第三十話

 直感が何かを告げた。喧騒の向こう側で、確かに誰かが何かを叫んでいるのに聞き取れない時のようなもどかしさと共に、意識の向こう側へと消えていく自身の声を追いかける。言語化されない思考の糸口を掴んで窓へと顔を向けた。床面にほど近い位置から高い天井まで貼られた長方形のガラス越しに、今はもうすっかり姿を隠してしまった太陽のもたらす暗闇へと目を凝らす。

 並ぶ建造物の輪郭が闇の中に浮かび上がり、軍事と民事が入り混じった営みの騒音を感じる。ヘルフィヨトルによる攻撃目標となりやすいナイロビ基地の周囲に歓楽街や市街を残すことが賢明な判断であるかは度々議論がなされたが、結局はここに生活を残すことになった。何故なら、どの国家においても経済は存在しなければならないものだからだ。それ故、このマルニエールビルを囲む市街にはケニアの経済特区が設定され、国連軍を相手にした強かな商売が盛況だ。

 行き交う人々の頭の上から常夜灯が通りを照らし、周辺を固めている国連憲兵隊の青いヘルメットが雑踏の中によく見える。厳重な警戒態勢のため、いつも周辺で生活している住民らの気配は少し遠巻きだ。物々しいが静かな活気の溢れる街の中に、感じたはずの何か、或いはその源を探して視線を走らせる。

 隣でワイングラスを傾けていた望月美奈子が目敏く気付いた。窓枠に手をかけて外を眺めている彼女へと近寄りながら、同じようにして外を眺めるも、目には何も意味のあるものが映っていないに違いない。望月は微睡んだような目で外を傍観しているが、翻って少女の視線は鋭く、礼装軍服の上につけられたばかりの煌びやかな勲章より激しい光を散らしていた。

 呆けたように望月がぽつりと呟く。

「夜景、きれいね。異国情緒にあてられた?」

「いや、そうじゃないです」

 鷺澤朱里は頭を振り、隣に立つ女との因縁すら忘れる集中力で空を見た。

 マルニエール・ビルのパーティホールから眼下に広がるマルサビットの夜景には何も変化はない。しかし確かに何かを感じた。鷺澤は自身の直感に全幅の信頼を置いている。これまでの人生は頭で考えるより直感で悟って結果を出してきた。だから今回も信用すべきだろう、この自分を。

 そう決めると、鷺澤はいま目の前にある風景から何かを探しだす作業に没頭した。隣ではほどよく酔った望月がアルツェバルスキーへの文句を並べ立てているが、相槌を打つこともなく聞き流す。全身全霊をかけて、この違和感の正体を探り続けた。

 まず目についたのは基地の照明や歓楽街のネオンに群がり、酒や女で日ごろの疲れを癒している兵士たちだ。驚くべきことに、鷺澤らとそう年齢の変わらない兵士が多数を占めていた。果ての無い消耗戦は、前線へ赴く兵士の平均年齢を大幅に押し下げたのだ。十代の少年少女を見かけることもある。大抵は整備任務などだが、前線の戦車兵や歩兵などでもその姿を見ることはできた。大半がアフリカ大陸に土地を持ち、あるいは持っていた国々の兵士だ。先進各国、特にアメリカなどは未だにこうした退廃の流れの中にはいない。

 舌打ちしたい気分だった。街灯はぽつりぽつりと通りに突き立つだけだが、電力だけは足りているようで煌々と街道の雑な舗装路を照らしている。光源が多すぎるせいで暗闇に何が潜んでいるのかを見通すことができない。おかしな話だが、空を照らそうとすればするほど、星々は姿を隠そうとする。単純に瞳孔の反射なのだが、今はその感覚にも苛立ちを覚えるほど、鷺澤は集中していた。

 再びの気配を感じ、無意識の内に彼女は空を見上げていた。瞬間、彼女は顎を強張らせ、目を見開いてそれを見た。

 雲が光を発していた。そして爆音。聞き慣れた音が轟く。考えるまでもなく、これはF=3のジェット排気音だ。しかも戦闘機動中のようで、複数の爆音が雷鳴のように重なり合って聞こえる。なぜこんなところにいるのだろう、ナイロビ基地は遥か南方で、防空圏を超えてやってくるとは。それにあの光はやはり間違いない、戦闘だ。戦闘が起こっている。マルサビット基地の上空へ向け、今、地対空誘導弾が放たれた。白い航跡が大地から複数、立ち上がり、真っ直ぐに雲の向こうの一点へ向けて伸びていく。直後に悲鳴のようなサイレン。雲を突き抜けて落ちてくる何かへ向かって、誘導弾が近接信管を作動。猛烈な爆発が何かを包むが、事もなげに通過してくる。

 それは見覚えのある、夜にさえ浮かび上がるほどの黒い影。

 既に会場の入り口からは憲兵が走り込んで来て、各国の軍部首脳へ耳打ちしていた。彼らの顔面が蒼白なものとなるのはよろしくない状況の証左だ。まあ、パーティの頭上で誘導弾が爆発しているのも、悪い兆候と言えるかもしれない。

 咄嗟に望月の肩を掴む。そんな呑気なことを頭の片隅で考えながらも、彼女は驚いている望月の肩を軽く揺さぶった。

「美奈子さん、よく聞いて。敵が来たの。死にたくなければすぐに逃げるのよ」

「え? でも、まだ何も――」

「みなさん!」

 楊李鳴が外へ出て行くと同時に、マーティン・ホッグスが背の高さを利用して怒鳴った。ぎょっとして参加者が振り返ると、彼は口に手を当ててメガホンにする。

「パーティは中止です。申し訳ありません。すぐに憲兵の指示に従って退避してください」

「なんだ、どうして――」

 ざわめきと共に口を開いた誰かの語尾に重なるように、激震が建物を揺らした。窓ガラスのいくつかが割れると同時に、鷺澤と望月を抱きかかえる誰かの腕を感じる。優しくも力強い感触、それだけで日計だとわかった。鷺澤と同じように、彼も違和感を感じて窓際で空を見上げ、少しだけ早く気が付いたのだった。

 青年は自分の身を屈めて鷺澤と望月を守りながら、窓枠の傍で破片を背中で受けた。彼の身体越しにも体中を揺さぶる衝撃波は並大抵のものではない。しつこく敵機へと追い縋った地対空誘導弾が至近で爆発したためだ。つまり、敵はもうすぐそこにいる。この建物の近くに。

 会場はパニック状態に陥った。参列者の中で軍人たちが、その場に居合わせた民間人を庇いながら窓から離れさせ、怒鳴り散らしながら人の流れを出口へと誘導している。礼装軍服を身に着けてほろ酔い気分だった受勲者たちも憲兵に協力し、文官、武官を問わずに避難誘導を始めていた。

 ガラスの破片が音を立てて散らばる中、日計が膝をついた。その額からは一筋の赤い液体が流れ落ちる。表情は苦悶に歪み、がくりと首が垂れて動かなくなった。青年の力の抜けた身体に押しつぶされるようにしながら、望月と鷺澤は彼共々倒れ込む。

 女二人は顔を見合わせた後、すぐに行動を起こした。何を置いても、彼を死なせるわけにはいかない。その一事は、言葉にしなくとも通じ合えたのだった。

 皮肉な状況に感じ入る間もなく、細い腕を肩に回して二人で青年を担いだ。鷺澤は驚いた。彼はこれほど重かっただろうか。とにかく遠くへ離れなければ。ここは既に戦闘地帯。ぐずぐずしていてはあっという間に殺される。張り詰める殺意と緊張感が、二人を突き動かしていた。

 懸命に日計を担ぎながら動いていると、遠くからアッチソン・ローランとジョンソン・ハートライトが駆け付けた。彼らは即座にこちらの状況を理解し、飛び出して来てくれたのだ。

 しかし、ジェーン・マクファーティとメイソン・アルーティが何事かを怒鳴り、若者二人は急停止した。

 鷺澤の肩に誰かが手を乗せる。顔を挙げれば、そこには褐色の肌と白髪。黒瞳は鋭く、その場で呼吸を忘れてしまうほどの気配が肺にまで入り込んできたようだ。

 男は懐から拳銃らしきものを取り出すと、天井へ向けて一発を放った。乾いた銃声は人の声を圧して響き、視線が彼へと集中する。

「人類諸君」

 男が言う。静かな声色なのに、恐ろしいほどによく通った。

 望月の傍らには、同じようにして肩に手を乗せている、金髪の美しい女が立っていた。想像を絶する美貌だ。彼女からすれば、鷺澤の信じてきた美しさという言葉の定義を改めざるをえない。それほどまでに整った顔立ちと豪奢な金髪は、見る者を圧倒し、ひれ伏せさせる気高さを放っている。

「心配はいらない。パーティを続けようか」

 男が言い、先ほどの衝撃を運んだ正体を知る。

(アレース――!?)

 割れた窓枠の向こう側に、黒い巨人が鎮座していた。流麗なシルエットの頭部がこちらを向き、会場の照明を受けて、大きなカメラアイが鋭い輝きを放つ。

 知らず、日計の手を握りしめていた。





 大小のガラス片が床にちりばめられ、幾何学的な模様の重なりが輝いて見えた。きらめきの数々は鋭く、網膜と視界へと容赦なく切り込んでくる。遠くで鐘の音が鳴っていると思ったら、どうやら自分の心臓の鼓動であったらしい。規則正しいリズムに、少し安堵する。少なくとも死んではいない。生きているなら、戦える。

 恐ろしいほどの静寂が、湿気た熱と共に軍服の内側へ滑り込んでいた。埃っぽい空気を吸い込んで少しむせたが、呼吸そのものに支障はない。身じろぎすれば身体ではなく頭に鈍痛が走り、呻き声が口から洩れた。際限なく頭を金槌で打たれているようだ。左の視界が喪われている。自分でも驚くほど冷静にそんなことを考えていた。べっとりと瞼に張り付いた血が固まって、視界が半分しか得られないのだ。どうやら無事なようだが、左目が潰れていても生き延びたのだからもうけものだと自分に言い聞かせる。

 どうやらこのガラスで切ったらしいと考えたその時、眩暈がするほどの痛みが再び頭を襲った。今度は呻き声でなく、小さな悲鳴が漏れた。顔を顰めながら周囲を見回したところで気が付く。自分はどうも椅子に座っているらしい。先ほどまで、エセックス・ブレイナンと会話をしていたその椅子だと思い出すのに、少しだけ時間がかかった。

 割れた窓から風が吹き込む。働いてくれない頭を抑えて、目の前にある卓上を見つめた。砕け散りそうな意識を掻き集めてなんとか使い物になるまでまとまるのを待つ。

「長い居眠りだったわね、日計洋一」

 聞き覚えのある声で日本語が紡がれた。その主は顔を見ずともわかる。

 視線を上げると、エセックス・ブレイナンの金色の瞳と髪にぶつかった。先ほどと同じ、質素なデザインのパールホワイトのドレスを身に纏っており、露わになった肩にはガラス片が付着していた。どうやら彼女も、吹き飛んだ窓の破片を一身に受けたらしい。自分と違って外傷らしいものは見当たらなかった。塗装仕立ての玉響の装甲板のように白い肌が輝く。だが、間違いなく、彼女は機械ではない。

 こちらの視線に気付いたのか、楚々とした仕草でそれを払い、何事も無かったかのように無表情を保つブレイナン。人型であるのに、先ほど言葉を交えた時に感じた端々の女性らしさは微塵も感じられない。どうやらこちらが彼女の本性であるらしい。

 そして彼女の隣には、あの男がいた。

 百年以上も前の古いデザインをした軍服。それを身に纏った男は、腰にさした儀礼用短刀をもてあそぶ手を止め、冷徹な一瞥を投げた。静謐な空気に異質な冷たさが入り込んでくる。アフリカは暑いはずなのに、心が底冷えするのだ。ぶるりと身震いをした後で、日計はブレイナンへと目を向けた。

「ミス・イーズ。どうして? どうなっているんだ?」

 間の抜けた疑問には男が答えた。

「アレースを追尾誘導していた国連軍の地対空誘導弾SAMが近接信管を作動させたのだ。アレースとマルニエール・ビルの相対距離は五百メートルと離れていなかったから、このパーティホールは爆発の衝撃をもろに受けた。窓ガラスは砕けただけでなく、破片効果も発揮したのだ。君の額の傷はそれが原因だ。それだけでなく、未だギガスとの戦闘で痛めた君の脳構造にも悪影響を及ぼしているだろう。額の傷は深くはないから、応急処置はしなかった」

 低くもなければ高くもない。楽しそうでなければ悲しそうでもない。完全に抑揚というものが欠けた人間の声で男は淡々と語った。高性能スピーカーが突然に意志を持って、自分の持つ機能を用いて声を発してみた、ただそれだけのことです、なんて言われれば信じてしまいそうになりそうなほどに、明らかに言葉であるにも関わらず意思の介在しない音声だった。

 しかし恐怖が悪寒となって背筋を駆け上がることはなかった。人間離れした男の声に、全身の神経が否応なしに戦闘状況であることを告げる。アドレナリンが意識の覚醒を促し、日計は自らの置かれた状況を順々に追って確認していった。

 誰もいない、灯りの点いたパーティ会場。黒いPGTASによって割られた窓ガラス。目の前に座る男と女。周囲には誰もいない。見るからにこの二人は、敵だ。そして自分は、紫雲のドライバーである。敵に狙われる理由としてはじゅうぶんすぎるのだが、どうして鷺澤朱里もここにいないのか。安堵しつつも疑問は鎌首を重くもたげる。それは彼女と自分が違うからなのか。どこが違うのだろう?

 は、彼女とどこが違うのだろう?

 それ以上は考えてはいけないことだ。軽く頭を振って、日計は目の前の二人を睨んだ。敵であるのならば、迷うことなく、この二人は――

「ヘルフィヨトルめ」静かだが吐き捨てるように、「地球の半分を蹂躙したくせに、ここでも殺しつくすつもりか」

「そんなことはしないわ」ブレイナンが淡々と言った。

「結果として、君は今日を生き残るだろう。それは我々が保証する」男が言う。

 自然な日本語だった。その事実をなんとなく認めたくなくて、日計は割れた窓の枠から外を見やる。

 アレースの黒いフォルムが、破壊された窓の枠一杯に見える。頭部に据えられているカメラアイが赤い光を放ったのは見間違いだろう。幾万もの兵士と装甲兵器を一瞬で葬り去るこの機体を目前にして、自分がどのように生き残るというのかわからなかったが、今すぐにどうこうなるというものでもないようだ。さらには、ここに二人のヘルフィヨトルと、少なくとももう一人、あの機体の中にいるということだろう。最初の五人の内、三人がここにいる。

 そう考えると、心臓が爆発しそうに鼓動をはやめた。今すぐにでもテーブルを飛び越えて、二人の喉に手をかけてしまいそうだが、そうすれば元も子もなくなる。確実に殺せる時を待って、行動すべきだ。急いては事を仕損じる。国連軍がこの機会を逃すはずはないのだから。

 大きく深呼吸をして気を落ち着ける。今の自分にできることは時間稼ぎだ。一分、一秒でも長くこの二人をここに留めておかねばならない。

「ヘルフィヨトルが、どうしてぼくを殺さずにいるんだ」ブレイナンを睨み付ける。「横浜では殺そうとしただろう、大勢の人々と一緒に。忘れたとは言わせない。お前たちが何人殺してきたか」

 彼女は微かに視線を泳がせたが、すぐにこちらを見据え、唇を真一文字に引き結んだ。そしてやはり、隣にいる男が答えた。

「横浜港を攻撃した時とは目的が違うから君を殺さないのだ。さらに言えば、あの時は君の存在すら知りようもなかった。今日ここに来たのは何よりも君個人を知るためであり、殺害や拉致を目的としたものではない」

「マルサビット基地はどうするつもりだ。アレースがあれば、それこそ一瞬の内に瓦礫へ変換することができるだろう。ぼくがお前たちならば、そうする」

「マルサビット基地は破壊しない。その意味がないから」

 微妙な違和感を感じる。価値が無いのではなく、意味がないということは破壊が目的ではないということか。確かに人類も国際紛争で占領を目的に戦争を遂行することはある。その場合は破壊が必ずしも選択肢として選ばれるのではないだろうが、男の言葉遣いには利潤や損害などの計算を考えない、大局的な目的があるのではないかと思わせる物言いだった。

「わからない。どうしてそこまでぼくを狙うんだ。ぼくを知ってどうする、ありふれた人間を」

「認識の齟齬があるようだ。これは君たちの価値観でも同じ解釈がされていると考えてのことだが、玉響はギガスを打ち砕いた。これは特異な事例であり、当事者である君が他と同じ人間だと考える者は誰もいないだろう。それが、我々がここにいる理由であり、君が選ばれた意味だ、日計洋一。それ以上でも以下でもない。君でなければならなかったのだ」

 なるほど、敵は紫雲ではなく玉響に注目しているらしい。しかし懸命に頭を働かせてみても、ヘルフィヨトルの最初の五人であるこの男女が自分を殺さない理由に思い至らなかった。紫雲の、玉響のドライバーなら、ここで仕留めておけば損はない。紫雲はヘルフィヨトルにとって手強い筈だ。排除しない理由はない。

 しかし、その事実はひとつの希望をもたらした。この状態で自分が死んでいないということは、鷺澤朱里も生きている可能性も高い。望月美奈子やこの会場にいた多くの人間も、同様に避難したのだろう。さらに言えば、ここにはハミングバード中隊やズィーベン・スタックシェルトを始めとする多くの部隊が駐屯している。最精鋭ともいえるPGTAS部隊がふたつと、他に多くの装甲兵器があるのだ。アレースが動きを止めている今が好機。アフリカで最大の戦力を保有する基地へ、敵はのこのこやって来たわけだ。

 これは戦闘状況なのだと改めて自覚する。途端に腹が決まった。後は、やるだけだ。AFCHQがこのまま手をこまねいて事態の推移を見守るだけとは考えられない。

 それとなく、日計は話題を転換することにした。ブレイナンの碧眼にありったけの憤激を視線に籠めて睨み付ける。

「ミス・イーズ、あなたは敵だったんだな。この人類を悲しんでいたのは、自分が絶対的強者だと驕っていたからか。随分と下に見られたものだ」

「その割には、少しも怒りを覚えているようには見えないわね。ギガスをあなたが仕留めたのは偶然ではなく、必然だった。今はもう時間稼ぎのために注意を逸らそうとしている、それだけで戦士の素質があるというもの」

「世辞はいらない。あなたは、ぼくを騙していたんだろう」

「少しは誇りなさい。こうして我々と言葉を交えていることを」顎を抑えて少し考え、「それに、わたしはあなたをだましてはいない。嘘は言っていないから。これ以上ないくらいに真摯にあなたと向き合い、話をしていたのは本当のことだから」

「口先では何とでも言えるものだ」

 密かに腰を探った。そこにある筈の拳銃はない。会場に入る時に憲兵に預けたままなのを思い出し、舌打ちしそうなのを寸でのところで堪えた。

「銃があれば、迷わずその眉間をぶち抜いてやるのにな。貴様らの血が飛び散る様を見るのは、さぞ爽快なことだろうに」

「偽りの言葉が何を生み出すのか、君なら知っている筈だが……あまり軽率に時間を無駄にすべきではない。そうでなくとも、人間は刹那的な命しか持たない生き物なのだから」

 男が口を開いた。彼は組んでいた長い足を床に下ろすと、右手を指し伸ばしてくる。

「ラガード・トリセクスカだ」

 日計はその手を見ることもせず、意志の力を総動員して男の目を睨み返した。

 蛇に睨まれた蛙という諺は、言うまでもなく天敵の蛇に蛙が睨まれるからこそ成り立つ言葉。今は正にその状況と言うべきだろう。ヘルフィヨトルこそ人類の天敵なのだ。それも捕食のためではなく、何がしかの目的のために人間を滅ぼし続ける。彼らは即ち、人間の存在そのものが邪悪なのだと教える神に従うかのごとく、黙々と殺し続ける。だからこそ、この自分を含め、大勢の人間がアフリカや東南アジアへと渡り、戦争の矢面に立っているのだ。

 しかし、この男は一体、何だ?

 浅黒い肌に短い白髪。精悍というにはあまりにも粗削りで、鋭すぎた。焦げ茶色の瞳は薄暗くてよく見えない。ブレイナンのように青ければ、闇の中でも輝くのだが。

「知っている。君は憎しみで戦うのではないだろう」トリセクスカは落胆した様子も見せずに右手をひっこめた。「ブレイナンから聞いた。そこでわたしからも質問をしたいのだが、いいかね?」

「糞食らえ」

 皮肉気に口元を歪めるでもなく、ラガードはまじまじと日計を見つめた。

「怒りがあるように見せかけるのは、人間にとって至難の業だと聞く。今、それが理解できた。君は嘘が下手だな、日計洋一」

「お前たちに世辞を言われたところで嬉しくもない。いや、待て……人間にとって、だ? お前たちは人間じゃないのか?」

 ブレイナンが面白がるように口角を吊り上げた。

「厳密にいえば人間とは異なるわ。人間は男と女の性行為、つまり有性生殖で増える。我々は人間に限りなく近い構造を与えられてはいるけれど、生殖機能は最初から排除オミットされているし、振る舞いほど性別に偏った意識を持つわけでもない。我々が増えるとすれば『彼』の意志によってのみ。それは、人間の繁殖方法とは似ても似つかないでしょう。ある日突然に同類が隣に立っているなんていうのは、あなた方の常識では扱い切れないでしょうから」

「『彼』とは、誰のことだ。お前たちの他に、ヘルフィヨトルに協力している人物がいるのか」

「今、その話をすべきではない」

 男はブレイナンに頷きかけた。彼女はドレスのスカートをめくり上げて股に挟んでいた拳銃を取り出す。撃たれることはないと状況から理解できてはいたが――癪なことに、それは敵が嘘を言っていないことの証左でもある――その銃口が自分をなぞった時には肝が冷えた。

 生唾を飲み込む日計を嗤い、彼女は会場の隅へ向けて一発を放つ。乾いた銃声が広々とした空間に響き渡り、その反響が消える頃に、見覚えのあるバーテンが入って来た。タキシードに身を包んだ彼を見やり、思わず声を上げそうになる。

 アッチソン・ローランが無言のまま、散らばったガラスを避けつつこちらへ向かってきた。バーテンの服に身を包んだ彼の面が割れているのではないか、と日計は心配したが、ヘルフィヨトルの二人は特に反応することもなく、日計を凝視している。この部屋に入る者が誰であろうと気にもしていないらしい。

 ローランはテーブルの上に水のグラスを三つ置き、ピッチャーも添えた。彼は目配せすらすることなくトレーを脇に挟んで退出していく。

 これは国連軍がこの事態に対処しようとしているというメッセージだ。ローランと日計はもちろん面識があるが、ヘルフィヨトルの二人はそんなことは知りもしないに違いない。

 ローランが置いていった物を見る。人数分のグラスと、大きな銀製のピッチャーだ。中身は水だろうが、一見して数リットルは悠に入る大きさだ。これを飲み切るには、三人ではけっこうな時間がかかる。せめてこれを飲み干すまでの間、彼らとの会話を引き延ばせということか。その間に国連軍が対応策を捻り出す。紫雲も対甲射突槍も無い現状、アレースを仕留めることは不可能と考えるしかないが、ここから敵を撤退させることができれば戦術目的は達せられたと言っていい。

 それとない様子で、日計はピッチャーを取り上げ、グラスに水を注いだ。口の中が緊張でからからに乾いていた。人数分を注ぎ、二人へと差し出す。トリセクスカはグラスに手を付けず、ブレイナンだけがにおいを嗅いでから、透明な液体を口に運んだ。細い首筋に浮かぶ咽頭が上下するのを確認して、日計は手を付けるか迷った末に、一口だけを口に含み、飲み下した。

 ブレイナンと日計がグラスを置くと、トリセクスカが居住まいを正した。

「我々は、君自身について知りたいのだ、日計洋一。こうして舞台を整えたのだから、上演しないのは道化にも劣る」

 両手を広げて、酷い有り様となっているホールを示し、日計は言った。

「ここまで滅茶苦茶にしておいて、何も不満はない訳が無いだろう。そもそも、ここまで無傷でやってきたのか、アレースは」

「いいや。国連軍の要撃部隊と一戦交えてきた」

「何人を殺した」

「人数に意味があるとは思えないな。命を数で規定するのは、その価値を固着させることと同義だ。そう考えているのは君達だろう。いつまで経っても、命の加減算をやめられないのが人間だ。君たちはそれをこそ嫌悪するのではないかね。人間の命は地球よりも重い、と誰かが言っていた気がするが」

「くそったれめ。ここで話をしたところで機密のひとつも漏らすもんか。何のために、ぼくを知ろうとするんだ。お前たちの本当の狙いは何だ?」

「尤もな質問だ。そうだな、より単純に答えると、この戦争を終わらせるためということになる」

 言葉を失って黙りこくっていると、ラガードは取り澄ました様子で手を振って見せた。

「冗談だ。あながち嘘でもないがな」

「恥知らずの糞野郎め。ヘルフィヨトルが冗談を言うのか。血も涙もない虐殺嗜好の人間としては、上出来というべきだな。くそう、今すぐにでもこの手で貴様らを殺してやりたい」

「その怒りに戸惑うことはないわ。だからこそ、あなたを選んだのだから」

「黙っていてくれないか、ブレイナン。さて、日計洋一。君はわたし達が人間だと思うかね。先ほどブレイナンがああは言ったが、君には君の見解があろう」

 日計は考え込んだ。ポーズをして見せるだけでも、時間を引き延ばすには有効な手段になるだろうと思ったからだが、気付かぬ間に真剣に思量していた。人間と寸分違わぬ人型を目の当たりにするのは、言うまでもなく初めての体験だ。

 ブレイナンは自分達に生殖機能はないと言った。話の途中で登場した「彼」が何者なのかはまず置いておくとして、そのような人型は人間ではないといえる。誰かから生まれる誰かが、人間だ。そうした意味では、目の前にいる二人は限りなく人間に近い何かとはいえるが、決定的に人間とは異なる何者かと呼ぶしかない。少なくとも、人型であるからこそ人間であるという短絡的な結論は思考放棄だろう。食べ、飲み、呼吸をするだけで人間として定義されうるのか。しかし生殖機能の有無で生命と結論付けるのは早計にすぎる気もした。ここはありきたりな確認から始めるべきだ。

「お前たちが人間であるかどうかは別として、人間と同じ生活を送ることはできるのは事実だろう。今もこうして、人間と変わらない接し方ができているし、ぼくはさっきまでお前たちが人間だと認識できていたわけだから」

「しかしそれが真理だと確信しているのでもあるまい」

「外見上は、お前たちは人間だ。人間と同じにしか見えない何かが人間と同じように生活をするのならば、お前たちがヘルフィヨトルだと知らない多くの人々にとって、遺伝子や身体構造の違いは問題にならない。紛れもなく、彼らにとってお前たちは人間だからだ。事実よりも思い込みを重視したがるのは社会の持つ特質のひとつで、それは人間の精神構造に由来する必然性とも理解することができる。でも、ぼくは違う、お前たちは人間じゃないと知っている」

「君の時間稼ぎに乗ってやっているのだ。そろそろ答えてくれてもいいだろう。結論を先延ばしにするのは、よろしくない。有体に言えば不快だ。我々は対等なものとして、君と相対している。だというのに、君のほうが距離を置くのでは話にならないし、無礼千万というものではないのか」

 耳を疑う思いで、日計は目の前の二人を交互に見やったが、どうやら本気で言っているらしい。自分達の領土へ、あまつさえ仲間を殺されながら侵入してきた個人に反駁せずにいることは、極めて難しい。それをこの二人は理解できていないのだ。彼らは人間に対して絶対的優位を保っており、それが事実であると同時に容易に覆されるものではないというのは、日計も認めざるを得ない。上位者意識からすれば、こうして何事もなく座って話をするという行為が、有り得ないほどの譲歩なのかもしれなかった。殺さずにいるだけでも感謝しろということだろう。

 しかし日計は物怖じせずに答えた。懸念は消えないが、恐怖をすることはない。相手も、殺せば死ぬ人型なのだと自覚できただけまだましだ。

「お前たちは、人間じゃない」

「何故だ?」

 驚く風でもなくラガードは問うた。間髪も入れずに答えたのは、その回答如何でなく、理由にこそ意味を見出したからだろう。少しずつ、彼らの考え方が理解できてきた。

「姿形が似ているとしても、お前たちが命あるものかどうかはわからない。さっきも言ったように、命があるように見せかけることはできる。しかも、ヘルフィヨトルは無人兵器群だ。その肌がシリコンでないとどうして言い切れる? 血だって、流れていないかもしれない。誰もお前たちを検査したわけじゃないからな」

「フム、もっともな指摘だ。ブレイナン」

「ええ、ラガード」

 女は地面からガラス片をひとつ拾い上げると、左手首にゆっくりと這わせた。

 一滴の赤い血液が滲み出て、床に滴り落ちる。鼻腔を微かに、しかし不快にくすぐるのは鉄のような生臭さを伴うにおい。

 間違いなく人間の血だった。

 日計は吐き気を催した。

 これほどまでに真に迫った彼女らが人間だとしたら、自分達が戦っているのは、謎の無人兵器群相手ではないということになる。結局、人類は人類同士で争って、無益な血を流しているのか。どこまでいっても、人間は同士討ちしかできないのだろうか。南極戦争での唯一の救いは、兵士が人を殺さなくて済むことだと思っていたのに。

「それで。わたし達が人間なのかどうか、だ」ラガードは滴るブレイナンの血液を指さし、「これでも、気味の理論には傷ひとつ付かないかね。それとも、我々が敵だという先入観で事実を歪曲しているのか?」

 逡巡を振り払い、答えてやった。

「お前たちは……人じゃない。だってそうだろう。お前たちは何も生み出すことはない。人間は、何かを創る。その定義が当てはまらないんだ。ヘルフィヨトルは壊すだけ……なんら創造的活動をしていない。だから、きっと、そうだ」

 グラスを手に取ってゆっくりと回しながら、ラガードは満足そうに頷いた。

「先ほどよりも、君の考え方が幾許か明確になったのではないか? 確信は得られていないだろうがな。曖昧な表現になるということは、君達の語彙から外れた真理に近付きつつあることの証左だ。君は新しい次元の考えに至った……というより、見つけたというべきか」

「わからないな。どうしてその一点に拘る? お前たちは自分が人間かどうかもわかっていないというのか」

「それはおかしいことだろうか。君達だって、自分が何者かを完全に理解しているわけではないのに。自分を理解するときは、その場に立っている理由、存在理由を問いかけることだ。その答えなくしては自分を理解できないだろう。自我という概念を把握できないからだ」

 なんということだろうか。自分で自分のことをわかっていない何かを、どうしてこちらが理解できるだろうか。

「人類を殺しつくして、自分達がその座に就くつもりなのか? 狂っている」

「君が何を言おうと、我々は戦うのみだ。目的や、ましてや支配欲などあろうはずもない」

「そんなことは関係ない。どんな理由があれ、これだけ多くの人々が殺され、悲しむ時代へと人類を落としやったのは貴様らだ。ぼくはそれが許せない。理解できないとは言わせないぞ」

 ラガード・トリセクスカはさして感慨も抱けなかったようで、何の反応をも示すことなく、ただ日計洋一を見つめ返した。無機的な輝きを放つ瞳が何を求めているのかを、この時、日計は悟った。

 それは哲学者の眼差しだった。





 ホテル・マーウェナは今や、国連第三管轄軍指揮官である楊李鳴大将の直接指揮を受ける急増の指令室になっていた。突如飛来したアレースへの対処で天地が逆になるほどの喧騒が満ち満ちている。ロビーから続く空間の所々にディスプレイやコンソール、通信機材が続々と運び込まれ、兵士達が持ってきた作戦機材が乱雑に接続されていく。ケーブルは床を縦横無尽に這いまわり、時折、手の空いた誰かがまとめてテーブルの下へと押し込んで動線を確保するが、すぐに新しい配線の山が積み上げられた。ホテルだけでは賄い切れない電力はマルサビット基地から急行した空軍の電源車などまでをも投入して賄われた。。

 物々しい雰囲気で張りつめた空気と共に軍人が忙しなく動き回るロビーを、見事なブロンドをたなびかせる女士官と、タキシードに身を包んだ青年が突っ切って来た。社交界に遅れても物怖じすらしていないその毅然とした態度。兵士達は一目見て二人を通した。誰しもが知っている、人類最精鋭の二人だったのだ。

 李鳴が声を張り上げて指揮を執る中央部へ向かい、二人は敬礼する。李鳴は答礼もディスプレイから目を離すこともせずに、仁王立ちしたまま言った。

「報告せよ」

 女士官――礼装軍服から野戦戦闘服に着換えたジェーン・マクファーティ大尉が敬礼の手を下ろして報告する。

「日計洋一と最初の五人と思しき二名は、未だ議論の最中です。このローラン少尉が中へ入って確認いたしました。今のところ、アレースも動きを見せてはいません。ホールには会話の声だけが響いている状況です」

 中国人は口元だけで笑った。目は真剣そのもので、参謀が情報をまとめて表示させているディスプレイに釘付けになっている。そこには配備の進みつつある地対空誘導弾と各国の空軍兵力、動員準備状態にある地上兵力が表示されており、同時に前線部隊に命じて強化された敵の正面部隊の動向についても記されていた。

「よもや『ボーイを待たせておけ』とはな。彼以外をすんなりと解放した時点で半信半疑だったものだが。こちらからのメッセージは、日計三尉に伝わっただろうか?」

「そう考えます、閣下。ヨウイチは賢明な男です。少なくとも我々が何がしかの対抗策を用意しようとしていることは察しているでしょう。時間的猶予はじゅうぶんとはいえませんが、彼自身が時間稼ぎをするために会話を長引かせようとしているのは間違いありません」

「三尉が根っからの戦士であって幸運だった。この一件からは学ぶべきことが多そうだな、大尉?」

「はい、閣下。ヘルフィヨトルが人類殲滅を目的としていないことについては、議論の終止符が打たれることでしょう。敵は敵の目的を持って戦闘を行っていると見るべきです。少なくとも、手あたり次第に人間を殺しているだけで満足しているのではない」

「しかし未だになぜ我々を殲滅しているのか、敵の活動目的は未だに厚い霧の向こうで輪郭すらもつかめない。こうなった経緯さえ判明すれば、まだ彼らに対して対処のしようはあるのだが」

 微かな驚きを込めて、ジェーンは李鳴へ問い返した。

「対話が可能と考えているのですか? 敵はこちらからの問いかけを全て無視した上で、交戦しているのですよ。殺さなければ殺される関係を強いていると言えます。そのような相手に、停戦の意思などあるでしょうか」

 嗜めるように李鳴はジェーンを一瞥した。彼自身も半信半疑であるのは疑いようもなかったが、状況がこれだけ混迷していればなんでもあり得そうな気がする、とでも言いたげに表情が強張っている。

「性急な考えは禁物だぞ、大尉。確かに敵は対話を放棄しているように見えるが、まだその時ではないと判断している故かもしれん」

「これはただの想像ですが、先制攻撃を行ったのは案外、敵ではなくこちら側だったのかもしれませんね」

「それは可能性のひとつに過ぎないな、大尉。意味があるとは思えないし、時間の無駄だ」

「同感です。しかしマルサビットへ直接敵が飛来することも、可能性のひとつでしかありませんでした」一瞬の逡巡の末、「兵士らしからぬことを口走りますが、我々は岐路に立たされているのではないでしょうか。ただ戦うだけでは勝てない、あらゆる手段で抗うべきなのではないか、と」

 苦々しい表情をするでもなく、楊李鳴はジェーンの碧眼を振り返った。その眼差しが真摯なものであるのを確かめたかったのだろうか。彼は自分を囲んでなおも増えていくディスプレイ群へと目を戻し、自嘲気味な笑みを一瞬だけ口元に閃かせた。

「フッ。わたしは仮にも参謀の一人だ、大尉。このけったいな現実を認める訳にはいかんが、否定する余地もないな。ええ?」

「閣下」ジェーンは少し困った風に眉を潜めたが、李鳴は軽く手を振った。

「冗談だ。歳をとるとつまらん冗談しか口にできなくなる。これは命令だ、大尉。君はPGTASを用いたアレース迎撃計画を作成しろ。現状に対して柔軟に対処できるのはPGTASだけだ。無論、支援兵力は多い。あらゆる部隊を君に任せるつもりはないが、その過程で計画を立てろ。時間は十五分だ。何にしても、あれに対処せねばならん。我々だけではない、数多の人命がかかっていることを肝に銘じろ」

 踵を揃え、二人は敬礼する。

「拝命いたしました。しかし他部隊との兼ね合いはいかがいたしますか」

 AFCHQは一枚岩ではない。史上類を見ないほど多数の言語が入り乱れる多国籍軍として機能してこそいるものの、部隊間、国家間の摩擦が持ち込まれることは少なくない。日本のアフリカ派遣戦闘群などがいい例であるが、逆にアフリカでのいざこざが国際問題に発展するケースも少なくない。こうした緊急時における指揮系統の問題などは最たるもので、現場の者全員が納得しているとしても、先進国が他国を下位に見ているとか小馬鹿にしているといった小競り合いは本国へ持ち帰られて議論される。

 痛いほど身に染みてそうした問題を知っている李鳴は、ジェーンを再び振り返って安心させるように微笑んだ。よく気を利かせる上官だ、とローランは冷静に李鳴を胸中で批評した。

「十五分後に君が計画を提出してからでも遅くはない。それを素案に叩きあげ、部隊長へと承認を求める。緊急時だ、作戦計画をよく知っている君に指揮を執ってもらうことになるかとは思うが、それは全面的にわたしが責任を負うこととする。急げよ」

「はっ」

 踵を返す女傑の背中に付き従って回れ右をし、通りかかった補給担当官からレポート用紙とボールペンを受け取った。ひとつをジェーンへと手渡し、自分の分も確保する。これで作戦計画の概要を記すことになるだろう。コンソールを使って体裁を整えたものを提出したとしても、その後に必ず変更されるのだ。外見だけを取り繕うより、中身を仕上げることが最優先ということだ。「よくできたな」と上官に褒められても、作戦自体が失敗すれば元も子もないし、死ぬのは自分ではない。

 片隅にある待機所でパイプ椅子に座ると、ジェーンは長い足を組んでその上にレポート用紙を広げた。ボールペンを指で弄んでくるりと回し、さて、と髪を背中へ跳ね除ける。

「少尉、まずは貴様の意見を聞こう。現状をどう評価する?」

「絶望的です、隊長」ローランは隣に腰掛けながら答えた。

「それはわかっている」この緊急時だというのに、彼女は朗らかに笑って見せた。「だが、どれだけ道が長くて暗かろうとも、我らは歩みを止めるべきではない。陽が沈んだばかりか、それとも夜明け前なのかもしれん。たとえ闇に足を取られようと、我々の歩む意思を妨げるものは何も無い。そうだろう?」

 彼は唇を噛み締めた。脳裏から、今も敵と相対している友人の顔が離れない。

 最初の五人と初めて接触することになった日計洋一。どんな会話をしているのか、ローランにはまったく聞き取ることができなかった。彼らはテーブルを挟んで座っていたものの、彼がピッチャーを置いてくるまで、一言も口を利いてはいない。ただ、肌を刺すような鋭い気配だけが三人の間に満ちていた。さながら銃撃戦の最中であるかのように、激しい意思のぶつかり合いを肌で感じた。

 会場はパーティホール故に盗聴設備などは組み込まれていない。ホール内にはそうした警備関係の設備が整っておらず、ほとんど国連軍憲兵による人力警備が主体となっていた。これも国際摩擦を恐れた故の弊害だ。様子を窺い知るには、割れた窓の外から対赤外線防護服を着こんだ狙撃手や望遠鏡で覗くしかない。

 自分の頬を叩き、ローランはジェーンに向き直った。とにもかくにも、日計がこの状況の中心にいるのは僥倖であると同時に、危険極まりない。彼は助けを求めている。期待に応えるために自分に何ができるのかを考えればいいのだ。

「さて。では状況の整理だ。PGドライバーとして、我々の有利はなんだと考える?」

「第一に、敵の兵力がアレース単機であることです。奴は単騎でマルサビット基地を焼き払うことができます。つまり、奴に攻撃させる気にさせた時点で、我々の敗北が確定するのです。マルサビット基地に駐屯している全兵力を攻撃に投入したところで目立った損害を与えられるとは考えられません。少なくともPGTASが必要ですが、我々と第七装甲分遣隊、それか第七PG中隊しか有効な兵力とはなり得ないでしょう。そして、紫雲はここにはありません。実質的な実働兵力は我々と第七装甲分遣隊のみと考えるべきです」

 満足そうにジェーンは頷いた。

「まったく同感だ。我々には、反撃の暇を与えずにアレースを即時撃退するだけの決定打が無いばかりか、数的有利に頼むこともできない。奴の破壊力はヨコハマで見たとおり、一都市を一瞬で灰燼と化す威力がある。お前の言う通り、有効打足り得る紫雲は全てナイロビに駐機したままだ。どれだけ性能が良くともその場にいなければ役に立たないという訳だ」

「折れない剣をこちらへ派遣させるというのはどうでしょうか。ナイロビ基地には、確か二人と四機が残っているのですよね」

「無理だ。時間的制約はかなり厳しいものとなりつつある。アレースが立ちはだかっているせいで集音マイクが妨害を受けているから、会話がどれだけ長引きそうなのかもわからない。それに、アレースの主兵装は光線兵器だ。まさか空輸をするわけにもいくまい。気付かれれば最悪、紫雲は失われ、マルサビットは焼き払われる。だからこそ、こちらとしてはヨウイチと今も膝を交えている二人を射殺し、アレースをそのまま敵地へ送り返すのが最善だろう」

「できるとお考えですか。我々の戦力だけでは、アレースに対して圧力をかけることは不可能に近いでしょう。情けない事実ですが」

「いいや、そうする必要は必ずしもないだろう。いいところ、お引き取り願うのがせいぜいだ。幸いにして、敵は話ができる相手らしい。言葉を交えられるならば、その気にさせることもできなくはないだろう。もっとも交渉ネゴシエイトはわたしの専門ではないがね。それでもこちらとしては最大限の備えをする方針に変わりはない」

「稼働兵力はかなりの規模になりますが、本作戦における参画部隊はどれほど編制するおつもりです?」

 雑多な会話の内容をレポート用紙へ殴り書きしていたジェーンが、一頻り書き詰めた文面を眺めてから頷く。

「投入兵器はPGTASと一部の対人歩兵部隊に限定しよう。数が少なければ気取られる危険性を極力、排除できる。奇襲により不意を突くことが最大の武器だ。武装については何がいいだろうか?」

「滑腔砲を装備すれば、撃破とはいかずとも有効打を与えることはできるかもしれません。他、アレースが離陸した場合に備えて地対空誘導弾SAMを装備する高射部隊を展開させるべきでしょう。これは敵の警戒ラインから外へと、比較的、隠匿して設置しやすいかと思われます」

「紫雲が用いる対甲射突槍でなければ、黒いPGTASの装甲は打ち破れない。しかしやってみる価値は多いにある」

 アレースは空中飛行能力を有する。聞いたところによれば、光線兵器を用いて超音速のステルス戦闘機と一線を交えた後にマルサビットへ降下したのだという。参謀本部への連絡が遅れたのは上層部の不手際であるが、今更それを嘆いても始まらない。あの細い機体がひとたび動き出せば、こちらの砲煩兵器は命中させることも困難となるだろう。

 陸戦兵器の照準は三次元軌道に対応していない。ましてや、航空機や誘導弾のようにある程度定められた軌道を飛行するものでもないのだから、撃ち落とすことはほぼ不可能だ。仮に命中したとしても、一四〇ミリ口径のAPFSDS弾でも貫徹できるかが怪しい装甲は伊達ではない。

 どちらにしろ攻撃するなら今しかないが、その装甲を撃ち破れない限り、敵の反撃を誘発する結果になる可能性は極めて高い。やはり最適解は戦闘を回避することだが、このまま敵が大人しく去るとも思えない現状、楽観的な絵を描くことは自らの食事に毒を盛るのと同じことだ。

「もう一度現状を整理しよう」ジェーンはレポート用紙に次々と走り書きをしながら、「対空部隊は既に準備を終えている。マルサビット警備のために展開していた部隊がそのまま残っている筈だ。PGTAS部隊の編成は……メイスンとハートライト、そして第七装甲分遣隊に出動を要請する」

「エッケハルト大尉らには前衛を固めてもらいましょう。パンターを二機ずつハートライトとメイソン中尉に付けて、東と西から敵を挟撃するべきです。光線兵器は正反対の方向への指向が構造上、できませんから、有利に戦闘を進められるでしょう」

 つまりは片方が撃たれても、もう片方が確実に攻撃を加える態勢を整えるということだ。大胆で確実な作戦だが、犠牲者を前提としている点では下の下だ、とジェーンは一蹴したが、しかし有効だと認めた。

「配置はお前の言う通りでいこう。マルニエール・ビルを中心として半径一キロの同心円状のエリアを作戦地域と仮定し、陸戦部隊には所定の位置で待機。PGTASは全て滑腔砲装備だ」

「ぼくたちはどうしますか? ハートライトとメイソン中尉は格納庫でパットンの面倒を見ていますが」

 ジェーンはレポート用紙に走り書きをしながら、ちらりと青い眼差しをローランへ向け、再び紙面へ戻した。その手の動きは片時も休まることはない。厳格な口元が珍しく綻ぶ。ローランは、それが彼女らしからぬ、心からの親愛の情を示した笑みであると気付いた。

「ローラン、ヨウイチが心配なのはわかる。わたしも彼が気になって仕方がない。不思議だな、この建物にいる我々すらも安全ではないというのに、彼の身を案じてしまうのは」

「それは、今現在で戦闘しているといえるのが、彼だけだからでしょう。自分達は未だ、こうしている身分ですし」

 肩を竦めながら、未だに身に纏っているボーイの服を示すローランはしかし、溢れる焦燥感をどうにか抑え込んでいる状態だった。気が気でないとはこのことである。

「自分のほうを気にしたほうがいいんじゃないか。あれほどの辱めを受けても自らを曲げなかった彼の精神は賞賛に値するし、これからの人類に必要な男だ。いや、今はそうでなくとも、間違いなくそうなるだろう。それを彼は図らずも世界に示したのだ。たとえ日本に対して悪感情を抱く者であっても、アルツェバルスキーのやり口はだと思うだろう。李鳴大将を始めとする良識派が幅を利かせるいい機会だ」

「そう考えれば、悪くはないということですか。と、大尉。今、ヨウイチのことをものすごい表現しませんでした? 人類がどうのとか」

「言ったが、どうした」

「それは、人類が黒い巨人に立ち向かえる唯一の戦力として、という意味ですか? 大尉は、ヨウイチを兵士としか見ていないのでしょうか」

 差し出がましいローランの言葉に棘を感じつつも、ジェーンは母性を思わせる柔らかい表情で甘受した。これほど柔和な顔をこの女性がするとは想定外で、ローランは目を丸くするしかない。

「現実的に考えるならば、そうなる。わたしは兵士だし、指揮官という立場だ。音楽家は料理のことを考えない。だが、それだけでない。彼を見て、何か、忘れていた大事なものを思い出させられる……そんなことを期待しているのだ、わたしは。恐らくは地球に立つ全ての人々の拠り所となるような存在に、ヨウイチはなるだろう、という意味だ。だから、お前の言ったことは間違いではないが、わたしは敢えて否定も肯定もしない。まだ答えは出ていないからな」

 女傑たる彼女は、傍らに立つ青年の右胸を拳で叩いた。

「お前もそうだろう、ローラン? 彼に何を見出した? 言ってみろ。命令だ」

 彼はしばしの逡巡の末、口を開いた。

「夢です、大尉。自分たちは兵士です。戦うことでしか世の中を変えることはできません。目的よりも行動が先行しているんです。何かを変えたいと願うよりも、まず戦い、その後で世の中がどう動いていくかを見る立場にあります。でもヨウイチは違う。彼は、アカリ……サギサワ三尉のために戦っている。それがどれだけ清々しくて尊いのか、ぼくには測る術がありません。言うなれば、彼にとって世界とは、彼女の付属品にしか過ぎないのです」

 短く、しかし朗らかに破顔したジェーンは、満足そうに頷いた。

「それでいい。今のところ、わたしもお前も、ヨウイチのために戦っている。それでいいんじゃないか? あとは最善を尽くすだけだ。彼を死なせては、折れない剣に会わせる顔がないというものだし、何より見捨てる道理がない」

「はい。全霊をかけて頑張ります」

「誇りに背くことはできん。難儀だが、それが名誉だ。我々は名誉が何たるかを知っている。それ以上を求めるのは傲慢というものだよ」

 なるほど。兵士とはかくも、兵士足りうるために仲間を守るものである。

 ジェーンは紙を捲って新しい一枚にまた走り書きを始めた。改めてローランと議論して即興の作戦計画を立案した後に李鳴の元へ赴き、彼が招集した各部隊の指揮官との間で詳細が詰められた。すぐに第七装甲分遣隊などの実働部隊の指揮官も参じ、今も警戒を続けている高射部隊とも連絡が取られた。

 作戦は二段階に分けられる。アレースが飛び立つ前と、後だ。

 本計画において主眼とされるのは、如何に被害を抑えつつアレースに撤退を促させるかであり、今後の戦闘活動における最優先戦術目標とされた。次に、日計洋一三等陸尉の救出だ。これに異を唱える人員はいなかった。さらにジェーン・マクファーティ大尉の設定したマルニエール・ビルを中心とした半径一キロの同心円上を第一戦闘区域とし、そこからさらに一キロの範囲を第二戦闘区域に設定、想定戦域を確定。現状では日計三尉の生命を最優先とすることで見解は一致し、第一戦闘区域での作戦行動は現に慎むべしとの交戦規定が出され、配置されていた狙撃手は位置を変更した。無人の撮影機材のみが現場に残され、監視を続行している。アレースの機影が邪魔をしているため、あまり芳しい角度からの撮影とは言えないが、今のところ日計らの姿はしっかりと確認できていた。

 窓から見えるのは、こちら側を向いて座る日計洋一三等陸尉と、背を向けている一組の男女だ。言うまでもなく彼らがヘルフィヨトルの最初の五人である。居並ぶ将校たちに、名状しがたい緊張感が張りつめた。彼らが打ち倒すべき何者かは、こうして目に見えるところまでやってくることなど無かった。彼らは長い戦いの中で初めて、敵を目にしたのだ。

 詳細を詰めた後に、彼らは散り散りになった。それぞれの持ち場へ戻って指示を飛ばし始める中、ローランは待機を命じられる。手持ち無沙汰にしている彼へと、ジェーンは言った。

「少尉。お前の気遣いを必要としている奴がいるだろう。行ってやれ」

「え? ああ……でも隊長、そういうのはヨウイチが――」

「馬鹿者。良い友人は、いい男の肩を持つものだ」

 その一言を受け、ローランは会場をくまなく探して歩き回る羽目になった。まだボーイの恰好をしている彼を目ざとく見つけ叱責する士官もいたが、所属と官姓名を名乗ると途端に黙り込んでしまう。それほどまでに、ハミングバードの名声は絶対的だった。

 見つけたのは日計洋一たちが借りている一室だった。開いたドアの隙間から顔を差し入れて中を覗き込むと、ひとり、戦闘服姿に着換えて半長靴の紐を結んでいた鷺澤朱里と目が合った。隣には困り果てた様子の望月美奈子がいる。既に一悶着あったようだ。

「アカリ、入るよ」

「ローラン」

 彼は部屋を出ようとする彼女の前に立ちふさがった。鷺澤はすっくと立ちあがり、決意を宿した瞳で青年を睨む。

「どいて、ローラン。わたしは

「アカリ、君が行っても殺されるだけだ。今はまだ小康状態といえるだろう。AFCHQ参謀本部は全力でヨウイチを守る。だからこそ君が

「見ているだけなんてできるわけがないじゃない。わたしは、日計くんが死ぬときに自分だけ安穏としていてはいけない。だから動き出さなきゃ。手を拱くだけなら、誰にでもできるから」

「まだそうと決まったわけじゃない。このままヘルフィヨトルは撤退するかもしれない。連中をここで刺激するのは逆効果だ。無暗に手を出せば、ヨウイチだけじゃなくマルサビット基地だって無事では――」

「あなたは平気なの、ローラン? 日計くんは助けを必要としている。仲間なら駆けつけてあげるのが道理じゃない。奇しくも、わたしたちは少しばかりPGTASの操縦が上手だけど、今は必要ない。それに、あんな参謀本部の無能共に任せていられないから」

 鷺澤はゆっくりと腰のホルスターから拳銃を抜いた。カチリと音を立てて安全装置を解除すると、部屋の隅でうずくまっていた望月が小さく悲鳴を上げた。

 よもや、あれほど強い意志を持った女性がこれほど取り乱そうとは。予想外の事態に、ローランは油断なく鷺澤の目を凝視する。この二人をそれほど強く結びつける絆とは何なのだろう。ただの愛情で片付けるには複雑に絡み合いすぎ、友情では足りない表現である気がした。歪で、一体化したとしか思えない運命の輪。解きほぐすことは、たとえ死んだとしても不可能に違いない。

「ローラン。そこをどいて」

 アッチソン・ローランは決然たる意志を籠めて声をかけた。

「いいかい、よく聞くんだ。今、皆がヨウイチを助けようとしている。君の言う通り、純粋に彼を思いやっての結果じゃないかもしれない。だけど最善を尽くしているんだ。ぼくや、マクファーティ隊長も、そうだ。君があそこへ行って何かあれば、ぼくらはヨウイチに会わせる顔がない」

「他の誰でもない、わたしの手で救うわ。ローラン、もう一度言うわよ。通して」

「馬鹿野郎! ヨウイチのことじゃない、君のことだ。独りで乗り込んでいってヨウイチが喜ぶとでも? あの場に君が行くことを待ち望んでいると思うのか? いつもみたいにPGTASに乗ってヘルフィヨトルを蹴散らすことはできないけど、ヨウイチは戦闘行動中だ。それが他の何でもない、君のためだというのは理解できているのに、それを台無しにするべきじゃない」

 彼女は目を逸らし、夢遊病者のようにつぶやいた。拳銃を握った腕がだらりと垂れ、銃口はカーペットのそこかしこを狙って彷徨う。

「それは……でも、彼が戦っているなら、わたしも戦わなくちゃ。独りにはさせられないもの。あの人はわたしがいなければ、銃だって握れない人なんだから」

 鷺澤朱里は消沈し、室内へ足を向ける。そのままベッドの端に座り込むと、呆けたように窓の外を見やった。

 望月、そしてローランの視線がその先を追う。闇の中へ溶けていく彼女の眼差しは、熱っぽくもあり、そして絶望を孕んですらいるようだった。

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