第三十一話

「君たちは自分達で選択したのでもないのに、国家の掲げる政治主義やイデオロギーに隷属している。これは不自然だとは思わないか。近代から始まる民主化の潮流は、専制政治の中で人民の生命が弄ばれることを防ぐことを第一原則とし、国家を個人のものでなく国民の手に帰属せしめるものだ。だが現状はそうではない。革命権を始めとする、政府を否定することが現代では難しくなりすぎている。警察を始めとする治安維持能力の隆盛がこれに拍車をかけているのだろう。何故、君たちは選べもしない国家という集団の中から出ようとしない?」

「生まれる場所は選べないからな、人間は。貴様らはどうか知らないが。どこかに生まれるということは、ある程度の知性が育つまで、そこに留まることを意味する。正確には場所ではなく、集団に帰属すると考えるべきか。これは民族や法律で決定される側面も否定できないから、家族という単位であったり、自治体や、それこそ国家という単位であったりする」

「回答として考えるには不足している言語の羅列だな。結局、君は何を言いたいのだ?」

「気に食わないことに、貴様の言いたいことは理解できるということだ。例えば冷戦だ。資本主義と共産主義の戦いとしてあの戦争を見れば、ひとつの疑問が浮かぶ。資本主義者が共産主義者を批難している時、それはその人が資本主義社会に生まれついて、そのまま社会に帰化しているからなのか、それとも共産主義と資本主義のどちらかを選んだ上での批難なのか、ということだ。つまり、お前の疑問に答えるためには、そもそも国民が国家の政治に対して、選択したという自意識を持つまでに至らなければならない」

「自治の選択か。政治の主権が個人か、国民かに帰属することすらも意識しないまま、現代の人類は生を謳歌している、と?」

「貴様らのせいで暗雲立ち込めているが、そうだ。主義主張などは、結局、捨てることのできるものだろう。生きるために政治というものは本質的には必要ない。イデオロギーを必要としているのは人間ではなく、社会だ。法令、規則は人間が己の行動を正当化する規範として機能するが故に社会の根底に根差しているが、それが最適解ではないと気付きこそすれ、選択権を行使して現状の打開を試みる意志はない」

「唯々諾々と他人の決定に従うことで人間は安寧を得ているのか。確かに何かを決めるということは、とてつもないエネルギーを消費する。これを切り離して特定の有識者へと手渡すことは、倫理的な観点を無視しても懸命な判断だと言えるだろう。しかしそれはエネルギー収支の話であり、自らの活動及び生存に利する性質とはかけ離れた価値観のものだ」

「だからこそ、最低限の現状認識も持たない人間に、国家主導の社会体制構築の是非を問うことなど不可能だ。まずはどこに立っているかを知らなければどこへも行きようがないし、道程を振り返ることもできない」

「面白い。いや、興味深いな。君はいち兵士でありながら、そこまで物事への思考を進めているのか。戦場に出る時も何か考え事をしているとみえる」

「そんな余裕はあるもんか」

 言ってから、日計は後悔した。敵へ向けて、お前たちの戦略は確かに奏功していると、わざわざ教えているようなものだ。狼狽を露わにしないよう、水のグラスを手に取り、一気に飲み干す。ただでさえ酷い頭痛がさらに増してきた。

 グラスを置いて、感情の読み取れない眼差しでその一動作を見つめていたブレイナンと視線を交わす。彼女はしばらく目を合わせた後、顔を逸らした。それは何か嫌悪を感じるものから目を逸らしたというより、自らの感じ入ったものを認めたくないかのようだ。

 湧き上がる苛立ちを懸命に抑えつける。自分たちは人間ではないと宣言した人型が人間らしい仕草をするなど……それは模倣よりも性質の悪い何かだ。

 ふと気付く。ラガード・トリセクスカの言葉は嘘で、彼らは人間なのではないか、と。では、この二人の親は? 国籍は? まさかイヌイットではあるまい。

「君の価値観は、倫理観は、一体どこで学んだ?」

 我に返る。長く見つめすぎたブレイナンの美しい顔から、ラガードの無味乾燥とした砂漠を思わせる目へと視線を移す。

「ヘルフィヨトルは五人しか人間らしいものがいないんだろう? ぼくが育った環境を語った所で理解できまい」日計の眼差しが険しくなる。「そうだ。数十億の人間が織りなす社会構造なんか、知りようがないだろうに、お前の言葉は確かに人間のそれだ。無線傍受だって限界がある。貴様らには人間の味方がいるのか」

 フンと鼻で笑うこともせず、ラガードは静かに、しかし断固たる仕草で首を横に振った。そんなことはわかっているだろうと言わんばかりだ。

「否定するが、君達がわたしの言葉を信じるかどうかまでは責任を負いかねる。我々は宙に浮いた軍隊だ。政治については君の言う通り、漬け込む余地すらないだろう。しかし学ぶ必要はあると考えている。今後のため、というのではなく、今を進めるために」

「言葉の使い方が間違ってる。漬け込む余地がないってのは相手に対しての褒め言葉であり、負け犬の遠吠えだ」

「フム、覚えておこう。またひとつ賢くなった」

 既に二時間ほど、似たような議論が交わされている。アッチソン・ローランはあれから二度ほどここへやってきて、ピッチャーの水を補充していった。その度に銃声が鳴り響いたが、弾はあらぬ方向へと飛んでいっただけで、誰を傷付けることもしなかった。これまで場に張りつめる緊張感がさらに張りつめることはなかったし、緩むこともない。

 ヘルフィヨトルの発射した弾丸が何者も傷付けなかったことに、日計は驚きを禁じ得なかった。これまで、彼らの用いる武力の全ては人類を殺傷することを目的として放たれていた。敵は何も考えずに、人類の殲滅を目的としている。現在の状況は、敵には人間らしい主調が存在しないという前提を覆すにじゅうぶんなものだ。

 敵には目的がある。それは人類を殺す以外の何かだ。少なくとも、ヘルフィヨトルの戦略目標を理解できない間は、人類は適切な対抗措置をとることはできないだろう。現状、アフリカ戦役と東南アジア戦役で接する戦線を維持するのに精一杯だが、その上、理解不能な思考に基づくヘルフィヨトルの分析も行わなければならない。さらには戦場に溢れるのは無人兵器のみだ。敵兵を捕まえて尋問をするわけにもいかない。真意を推し量るためには、機械の群れを見つめるしかないのだ。

 AFCHQの対応はまだなのか。既にかなりの時間が経っており、頭から流れる血が礼装軍服を赤黒く染めている。座る椅子の足元には小さな血溜まりができていた。どちらにしても武器が無い現状で、生きて鷺澤朱里の元へ帰るのならば、大人しく奴らと膝を交えるしかない。

 殺す気はないと、ラガード・トリセクスカは言った。エセックス・ブレイナンも、その瞳に殺意を揺らがせることはない。本当に興味本位でこのような雑談をしに来たのだろうかと思い始めたその時だった。

「日計洋一。君は神を信じるか?」

 藪から棒に、突拍子もない言葉が出てきたものだった。日計は相手の黒瞳をまじまじと見つめ返す。

 そしてこれこそが、彼らが問いたかった一事なのだと気付くが、口からは埒もない言葉が飛び出した。

「神だって?」

 心を持たぬ無人兵器群の長から、心を持つ人間特有の概念を聞くことになろうとは。機械やソフトウェア、現代科学の延長線上に位置する彼らにとって、人間のように形而上の何かへ心の救いを求めることを知っているとは、驚嘆を禁じ得ない。知識の上でということなのだろうが、こちらの想定以上に深く人類社会について調べを済ませているということでもある。

 手強い相手だ。しかしだからこそ――、なんだ?

「どうした? 簡単な質問だが。肯定イエスか、否定ノーか」

 改めてラガードを見つめる。煩悶を振り払って口を開いた。

「ぼくは、神様がいるとは思っていない。だけど、神様に準じる力が宇宙に存在するんじゃないか……人間の認識より上位の力が生じているのではないかとは、感じている。運命とはまた違うものだ」

「つまり」トリセクスカが語尾を上げた。

「つまり」考えを頭の中でまとめ上げて、「神、という人格は存在しないだろう。だけど、その概念は存在しているんじゃないか、ということだ。そうしなければ説明できない現象は、実際にある。単に宇宙が確率変動で決定されるものなら、その乱数は誰が生成しているんだ? 確率が低いものでも発生するのは、何故だ? それは、きっと――」

 答えを聞いて、男――少なくともそう見える人型――は三日月形の笑みを口元に閃かせた。

 癪なことに、自分は彼の求める答えを返してしまったらしい。

「素晴らしい」考えを見透かして、ラガードは言った。「やはりここに来たのは適切な判断だったようだ。君のような存在を探し求めていたんだ。まったく、今日は良い日だ。なんと素晴らしい夜なのだろう!」

「なんだって?」どういうことだ?

 ラガードは居住まいを正し、言った。

「『彼』は、言うなれば君達の言葉の神に相当する力を持つ、と言ったら君はどうする? まあ、どこぞの書物に記されたように光を灯すことはできないが。少なくとも我々は『彼』に創造された。しかしそれは、人間が機械を生み出すのとは違ったように、だ」

 眩暈を覚える。神だって? この言葉を信じるのならば、人間は神に対して戦っているのか。神話の時代ならいざ知らず、この現代において、戦車と戦闘機を使って。

 ぼくらが戦っているのは、神の軍勢なのか。

「馬鹿げている」

 知らず、言葉が口から滑り出ていた。

「しかし、これが現実よ」

 ブレイナンが静かに諭した。上空を旋回しているらしい戦闘機のジェット推進音が分厚い雲の向こうから聞こえてくる。重々しい雷鳴に似た音響は、あらゆる方向を閉ざす絶望の壁が下りたようだった。

「あなた方にとっての神は超人智的な自然現象とも認識できる。けれど『彼』は科学理論を元に創られている。だから何がしかを行う時には必ず定理が基になっているし、理論を超えた何かを行使することはあり得ない。そこが、人類にとっての神とは違うところ。ルールを生み出すのではなく、ルールに従う中で万能を司る」

「くそ、どういうことだ。言っていることがわからない。お前たちの言う『彼』とやらは……被造物なのか? 神を生み出した何かが存在する、それに従う貴様らを倒したところでどうにもならない、と?」

「そうなる。具体的な起源は我々にとっても定かではない。ヘルフィヨトルは彼によって生み出された。いうまでもなく、我々さえもだ。『彼』の意志を反映して生み出されたのが、わたしやブレイナン……人類が最初の五人と呼ぶものの正体だ」

「『彼』だろうがなんだろうが、横浜だって焼き払っただろう。ぼくは絶対に忘れない。仲間を殺しやがって。ちくしょう、必ずぶっ殺してやる」

 その時、ブレイナンが眉を吊り上げ、次いで口の端が三日月形に歪んだ。

「ああ、あの港湾都市?」

 日計は女を睨み付けた。

「そうだ。あの時、ぼくは港にいた。知っているだろう」

「ええ、よく知っているわ。だって、あの時、あの海を割ったのは他でもない、このわたしだもの。アレースのドライバーは、わたしなのよ、日計洋一」

 決定的であり、致命的な事実が知らされる。殺意と憤激に満ちた沈黙が流れ、空気がひび割れそうなほどに重苦しい空気が三人を包む。

 辛うじて胸中に湧き上がる報復心を抑えつけていた理性が音を立てて吹き飛んだ。日計は椅子を蹴って立ち上がる。すかさず、トリセクスカが拳銃の銃口を眉間へ向ける。それにも動じず、両手の拳を握りしめて、青年は心の底から叫んだ。彼の脳裏には、みなとみらい駐屯地の荒廃した風景が広がっていた。海風に風化していくコンクリートと、吹きすさぶ硝煙に混じった血のにおい。

「必ず……必ず償わせてやるぞ」

 初めてラガードは苛立ちらしきものを見せ、鋭く舌を鳴らした。

「くだらん。ここまで来て私情に揺れるかよ」

 ラガード・トリセクスカは立ち上がった。エセックス・ブレイナンも後を追うようにして腰を上げる。二人は割れた窓枠の前まで歩むと、一入に暗い夜空を眺めた。

 雨上がりの湿気た風が吹く。窓枠にあてがわれたカーテンがはためいて二人を包み込み、彼らの視界から入り口のドアが隠された時、変化は急激に巻き起こった。

「愚かな」

 男のつぶやきが風に乗って聞こえて来た。

 会場入り口の扉が弾け飛ぶ。振り返ると、武装した複数の兵士たちがカービン銃を振りかざして、音もなく侵入してきた。人数は五。その中央にひとりの女がいることに気が付く。その黒髪と大きな瞳を見間違うはずが無かった。視線を交錯させ、互いの無事を確かめる。それだけで報われた気がしたが、鷺沢朱里は血だらけになった彼の姿を見て、その瞳に怒りの炎を煌めかせた。

 一団はそのまま彼女を取り囲むようにして、十五メートルほど離れた場所で止まる。自動照準の銃口は、ぴたりとヘルフィヨトルの二人へ向けられている。窓枠によって、アレースのカメラアイから死角になっている位置だ。

「わたしは日本国陸上自衛軍、鷺澤朱里三等陸尉です」

 何を思ったのか、彼女は滔々と話し始めた。トリセクスカとブレイナンは、アレースの頭上に広がる夜空から目を離さない。部隊の突入にもまるで動じていないかのように振る舞っているが、ラガードの握る拳銃が微かに音を立てたのを、日計は聞き逃さなかった。

「国連軍からの言伝を申し上げます。楊李鳴第三管轄軍司令の名において、お二人にはこのままアフリカ大陸より離脱していただければ、こちらとしても手を出すことは無いことを確約します。また、戦闘状態に発展すれば、こちらにはあなた方を排除する用意があります。返答は?」

 上手いはったりだ、と日計は思った。「アレース」と「あなた方」を別箇に呼ぶことで、そのどちらも排除できるような印象を持たせている。奥の手はまだあるとでも言いたげな口ぶりで、多少は圧力をかけることができるだろう。あの中国の御仁も頭が切れる。それとも、他の誰かが考えたのだろうか。

 日計洋一は、ヘルフィヨトルの二人を振り返った。女のほうが、翳りのある面差しで振り返り、彼を見つめる。

「そろそろ時間のようね。洋一、いくつか、最後に質問があるわ」

「待て。その質問の後で、君達はどうするつもりだ?」

「それも、こちらからの質問のひとつね。あなたは、どうしてほしいのかしら?」

 面白い。奴らが人の望みを聞くとは。

 日計は鷺澤の視線を頬に強く感じた。後押しされていると解釈する。これ以上ないくらい、最高の援護射撃だ。

「ぼくの願いは聞くのか。今まで殺した人たちの哀惜や慟哭には、聞く耳も持たなかったというのに」

 意外なことに、ブレイナンは少しだけ悲しそうな顔をしたが、すぐに元の無機質な表情へと戻った。

「人類にとって必要なことだったの、洋一。人が人であるためには、証明しなければならないことがまだ沢山ある。それはわたし達にとっても同じこと。生まれ出でた存在は、その意味を探るベクトルを持つのが必然なの。あなただって、自分の意味を知りたいでしょう?」

「残りの問いはなんだ」

「あなたは、我々をどう感じたの?」

 ありったけの感情を込めて、日計はブレイナンの憂いに満ちた……ように見える瞳を睨みつけた。

「わからない。好ましく感ぜられる訳が無いが、得体が知れない。しかし、いつか打倒してみせる」

「そう……真っ直ぐな闘志は、とても心地よいわ」

 ブレイナンは滑るように日計の前までやってくると、ドレスの膝を折り、細い右手を差し出した。

 まさか、と思う。その唇が妖艶に微笑んだ。

「それで、これが最後の問い。わたし達と共に来る気はある、日計洋一?」

「日計くん!」

 鷺澤の声に動じることもなく、ブレイナンは続けた。奥ではトリセクスカがこちらを振り返り、様子を覗っている。銃を構えているわけではないのに、鋭い視線が肌に突き刺さるのを日計は感じた。とてつもなく重要な問いに、場の空気が絶対零度に冷え込んだように錯覚する。

「あなたなら、こちら側でも上手くやっていける。わたしたちと同じになれる。悪い話じゃないでしょう?」

 日計は即答した。

「言うまでもないが、断る。たとえ王になれるとしても地獄へ行くなんて、ごめんだ」

「本当にいいの? そこにいる彼女も、あらゆる脅威から守ることもできるのよ。くだらない世俗的なしがらみや、もしかしたら生死だって超越できるかもしれない。少なくとも、人類として過ごすよりも遥かに長く、静かで、充実した余生が送れることは保証するわ」

「ぼくが望めば?」

「もちろん。永遠に、二人で生きていけるの」

 まじまじとブレイナンの目を見つめた日計は、次の瞬間、破顔した。ブレイナンとトリセクスカが、微かに驚きの色を見せる表情で彼を見つめ返した。

 ようやく対等になった気がした。快活に笑いあげて見せながら、日計は確かな確信を抱いた。なるほど。彼らを恐れる意味はない。こうして笑うこともできるし、何より自分は彼らへと立ち向かうことができるのだから。

 胸を張り、堂々と二人と、アレースへと相対する。伸び始めた黒髪が風に靡き、口元に不敵な笑みが浮かんだ。

「貴様ら――いや、あなた方は理解できていない。人間は単純でもなければ複雑でもないよ。ミス・イーズ」愛称で呼ばれ、ブレイナンは眉を顰め、戸惑いを露わにした。「あなた方は南極に帰って頭を冷やすべきだ。あそこには氷もたくさんあるだろうから、少しはものの道理がわかるようになるだろう」

 潜めた眉が角度を持ち、困惑が静かな怒りへ変わった。そして最後に、彼女の表情が再び戸惑いへと落ち込んだところで、ラガードが言った。

「行くぞ、ブレイナン。目的は果たした」

「……ええ、ラガード。仰せのままに」

 最後に、ブレイナンはふわりと一歩を踏み出し、日計の首へ腕を回した。殺されるかと肝を冷やしたが、彼女の柔らかい胸の感触が胸板に押し付けられるのを感じて、思考が一瞬、途絶える。

 母性すら感じさせる優しい仕草で彼を抱きしめながら、女は耳元で嘯いた。

「『彼』には聞かせられないけれど、あなたと話せて、楽しかった。これは本当わたしのこころよ」

 すぐに体を離す彼女を殴りつけないように拳を握りしめるのが精一杯だった。女は片眼を閉じて微笑む。次いで鷺澤へと勝ち誇った顔で一瞥すると、颯爽と割れた窓枠へと踏み込んでいった。

 アレースが動き出した。カメラアイがぎょろりと人間たちを睥睨したかと思うと、両掌を空へ向けて窓枠の中へと差し込んでくる。その上に乗り上がると、ラガード・トリセクスカが折りたたまれた指につかまりながっらこちらを見て、完璧な敬礼をした。

 迷った末、日計は答礼しなかった。

 それを見て、男はほくそ笑んだだろうか。口を開けて大きく叫ぶ。

「また会おう、日計洋一。その時を楽しみにしている」

 巨人の胸部後方にあるコックピットへと二人が滑り込んで間もなく、アレースの機体各所にある推進装置が作動。熱風をまき散らしながら、細身の巨人は真っ直ぐに天頂方向へ向かって上昇していった。





 ここ数日の間、東雲南津子は疲労の極限を迎え、その憤りをどこへぶつけるかもわからぬ憤懣やるかたない思いでボールペンを握っていた。指が白くなるほど力を籠め、親の敵を見るような目つきで書類の数々に目を通す。鋭い視線は文字の羅列を追ってその意味を理解するや即座に判断、署名を行って代理決済。次の紙を捲っては同じことを繰り返す。

 通常なら会計管理を行う主計官なども同行するが、一般のPG科、機械科部隊と違い、第一技術試験旅団はその部品流通すらも国防機密に指定されているからだ。他にも事務処理には紫雲への補給品リスト作成や改装個所、機体データに齟齬が無いかの確認と、隊長含む各隊員の状況報告までもが含まれる。自動システムにより格段に作業は簡略化されているものの、最終的な決済だけは人間が行わなければならない。全自動化は幾度も提唱されているものの、侵攻する敵軍を前にして指揮系統の抜本的な変更を行う余裕は皆無だったし、ヘルフィヨトルの模倣をするには心理的抵抗が大きすぎた。

 兵站業務はかなりのもので、有沢琢磨が担当していた業務はそれらの大半を占めていた。東雲は服中隊長として籍を置いていても、最終的な決定権は彼が掌握していたがために指揮官業務を行うことは稀だった。彼女の役割はいうなれば何でも屋で、日計、鷺澤両名の訓練・管理と、整備班や司令部への連絡、部品調達状況の現場での確認など、多岐に渡る。

 自身の業務も行いながら有沢の死基幹業務も肩代わりしているものだから、身体がいくつあっても足りない。署名をしては内線を取り、格納庫まで走っては整備班の様子を見に行く。また部屋に戻っては延々とペンを握る生活で、致し方ないこととはいえ苛立ちは募るばかりだった。

 一際大きく床が揺れる。長い髪を後頭部で結わって頭の上からヘッドセットを付けていた東雲は、一頻り喉を鳴らした後で膝の上に置いたクリップボードにペンを叩き付けた。今は米軍が派遣したティルトローター機の機内で事務処理を行っている最中だったのである。険悪な雰囲気の彼女を前に、同乗している米軍人らは複雑な表情を浮かべ、どこを見たものかと視線を彷徨わせていた。容姿端麗な彼女ではあるが、今、その華奢な身体から発せられる鋭い気配は尋常なものではなかったのである。

 それもそのはず、彼女が今、最も憤激しているのは憎き事務作業に対してではなかったからだ。

 既に有沢琢磨は最新の医療技術によって、ほとんど全快していた。軍医によればあと二日ほど様子見をすればギプスも取れるようだ。そうなればこの厄介な事務処理も半減するだろう。そこへきて、東雲はマルサビット基地訪問を言い渡された。目的は、ヘルフィヨトルの最初の五人に人類史上初めて接触した、日計洋一三等陸尉の引き取りのためだ。まさかアフリカへきて三文判を持つことになろうとは。保護者ではないが、上官として部下の面倒を見ろということらしい。傷病中の有沢に変わる臨時指揮官としての職務は最後になりそうだ。

 窓の無い機内で腕を組み、不機嫌な表情を浮かべている彼女を、同乗している兵士たちは積載されている物資の影から覗き見た。美人であるが話しかけ辛い彼女から一瞥を受けると、視線を泳がせて赤い警告灯で照らされた空間をむっつりと睨み付ける作業に戻る。そしてまた東雲はボールペンを走らせる。これの繰り返しだった。

 ギガスを撃退してから一週間足らずであるというのに、あの青年の運の無さといったら。心の表層に降り積もっていく苛立ちの粉を払うように、東雲は髪を掻き上げ、踵を踏み鳴らした。どれだけ地団駄を踏んでも、理不尽な現実を傷めつけることはできないとわかってはいるが、爆発寸前な感情をどこかで発散させなければ気でも狂ってしまいそうだった。

 一時間ほどのフライトを堪能し、そのまま司令棟の脇にある管理棟の屋上へ着陸する。アメリカ空軍のパイロットが、強い日差しを遮るバイザー越しにもわかるほどの好奇心を湛えた目を向けて来た。無視して昇降ハッチを潜り、ローターから叩きつけられる風に暴れ狂う髪の毛を左手で押さえつける。屋上には、情報保全隊の制服に身を包んだ青年二人を従えた、スーツ姿の美女がいた。彼女は豊かな長髪を緩く束ねて背中から胸の前へと垂らしており、いささか憔悴しているように見える。

 少しばかり自分に似ているだろうかと思いながら、東雲は半袖の略式軍装で目の前に立ち、敬礼する情保隊員達に答礼した。女は慎ましやかに一礼し、エンジン音に負けじと声を張り上げた。

「通訳顧問の望月美奈子です」

「第七PG中隊、東雲南津子二等陸尉です。状況を説明願えるかしら?」

「芳しくありません。一先ず、歩きながらご説明します。こちらに」

 プロらしい無表情の情報保全隊員が先導し、四人一組となって歩き出した。ハイヒールの音がふたつと、半長靴の音がふたつ、壁に反響しながら屋上の出入り口を潜って階段を降っていく。ナイロビ基地と比べればまだ涼しいかと思える気温の中、望月女史の隙の無い正装には頭が下がった。彼女もこれまでの経験から肝が据わっているらしい。頼もしいといえば頼もしいが、かなりの危うさも感じた。自暴自棄といえばいいのだろうか。取り澄ました表情の裏側に焦燥を滲ませ、手段を選ばない覚悟が見て取れる。

 廊下に入った所で、途絶えることのない人混みの中を進みながら彼女は話し始めた。

「日計三尉には今、鷺澤三尉がついています。端的に言うと、国連第四偵察軍戦略情報部から監察官が派遣され、現在、三尉は隔離された状態で聴取を受けています。理由は、マルサビットに出現した最初の五人、ラガード・トリセクスカとエセックス・ブレイナンに拘束された状況とその会談内容を報告させるためです」

 誰にともなく、東雲は頷いた。隣を歩く望月をそれとなく観察し続ける。彼女の直感――兵士としてではなく、人間としての勘が、望月への警戒を促していた。その理由を探るためにも、現状を確認するためにも、声に出して相槌を打つ。

「概要は聞いているわ。いきなりずけずけと入り込んで来たヘルフィヨトルの野郎どもは、わたしの大事な部下を誘ったそうね。第四偵察軍は差し詰め、その情報を一滴残らず絞り出そうとしているって所かしら」

「はい。論点はそこですが、そう簡単な話でもないのです。目的は明確ですが、聴取の内容が都度、関係のないものになることもありますので」

「ただ尋問をして情報を受け取ろうとする以外の意図が見える、ということですか」

 大きく顔を顰めながら、望月は頷いた。

「参謀本部内で日本への反発を抱く一派があることはご存知でしょう。今回の件は彼らも一枚噛んでいると考えて差し支えなさそうです暴力こそありませんが、厳しい場面もありました」

「ここで『くそったれ』と大声で喚いたら、さぞかし気持ちいいでしょうね」噛み締めた歯の隙間から絞り出すように言い、「確認するまでもないけれど、一応、聞いておくわ。日計三尉は確かに拒否したのよね?」

 望月は困った風な笑みをちらりと浮かべたが、すぐに無表情へと戻った。

「はい、二尉。日計三尉はヘルフィヨトルの招聘にはっきりと拒絶の意志を示しました。突入した米陸軍特殊部隊の兵士と鷺澤三尉の証言も取れています。しかし参謀本部はそれ以前に誘致があったとする見方を否定しきれないらしく、除隊すらも視野に入れて聴取されているようです。国際問題まで発展すれば、自然とそうなるでしょう。最悪の場合、国際司法裁判所に送られることもあるかもしれません。ヘルフィヨトルへの参画を表明したら、これ以上ない裏切り行為となりますから」

 吐き捨てようとした唾をどうにか飲み下した。あまりにも突飛で馬鹿げた話を聞かされ、怒りを通り越して呆れてしまう。

 横浜を焼き払ったあの巨人を前にして無傷の生還を果たしたのだから、一概に不運とも言い切れない。あれを前にして尚、挑むように対話を続けていた彼の精神力こそが驚嘆すべきものだ。やはり侮れない青年というべきだろうに、参謀本部の頭でっかち共と来たら。彼は裏切り者ではなく、人類が守るべき切り札のひとつだというのに。

 廊下を折れて、さらに階段を下りていく。聴取室は三階にあるという。八階から降りていく時間は、状況説明には持ってこいだった。時間を無駄にしない望月の機転に、東雲は少しだけ慰めを得た。とにかく、彼女と鷺澤が共同して日計のサポートに当たっているのは幸運だった。二人がいなければ、今頃、日計洋一は地図上には存在しない尋問施設へと移送すらされていたかもしれない。ヘルフィヨトルと接触しただけでなく、彼は日本のPGTAS技術についても深く知る立場にある。彼の脳内にある情報こそ、国連が喉から手が出るほど求めて止まないものなのだ。

 望月はちらりと東雲へ意味深長な視線を投げると、そのまま垂らしている前髪のひと房を指でいじり始めた。

「でも、彼を解放しようとしている一派も存在しているのでしょう。まさか紫雲のドライバーをアフリカから更迭するなんて、自分達の死刑執行書にサインをするようなものだものね。そうなれば黒いPGTASの活動は、ますます歯止めが利かなくなる」

「軍事的観点から何も言うことはできませんが、その通りです。確かに、日計三尉を擁護している者も国連軍内には数多くいます。具体的にはハミングバード中隊や、第七装甲分遣隊です。他にも第三管轄軍司令の楊李鳴大将と参謀本部のマーティン・ホッグス大将も、彼の解放のために積極的に動いてくれているようです。しかし如何せん、様子見を行っている勢力が大半を占めており、意外に反対派が多いため、釈放は難航しています」

「日本政府からは何かアプローチがあるといいんだけれど、国際情勢が絡めば首相官邸もお手上げでしょうね。今の日本政府に、国際情勢へ積極的に口出しするだけの外交カードがあるとは思えないわ。いや、あるけれど、手札カードを切ったらおしまいって感じか。安保理を経由して日計君の釈放を承認させたとしても、参謀本部はなんとでも言うでしょうから」

「わたしは存じ上げませんが、藤宮守群長もあらゆるルートを通じて交渉を行っているそうです。政府との連携については関知しておりませんが、恐らくは二尉のご想像通りかと。ともかく、信用できる相手はあまり多くありません。特にこの大陸では」

「で、そんな中でわたしが呼ばれた理由はどういうことかしら? ほとんど想像できてるけど、一応聞いておくわね」

「李鳴大将が口添えをしてほしい、と」

 素直に、東雲は両眉を吊り上げて見せた。同行した情報保全隊が、警護対象を敵性勢力に拘束されるという大失態を犯したことと、情保の最高指揮官が防衛相黒田幹久であることから、あらゆる手段を講じているであろう日本政府、ひいては本省の意向かと勘繰っていたのだが、ここにきて楊李鳴とは。

「驚いたわね。李鳴大将がそれほど逼迫している……というより、日計君を買っているなんて」

 考えてみれば無理からぬことであるのかもしれない。侵攻が一時停滞しているとはいっても、第三管轄軍の駐屯している戦線正面には依然として敵主力が居並んでいる。無人兵器故に、人間のような準備期間は最低限で済む。戦略機動と戦術機動を最大限に発揮すれば、一時間の内に一千キロ以上の広大な戦線を同時攻撃することも可能なのがヘルフィヨトルだ。予断を許さぬ醸成の中で、ギガスに対抗できる第七PG中隊の搭乗員を減らすような真似は、政治的な事情を鑑みたとしても李鳴としては愚行以外の何物でもないのだろう。そう考えはするものの、やはり彼にも味方がいるのだと思うと感じ入るところがあった。

 そもそも、ヘルフィヨトルが侵攻を停滞させた理由は、今回の勲章授与式典の一件があるからではないのかと、東雲は考えていた。ギガスを撃ち破った人間がどれほどのものなのかを悠々と確認しに来たのではなかろうか。

 黒いPGTASであるギガス撃退の一事は、言うまでもなく人類社会をあらゆる意味で揺るがしたが、それはヘルフィヨトルにとっても同じか、それ以上の重大事だったのだと東雲は考え至る。いや、そうではない。これも彼らが立てた戦争計画の一部であっても不思議ではない。徹底的な殲滅戦を仕掛けながらもどこか手加減を感じる間断的な攻撃の波はそう感じさせるにじゅうぶんだ。むしろ、対人類戦に勝利するのならば徹底的な消耗戦を仕掛けるのが道理だろう。機械は無限だが、人命は有限なのだから。

 どちらにしても、敵はギガスを撃破してみせた兵士を確認する必要があった。そこにこそ、敵の真意が垣間見える。やはり人類の絶滅以外に、達成すべき戦略目標が存在するのだ。

 増々以て、第七PG中隊の戦略的意義は増大している。未だ初陣を経験して一年と経たない実験部隊がそうまでして南極戦争に関与する理由は唯一つ、紫雲と、日計洋一だ。そう考えれば、激務を押しても二人に同行すべきだった。現実に、アレース単機で国連軍は動きを封じられ、日計と最初の五人による会談は果たされてしまったのだから。

 人間であり兵士である東雲はそこまで考えを進めながら、何よりも胸を抉る事実から目を背けることができない。日計洋一は――あの誰が見ても人畜無害と感じる青年は、もう二度と年相応の日常生活を送ることは叶わないだろう。

 人類社会の最高意思決定機関である国連に対して、対話の意思を一切示さなかったヘルフィヨトルが、たった一人の人間に対して対話を望んだ。大きすぎる事実は、良心から彼を愛する全ての人間にも重荷を背負わせる。日本国の政治的発言力にまで影響するだろう。対話とは対等な立場に立ってこそ成立するもので、そうした観点から見れば日本こそが人類の代表たるに相応しいと判断された。政治的プロパガンダと揶揄されてもあながち否定できない。日本国は、世界で唯一つのヘルフィヨトルと肩を並べられる国家となったのだ。

 しかし、なぜ日計洋一なのだろう。答えは単純明快だ。彼が直接的にギガスを仕留めたからであり、恐らくは日本という国家概念など微塵も関係が無い。彼の在り方は確かに特別だと感じさせる。どこまでも普遍的であるのに、雑踏の中で際立つような彼の魂はどこに在るのだろう?

「それで、当時の彼の行動は? できる限り詳細に聞きたいのだけれど、時間も無いから簡単にお願い」

「改めてお話ししますと、アレースが離脱する数分前に、日計三尉は彼らに誘致されています。鷺澤三尉と、緊急派遣された特殊作戦部隊が実際の会話を聞いていました。最初の五人の一人であるエセックス・ブレイナンが彼に、その……抱擁した、と」

 望月の足取りが止まった。情報保全隊員の二人も同時に歩みを止める。目の前には「聴取室」と英語で書かれたプレートが掲げられていた。廊下を行き交う多くの将校らの視線が集まる中、望月の視線に東雲は気付いた。

 こういう時、意図をすぐに察してしまうあたり、自分もやはり女なのだと自覚する。そして上官として言わなければならないことができてしまった。

 ノブへ伸ばした手をひっこめ、東雲は望月を振り返る。ここまで急いで来たというのに何をしているのかと訝る彼女へ、毅然と言い伝えた。

「望月さん、ひとつだけ言っておくわね。言うまでもないと思うけど、彼には先約がいる。彼女と張り合う覚悟はあるのかしら? 少なくとも、あの子は命を賭けているし、それ以上に人間が差しだせるものはない」

「唐突に何を仰るのですか。わたしは――」

 言いよどむ望月へと、東雲は畳みかけた。恨まれてもいいが、切れ味の鈍った剣は要らない。それは剣だけではない、担い手をも殺すことになる。最悪の事態を回避すべく最善を尽くす、軍人らしい責任感が後押しして、彼女らしからぬ強い言葉が望月を打ちのめした。

「彼は確かにいい男だから無理も無い。でも、ただ彼を想ってそれで終わりなら、それまでだったということよ。これは決めつけでもなんでもなくて、そういうものなの。相手が誰であったとしても、行動に移してしまわない限りはまだ憧憬で事は済む。それ以上となると、泥沼よ。お互いに破滅しかないし、幸せなんて、砂の一粒ほども掴むことなんてできはしないわ。残るのは、あの時こうしていればという後悔と、あんな風に生きられたらっていう羨望。時々、そんな境遇を楽しむ人でなしもいるけれど、彼はそうじゃない」

 答えを待たずに踵を返し、東雲は扉をノックした。応答はない。代わりにノブが回され、防音加工のドアが廊下側へ開いた。

 鷺澤朱里だった。一見して憔悴して見え、目の下に隈を貼り付けて顔に生気が無い。少しだけやつれた顔に安堵の表情が浮かんだのを見れただけで来てよかったと思った。思わず胸元へ抱き寄せそうになるのを堪える。

「ご苦労様です、東雲二尉」彼女はきびきびと敬礼。

「結構。休んでよろしい」答礼してから彼女の肩に手を置き、「入ってもいいかしら?」

「大丈夫です。大尉、東雲二尉が参りました。入室許可を求めます」

「許可する。二尉、入りたまえ」

 鷺澤が奥へ向かって言うと、几帳面な返事が返ってくる。扉を潜って一歩、踏み込むと、背の高いひょろりとした眼鏡の男が椅子から立ち上がった。きっちりと着こまれた軍服を一見して顔を顰めそうになるのをこらえる。どう見ても、彼は情報畑の人間だ。軍務を旨としながら上に立つ参謀達のような緊張感はなく、外界は全て感覚器の入力情報でしかないと言わんばかりの無表情。明らかに前線にいる兵ではない。鍛え抜かれた筋肉を持っているわけではないが、情報部らしい瞬きの少ない眠たそうな目と、まったく人間味のない無味乾燥とした表情を携えた男は彼女の癇に障った。

 間違いなく、これは聴取ではなく、尋問なのだろう。

 彼の前で気を付け、敬礼する。彼は答礼しながら英語で言った。

「第四偵察軍戦略情報部第一セクション、カストーリヤ大尉」

 まるでコンピュータが、画面上に文字列を表示させただけのような、無感動な声だった。

「第七PG中隊、東雲南津子二等陸尉です」

「歓迎する、二尉。入りたまえ」

 慇懃な仕草でカストーリヤは部屋の奥、もう一つの扉を手を振って示す。そこには大きなガラスが嵌め込まれ、カーテンが下ろされているために室内を窺い知ることはできないが、ディスプレイが並んでいるところを見ると、灰色の壁で囲まれた聴取室を録画しつつモニターできるようになっているらしい。取調室とそう大差はない。それらモニターやコンソールのある部屋へ踏み込むと、他にも居並ぶ担当官の顔がいくつか見えた。軍服の袖章を見れば、主に国連安保理の国々の面子が揃っているようだ。

 戦術・戦略情報戦を扱う第四偵察軍の主要部分は先進国軍で構成されている。これは歴史的に、東西冷戦を経て成熟した情報機関が先進国にしか存在しないことにも由来している。銀幕の世界から飛び出してきたインテリジェンスたちの観察の目は、好奇心のそれとは違った冷徹な感触しかない。

 これでは、カメラばかり設置された部屋に独りで放り込まれるのと大差がない。色目遣いでも剣呑な視線でもなく、ただ観察のためだけに相手と接する職業に人生を捧げるのはどんな気分だろう。そう考えると居心地が悪くなってきた。襟に指を突っ込んで、気取られぬように少し深く息を吸い込む。

 しかし新たな憤りが彼女の感情を揺さぶった。カストーリヤ大尉は部下に命じてカーテンを開けさせ、マジックミラー越しにパイプ椅子に座る憔悴した様子の日計洋一の姿を見せたのだ。隣りで大人しく立っている鷺澤が、この場で感じられる清涼感の全てだ。無論、二人の黒髪を携えた女から立ち上る怒気は陽炎さえ生じさせるほどであったが、周囲の情報部員たちは完璧なまでに感情を隠し、興味深そうに二人の女性自衛官WAVEの感情の推移を観察していた。

 だが、まさかここで暴れるわけにもいくまい。腹に据えかねる思いではあったが、国連軍が日計洋一の救出に動いたのは事実だ。カストーリヤと鷺澤に挟まれて、東雲は腕を組んで仁王立ちする。鷺澤は心ここにあらずといった体だが、今は気遣っている場合ではない。この頭の硬い情報部の連中を説得して、彼を連れ戻す必要がある。

「お聞き及びとは思うが」カストーリヤが淡々と切り出した。「日計三尉は、ヘルフィヨトルの最初の五人である男女と接触した。男の名をラガード・トリセクスカ、女をエセックス・ブレイナンという。彼は英語を用いて二人と対話を行った」

 それだけで尋問するにはじゅうぶんな理由になる。人類は敵の兵器は知っていても、統括管理する首魁についてはほとんど情報を持たないと言っても差し支えない。情報戦で言えば圧倒的に不利である現下の状況で、これは適切な処置だと言いたげなカストーリヤの物言いだった。

 ラップトップを叩いていた兵士が、やや不鮮明な映像を表示してこちらに画面を向けた。白髪に褐色の肌を持つ男と、豪奢な金髪に健康的な肌色をした、濃い碧眼の女。

 思わず鷺澤を横目で見た。これほどの美女が日計に抱擁するとは。そして彼女からの勧誘を事もなげに断って見せたらしい青年。鷺澤は誇らしげに東雲を見つめ返した。

「音声記録は」

「アレースが影になっているのみならず、特殊な周波数帯で妨害音波を放出していたようで、残念ながら録音の試みは失敗した。しかしながら本人がヘルフィヨトルへ招聘されたことを認めている事実から、我々としては事実確認をすべきだと判断した。さらには米陸軍特殊部隊や、鷺澤三尉からも確認を取っている。事情聴取は長引いてはいるが、ご了承いただけることと思うが」

「存じております。ですが、ヘルフィヨトルへの招致について、本人は拒絶したと小官は聞き及んでおります。ここにいる鷺澤三尉も、その様子を見たというだけでなく、アレースの離脱時に彼が拒絶するのをはっきりと聞き届けているのでは。大尉殿の仰るように彼女以外にも証人はいるはずです。部下の言葉を信用できないと仰いますか」

「疑わなければ真実は浮き上がっては来ないのだよ。念押ししておくが、事実関係の確認は既に完了している。貴官にとっても認知しているだろうが、日計三尉は今や、人類史上類を見ないほどの重要人物だ。彼以外にヘルフィヨトルと言葉を交わしている人間はいないがために、協力を要請しているに過ぎない。彼の脳に蓄えられた情報はどんなものでも貴重で、それを第四偵察軍戦略情報部が収集しようというのは、ごく自然な成り行きだし、対ヘルフィヨトル戦においても重大な意味を持つ」

 当たり前の事実を長々と述べて時間稼ぎを図っているのだろう。東雲は矛先を変えた。

「埒が明かないので単刀直入にお尋ねいたします。彼の何を問題にしておられるのですか。よもや確かめようもない人間の心理を問題にしているのではないでしょう?」

「最後にヘルフィヨトルの女が彼に抱擁し、何事かを口走っている。その時、三尉がどのような返答をしたのか、また、しなかったのか、明確に観測した人間は存在しない。耳元で囁くといった感じだ。その一瞬で本当の取引が交わされた可能性も否定できない。彼が乗るのは紫雲、人類最強のPGTASだ。黒いPGTASすらも打ち倒す可能性を秘めたつわものが反旗を翻したらどうなるか、最も理解しているのは貴官であろう」

「日本国自衛軍が人類に反旗を翻すと仰いますか?」

「可能性の話だ。我々は懸念している。日本だけではない、全ての事態を想定するのが任務だ」

「成程、今のお言葉について追及するのは、お互いに利がありません」

「まったく同感だ」

「それよりも、日計三尉自身は何と話しているのですか。生憎と小官は、今ここに到着したばかりなのでその後の聴取の詳細を知らないのです」

「全ての事実関係を説明した――少なくとも当人はそう信じている――上で、彼らの招聘を許諾してはいないと、我々の推測を否定している。寝返ることなど考えてすらいない、と」

「では、問題はないではありませんか」

「裏付けが取れないからこうして尋問が長引いている。先ほど貴官が言ったではないか。人間の心理は確かめようもない。現場の隊員らからも証言が得られていない。第三者的な裏付けが取れるのならば、今すぐにでも釈放してやりたいくらいだ。仮にこの場で釈放した後、初めての出撃で、紫雲四番機が君に砲口を向けないとも限らん。紫雲の暴走を止められる戦力は、現下の国連軍には存在し得ない」

 紫雲の潜在的脅威へ言及したことで、東雲はこの一連の出来事が日本の立ち位置を巻き込んだくだらない政治的駆け引きにすぎないことを確信した。カストーリヤ大尉の物言いは責任を逃れる、あるいは上層部からの圧力で仕方なくこうしているのだというニュアンスが感じ取れた。それが彼の保身のためなのか、あからさまに東雲らへ詳細を伏せているのかは判然としないが、ここで押し問答をしていても暖簾に腕押しだ。

 未だにPGTAS技術を開示しない日本政府と国際社会との軋轢が、それが現実に重大な影響を及ぼすと信ずる人々の間に大きな亀裂を生んでいた。時刻軍備増強のための情報を欲しがっている常任理事国は、日本への外交カードとして日計洋一の身柄を拘束しているのだ。副次的に鷺澤朱里までもがここで足止めを受けている。情報保全隊員も多くがマルサビットに派遣されているため、紫雲の保安体制にも不都合が生じていた。神崎敏夫らも駆けずり回っている現状、日本のアフリカ大陸における防諜体制にはかなりの負担がかけられている。

 出立間際に有沢琢磨から賜った言葉を思い返し、東雲は大きく息を吸って、吐いた。「事実無根を主張する輩には、論理を以て立ち向かうべし」だ。切れ者が上官でよかったと安堵する。虚構は明るみに出れば霧散する。朝霧が陽光を前に為す術もないように。

「大尉」一際静かな声で、彼女は口を開いた。「この件については日計三尉が敵と通じている論拠を見出すよりも、彼が人類軍兵士として適切な意志に則って返答を行ったと証明することのほうが容易です。小官には、誰もが考えながらもそうではないと判断する可能性を引っ張り出して、無理にでも事実へ昇華させる意図はないのでしょうか」

「第四偵察軍の情報戦略には、他者の持つ認識、常識は懸念材料としかならない。貴官は我々の任務を揶揄するか」

「事実関係が確認できないのならば、個人の信頼に基づく判断が適用されるのが妥当の筈。ましてや南極にまで飛んでいかない限り裏付けの取れない情報をここで突き回すことに、意義があるとは思えません」

「疑わしきは罰せずと言いたいのだろうが、今回の一件は危険すぎるのだ。事前調査の結果では、日計三尉の素性はまず信頼できる。しかし万が一にも敵と内通しており、それを見抜けなかったとあっては、諸君らの抱える第三世代機の情報ですら筒抜けになる程度では留まらない」

にも彼が敵へと傾倒していることは、わたくしとしては考え難いですし、それはわたしだけの意見ではありません。彼はあなたと同じ軍人であり、ギガスとの戦闘のみならず、ジュバやキンドゥで潔白を証明している。そしてあなたと同じで、彼は国家へ宣誓した軍人です」

「命を懸けられるかね、二尉」

「もちろん」

 カストーリヤは鋭く東雲を睨み、不快そうに眉を顰めた。

「軽々しく自分の命を差し出さないほうがいい、二尉。これは忠告だ。部下想いなのは理解しているが、君が面倒を見ているのは日計三尉だけではないのだろう。それは責任放棄とも揶揄されても仕方がないぞ」

「はい、大尉。失言でした。しかし、彼が敵でないことは疑いようがないはず」

「押し問答だな。では言おう。ヘルフィヨトルの最初の五人は人間と外見上で差異を見出すのが困難であることが、今回の一件で判明した。というよりも、彼らが人間でないことが確認できた。現場に残っていた彼女――エセックス・ブレイナンの血液は人間とは異なるという初期分析結果が提出されている。貴官の言う名誉と信頼を考慮すれば、アフリカ戦役全体で検査を行うのは自殺行為だ」

 東雲は両眉を吊り上げて驚きの感情を露わにした。疑り深い情報部員が信頼と名誉を問題にして尋問を考慮するなどということがありうるだろうか。

 だが、彼が次に言い放った言葉は、彼女が感じた驚きとは似ても似つかないものだった。

「人間でない何者かを洗い出すことができるとしても、人類から奴らへの裏切り者が出ないと言い切れるだろうか。わたしが言いたいのは、そういうことだ。君たち第七PG中隊は対ヘルフィヨトル戦において極めて重要な局面を担いつつある。もはや国連軍に無くてはならない存在だ。誰もが信じ、頼る君達の一人が敵であると疑われるのならば、たとえ次の一秒後に地球が爆発する可能性に等しいものだとしても、追及されねばならない」

「お言葉ですが、大尉の仰り様は誰かを傷つける恐れがあるからと言って、ナイフをキッチンから捨てることと他なりません。日計三尉がヘルフィヨトルと内通し、敵に利するのならば、それは部下であっても同じことではありませんか? このアフリカ大陸で重要な立ち位置を占めているのは、日計三尉だけではない筈です」

「口を慎め。我が情報部に敵がいるなどと、証拠もなしにのたまってくれるな。ただでさえこの情勢なのだ、不謹慎は慎まれるべきだろう」

「失礼いたしました、大尉。しかし事実として、彼はオリーブ葉付銀鉄十字勲章を授与されました。その彼をこのような嫌疑にかけることは様々な憶測を焚きつけかねません。勲章授与早々に参謀本部への批難も免れないでしょうし、その一端を担うのは間違いなく、あなたです」

「虎の威を借る狐とは正にこのことだな」

「双方、そこまで」

 いつの間にか開いていた扉から現れたのは、楊李鳴だった。背後にはマーティン・ホッグス、さらにはアレクセイ・アルツェバルスキーまでをも従えている。李鳴は二人の西洋人に比べれば小柄だが、隠しようのない苛立ちは鋭い。身構えた虎を前にしたようだ。彼は浅黒い肌をさらにどす黒く染め、アルツェバルスキーの白い顔にきつい一瞥をくれた。ロシア人はいささかも堪えた様子もなく、事態の推移を涼しげに眺めている。彼は粘っこい視線を、マジックミラー越しに見える日計へと投げた。

「諸君、休め」

 東雲らは敬礼のために挙げた腕を下ろす。紛れもなくAFCHQ参謀本部の中でも主要な面子がここに揃っているのだ。休めと言われても気を付けの姿勢を崩すことなどできない。

 李鳴は不機嫌な表情でカストーリヤを見た。

「カストーリヤ大尉、現時刻を以て日計三尉の拘束を解け。これは第三管轄軍ではなく、AFCHQ参謀本部の意向だ。言うまでも無いが、第四偵察軍の上に位置する指揮系統である。異論はないな?」

「しかし、閣下。我々は何があっても彼をこの場に留めるようにと命令を受けています」

「それはどこからだね? ああ、言わなくてもいいぞ、よく知っているからな。君の直接の上官であるケストレル少将には話を通してある。日計三等陸尉は今後の戦いで非常に貴重な戦力となるばかりか、人類にとってはビシルにおける勝利の立役者だ。命を賭したその時点で彼の潔白は実証されたものと思っていたが、どうやら第四偵察軍の見解は異なるらしい。報告は受けていないがね」

「お考え直しください。何はともあれ、日計洋一が敵と接触を持ち、あまつさえ親しげな言動を取っていたことは――」

「口が減らんな、若造。命令だというのが聞こえんかったのか?」

 アフリカの暑さを貫いて聞こえたホッグスの冷淡な声に、カストーリヤの顔から血の気が失せ、もともと薄い顔色がさらに白くなった。反撃を断念した彼は傍らに立つ部下へと頷きかける。同じく青い顔をした兵士が聴取室の鍵を解除して、日計を外へと出した。

 青年は礼装軍服の上着を脱いだだけの姿で、皺だらけになったシャツを正して立ち上がった。頭に巻かれた、所々が赤く染まっている包帯が生々しい。戦闘に巻き込まれた難民のような有様だった。東雲は爪が肌に食い込むほど強く拳を握ることで、湧き上がる怒りを何とか自制した。

 驚くべきことに、急ぐ風でもなく背もたれにかけていた礼装軍服を身に着け、しっかりとボタンを留めるなど身支度に余念がない。あまつさえ自分を監視していた情報部員らが詰めるマジックミラーを使って、胸にかけた煌びやかな勲章の位置まで直している。

 準備を終えて出て来た彼は、部屋に集まった面子の中からすぐに鷺沢朱里をみとめると、晴れやかな笑顔を浮かべた。次いで李鳴などの参謀本部の面々を見て眉を上げたがすぐに敬礼し、次いで東雲へ頷きかけた。

 意外にしっかりした顔つきだった。見栄を張っているだけだとしても、まだそれだけの余裕があるということか。東雲は胸を撫で下ろすと同時に脱帽する思いだった。この聴取室の外で言い争っていた彼女らのほうがよほどくたびれて見える。

 日計はカストーリヤに向かって居直り、言った。

「大尉。聴取は終了したという認識で間違いないでしょうか」

 上官たちの面前で問われたカストーリヤは複雑な表情を浮かべたが、その胸中はさらにむつかしいものであるに違いなかった。

「そうだ、二尉。君は晴れて自由だ。ご苦労だった」

「了解、大尉」

 改めて、日計は李鳴とホッグスへ向けて頭を下げた。アルツェバルスキーだけが視線を逸らし、他二人は満足気に頷いた。彼が部屋から出て行く前に、ホッグスが言った。

「待て、三尉。シャワーでも浴びたらどうかね。件の事件から不眠不休だろう。わたしの権限で休暇を取らせてもいい」

「はい、いいえ、閣下。勝つためにすることは山ほどありますので」

「確かに、任務は山のように聳え、責任が肩から降りることはない。しかし、何も今日明日でどうにかなるものでもあるまいに」

「それは命令でしょうか、閣下?」

 肩を竦めて、処置なしとばかりにホッグスは李鳴を振り返る。彼は自嘲的な笑みと共に首を振った。

「三尉、今回の一件については情報統制をかけるか検討している最中だ。申し訳ないが、こちらの対応が確定するまではあまり喋ってくれるな。しかし、君たち折れない剣は例外とする。君が各隊員へ詳細を伝達した場合、その誰にも守秘義務は発生するが、今後の戦略方針について議論してみてくれ。我々は新たな情報を手に入れたが、可能な限り秘匿した上で、多方面の見解を知りたい」

「了解いたしました。それでは、失礼いたします」

 敬礼を残して、彼は完璧な回れ右をして退出した。鷺澤が慌てた敬礼を残して彼を追いかける。東雲は興味深そうな楊李鳴の視線に気が付き、足を止めた。

「二尉。彼はいつもあんな調子か?」

 背筋を伸ばし、彼女は満面の笑みで答えた。

「はい、閣下。いつも通りの彼です」

「フム。たいへんよろしい。いきたまえ、二尉。若者には年長者が必要だ。美人で有能であれば言うこと無しだろう」

 東雲は敬礼し、退出。





 白衣の袖をまくって腕時計を確認しようとし、開いているラップトップコンソールの時刻表示を見た方が早いことに気が付いて苦笑した。機能集約とは一転して何かを犠牲にしているものであると痛感しながら、すっかり冷めた不味いコーヒーを一気に飲み干した。

 アフリカでの生活の癖がまだ治らないらしい。日本へ帰国してからというもの、あの熱狂的な戦乱に酔いしれる大地が恋しくもあり、恐ろしくもある。戦争という概念そのものを心根から嫌悪している彼にとって、戦場ほど忌まわしい場所はないが、この手で手掛ける希望という名の未来が闊歩する様を見るのは一入だった。紫雲は今も、アフリカの大地で躍動している。世界で唯一の第三世代PGTASであり、そのドライバーたちは彼の知る限り、最も気高い理想的な戦士たちだ。中でも一際異彩を放っているのが日計洋一。あの青年は自分に通ずるものがあると感じたからこそ、秘密を洩らした。正しい判断などこの世のどこにも存在しない。だがあれは必要に迫られてのことで、幾分かましなものであったと胸中で自分に言い聞かせる。

 殺風景で埃っぽいコンクリートで、正六面体にくりぬかれた巨大な空間。そこに、小林修一はいた。空調は最低限効かされており、窓ひとつない地下空間では息が詰まるばかりだが、そこで働く人々は心を病むこともなく、日夜の業務に邁進している。まったく頭が下がる思いだ。主任として統括指揮を執る小林は部下たちの果てない知的好奇心に半ば呆れ、半ば畏怖を感じていた。人類は知の学徒なのだと、改めて思い知らされた瞬間だった。

 現在、彼が職場として勤務している地下空間は、政府の公式記録のどこにも存在しない、秘匿と忘却のヴェールに覆われた場所だった。関東は赤城山の麓に置かれている防衛装備庁保有の研究施設である。その機密性ゆえに、当然ながら一般の地図や案内には掲載されていない。また、公文書にも関連の無いものへの引用などで土地、その他位置情報に繋がるものは全て黒く塗りつぶされている。地表にすら姿を出してはおらず、インフラも隔離されたこの施設を発見することは容易ではないだろう。衛星写真や金の流れから洗い出すことは可能だが、日本国内のみならず他国がこの施設の位置を突き止めるには、日本列島をくまなく探すしか他ない。

 ある意味で人間社会から最も遠く離れたこの場所で鋼鉄の巨人を製造することは、彼のセンチメンタリズムにいささかも感慨をも起こすことはなかった。ただそれらが存在する、創造したのは自分なのだという自負が、心の上にほんの少しの自尊心を刺激させるだけ。職員は自分の好奇心や義務感を満たすために作業を続けているが、小林にとってはそのどちらともかけ離れた心理状態にあった。

 地下百五十メートルまでをくりぬいて作られた格納庫。アフリカに点在する国連軍の巨大な軍事施設群にあるPGTAS格納庫が、そのまま地面に埋もれているようなものだった。幾重にも据え付けられたアーク灯に照らし出された広大な空間は、二〇四二年に着工、何と年内に竣工した。日本国内、ひいては地球で最も進んだ人類の科学力の源がここにある。

 改めて、如何なる感情も排斥された眼差しで、小林は正面に佇立する二つの人型を見やった。

 漆黒の装甲板を身に纏った細身の機体。片や、鈍色の輝きを放つ人型。どちらも様々な部分が欠損し、人型であることは基本フレームから見出せるものの、たとえば頭部が半壊していたり、腕が丸ごと脱落していたりしていて、おおよそ健常な肉体とはいえない有様だった。骨と皮ばかりでなく、それらすらも足りていない、作りかけの怪物フランケン

 無論、正式な呼称と通称のどちらも、フランケンなどというものではない。まったく同じ科学技術の源流からくみ出されたこの二つを、人類はPGTASと呼ぶ。

 周辺で作業を行っている整備員の一人が駆けて来た。十五メートルほど離れた位置で机を構え、作業に没頭していた小林は彼女を待ち受けた。作業着を着ているが、現場指揮を務めている副主任である。ショートボブの黒髪は、この閉鎖空間で少しでも健全な人間生活を送るための彼女なりの抵抗だった。いつか、昼餉の席を共にした時に聞かされたことがあったのを、小林はぼんやりと思い出す。

「主任、いらしてたんですか。お電話きてますよ。有線三番です、サ・ン・バ・ン」

 思わず顔を顰める。動くだけでも億劫なほど疲れている所へ、二十メートル離れた壁面に設置されている内線に向かわねばならないのか。彼の卓上には専用の受話器が置かれているというのに。

「なんだって? ここには来て――」

 言いかけたところで語尾を飲み込んだ。卓上の直通ダイヤルには着信を表すボタンの点滅がある。どうやら作業に夢中で気付かなかったらしい。

「急いでください。なんでも、けっこうなお偉いさんらしいですよぉ」

 それだけ言うと、副主任は自分のタブレット端末を片手にその場を離れ、作業員たちへ指示を飛ばし始めた。間延びした彼女の声を背に聞きながら、肩を竦めて踵を返す。

 地下格納庫の片隅には地上の衛星通信設備などをつながる有線が引かれており、各所にあるこうした受話器を使って連絡が取れるようになっている。勿論、通信設備は巧妙に艤装された有線で数キロ先の地点に確保されており、この施設は一般に無人の気象観測施設として認知され、事実、そのように稼働していた。ただ、データ送信用のアンテナが高性能なもので、指向性の強い電波で準天頂衛星とスタンドアロンの接続ができるというだけの話だ。

 このような施設内の通信は、大昔は蒸気管でメモ用紙の欠片を相手方へ送る方法をとっていた。今や紙ではなく実体のない情報を電子の羅列ですぐに送ることができる。複雑な暗号化をしても解読されてしまうものの、要する時間を無限遠の彼方へ放り投げることで、人は秘密というものを遠くへ送信することができるようになった。

 尤も、現代の暗号は必ずしも秘密を意味するものではない。当事者同士の間では容易に解読されるものだし、解けない暗号はそもそも存在しないのだ。違いがあるとすれば正解を見出すまでの時間で、それが膨大なものになるほど、実質的に解くことは不可能になる。どこかの人工知能が解を見つけるより前に、その秘密が錆びつき、役立たずになれば問題ないのだ。

 遠く離れた内線受話器へたどり着き、しょぼつく目を眼鏡をずらして指圧しながら、小林は大きく三と刻まれた受話器を取った。

「お待たせしました、小林修一です」

<やあ、小林君かね?>

 正直に言えば驚きなどしなかった。むしろ想定内とさえいえるし、期待通りの結果だ。彼がここへ辿り着くタイミングとしては上々だろう。折しも、アフリカでは最初の五人が日計洋一と対談を果たしたというから、絶妙だった。

 小林は今回の、最初の五人の内、二人がマルサビット基地へ来訪したことについて独自の見解を抱いていた。つまり、人間が遂に彼らにとって意識する対象となったことを意味しているのだ。戦局は新たな一面を迎えるというより、本来の姿へ立ち返る。ヘルフィヨトルの対人類戦略は、ようやく本腰を入れて動き始めるだろう。

 紫雲の登場により、時代の潮流は間違いなく、決定的な転換点を迎えるだろう。いや、既に迎えたのだ。人類のみならずヘルフィヨトル内部でも様々な反応が現れるのは必然であり、それ故に、人類はこの難局に対して様々なアレルギー反応を起こすだろう。この電話もその一つだ。

 感慨も一入に、小林は聞きなれた受話器の向こう側の人物へ気さくに言葉を投げかけた。

「黒田さん、お久しぶりです。少し早いですね。今頃、本省は大忙しではありませんか?」

 ルサビット基地で日計洋一が第四偵察軍の聴取を装った尋問を受けているという件は耳に入っていた。その内容は最高機密として扱われ、先進各国首脳部へと送付された。完全なアナログ形式であったと聞く。どのような防諜手段よりも確実な方法を、国連は選択した訳だ。

 それほどまでに敵を隠したがるとは如何様なものか。

 黒田はやや疲れた笑い声を響かせた。声色にはいつもの豪放磊落な響きが欠けている。

<何、政務官の連中にも偶には給料分の働きをしてもらってもよかろう。あの分厚い資料を、わたしはこの歳で捲る気にはなれん。元々はデスクワークが嫌で仕方なくてな。現場で体を動かしていたほうが有意義なものだ。現場の空気を吸っていなければ鈍ってしまう>

「同感です、と言いたいところですが。わたし自身はまだ後方勤務が性に合っています。それが自分の役割だと思いますし、やりがいもありますから」

<フン、若造が。して、第四世代はどうなっているかね?>

 一瞬の間を挟み、小林は答えた。

「やはり、既にお調べですか。というより、ここへ電話をかけるというのが、そういう意味合いを持つとは思いますが」

<もちろんだ。一ヶ月で製造までにこぎつけるとは、驚くべき成果と言わざるを得ない。どのような魔法を使ったのか教えてくれないか、ええ?>

 受話器と本体を繋ぐコードを指でもてあそびながら、小林は先ほどまで見据えていた人型――第四世代PGTASを見上げた。

 面白い考えが頭をよぎる。いずれは考えていたことだが、ここで予定を前倒ししても特に支障はなかろう。むしろその方が好ましいかもしれない。事態は想定していたよりも早く推移している。足並みを揃えるのは重要だ。元より計画通りに事が運ぶとは思っていないだけに、臨機応変な修正が求められる。

「黒田さん。こっちを見に来ませんか?」

 しばしの沈黙。受話器を握りしめながら、眉間に皺を寄せて懸命に思考を巡らせている偉丈夫が容易に想起された。

 黒田は元が自衛官、それも軍務畑出身なだけに、ここぞというときには相手の仁義に賭ける癖がある。本人はそれを美徳と思っているらしく、小林にも、その真っ直ぐさ、言うなれば青臭い部分を好ましく思うこともあった。しかし今回のように互いに腹の探り合いをする場合には足を引っ張る。若造なのはどちらなのだろう、と妙に達観した思いで小林は思った。

 それでも、平和に脊髄まで腐った凡人を相手にするよりは余程いい。こちらの言葉の意味を図ろうともしない愚か者よりは。

 答えあぐねている彼へ、小林は尚も言った。

「正直なところを申し上げましょう。第四世代機の開発は極めて順調です。もう既にお調べのことと思いますが、基礎設計は完了して今は製作段階でして。それほど遠くない未来には、結果をお見せできると思います。もちろん、ショーケースの中ではなく、泥を巻き上げる実戦状況で」

 その一言で、彼は思い切りよく決断したようだ。

<そうだな。歴史的な物だ、一目見ておくのもいいかもしれん。アポイントメントは必要かね?>

「いいえ、こちらは二十四時間稼働ですから、いつでも構いませんよ。そちらの都合のよろしい日時で、またこの番号にお電話くださればわたしのほうからヘリを寄越します」

<同行者は? わたし一人で出歩くのにもいかんが>

「生憎と機密、機密でがんじがらめになっているので、おひとりでお願いいたします。調整できれば、こちらから警護の隊員を派遣して差し上げても?」

<わかった。それは仕方あるまい。それとだな、小林君>

「なんでしょう?」

<有沢琢磨を裏切るなよ>

 電話が切られた。受話器を本体に戻し、小林は改めて機体を見上げる。

 有沢を裏切るな、とはつまり、単純に解釈して妙なことをするなという意味だろう。明確に反対の意思を示さなかったことからして、防衛相として黒田幹久は今回の、内閣の特定の人物の独断である極秘開発計画を承認したに等しい。言葉にこそしないが、大事になっていないということは彼がこの一件を懐に仕舞い込んだ証左に他ならない。査察に来るのも非公式オフレコだ。政界きっての純粋派である黒田に限って、この一件に自分を一枚噛ませて甘い汁を啜るということでもないのだろう。彼がこの機体をどう評価するかは、その眼で見てからということになる。

 と、先ほどの副主任が駆け寄ってきた。満面の笑みで、華奢な腕を目いっぱい振って機体を示す。

「主任、工程の八割が終了しました。予定通り、命名をお願いします!」

「え。わたしだっけ?」

 自分を指さす小林に、彼女はぶんぶんと首を縦に振った。

「そりゃもう。事前には話していませんでしたが、全員の推薦です。あれに魂を入れられるのはあなた以外にいやしません。皆もそう言ってます」

 気付けば、居並ぶ整備員たちが手を止めて彼を見やっていた。休憩シフトの職員たちも、起き抜けの髪を振り乱して続々と格納庫へ集まってきていた。

 口では言いつつも、胸の内に秘めていた名がある。科学の頂上に座するであろうこの機体には相応しい名前だ。大仰なものだが、有沢琢磨ならいたく気に入るに違いない。東雲南津子などは目を白黒させるかもしれない。日計洋一と鷺澤朱里は、大仰すぎると笑うだろうか。

 小林修一は言った。言霊と呼ぶにも生ぬるい、自らの魂を入魂したその名を。

「そうだね。それでは、彼の名前は『玄奥げんおう』だ。そう名付けよう」

 職員たちの間から歓声が上がった。誰しもが、この機体が人類を救うと信じて疑わない者たちだ。一入に感じ入りながら、小林は装甲板の外された武骨な頭部を見上げた。

 名を刻むとはつまり、入魂の儀。しかし、まだこの機体に魂は入っていない。

 彼に命を吹き込む人物が、世界を救うことになる筈だ。そして、何かを救う者は、得てして誰かに救われることはないのである。

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