見識に憧れる者の一人だった。

 ヘルフィヨトルの戦力が全て装甲兵器で構成されているため、通常の軍規模に比して彼らが高い戦闘力を誇っているのは、受験を控えた女子高校生でも知っている常識だ。歩美は有志でウェブ上にアップロードされた敵兵器の情報などに目を通していたから、わかる。例えば敵の主力を形成している四足歩行戦闘車は、大地へ突き刺す油圧バンパー付きの鉄杭を各脚部末端にひとつずつ備えた車体シャーシと、小型でセンサー類などが艤装された砲塔ターレットから構成される。兵装は砲塔へ据え付けられ、高度な姿勢制御システムがFCSと連動して正確無比な攻撃を行う。

 通称、四つ足と呼ばれるこの無人兵器は、単体ならばさほど大きな脅威とは成り得ない。人類の持つ歩兵戦闘車クラスの攻撃力しか保持しないからだ。そのため、撃破するには携行対戦車火器を装備した対戦車兵か、自爆用に関節部などに仕込まれた爆薬を狙い撃つ小銃兵がいれば事足りる。

 彼らの戦闘力は、集団となった場合に指数関数的な増大を見せた。砲塔に機関砲、誘導弾を装備したこれらが無人偵察機や戦車型、PGTASの支援を受けて行う協調射撃は圧倒的な破壊力を誇り、噴進弾から戦闘ヘリコプターまでを撃墜する濃密な弾幕を形成する。数千の機関砲が放つ砲弾は、秒間数万を数えるのだ。

 端末に、第七PG中隊と検索ワードを入力する。一瞬で電波が飛び、通信局を経由して贈られてきたサーバからの返答が端末上で二進数から実態を伴う画像データの羅列へと昇華された。それらをスクロールして、何度も何度も検索しなおして、目当ての白銀の巨人の姿を見つけ出す。

 純白の装甲板を輝かせ、九十九里浜で鎮座する四体の巨人の姿。搭載した武装は七メートル以上の長砲身砲。腰部には予備弾倉と、九〇ミリ携行銃のホルスターが見える。背部武装ラックには七六ミリ卵巣速射砲が砲身を地面へ向けた状態で背負われ、やや前傾した人型は白虎を思い起こさせる。

 世界で唯一の第三世代PGTAS、紫雲。これが兄の乗る機体だ。

 夢はあるか、と担当教員から問われたことがある。高校の進路相談だ。友人女子生徒らは軒並み大学進学や、実家の事業を引き継ぐと口にしている中、彼女の言葉を耳にして、教員は何とも言えない複雑な目で歩美を見た。

「兄を追い、敵と戦うことが夢です」

 しばしボールペンを弄んで思量していた教員は、やがて言った。

「日計、これはお節介以外の何物でもないんだが……君のお兄さんはそれを望まないだろうな。勿論、ご両親も」

「さあ、どうでしょうか?」

 形だけ突っぱねた日計歩美は、次の彼の言葉で、言ってしまったことを後悔した。

「先生もな、息子が海自に入隊してるんだ。だから言っておく。お前の覚悟が本物だとしてもだ。周囲の人間のほとんど――すべてと言っていいだろう――は、その選択を支持しない」

 少し考えた末、歩美はまとまりが付かない自身の心境を吐露した。

「周りからどう思われようと、どうでもいいです。わたしは、兄のようになりたいと思いました。先制は夢はあるかと尋ねられました。だから、わたしは答えたまでです。確かに、兄は過酷な現場にいます。誰も行きたくないような場所で、やりたくもないことをしている。心から誇りに思うからこそ、あの人を追いかけたい」

「君のお兄さんが何故そのような困難な現実に向き合えるか、わかるか? 大切な人に同じ思いをしてほしくないからだ。どれだけ君がお兄さんを想っていようと関係ない。他の誰かの意思をどうでもいいと言って見せるのは、君一人の特権ではない」

「先生、わたしは……世間知らずかもしれませんが、これが今の素直な気持ちなんです」

 教員はにっこりと微笑んだ。

「わかってるよ。君は正直で素直な子だ。だから何でもいい、早めに調べを進めておきなさい。何を決めるにも、とにかく情報を集めることだ。知りもしないことで正しい決断をするのは、極めて困難を伴う。いいか、後悔だけはするなよ」

 それから歩美は、世界に目を向けた。今起こっていることを知ることから始めることにした。どうでもいいと突っぱねた他の人間が持つ認識、彼らが訴える現実への解釈へ目を通す内に、周囲の反対を冷ややかに眺めるだけだった自分に気が付いた。

 歩美は迷い始めていた。それは目の前に広がる道の険しさを悟った旅人の心境にも等しいものだった。

 二〇三〇年頃から続く南極戦争は、一般企業を始めとする私企業が衰退するのにじゅうぶんすぎる衝撃を世界に与えた。海外に生産拠点を構えていた企業は真っ先に大量のリストラを行い、さらに世界の富が国単位で次々と消滅したことから、経済格差は人々が実感している以上に深刻だった。連鎖的な世界恐慌ともなれば当然、求人も減る。第一次侵攻の停戦後、企業は生き残るために人を切り捨て、実態の怪しいものが乱立した。働き口を探す学生たちは急場凌ぎで大学から院への進学を希望し、若者の就職人口が激減。国は暫時の政策として奨学金の減額、増額を繰り返して若者を就職させようとあらゆる手を打ったが、ある分野への人材流出を防ぐことはできなかった。

 自衛隊への入隊者増加である。

 ヘルフィヨトルの出現から決して解体されることはなく、むしろ増強されることとなった自衛隊は安定した就職先となった。家族を養うために給与をもらい、尚且つ意義の見出せる職業は、国防以外に見出しにくい時代となってしまった。同時に戦後から続く自衛隊の不戦神話と憲法九条への過剰な信頼は、東南アジアまで迫った黒いフロントラインを前にして見直される必要に迫られた。

 世界的に、これまでの政治情勢からは考えられない緊張が世界を包む中で、平和憲法である日本国憲法第九条とそれに並ぶ自衛隊法は遂に改正された。自衛隊は自衛力のみを備えた限定的武力組織から他国への反撃すらも行えるような軍隊へと羽化した。再軍備と共にヘルフィヨトルへ対抗する政治体制、指揮系統が統合幕僚幹部、自衛三軍の総隊へと一元化され、防衛産業も活発化し、国勢が一気に対ヘルフィヨトル戦へと傾いた。こうして、日本国内で九十年ぶりに「軍需産業」が芽吹いたのだった。

 元より常任理事国に並ぶ高性能兵器の多くを開発、製造していた日本国自衛隊が自衛軍へと再編されるにあたり、対外的脅威の増大に伴う軍備増強は破竹の勢いで進んだ。倒産した企業の土地で戦車の転輪やスプリングコイル、電子部品から始まる生産工場が立ち並び、誰もが違和感を覚えるほどに急速な軍需産業の基盤が据えられる。殊に真っ先に始まったのが、南太平洋海戦で多大な損害を被った海上自衛軍の再建だ。護衛艦の新規建造、予算不足で停滞していた各種誘導弾の開発、日米安全保障体制の変更に伴う軍港の整備。続いて航空自衛軍の基地拡張と飛行隊増設。何よりも、陸上自衛軍のPGTAS配備が始まったことで行政から多大な額の金が市場へと流れた。

 日本国が創出した新たな兵器概念であるこの有人人型機動兵器は、その正式名称を人型多目的戦術兵器システムといった。文字通り、戦術レベルでのあらゆる役割を担うことを狙って開発された。実現不可能と思われていたロボット兵器の開発成功は、多くの分野へ多大なフィードバックを与え、高性能を極めた兵器の数々はさらにブラッシュアップが図られる。

 PGTASの登場を皮切りに、世界が脅威を感じるほど日本国は軍備増強路線をまっしぐらに走り、いつの間にか世界の先頭に躍り出ていたのだった。それは大正・昭和初期の軍艦の建造競争にも似たPGTAS開発競争を世界に巻き起こした。

 国民すら気付かぬうちに、日本はアメリカやロシア、EUに次ぐ強大な軍事力を保有する強国へと変貌する。無論、太平洋戦争の経験を忘れてはいなかった国連にしてみれば悪夢の再来である。良くも悪くも、歴史は繰り返す。誰もが盧溝橋事件、真珠湾攻撃といった歴史的事件を思い起こしていたが、当時とは地政学的な情勢が大きく異なっているのもまた事実だった。東南アジア戦役における戦線保持のために、日本の戦力は必要不可欠とみなされていたのだ。

 右傾化する世論の中、歩美の通う高校の友人などは呑気なものだった。戦争は怖いだの戦地へは行きたくないだのと、見当はずれな愚痴をこぼしている生徒が大半である。現在の大滝史彦総理大臣を始めとして、南極戦争開戦からの総理大臣は、自衛隊の自衛軍への改編を経ても民間人を戦争に積極的に巻き込ませるような政策はしていない。むしろ逆で、「武力に対抗するための武力」という思想は以前よりも根強い。民間人は内側からの、軍人は外からの脅威に対して、日夜奮闘している。

 しかし、そのどちらに自分の歩足先を向けようとしているのかは、歩美には情けないくらいに明確な意志がないのだった。

 バイクのエンジン音が玄関前で止まった。立ち上がり玄関の鍵を開け、寒風吹きすさぶ中をジャケットの襟を高くしてやってきた配達員の男性を出迎える。

「おはようございます」

「おはようさん。嬢ちゃん、毎朝早くに偉いねぇ。はい、今日の分」

 気の良い初老の男性が、郵便受けに入れる手紙やら広告やらをひとまとめにして彼女に手渡す。朗らかな笑みを浮かべて曖昧に返事をした。彼はカブにまたがり、次の家へ向かってアクセルを吹かし走り去っていく。

 乾いたエンジン音が聞こえなくなるのを待たずに、歩美は家の中へ戻って鍵を閉める。廊下をスリッパでひたひたと歩きながら、自分に関係のないものは居間のテーブルの上へ放り投げた。後で両親が読むだろう。新聞だけを手に取って二階へ上がろうとしたところ、一つの封筒が目に留まった。

 手に取れば、差出人に日計洋一と記されていた。兄からの手紙だ。二週間に一度程度の頻度で届けられる兄の近況報告に、歩美は胸を躍らせ、二階にある自分の部屋へ続く階段をゆっくり上りながら、兄らしい無地の質素な封筒の裏表を見る。封を切り、ほとんど白紙で横に罫線が引かれただけの便箋を取り出して目を通した。

 かじかむ指で恐る恐る二つ折りになった紙を捲り、苦笑する。四枚とは、兄もだいぶ筆に熱を込めたようだ。何しろ以前に手紙をやり取りしたのは二週間以上前のこと。アフリカでの二週間は物事が起こる密度が違う。ましてや彼は兵士。この手紙でさえ検閲されている、と始めの頃に書かれていた文面が思い起こされた。変に心配されるよりも先に事実を伝えようとするのが、兄らしいといえばらしかった。

 後手に自室の扉を閉め、はんてんを脱いで机の椅子に被せる。マフラーを首から引きはがして床に放り投げ、寝間着姿でベッドの中に潜り込み、長い手紙を読み始めた。彼女の体温の抜けきった掛布団は冷たかったが、そんなものも気にならない集中力でじっくりと文章を読む。

 やはり、というより言うまでもなく、近頃は様々な出来事があったらしい。ギガスについても少し触れてある。あまり内容を話すと検閲で黒塗りにされてしまうため、彼は当たり障りのない感想に留めていた。おかげで今回も黒いペンで塗りつぶされた個所はどこにもない。大半が、食堂のあの食事がどうだっただの、日本はいまどうなっているのかだの、彼自身の感想をぶつける形だ。そして前回の手紙でこちらが問うたことに対する解答。こうして普通の文面を家族へ渡すだけでも、相当な神経を使って書いているのだろうと歩美は思いを巡らせた。ともすれば、それは恋文と同じように扱われているといっても差し支えなかった。想いをぶつけ合うことには間違いない。愛情のベクトルは恋とは異なっているだけだ。

 そもそも好きと愛してるって違うのかしらん、などと大人びたようで幼い疑問を振り払い、先ずは一通りを読み終え、冒頭にある一文へと視線を戻してじっくりと文章を咀嚼し始めた。

「歩美はもう大学を決めたかな? 地球の裏側にいるけど、より良い進路へ歩きだすことを、兄は心より願っている。これは要望なんだが、できれば銃は取らないでほしい。ぼくはそのために戦っているし、きっと父さんと母さんも同じことを言うだろうから」

 兄がこの手紙をしたためた中で、最も問いただしたかったのはこの一点なのだろう。どこか肩透かしを食らったように感じられて、手紙を机の上に放り投げた。冷めたベッドのさらに奥深くへと潜り込む。寝間着がしわくちゃになるのをもぞもぞと動いて伸ばしながら、ようやく落ち着いたところで目を閉じ、兄になんと伝えるべきだろうかと考えを巡らせた。

 まだ進路は決めていない。どう転んでもいいように、大学受験のための勉強は以前からしているから、そのまま進学することもできる。でも、心は自衛軍に惹かれている。現実と理想のどちらを取るかで、終わることのないシーソーゲームが胸の内で続いていた。

 横浜の英雄の妹として、今の世界に対してどんな貢献ができるのか。近頃はそればかりを考えている。

 方程式を解くとき。英文法を頭に叩き込んでいるとき。志望校の過去問を解いているとき。予備校から帰って食事をしているとき。歩美は、それら自分の生活のほとんどが、兄を始めとする多くの人々の献身によって成り立っていることを知っていた。

 今も地球の裏側では、黒い無人兵器群を相手に大勢の人間が戦っているはずだった。メディアによれば、マルサビットにアレースが飛来した一件から五日後に、ヘルフィヨトルの軍勢が再活性化した。AFCHQは膨大な兵力を全戦線に再投入し、防御陣地や古典的な塹壕、地形を利用した待ち伏せなどで激しい反撃を行っている。交戦規定によって、防戦に有効な地雷を使うことはできないらしい。これが一番厄介なのだと、兄の洋一も手紙に書いていた。今のところ人類は優勢だと、テレビのチャンネルを支配しているどのメディアも報じているが、しかしあながち悲観するような状況でもないのではないかと彼女は考えていた。

 洋一は、幼いころから歩美にとって憧憬の対象だった。彼は同年代の多くの少年少女が熱中するような、恋愛や趣味には一切飛びつかなかった。自分は自分、他人は他人と明確すぎる線引きをしていて、それは家族に対してさえ同じだった。だが彼女の知る限り、彼がそうした認識の下に横暴な態度を取ったり暴言を喚き散らしたことは一度もない。他人からの批判にしても知らん顔をするわけでもなく、ただ憮然と受け止めていた。

 他人とは自分とは違う誰かであるが故に、まず尊重しなければならない。相手を尊重できない者が自分を叫ぶなどおこがましい。それが洋一の強さでもあり、優しさの根本だった。

 彼女はそんな優しさに惹かれていた。恋慕とはまた違ったものだが、友人が話すように、兄のような人間が女にとってはいちばん幸せな相手になるのだろうと漠然と感じていたのは事実だ。誰であれ受け止めて受容してしまう彼だから、逆に自分というものを強く信じている鷺澤朱里と好きあっているのは当然なのだろう。相手の尖った部分を受け止められるのは彼でしかありえず、また、その優しさの矛先に耐えられるのは彼女でしかない。人類最強のカップルだ。

 それは愛憎とは別次元の感情だ。相手には自分しかいない。自分にとっても相手しかいない。それだけで完結する閉鎖的なものでなく、互いを補完し合うパズルのピースのような関係。彼女は白馬の王子様を夢見るように、人生をかけられる人間関係を羨ましく思った。

 薄い茶髪を両手で掻きまわして唸る。

(わたしはどんな人間になりたいんだろう?)

 誰しもが一度は抱く疑問に、歩美は眠気で呆けた頭を使って考えた。

 目の前にある選択肢はふたつ。大学進学か、自衛軍への入隊か。選ぶのは他でもない自分自身。後悔するのも自分だ。

 自衛軍で戦うことは、残念ながら大きな意義がある、と洋一は話していた。何か意味を見出せる仕事なら素晴らしいものだ、と言った自分へ向けて見せたあの悲しげな、困ったような笑顔を、歩美は今でも鮮明に思い出すことができる。思えば、自衛軍への入隊を今まで決断させなかったのは、あの笑顔があったからではないのか。

 あんな風に笑いたくないと思ったのは初めてだ。

 今日は金曜日。学校は通常授業。まだ時間はあるし、寝ておかねばならない。

 しかし思い付きは止められなかった。

 歩美はベッドから抜け出し、ある決意を胸に返事を書き始めた。

 何故だろう。こんなに寒い朝なのに、筆先が熱い。





 首筋に神経接続回路が突き刺さった。およそ二週間ぶりのことで、思わずコックピットの中で安堵の吐息をついてしまう。既に慣れた痛みを感じると同時にNCRS神経接続調整システム起動エンゲイジ。身体感覚が十六メートルへと拡大され、一種の陶酔感覚にも似た何かが体中に満ちた。

 断熱材とスポールライナーを挟んだ圧延防弾鋼板RHAで隔離された、機体胸部、コックピットから見て前方に位置する機関室の複合タービンが甲高い駆動音を放つ。紫雲の血管とも言うべき伝導ケーブルを通じて、主たるエネルギーである電力が隅々にまで行きわたり、巨人の全身が目覚める。アクチュエータへの駆動命令がAPCS《自動姿勢制御システム》より下され、さながらこれが脳髄か、格納庫で関節をロックされたまま、玉響の両腕が握ったり開かれたりする。

 PGTASに搭載されているベトロニクスは、基本的に操縦者の周辺にある入力系統や、紫雲でいえば神経接続などのドライバーに直結する入力機器が最上位に位置している。これは即ち、人間が巨人の運用システム内で最高意思決定を司っていることを意味している。いわば搭乗者は兵器の脳に等しい権限を有していた。入力出力関係にある周辺関数のプライオリティは並列として処理されて、互いへの連絡は情報の受け渡しのみ。

 例外は機体管制を調整する中枢システムで、こちらは操縦系統と周辺関数の中間管理職といった立ち位置だ。必要に応じて各種システムの優先順位を上下させることもあり、自身のプライオリティを調整ことで九十トン強の巨体を自在に、そして効率的に操る。正確には操ることを補助する。ブロック化されたモジュールの向こう側に別の宇宙が広がっているといっても過言ではなかった。

 神経接続操縦方式の特徴は、細かい指示を必要とせずに迅速に行動を指示できる点だ。現代戦において、戦術的、戦略的を問わずに高度な意思決定を実行できるシステムは、終ぞ開発されていない。このシステムにおいて判断を降すのは人工知能ではなく人間であり、それ故に比類ない柔軟性を有する。戦術データリンクシステムなどは搭乗者、或いは指揮官の決定が前線部隊へと速やかに伝達されるための工夫に過ぎず、極論を言えば戦場という環境でも日常的な会話が行えればそれで済むのだった。これがたとえば主力戦車であれば、状況の報告を受けた車長が判断を下し、乗員へと命令、車輛をひとつの戦闘単位として動かすという複数の手順を踏む必要があり、下命から実行への時間差が生じてしまう。

 紫雲は既存の兵器システムと比して遥かに巨大であるにも関わらず、神経接続による直接操縦方式によってドライバーの判断から実行までのタイムラグを極限まで低減している。勿論、人間の反射そのものといった動作より緩慢なものとならざるを得ないが、それは第二世代機と決定的な戦力差を付けるにじゅうぶんなアドバンテージとなっていた。事実、玉響と火燕だけで富士演習場の教導隊を相手に圧倒的な勝利をおさめた記録も残る。

 もうひとつの利点が、機体動作のバリエーションがほぼ無限に増えることだ。関節数や駆動角度の制限こそあれど、言葉通り意のままに機体を操ることができる。当然のことながら、モーターを挟み込んだ二重、三重関節をもってしても、人間の肉体に準じた柔軟性を金属に持たせることは不可能だった。それ故に、紫雲を操作する場合には痒い所に手が届かないような何とも言えない不自由さと、これだけの巨体を操れるのだという充足感に板挟みになる。これは第三世代PGTASのドライバーにしか理解しえない苦しみだった。そのドライバーとなるためにはいくつかの適性を持つ必要がある。

 特技下士官から言わせれば、神経接続の適性は二つある。ひとつは、ディジタル信号処理された同調信号を脳内でうまく処理する特殊なプロセス、アルゴリズムというべきものが先天的に備わっていること。もうひとつは、身体拡張感覚と肉体の不自由さがもたらす摩擦、精神的負荷に対する耐性だ。延髄へと電極を打ち込んでいるものだから、直接に神経と脳回路を痛めつけるのである。これについて、まったく負荷を感じない耐性の強さがドライバーには求められる。

 神経は分けられるものではない。そのため、後天的な外科的手術の施行も意味を為さない。人工的に神経接続耐性を人体に付与するには、脳組織を別のハードウェアに交換するしかないが、現代科学の最先端を投入したとしても、後遺症として脳の活動が不安定になる。日常生活にも支障が出ると予測されていた。よくて廃人、悪くて死亡というところだという。

 こうして紫雲に乗り込めることが幸運なのではないか。初めて神経接続を行った際の気が遠くなるほどの激痛を思い出す。

 五つの指環が並ぶ操縦桿を握りしめ、半球形状にドライバーを囲む高解像度ディスプレイを睨む。タラップに乗った整備員たちが手を振りながら退避を行い、安全が確認されたことで、有線ケーブルからテレメトリーコマンドにより関節ロックの解除。直後に接続部のロックを解除し、ケーブルをパージ。玉響は完全なスタンドアロン状態に移行する。

 微かなノイズ音と共に無線通信回線が接続された。周波数は自動変調で調整される。

<よし。日計、歩いてみろ。ラック前方五メートルで直立。歩行は最微速にて行え。復唱>

「了解。玉響、これより前進歩行最微速。ラック前方五メートルで直立姿勢」

 頭にかけたヘッドセットへ向けて返事をする。つなぎ姿のまま操縦桿を倒し、自分の手足となった玉響を駆動させて一歩を踏み出した。

 立ち上がりはスムーズにいき、歩行も問題がない。足の裏から体に伝わるサスペンションの感触もいつも通りだ。ギガスとの戦闘で大破した機体がこれほどの短期間で元に戻るとは。驚きと共に感謝の念を抱きながら、日計は玉響の向きを変える。

 一歩、また一歩を確かめながら進む。整備員が振る警告灯の誘導に従って歩き、APCSの感触を確かめながら、歩く。正面には、搬出路から出ようとしている整備員とトラックなどがいくつも見える。警告灯が光り、格納庫内を舐め回すように赤色に内部を染め上げた。

<ヨーソロー。よし、そこで止まれ>

 予定された位置で停止し、再び関節をロック。

<どうだ日計。報告しろ>

 ふと思いつき、外部スピーカーをオンにした。青年の声が格納庫に響く。

「モニターしてると思いますけど、いちおう報告です。全系統異常なし、まったく元通り。ありがとうございました」

 整備員たちが歓声を上げ、被っていた帽子を高々と放り投げた。不眠不休の努力を続け、半壊した機体を修復するために今日まで粉骨砕身してきた人々だ。出口付近にプレハブを建てている情報保全隊員たちも喜びを露わにし、敬礼や笑みを浮かべている。互いに肩や背中を叩き合ったり、拳を突き上げる。

 日向の声が再びヘッドフォンから流れた。

<こら、お前ら喜ぶのはまだ早いぞ! 日計、そのまま庫外に出て第二滑走路へ迎え。予備路で走行試験を行う。そいつが終わったら昼飯だ>

「わかりました」

<浮かれるな、気を付けろよ>

 庫外へ出る。見送っている整備員たちへ右手を動かして挙手敬礼。純白の装甲板には赤い日の丸。右肩に七、左肩に四とローマ数字が黒く穿たれている。第七PG中隊四番機、玉響は、ここに再び立っていた。それがたまらなく嬉しい。日計洋一にとって、この機体は自身の半身と同義だった。

 庫外へ出たところで強烈な日差しがカメラを焼いた。今日のナイロビは晴天。軽装甲車輛やトラックなどを避けて、格納庫寄りの舗装路をゆっくりと歩いていく。十六メートルの高みにある視点からは人間が蟻のように見えた。誰しもが、自分の手を休めてこちらを見やっている。戦車や歩兵戦闘車を積載したセミトレーラーには目もくれず、多くの視線が玉響に釘付けだ。

 間違いなく、世界の中心に立つ巨人の一機だ。やや前傾した姿勢、長い膝部。前後に細長い掉尾と背部から伸びるウェイトスタビライザー。その全てが、世界最高の技術で編み上げられたものだ。

 日計は集音マイクをオンにして、囁き合う兵士たちの会話を盗み聞いた。いくつか知らない言語があったが、首を巡らせてカーソルを合わせていくうちに英語が聞こえてくる。

<おい見ろよ、あれが噂の>

<紫雲だな。肩番号が四ということは、玉響だよ。ギガスを倒した奴だ>

フォースね。強そうじゃないか。待てよ、四番機というからにはあいつが最強なのか? ギガスを打ち倒すんだから、練度とかそういうのはいちばんじゃないのか>

<順位付けするとしたらそうだろうが、他の三機だって生還しているんだぜ。あんなにギガスに接近して帰ってくるなんて、誰にでもできることじゃない>

<何にしても、あいつらが勝たなきゃナイロビは壊滅してただろうな>

<褒めてるのか>

<そりゃそうだ。あんなクソ度胸を見せつけられた後じゃあな。本国のお偉方だって認めざるを得んだろうよ……>

 嬉しさと共に落ち着かない気分を味わいながら、玉響は歩みを進めた。

 世界で唯一の第三世代PGTAS。その名誉をこの機体が返上することはまだ先になりそうだ。日本がほぼ独占していたPGTAS技術の開示が行われたにしても、世界に名だたる軍需産業がそれらを消化し、自らの血肉とするのには長い時間がかかるだろう。知識は伝わるが、製造ノウハウは一朝一夕に得られるものではない。膨大な情報の整理から、分野ごとへの振り分け、さらに技術的要件や製造設備の見直しも必要だ。実機の制作までに基礎研究へと振出しに戻る国も出てくるだろう。

 待ち望んだ情報を手に入れたとしても、彼らが感じるのは日本との技術格差でしかない。どれほどに先進したものかは、その手で触れるまでは何事も理解できないものだ。

 退屈で長閑な移動時間が流れる。歩行者や車輛に注意しなければならないといっても、蒼天のようにぎこちない挙動ではない。オートドライバーモードであるので、たとえ踏みつけそうになったとしてもすぐに回避できる。欠伸を噛み殺しながら、それでも事故とは起こりうるものだと気を引き締めなおした。

 股関節下部に据え付けられている対地センサーの情報が、足下のディスプレイにワイプ表示されている。首筋の神経接続回路が引っ張る感触と共に首を傾け、安全確認を行いながら一歩一歩を進めていった。

<日計。ちょっといいか>

 出し抜けに日向が言う。日計はHOTAS式の操縦桿を操作して無線を入れた。

「感度良好。暇なんで、こっちから話しかけようかと思ってました」

<戦場への移動はいつの時代でも兵士の苦痛だ。軍事の九割以上は戦闘以外の兵站業務うらかたしごと。将兵にとってはドンパチする前が長く感じられるもんだ。まあ、それは置いておいて、マルサビットでは、ほら、見たんだろ?>

「何をです?」そこで出立前の他愛無い会話を思い出した。「ああ、鷺澤の裸なら見ませんでしたよ。もう一人と相部屋でしたし、そんな暇はありませんでした」

<おっと、そいつは残念だったな……じゃなくて! 最初の五人のことだ。あいつら、やっぱり人間だったか?>

 ヘルフィヨトルは、その全兵力が装甲機械で構成される世界で唯一無二の武力集団と捉えることができる。その頂点に立つ五人の人間らしき指揮官の存在を、国連は予てより察知していた。

 無人兵器群を、五機の黒いPGTASが統率していることは判明していた。南極戦争の極初期に、アメリカ合衆国の偵察衛星が撃墜される三分前にある画像を撮影したのである。PGTASから乗降している五つの人影。それまでは機械知性に準ずる何かが人類の敵であると宣言していた国連は、特定の人間が膨大な無人兵器を用いていると発表した。

 日計はその五人の内、二人とマルサビット基地にて接触を果たした。

 一月十日に、ケニア戦線にまたがる第三管轄軍の指揮中枢が座するマルサビット基地にて勲章授与式典が執り行われた。盛大な式典で、アフリカ戦役に投入されている各国軍の中でも特に秀でた武勲を持つ部隊を招聘してのものだった。この式典の最後に行われた親睦会において、会場に潜入していた最初の五人の二人――ラガード・トリセクスカとエセックス・ブレイナンが、防空網を突破した黒いPGTAS、アレースを用いて日計を拘束した。実態は軟禁に近かったと日計は記憶しているが、これは国連軍でも史上最高レベルの機密として扱われている。

 単騎で数万の軍勢を一瞬で焼き払う威力を持ったその機体が、中枢基地郊外の市街地に着地したとあって、第三管轄軍の面目は完全に潰れた。極度の緊張状態の中、アレースは戦闘を行うことなくヘルフィヨトルの本拠地である南極へと戻っていった。これは前線の対空索敵レーダーが真南に同機が進路を取っていたことを確認しているためだ。

 第七PG中隊を始めとした人類軍は、今までの戦闘で兵士が経験するはずの最大の恐怖を味わうことはなかった。

 戦争とは即ち、人が人を殺すということである。

 当然と言えば当然のこの一事は、人間の本能へと罪悪感を問いかけて止まない。

 殺す前も、殺す時も、その後も。本当に殺すのか? 自分に殺せるのか? 誰のために殺すんだ。本当に殺さなければならないのか。どれだけ綺麗事を並べたところで自分のために人の命を奪うのではないか。人の命を奪うということは、自分の命が奪われてもいいということではないか――良心とは、心の中にある剣だ。常に自分の喉元へ向けられている。切れ味鋭く、何物をも断ち切るために。

 戦闘でも、自らが死ぬことより、敵を殺すことを恐れて引き金を引けない者がいる。決して臆病者ではないと日計は思う。人として当然の道徳や倫理観を捨てきれない者たち。彼らこそが正常なのだ。

 大昔、米陸軍では戦闘中に「撃っても当てないことで殺さない」ようにする人間の心理状態を発見した。戦闘中に無意識の内に照準を外すことで、命中率が著しく下がってしまうのだ。この問題を解消するために、日ごろの訓練用標的を丸いものから人型へと変更した。明確に人を殺すという想定訓練を行ったのだ。

 優しさと恐れは表裏一体だ。その区別を、自分達の好き勝手に線引きすることは傲慢だろう。

 ヘルフィヨトルとの、人類にとって初めて人類以外の勢力との対外的紛争である南極戦争では、そうした人の在り方を貶めることはない。何しろ、相手にするのは血の通っていない冷たい鉄塊だ。

 敵に家族はいるのか。その死を悲しむ誰かがいるのではないか。そうした煩悶には悩まされる事無く、ただ純粋に敵を打ち倒すために引き金を引ける。貫いた装甲板の先に血肉が飛ぶことはない。

 前提が崩れようというのだから、アフリカに立つ者としては気にかけて当然のことだろう。

 この自分にしても、と、日計はどこか胸に虚しい風が通るのを感じた。

 あの二人が――少なくとも人として数えてしまうほかない――人間としての条件を揃えていたのかどうかは、日計には測りかねた。ラガード・トリセクスカとエセックス・ブレイナン。確かに人間と同じものを食べ、飲み、話す人型であることは変わりない。そうした相手と相対する時、自分は迷いなく引き金を引けるのだろうか。

 引けるだろう。久世も藤巻も、鉢塚二曹も、奴らに殺されたのだ。

 殺されたのだから……撃てなければ嘘だ。しかし、それは憎しみで人を殺すことと同じではないのだろうか。それはつまり、人間にとって大切なものを失くすことに他ならない。

 玉響のMPD《多目的ディスプレイ》から警告音が短く響く。驚きと共に、起動したHUD上のマスターアーム・キューを見つめた。点滅するその文字から意図を悟り、意識して右人差し指の力を抜く。無意識のうちに引き金を引いてしまっていたようだ。玉響の中枢システムが武装選択が為されていないとエラーを吐き出している。

 操縦桿を握りなおそうとしたところで、ふと気配を感じて日計は動きを止めた。

(待てよ?)

 と、日計は座席の背後にある、簡素にまとめられた機材類の軽量チタンで囲われたカバーを振り返った。

 確かに、自分は意図を感じた。まるで、玉響から「落ち着け」と言われたかのようではないか。今までに幾度か、神経接続回路を通して玉響の意思らしきものを感じたことはあったが、今回は比較にならないほど能動的に、彼が語り掛けてきた気がした。

 不安にも似た何かを振り払うように頭を振る。

「日向さん。たとえば、東雲さんが素っ裸で目の前にいたらどう思いますか?」

<そりゃ、燃えるわな>

 即答する彼へ、思わず頭を振る。花園には聞かせられない。

「あの女は――つまり、エセックス・ブレイナンは、ぼくが今まで見て来た女性の中で異質なほど美しかった。だけど、ぼくは彼女を感じなかった。違和感だけがそこに在る全てだったんです。目で見ている情報と肌で感じる気配が、どうしようもなく違っていたといえばいいんでしょうか」

<そいつはどういうことだ? 人間として認識しなかったということか。まったく別の生き物として見ていた、人間にしか見えない生き物を、とお前は言いたいのか>

「上手く言葉にはできませんが、たぶんそうです。目を見て話す限り、彼らは人間だったのは確かです。少なくとも知性体であることは間違いない。でも生き物だとは思えなかった。何というんでしょう、まるで宇宙人を相手にしているみたいでした。これまでの自分達の常識が全く通じない相手だ、と」

<なら、人間でいいんじゃねぇか?>あっけらかんと彼は言った。<少なくとも人間の中に溶け込めるわけだろ、あいつらは。あの女を抱けるかどうかを別にして、食って寝て糞もするんなら、そいつは人間だ。少なくとも人間社会には容易に適応して、すれ違うくらいじゃ何もおかしいことは無いだろう>

「確かに彼女の血は赤かった。でも、その結論は短絡的ではないでしょうか」

<いいか日計。潜り込めるってことは、同等ということだ。これは等価という意味じゃねぇ。共通点があり、そいつが多すぎれば同じってことでいいだろう。少なくとも人間であるかどうか、その定義も答えられないのが今の人間おれたちの実情だ。どこからどこまでが人間で、それ以外が猿なのか、哺乳類なのか>

「あまりしっくりくる表現ではないんですが、それは毛皮を持った四本足だから犬だと断言するのと同じくらいに早計なことだと思うんです。殺したわけでもないから検死解剖をすることもできませんし。結局、憶測の域を出ませんよ」

<そうさなぁ。ま、おれはお前の言うことを信じるよ>

「どうしてですか? 意味の分からないことを言っていると自分でもわかっています」

 無線機の向こう側から乾いた笑い声が聞こえてきた。

「なんです?」

<いや、いや。技術屋やってるとな、センサーで得られる情報がすべてじゃないって痛感するのよ。ディジタル信号以上に人間のアナログ器官は膨大な情報を扱っているんだ。単純にビット換算で考えても、アナログ情報はディジタルが足下に及ばないほどの情報量を持つ。そいつを前提に動いている人間の感覚は機械よりも遥かに信用できる>

 豪快に笑う日向道夫の声に、日計は頬を緩ませた。

 確かに、人間の感覚は信じがたい情報をもたらすことがある。気配などが代表例だ。人や物の存在を第六感で感知する人間もいる。機械では到底再現できないものが人間という概念であるといっても過言ではないのかもしれない。

 だからこそ彼らを人と認めることはできなかった。二人の言う「彼」に創られた被造物であるのならば、それは人間ではありえない。日計は無神論者でも敬虔な宗教家でもないが、神に匹敵する存在を示唆されれば考えざるを得ない。

 それぞれに異なる起源を持つ知性。そのアイデアで、頭のどこかで引っかかっていた棘が抜け落ちたような感覚と共に得心を得た。たとえ同じモノであるとしても、製作者が決定的に異なる。それは同一製品ではなく、複製でしか有り得ないし、手掛けた知性が別のものならば、それは同一では決して有り得ない。

 同じなのに異なるモノ。そう結論は出た。次に意識が移ろうのは「彼」の正体である。

 そしてもちろん、AFCHQ参謀本部や第四偵察軍もこの調査に乗り出しているだろう。

 第四偵察軍隷下の情報部から限りなく尋問に近い聴取を受けた一日、日計は自身の印象を詳細に語った。日向へ述べた見解もそのひとつだ。ヘルフィヨトルの最初の五人に関する事柄は、感覚で得られた情報を全てアウトプットできたと確信している。

 マルサビット基地襲撃事件の中で、唯一つ、「彼」の存在だけが宙に浮いている。六人目がいたというのだろうか。小林修一から伝えられた真実――最初の五人の内、ランドグリーズに乗り込んでいた一人が「ランドグリーズ事件」で死亡しているらしいことを見ると、六人目が補充されていたとしても不思議ではない。しかし最初の五人の他に創造主がいるのなら、それが「彼」なのだろうか。

 思索を振り切って顔を上げる。そろそろ滑走路だった。その入り口に当たる白線のみで記された順路に従って進んでいく。本来なら、輸送機や旅客機の離陸準備のために順番待ちをさせられるスペースだが、今はどの機も出払っているために閑散としていた。それかこの走行試験のために空けてもらったのかもしれない。誘導路はいくつもあり、そのうちこの一本を日本国が借り上げたということのようだ。

 かくして、玉響は誘導路に立った。

 直線距離は三千メートル。PGTASの走行試験には申し分ない長さだ。戦場では一〇五ミリライフル砲の最大有効射程より少し短い距離になる。コンクリートの地平線が陽炎で揺蕩っている彼方を見据え、カメラアイが細部まで走査して危険性が無いことを中枢システムが報せた。たとえドライバーが考え事をしていても、システムは勤勉に周囲を警戒し続ける。

「日向さん、現着しました。誘導路上、障害物ありません」

<よし。それじゃ、まずは準備体操だ>

 目を瞬いてから、日計は聞き返した。

「すいません、もう一度お願いします」

<だから、ラジオ体操だよ。ガキの時分に夏休みにやったろ。もう朝じゃねぇけどな、各部アクチュエータのご機嫌を覗うにはいちばんだ>

 これはまた、突飛な整備方法もあったものである。確かに膨大な確認項目をひとつずつ潰していくのは骨が折れる作業だ。ラジオ体操をすれば全身のモータ、油圧系統を使用することにもなり、一括した点検が可能という理屈。前代未聞という一点を除けば理に適っている。もちろん、システムがそれらを把握できるかという問題はある。動作以外の詳細な確認は、日向や花園の特技下士官たる手腕を拝見することになるだろう。

 どうしたものかと立ちすくんでいる内に、無線通信回線を通じて「ラジオ体操第一」が流れ始めた。この音源がどこから提供されたものなのかは不明だが、日計は声を上げて笑った。そのまま曲に合わせて、玉響が両腕を広げて膝を折り、屈伸運動をする。

 正に自分の体を動かしている感覚だ。背中のウェイトスタビライザーまでもが躍る様に伸縮を繰り返し、周囲で興味津々な眼差しを送っていた国連軍兵士たちが口を開けてその様子を眺めていた。アクチュエータの軽快な駆動音がコックピット外殻から響く。修復された各部は違和感もなく動作を続けた。

 屈伸からアキレス腱、側筋まで行ったところで、日向が笑いをかみ殺しながら言った。

<よし、ウォームアップはこの辺でいいだろう。軽いジョギングをイメージして誘導路を一往復だ。制限時速は四十。周辺現象に注意されたし>

「了解」

 ペダルを踏み込み、一歩を踏み出す。何も装備していない乾燥重量の玉響は流れるように加速し、第一戦闘速度に入る直前に意識的に速度を落として安定させる。僅かにリクライニングした座席に背中が押し付けられる。爆発的な加速だった。オート・ドライバーをオンにすればすべてが自動で行われるのだが、システムの調整が行われていない以上は、全力走行は控えるべきだろう。久々に体を動かして、玉響が早く戦わせろと急いているようだ。

 日計はそのような感情を錯覚し、慎重な操作で十六メートルの人型を制御する。完璧なフォームで走行し、膝部の巨大なサスペンションがリズミカルに着地の衝撃を吸収、機体が跳ねる。背部のウェイトスタビライザーも、今のところは完璧に動作している。環境センサーが流れる風を感覚として送り込んできた。なんと心地いいのだろう。一心同体とはこのことか。玉響の感じる世界の全てが自分のものであると思えるこの瞬間が、日計は好きだった。思えば戦場を駆ける昂揚感も、紫雲の神経接続が無ければ無味乾燥としたものになってしまうのかもしれない。

 青年は自分が戦いを楽しんでいると自覚し始めていた。

 長大な砲身を持つ滑腔砲を振り回し、鉄の雨を掻い潜って大地を滑るように動く。狙う相手は逃さず、戦場を見渡す視野は広い。正に自分がこの戦いを支配しているのだと思い込めるほどの力。

 命のやり取りなど、今の戦場には存在しない。敵は無機物、鉄の塊なのだ。あるとすれば、自らを生命足らしめんとするように襲い掛かってくる奴らから、この魂を奪われないようにする抵抗のみ。

 玉響は速度を緩めて誘導路の北端でUターンし、元来た場所へと再び駆け始める。

 戦いの昂ぶりをひとつの愉悦として感じることに抵抗を覚えないわけではない。人としての良心の呵責が彼を苦しめる。それは野蛮だ、と理性が語り掛ける。剣を振るう蛮勇に惹かれることがあってはならない。このアフリカへ来ること、第七PG中隊へ配属されて戦うことを選んだのは、他でもないこの自分。意志の中にどれほどの割合であるにせよ、そこには欲望も含まれていた筈だと、気付かなければよかったのに。

 いや、最終的な意思決定を下したのは鷺澤朱里だ。何しろ、自分は彼女にどこまでも連れ添うと決めていたのだから。

 果たして、それは彼女のためだけであっただろうか?

 恐ろしい疑問が鎌首をもたげ、その重みに押しつぶされそうになる。

 自分はどちらにしろ、戦うつもりだったのではないのか。彼女と運命を共にすると何の抵抗もなく決められたのは、愛する者が戦場へ戻るとわかってしまったからだ。そうだろう、だって、仲間を殺されながらそのままに生きていける女ではない。真っ直ぐなその姿勢に、苦難へ向かって剣を構え向かっていく背中をこそ、自分は守りたいと願ったのではないか。

 そして、守るということは奪うということだ。彼女の決断に身を寄せようと考えたのは、単にからに他ならない。

<日計、どうした。何を考えている。波形が乱れてるぞ>

 ドライバーの神経波形がモニターされていることを思い出す。平常心を取り戻すように努めながら、日計は頭を振って冷静を装った。

「問題ありません。これが終わったら格納庫へ戻りますか?」

<そうだな。ここまでで必要な情報は全て得られた。お疲れさん、日計。飯にしようや>

 誘導路の始点に戻ったところで、米陸軍のパットンが四機、隊列を組んで歩いているのが見えた。紫雲に比べれば遥かにぎこちない挙動で一歩を進め、ずんぐりとした膝部に嵌め込まれた巨大な垂直コイル式サスペンションが軋んだ音を立てる。

 また新しい部隊がナイロビにやって来たのか。既にこの基地が抱える人員は四万を超えている。他にも多くの部隊がケニア戦線に展開して、押し寄せるヘルフィヨトルの軍勢を押しとどめようと躍起になっている筈だ。

 日計はコックピットハッチを開いた。

 熱い風が吹き込み、汗で濡れた額を乾かしていく。空は青く、吸い込む空気はうまい。

 しかし胸中に蟠る何かに、彼は動じずにはいられなかった。





<ハミングバードよりロードマスター。開始時刻報せ>

<ハミングバード、こちらロードマスター。一から四番機まで投下準備完了。高度正常、敵影視認。投下は予定通り三十秒後。隔壁を開け>

了解エアボーン。投下したらさっさと退避してくれ。頭の上から落ちてくるのはごめんだ>

<俺たちもさ……カウントダウン開始。降下十秒前。五秒前――三、二、一、ナウ>

 高度三千メートルを飛行する特大サイズのPGTAS用輸送機、UC=1の鯨の骸のような胴体が動揺する。家一軒は優に潜れそうなほど広々とした後部扉は既に開放されている。PGTASを安全に投下するために機速を落としながらも、最新鋭のCCVであるUC=1は翼端エルロン、フラップ、四発のターボファンエンジンの出力までをも微妙に操作して安定を保つ。

 仰向けに横たわっている機体の頭から、これまた巨大な落下傘が展開される。カーボンナノチューブを始めとする最先端素材で編みこまれた、軽量でありながら極めて強固な一品だ。頭の先から引っ張られる感覚と同時に、輸送機の格納部、その底面に刻まれたレールの上を巨人が滑り出す。金属部品が受け流しきれない摩擦により火花さえ散らしながら、US=1の巨大な後部ランプドアから落下傘の抵抗で滑り出され、自重百トン弱の巨体が直立した姿勢で大空へと飛び出した。

 ほぼ水平の状態で滑り出された機体の肩部、背部、腰部に接続された落下傘のワイヤーが空気抵抗により減速を行う。急激な慣性で体が前に飛び出さないように踏ん張るも、体に巻き付けたハーネスが血の循環を妨げるほどに肉に食い込む。急減速も収まった五秒後、機体は操作可能状態に復帰。空挺降下モード。右下腕部には固定式の一〇五ミリライフル砲。高度二五〇〇の低空から強襲降下を行う最中、地表から対空砲火を撃ち上げる無人兵器へ攻撃を開始する。

 輸送母機はエンジン出力をMILへ引き上げ、見る間に加速していく。一気に身軽になった上に、積載量を稼ぐために、UC=1には極めて高出力のエンジンが搭載されているのだ。彼らを狙うために隙を見せた敵の対空砲火の間を縫うように、空色に塗られたパットンが滑空していく。というよりも、ほとんど自由落下に近い。

 気流と敵の対空砲火――敵の機関砲弾は高性能で、近接信管をも備えていた――により動揺する機体を抑えつけるように、力を込めて操縦桿を操作する。事も無げにマスターアームスイッチをオン。操縦桿を操って右腕部を目標へ指向、HUDのロックオンカーソルを目標コンテナに重ね合わせて引き金を引いた。

 高高度からの撃ち下ろしだが、機体が安定しないために初弾は命中せず。空色の塗装がアフリカの空に映えた。自機の落とす影が目標と重なる瞬間に次弾を発砲。強烈な反動は腕部の油圧系統が吸収し、砲身根元の液駐退復座機が砲身を元の位置に戻す頃には弾着、四足は爆発炎上する。軟目標に対しては多目的HEATの榴弾モードでじゅうぶんだ。

 地表ではアフリカ諸国連合の機械化部隊が、ずたずたになった戦列をどうにか穴埋めしようと奮戦していた。戦闘車両の残骸は第一次防衛線の名残で、平原地帯に帯状に黒煙が立ち上っている。穴だらけになった大地は敵の大口径榴弾砲による飽和攻撃によるものだ。月面のあばただらけになった荒野を思わせる光景は、空から見ればその威力を雄弁に物語る。圧倒的な火力を持つ砲弾がほぼ同時に弾着し、前線は一瞬にして崩壊したのだろう。今、残存兵力はそれら仲間の骸を盾にして敵の砲火を避け、第二次防衛線の周辺で予備兵力と合流、敵へ反撃を加えつつあった。

 ケニアはナロク平原地帯は、第三管轄軍が指定した重要戦闘区域であり、アフリカ戦役における最前線だ。雄大な大地に散りばめられた黒点は全てが敵で、蠢きながらあらゆる方向へと死と破壊の塊を吐き出している。一目見ただけで、味方よりも遥かに多数の敵影が見て取れる。乾いた唇を舐め、自由の利かない機体の姿勢を操って降下地点を探した。

 高度一〇〇〇メートルを突破。自身を取り囲むディスプレイに目を走らせると同時に、無線通信回線にノイズ交じりの女の声が響く。

フォックストロット24各機へ。高度五〇〇で噴進減速、直後は所定通りの戦闘計画に従え>

了解エアボーン……さあいくぞ」

 熱い意気込みに空が応える。

 雁垂れに隊列を組んだ四機のM2Mが、同じタイミングで腰部に接続された噴進装置に点火。軌道前方へ向けて最大噴射を行い、尻の下から座席が突き上げるような強烈な加速度が体を襲う。がくりと機体が減速し、両肩や胸骨を抑えるベルトがさらに身体に食い込む。これは本当に肉体を保護する目的で装備されたものであるのかと疑問に思えるほどの痛みが走る。巨大な鉄は人間の苦痛も杞憂とばかりに、円筒の内部に充填された固体燃料の推力と方向を調節しながら最終減速を行い、砂埃を捲き上げながら着地した。

 落下傘と噴進装置を併用してなお殺しきれない激烈な接地の衝撃に機体が耐える。口笛を吹きながら操縦桿を握りなおし、同時に肩部関節部に接続されていた落下傘が爆薬の点火と共にパージされ、風下である機体に向かって左側、南東へと流れていった。

 全降下兵装のパージを告げる電子音と共に、アッチソン・ローランは手元の操縦桿を操って機体を地上戦闘モードへと移行する。関節駆動系が風圧による振動を想定したものではなく、重力や歩行する機体の接地衝撃などに適したものへ切り替わった。

 関節に埋め込まれた油気圧系統が圧力を開放し、無骨な機体から爆発音にも似た空気の擦過音が響き渡る。パットンが目覚めた。即座に右腕のライフル砲を、低木の茂った緩やかな稜線越しに撃ち放つと、二キロ先の黒い量産型PGTASの頭部に命中、自爆。爆炎がハミングバードの到来を告げ、味方の戦線から一歩前に出た四機のパットンが協調射撃を開始。瞬く間に敵を駆逐していく。

 PGTASの一機が飛び出してきた。さらに続く五つの人型。戦車型が陰に隠れるように追随し、素早く弾丸陣形を取って北東へ向けて加速。混沌とした戦場の只中とは思えないほど整然と斉射三連、無限軌道と巨大な脚部が土砂を巻き上げて疾走する。

 こちらの増援を認めた敵勢が気勢を削ぐために突貫し、短期決戦を挑むようだった。しかし他の部隊は右翼方面へ回り込む気配を見せている。これは陽動を見るべきだ。ハミングバード中隊はこれを二手に分かれての機動防御で対応。ジェーン機から鋭い指示が飛び、彼女の一番機を中心に左翼にメイソン機、鳩ライト機が展開。右翼をローラン機が単機で占め、少し距離をとって砲撃に角度を付けていた。僅かではあるが、これで十字砲火と類似した効果を期待できる。

 たった四機による戦術行動が、戦局へ影響を与え始めている。小規模な敵の弾丸陣形との対決かと思いきや、無視できない数の四つ足が戦車型とPGTASを盾にして進んでくる。人類も装甲の分厚い大型兵器を前に出して戦線を維持したり、部隊の打撃力を増すことはあるが、ヘルフィヨトルの戦術はさらに徹底していた。PGTASを撃破しなければ他の兵器を撃破できないが、スラローム走行を繰り返して、歪んだ影を揺らめかせるPGTASの背後から現れては発砲して隠れる戦車型、さらにその後方の四つ足の攻撃にも注意しなければならない。さらに北から回り込もうとしている敵の主力部隊をどうにかしなければ、緩やかな尾根を挟んでいるだけの国連軍は再び窮地に陥る。

 ジェーンは素早く決断した。敵が二正面作戦を強いるのならば、より速く機動してその頭を抑えるしかない。ハートライト機とメイソン機が、北東へ向け進撃する敵部隊の右側面に回り込むべく南へ向かう。尾根を盾にして南側を東へ移動する敵部隊へと牽制射撃を加えた。ジェーン機率いるローラン機は西へ。アフリカ諸国連合の生き残った戦車や歩兵戦闘車と協同して、敵を正面から受け止めにかかる。

 四機のパットンM型は空色でよく目立つ。戦術データリンク画面すらも見つめる余裕のない戦場で、彼らの存在は大きかった。PGTASを戦車が肉付けし、歩兵その他が穴を埋める。二機ずつ別れたパットンの周囲で、即席の機甲部隊ができ上がった。戦術データリンクから、現地指揮官の許可を得て情報網が構築される。たかが数十機とはいえ、凄まじい打撃力を持つヘルフィヨトルの突撃部隊をこの兵力で受け止めるのは至難の業だが、側面からのPGTASの把持式武装が持つ火力は、敵にとっても決して無視できない存在の筈だ。

 砲塔だけを横へ向け、車体は正面へ向け疾走する戦車型が狙い撃たれていく。ERAが浸徹体を土師器飛ばすも、戦車用のものより高速で突入してくる矢尻型の弾体が持つ膨大な運動エネルギーを止める力はない。為す術もなく被弾、機密保持のために自爆する。その繰り返しだ。

 しかし、十字砲火を受けているのは敵だけではない。ハミングバード中隊が必然的に突出し、敵の残存兵力が隙間から雪崩れ込んで来た。

 MPDで逐次更新される戦術図を確認。敵のアイコンは赤いもので、緑が味方部隊、青がハミングバード中隊の僚機であることを示している。二つの青いアイコンを緑のアイコンが囲い込んだ国連軍へ向け、深紅の波が押し寄せてくる。四機のパットンはいささかの気後れもすることなく機首をそちらへ転換した。胸部主要装甲に幾発も被弾するも、衝撃を関節部が吸収して姿勢を戻し、発砲を繰り返す。

 巨人の大地を踏みしめる姿が勇ましい。その雄姿は敵の目に留まる。赤外線感知能力が高いため、特に装甲兵器は空に浮かぶ太陽のように目立って見えるのだ。アフリカの日差しの下とはいえ、無人兵器群の持つセンサーは非常に優秀だった。

 半包囲を受けていた敵の弾丸陣形が減速し、側面に位置しているパットンへ向けて発砲する。動きが止まったその一瞬を逃さず、アフリカ諸国連合の戦車部隊が一斉射撃。思わず拍手を送りたくなるほどの、見事な一斉射撃だった。古めかしい型の戦車砲が力強い咆哮を巻き起こし、歩兵戦闘車の機関砲弾がERAの爆発を誘い、剥き出しになった装甲板へと砲弾が突き刺さる。アフリカ戦役で最も長く戦い続けている彼らの練度は極限にまで達していた。

 そして、敵部隊が後退を始めた。数分の後に国連軍へと援軍増派の旨が知らされる。敵部隊は味方より早く、こちらの増援部隊の存在を察知したのだろう。無人偵察機による情報収集能力は人類よりも高い。

<よし、一仕事終わったな。全機合流しろ。ポイント三三四八七六だ。急げ、次がある>

「了解」

 敗走していく黒い影の群れを、ローランはモニター越しに見つめる。パットンのカメラが遠方へ消えゆく敵影と、目前で炎を噴き上げる残骸を映し出す。

 各関節の油圧系統が圧力弁を開き、甲高い音が響く。まるで巨人が一息ついたような。ローランはヘッドギアを外さないように気を付けながら、癖のある髪の中にグローブで大きくなった指を突っ込んで、頭を掻いた。

 今は引いたが、敵は波のように攻撃を繰り返す。明日か、来週か、来月か。間断ない攻撃で人類の防御力を根こそぎ奪おうとしている。戦略的に全戦線で繰り返される攻撃で、人間が死んでいく。その度に、ハミングバード中隊は味方の救援要請のある限り空を飛び、戦場へ落ちる。終わることは決してない。

「くそったれめ。いつまで続くっていうんだ?」

<どうした、坊や?>

 ハートライトが言う。ローランは頭を振って、足先を合流地点へ向けた。

「なんでも無いよ。さっさと帰ろう。ここは熱すぎる」

 気にする風でもなく、ハートライトは同意した。

<同感だぜ。やっぱ熱い場所には女がいねぇとやってられん>

<少尉、わたしでは不服か?>と、ジェーン。

<嫌だなぁ、隊長。おれの膝の上に乗ってもらわなきゃ意味がないざんしょ>

<殺すぞ、貴様。お前がわたしの上に乗るんだ、わかったか?>

 ローランは微笑み、仲間の待つ大地の一点を目指した。

 パットンの大きな足跡が重々しく大地に刻み込まれる。足跡を満たすのは、硝煙と血と、抉り返された泥のみだ。

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