第二十九話

 白く染め抜かれた空間に独り、佇む。マルニエール・ビルの実用性一辺倒で、純粋なホテルとは一線を画して清潔な手洗いは居心地がよかった。それは周囲の視線から隔絶されているという一事に収斂されているといっても過言ではない。

 顔を軽く水で濡らしてハンカチで拭うと、少しばかり気分がさっぱりした。大理石らしい洗面台に水が打ち付ける音が空虚な空間に反響する。顔を上げれば鏡に映る自分の顔が思っていたよりも険しい。やはりアルツェバルスキーの挑発には乗るべきでなかったのだと思う。あの時、激情に身を任せていたら。ともすればそれは紫雲と接続された時の、肉体が拡張される感覚に等しい。気が大きいというべきか。

 洗面台に両手をついて、深呼吸をする。自制心による抑制ではなく、情動の解放により平静状態へと持っていこうと努力するのだが、どうにもうまくいかない。平静な自分とはまた違っているのが気に食わない。鷺澤朱里との関係を揶揄された一言を思い出すと――爆発しそうになる。

 こういう時には誰か話し相手が欲しい。こちらに積極的な同意を示す人間ではなく、黙って話を聞いてくれる人物。つまり、鷺澤朱里でも望月美奈子でもない。有沢琢磨が理想的かと思えばそうかもしれなかった。彼ならばこちらが吐露する感情を全て受け止め、適格かつ厳しく叱咤してくれるだろう。そんなことでは戦えんぞ、と尻を叩くのが有沢流のやり方だ。だがここに彼はいない。今ごろはまだナイロビ基地で傷病している。己一人で耐えるしかなかった。

 落ち着かないからといって、長い時間をここでぐずぐずしている訳にもいか無かった。既に十分はこうしている。外では自分を気遣って付いてきた望月と鷺澤が待っている筈だ。喧嘩などしていなければいいが。痴話喧嘩の間に挟まれる男の苦労というやつだ。その悩みが贅沢なものなのだと、諭すようにあてつけてくる人間はどこにでもいる。人間の心とはこれほど解り辛いものだったろうか。

 気合を入れるべく頬を両手で叩く。腹を決めてようやく出口と向き合った時、扉が開いた。

 背の高いアメリカ人が立っている。驚くべきことに、マーティン・ホッグス大将だった。のっそりと洗面所に入ってきた彼はノブを手にしたまま日計を見つめ、ぴたりと動きを止めた。背の高い金髪の下から、戦いで研鑽された青い瞳が見下ろしてきた。

 長い軍務で磨き上げられた気高い威圧感に押されて反射的に右手を上げる。踵を合わせて敬礼。彼は一瞬遅れでラフに答礼した後で、こちらが何者であるかをようやく認識したようだった。

「ああ、君か」

 しゃがれた声で男はぼやく。ホッグスは疲れていたのだった。表情は芳しくないもののしっかりとした足取りで、手招きをしながら小便器の並ぶほうへと歩いていく。出て行く予定が大幅に伸びることになりそうだ。便器をふたつ挟んで、礼装軍服姿の二人が並ぶ。ジッパーを下ろして、ふりでもしなければならなかった。上官が用を足すのを待つことも任務に入るだろうか?

 日向なら大笑いすることだろう。緩みそうになる頬を辛うじて引きつらせた時、出し抜けに彼が口を開いた。

「アルツェバルスキーについてだがな。気にすることはない。貴官は正しかった」

 視線を投げるのが憚られ、ただ無言で頷くことしかできなかった。すると彼は首だけをこちらへ向け、人の好い笑みを浮かべて見せた。

「沈黙は羊だけの特権だぞ、三尉。あの場で君は最良の選択をした。最高ではなかったがな。彼にはわたしから言っておこう」

「は……恐縮です」

「フム。時に聞くがな。サギサワ三尉は、君のガールフレンドか?」

 自分を呼ぶ三人称が微妙に親しみを込めたものに変わったのを感じ取るが、日計はさらに背筋を伸ばした。

「自分達は確かにお互いに愛情を抱いているかもしれませんが、隊内で積極的に風紀を乱しているのではありません、閣下」

「言わずともわかっている。何にしても、若いのはいいことだ。他意はなく、な」

 ほぼ同時に用を足し終えて――そんな風に装って――二人は洗面台へと移った。日計は自動の蛇口の前に手を差し伸べる。迸る水流の中で手を揉むのは二回目である。

「アリサワのせがれは元気かね? 負傷したと楊大将からは聞いているが」

「右腕の骨にひびが入り、現在はナイロビ基地に内設されている野戦病院で傷病中です。軍医から許可が下りれば、すぐにでも復帰できると聞いております」

「何よりだ。戦場へ赴くことが善いのかは一概に言い切れないが。早く戦場へ舞い戻りたいと感じることはないか?」

「自分は、命令があればどこへでも赴き、何とでも戦う所存です」

 ホッグスは気分を害したようで、鑑越しに剣呑な視線を日計へ投げた。

「日計三尉。わたしは形式的な返答を求めているのではないんだ。こんなところで肩肘張らんでくれたまえ」

「はい、閣下……申し訳ありません」

「まあ、なんだ。洗面所で聞くことでもなかったか。いやな、実を言えば君達には謝らなければならないと思っているのだ」

「閣下が、ですか」

参謀本部わたしたちが、だ」

 やんわりと訂正されたが、その違いは大きかった。同時に、アルツェバルスキーでさえも仲間とみなして頭を下げようとしているホッグスの度量に、日計は少し恐縮した。

「メディアの連中はお祭り騒ぎをしているが、三尉、君はビシルでの戦いは勝利だと考えているか?」

「戦術的には勝利したと言えます。国連軍はヘルフィヨトルの北進を阻止し、彼らは侵攻を一時停止して、現在は小康状態にまでなっているのですから」

 ホッグスは鼻で笑った。日計は皮肉気に口元を歪める彼を鏡越しに見つめ、念入りに石鹸で指の先まで洗う彼に合わせてまた手を濯ぎ始めた。

「メディアも市民も人類にとって初めての勝利だったと囃し立てる。先ほどの大騒ぎを見ただろう。どこの情報発信源も異口同音に繰り返すものだから、情報の相対的価値はちり紙と同じ程度に落ち込むのが世の常だ。それでも金になるほどの武勲を君達は打ち立てた。アフリカにやってきてまだ一ヶ月の部隊が、人類史上最高ともいえる偉業を成し遂げたのだ。自然、以前からここにいる武官の中には快く思わない者もいる」

 すぐに日計の頭には、アレクセイ・アルツェバルスキーの狐めいた顔が浮かんだ。知らずに顔を顰めていた青年を見やり、愉快そうにホッグスは口の端を吊り上げた。

「だがいくら周囲が騒ごうと、わたしは勝利とは思わん。あれはな、人類というひとつの概念に被っていた埃を、こう、手でサッと払ったようなものだ。今まで多くの人々が隠そうとしていた様々なものが浮き彫りにされ、今後どれだけの手間をかければ元に戻るのか。そう悩んでいるのが実情なのだよ」

「様々なものとは、必ずしも快いものではないという風に聞こえますが。混沌と呼ぶほうが適切なのでは」

「部下に言われては立つ瀬がないが、その通りだ。誠に遺憾ながらな。人が隠そうとする秘密は普通、汚れているものだ。美しい秘密などは空想と妄想の中でしか存在しえない。だからこそ前線の将兵、特に君達のようにPGドライバーからは、参謀本部への不平不満が募るばかりだ」

「いえ。自分は僭越ながら閣下や他の参謀本部の方々を、そのように思ったことはありません」

「ともすれば貴官は口が上手いのか、嘘をついているのか、それとも正真正銘の阿呆なのかのどれかだろうな」

 少し嫌気がさしてきた。確かに参謀本部に対して言いようのない不信感を抱いていることは間違いないのだが、それを口に出してしまうことは憚られる。何しろ少尉相当の自分が迂闊に話しかけてもいけない階級の人物が相手だ。参謀本部への批判は即ち、ホッグスへの揶揄にもなってしまう。彼までもがアルツェバルスキーのような愚かな人間であるとは思っていないが、彼のような人間が先ほどの暴挙を抑えることもできていないのが、参謀本部の現状なのだ。

 日計はお互いの精神安定のためにもと、少し話題の行先を転換することにした。

「なぜ、閣下はPGドライバーが特段に参謀本部を批判していると考えておられるのですか」

 ホッグスは取り出した白いハンカチで手を拭き、金髪を片手で撫でつけた。横顔だけが厳しさを増している。話題選びがまずかっただろうか。しかし彼はそれまでと変わらぬ調子で淡々と語り始めた。

「君は世の中で最も大きな不条理に相対した時に、何を恨むかね。自らの不運か、それとも無能な上官か。わたしなら上官を恨めしく思う。正しくはその判断を、か。しかしそうした場合、当人が生還できることは少ない。敵は装甲兵器で、こちらは生身だ。だがPGTASに乗っていれば、生存率は上がる。生き残っていけば、死んでいく仲間達の面影をより多く見ることになるだろう。ましてや君達は戦術データリンクですべてを見ている。悲劇も、喜劇も、英雄譚も、その眼で見ているのだ。多く見るということは、それだけ多用な衝動を覚える土壌があるということだ」

 日計は思い出した。MPDに投影された戦術図の上で、青いアイコンが瞬く間に消えていく様を。ジュバ強襲戦でのことだ。少ない機械化歩兵部隊しかいなかったUNMISSの部隊が、ヘルフィヨトルの無人兵器群に蹂躙された。

 暗い記憶を振り払うように軽く頭を振った。ホッグスは鑑越しに青年を見やった。

「身に覚えがあるようだな。たとえ避けられない状況であったとしても、兵士に命令を下して死地に追いやるのが上官の仕事だ。なぜこんなにも兵士が死んでいくのか。それは無能な指揮官のせいだ。あいつらがもっと的確な判断をしていれば――そう考える人間がほとんどだということを、君は理解すべきだな。きれいごとだけで戦争はやれない」

「しかしその理屈はひとつ、決定的に間違っています。実際に兵士を殺しているのは、無人兵器ヘルフィヨトルです。倒すべきは黒い奴らであって、指揮官は兵士を死なせるために戦わせているのではないでしょう?」

「唯物論的な側面から見ればそうだ。しかし、兵士とは上官の命令で銃を撃つし、クソもすれば眠りもするものだ。救いの無いことに、大抵の士官や将官は自分の言葉ひとつ、命令ひとつがどれだけ部下たちの命運を左右するかを知っている人間なのだ」

「兵士の命を……何とも思わない指揮官だって、いるのではないですか」

「君が誰のことを言っているのかはわかっているつもりだが、兵士が死ぬことを知っているのと、そのことについて本人がどう感じるかは、また別の話だよ」

 ホッグスはまた手を洗い、ハンカチで拭いたあとで軍服の皺を伸ばし始めた。自分と話す時間を確保するために、意図的に時間をかけているのは明らかだろう。日計も女性陣に笑われないよう、自分の髪に手を伸ばした。少し伸び始めた前髪が癖で丸まっている。

「南極戦争は人とくろがねとの戦いだ。生身で立ち向かうには度胸と運、そしてすぐれた戦闘技能が必要になってくる。携行対戦車火器や重機関銃の前線への供給数は十五年前の二倍以上に、まあ、増えてはいる。それでもじゅうぶんとは言い難い。さらに言えば、装甲兵器を主たる仮想敵としながらも自動小銃は普及したままだ。なぜかわかるか?」

「戦後の、対人類戦を想定しているからでしょうか」

 アメリカ人は大きく頷いた。この一日で、最も暗い翳りが、ホッグスの横顔に閃いた。

「悲しむべきことに、その通りだ。我が祖国ですら、そうだ。世界は覇権争いに興じている。いいか、三尉。南極戦争は生存闘争などではない。人類の危機などでも決してない。首脳部はいつでもケリをつけられると考えているが、そんなことは万に一つもないだろう」

「どういうことでしょうか?」

「ヘルフィヨトルの戦術は日々、進化している。質と物量で勝る敵軍を破るにはどうすればいいか。兵站を寸断しての後方攪乱と、前線での物資を消費させるゲリラ戦が最も費用対効果の高い戦術だ。その双方の作戦とも、人類は少なくともアフリカにおいて実行不可能なのだ。敵の戦闘システムがすこぶる優秀で、人間らしい隙が無いのが要因だ」

「背中を刺せないのならば、真正面から打ち倒すしかありませんね」

「頼もしい限りだな。そう、正面からぶつかって、切り伏せるしかない。しかし、相手は鉄そのものだ。剣の刃が欠けるのが先か、敵を両断するのが先か……どちらが有利かは火を見るより明らかだろう」

 最高指揮官たる彼の苦渋に満ちた心情を受け止めることもできずに、その場に立っていることしかできなかった。最後に、ホッグスは口を開けて歯の白さを確かめた。

「いいかね、兵士とは兵士のために戦う。それは隣に立つ仲間のためだ。わたしはそれを理解しているつもりではあるが、将官というものは、どちらかといえば政治家と同じ視点になってしまう。戦いの意味を問いながら、一方で人命を軽視しているのだ。兵士と民間人という境界を設けて。しかしそうでもしなければ、指揮など執れない。願わくば、将兵諸君の戦う理由までをも、我々が奪っていないといいのだが」

 ”今の内に、自分がなぜ戦うのかを考えておけ”。その時、鉢塚二等陸曹の言葉が思い起こされた。まるで頭の中に彼がいるかのように、力強く心に根付いていく。

 ここにきて、日計洋一は己の信念が極めて重要なものであると理解し始めていた。

(二曹、自分も少しは立派な自衛官になれたでしょうか)

 問いは心の壁に跳ね返って、自分にかえってくるばかりだ。故人と意思疎通をすることはできない。だが、あの人ならばどうしただろうかと考えることはできる。その人生が遺した意志を継ぐことができなくとも、足取りからその先を想像することはできる。歩みは途絶えても、道行きは続いているのだ。

 そう、兵士は死んで終わりではない。死んだ後も兵士足り得る必要があるのだと、確かに教わった筈ではないか。

「ぼくは……いえ、自分は、ある教官に言われました。時間のある内に戦う意味を見つけておけ、と」

「フム、その彼は優秀な戦士だったようだな。して、それは見つかったか、三尉?」

 日計洋一は、自分でも気が付かない内に微笑んでいた。

「外に一人立っている筈です、閣下」

 一瞬の間を挟んだ後、心底愉快そうにホッグスは笑った。

「たいへんけっこう! それならば大丈夫そうだな」

 マーティン・ホッグズは、再びにやりと笑った。鏡に映る自分の鏡像から、日計洋一へと体を向ける。

「世の中、物事をむつかしく考える輩が多すぎるのかもしれん。人間とは、もっと単純シンプルなものでなければな。剣のように真っ直ぐと、だ」





「ヨウイチ、大丈夫かなぁ。あんなにこき下ろすなんてひどいよ。そう思うだろ? 思わないのか?」

 癖のかかった茶髪の上に乗せたベレー帽を脱ぎ、肩布の下に押し込みながら言う。隣に立って軍服のポケットに手を突っ込んでいるジョンソン・ハートライトが「あぁ」と生返事を返した。視線はどこか焦点が合っておらず、程なくして彼が死ぬほど退屈しているのだと気が付く。あるいは友人の散々な姿に呆れているのかもしれなかった。

 式典が終了してから自由時間になったが、ここぞとばかりに高級将校たちは自分のコネクションを広げる挨拶回りに没頭している。いや、熱中しているというべきか。政治家同然のこの行為に勤しんでいるのは、アフリカの女傑たるジェーン・マクファーティですらも例外ではない。

 人類史上類を見ないほど多数の国家が入り乱れるこの戦場では、如何に連携を取るかが勝利の鍵になる。多国籍軍とコネクションを確保することで、実戦で優先的に支援を得たり、物資の供与を受けたりと融通を利かせるのだ。そうしたひとつひとつの心遣いが勝敗を左右することもままある。誰だって、勝つなら自分が勝ちたいのだ。それは生存本能にも訴えかけるものだから、特に批判することでもないのだろう。

 ハミングバード中隊というだけで、ジェーンは火に蝿が群がるかの如く生じる人混みを引き連れて歩いていた。あまり大っぴらに言えることではないが、彼女の美貌もそれに拍車をかけているに違いなかった。何しろ、人類の切り札と呼ばれている四人のPGドライバー、その指揮官でもある彼女は、太陽だった。今やその名は日本国自衛軍の「折れない剣」へ譲られつつあるが、同中隊の功績が霞んだわけではない。これについては少なからぬ自尊心を持っていた四人のうち、三人までは甘受していた。ギガスを撃退する勇者にこそ、その名誉を明け渡すべきだと感ぜられたのが、その三人の間で共通する感想だった。彼らは折れない剣に、純粋な敬意と畏怖を抱いていた。

 ただ一人、メイソン・アルーティだけが、その話題が出るたびにジェーンの隣でしかめっつらをしていた。上官である彼女の前で露骨に嫌な顔をするのは、軍人然とした彼にはとても稀有なことだった。それだけ日本人を嫌っているのだ。

 弧の会場でハミングバード中隊が引っ張りだこになる理由はほかにもある。空挺部隊という機動性の高い部隊特性故に、四人は前線部隊を救うことが多い。正に青天の霹靂とばかりに戦場の只中に舞い降り、敵を撃破する空色のパットンは、この場で最も友好的に迎えられていた。件の第七PG中隊も、コンゴロ基地奪還戦の折に救援している。特に自慢する気にはなれなかったが、マルサビットで礼を言われたことを思い出し、ローランはくすぐったい気分になった。その点では、日計洋一は実に律儀で好青年だ。同性から見てもそう思う。

 それがあのような扱いを受けたとあっては。やるせなさに頭を振り、隣で船をこぎ出したハートライトを見やった。

「さっきから心ここにあらずって感じだね。聞いてるのかい」

「おうともよ」

 涅槃の境地に至ったのかと思えるほど薄く瞳を開いた彼は、欠伸をかみ殺しながら居直った。二人で、氷の浮かぶ冷たい水の入ったピッチャーとグラスが重ね置かれている円卓の前に立っている。位置はホールの舞台袖に最も近い端の位置。他にも休憩がてらに談笑している下士官が大勢いる。吹き溜まりと言われれば的確な表現だと首肯せざるを得ない。

 優秀な周辺視野も重い瞼のせいで腐っているかと思われたが、彼は一目で人だかりの中にジェーンを見出し、感心したようにまじまじと人の群れを眺めまわした。

「それにしても、隊長も精が出るよな。あの中で何人が、あの人の尻を目当てにしてると思う? おれは全員だと思うね。あんなべっぴん滅多にいない」

「顔じゃなくて、尻なのかい」

「胸かもな。もしかしたら髪かも。女の価値は顔だけじゃねぇよ」

「全面的に同意するけれども、それは君にも当てはまる信条なんだろうね?」

「そりゃそうさ。ま、可愛い娘なのに越したことはないけどな」

 いつもなら目玉をぐるりと回すところだが、今だけはハートライトの軽口が清涼剤に思えた。ローランは軽く笑いながらジェーンの歩く様子を眺めた。言い寄る男たちに淡々と応対するジェーンの風体は、お伽話に出てくる妖精の女王のようにも見えた。

「どうだろうね。どちらにしても、狙って落とせる的じゃない。あの人が誰かと結ばれるなんてことあるのかな」

「おやおや、坊や。また怒られるかと思ったぜ。けどその通りだよな。おれ以外の奴の手に負えるとは思えん。色女には色男、だ。まるで月と太陽があるように、世の中にはそのふたつの人種が存在している。宇宙の真理だ」

「君はどっちなんだ」

「おれは海さ。誰でも憧れ、誰にでも優しく、そして全てに厳しい」

「自信過剰も大概に、だな。それで」

「うん?」

 ハートライトはグラスをふたつ手に取り、それぞれに水を満たして手渡してきた。

「アルツェバルスキーの悪口だよ。気に食わない奴さ。あんな人間が上層部うえにいるのかと思うと気が気でないよ。今度はギガスのところまでいってとどめを刺して来い、なんて言うんじゃないか」

「ああ、あのけったいなロシアの穴熊野郎か」上官を呼ぶにしては相応しくない調子で、ハートライトは顔を顰めた。「確かに気に食わねぇ、あのロシア野郎め。プライドと支配欲だけが高い連中はこれだから嫌われるんだ。知ってるか、アフリカはロシア軍にとっちゃ左遷先でしかないって話だ」

「ぼくも聞いたことがある。どうしてだろう?」

「考えてもみろ。ロシアとアフリカの間にどれだけの緩衝地域が設けられてると思う? 仮に東欧を超えてユーラシア大陸が戦場になったって、あの国には遅滞戦術でもする領土がたくさんあるんだぜ。日本が国際的体面を果たすためだけに自衛軍を派遣したって批判したって、それはアメリカやロシア、中国にだって当てはまるはずだ」

「成程。そういう考えはしたことなかったな。お人好しって言うのかもしれないけど、それでも、そういう政治的判断の中には真に人道主義を重んじて派兵に賛成した人間もいるだろう。それだけでも、ここに来る理由としてはじゅうぶんだと思いたい」

「そりゃ、お人好しを通り越して平和ボケだよ、ローラン。殺す相手が人間じゃないだけ、まだ救いがあるってものだが。所詮おれたち軍人なんて、国を守るだのといった大義が無ければならず者とそう変わらんさ」

「紙一重の違いだね」

「ああ。紙一枚かもしれんが、決定的な違いだ」

「今日はいやに含蓄のありそうなことを嘯くじゃないか」

「少しは褒めろよ。愛嬌のある顔してるくせに」

 お互いに肩を竦め、次いで笑い合い、グラスをぶつけ合った。

 南極戦争の勃発以前には、長い平和の時代が続いていたが、必ずしも世界中の人間が満足していたわけではない。長く戦争の無い時間を過ごし、煮え切らない大衆政治から脱して武力を行使するよう叫ぶ人間は、戦時中よりも声高に己の正義を叫んだ。人間の闘争本能とは生存のそれと大差ないのかもしれない。

 そして、戦争とは人々を疲れさせるが、平和は人を腐らせるものである。どちらがかという議論は、天秤が揺れたまま平衡になることはない果てしない議論の渦が帳消しにしていた。

 多くの国家軍隊で、将官における人事が戦勲ではなく政治色を強めていることは紛れもない事実だ。何せ、巨大な戦争などは百年もの間、多くの人々にとって身近に感じられるほどに起きなかったのだから、必然的に昇進手段も平和裏にならざるをえない。実力に寄らない権謀術数で伸し上がる構造は、腐敗しているともいえた。この現状を見る限りでは。

 視線を転ずると、銀髪の長身の男、ディータ・エッケハルトが片手を挙げて近づいてきた。ドイツ人の中でも気さくなほうの部類に入る彼は、無類の女好きでもある。イタリアの赤ん坊と取り違えられたのではないか、とはハートライトの談だ。彼を知る兵士の中でも根強い論説である。

「やあ。君達はハミングバード中隊だな?」

 二人は敬礼した。彼は答礼する。

「はい、大尉」ローランが答えた。「自分はローラン少尉であります。こっちは同僚のハートライト、同じく少尉です」

「ども」それが上官に対する挨拶であろうか?

「聞いている。改めて、エッケハルトだ。所属は……言うまでもないか。あんまり名前を言いふらすのは好かんよ。ここは自慢大会の会場ではないのだからな。聞かれた時に名乗るのは礼節の範疇なのだろうがね」

「まったくです、大尉。それが必要なことだとわかっていても、懸命とは思えません。声高に叫べばいいのです。助けてほしい、と。そしてそれを助けることこそが、名誉のはずではありませんか」

「同感だ。アメリカ人の若者は軟いのが多いと聞くが、君は別格のようだな、ローラン少尉」

「恐縮であります、大尉殿」

「フン。まったく、酒が不味くなるのがわからんのか、奴らは」

 ただの社交界会と成り果てているこのホールの現状を見ながら、エッケハルトは肩を竦めながら言った。自身より遥かに高い階級の軍人が参列しているために大っぴらに悪くは言えないものの、しずしずとローランは頷いた。

 近寄ってきたイギリス軍の士官を手を振って追い払うと「、ドイツ人は嘆かわしいとばかりに首を振った。

「兵士たる者、自身の価値は戦場で証明すべきだ。間違っても話術や既得権益の有無で推し量るものではない。ローランとやら、貴様は政治幕劇が戦場で横行していることをどう感じる?」

「自分は、命令さえあればどこへでも赴き、戦う所存です。アフリカでの勝利が、祖国の未来に繋がると信じていますし、同じ人間であればこそ命を懸ける意味がある。ですが、同じ見解を抱いている人間があまり多くはないということについては、無念でなりません」

「ハハハ、そうこき下ろすものでもない。先ほどの折れない剣の彼についてだろう、君が怒っているのは」

 認めてしまうのは気が引けたが、先ほどの腹立たしさが再び込み上げてきて、ローランは半ば激情に任せて首を縦に振った。

「はい、大尉」

「フム。まあそう怒るな。誰にでも事情というやつはあるものだ。それがいけすかないものであれ、当事者にとっては免罪符のように感じられるものであるのでな。それと言っておくが、相手は鉄の悪魔だけではないぞ。女もみな、尊敬に値する敵だ。仕留めなければ男が廃る」

「まったくですな。人類の宝はいい女です。それがわかればくだらん駆け引きなんぞはどこかへ霧散しますよ、きっと」

 今度はハートライトが頷き、彼は朗らかに笑った。やはり女好き同士、波長が合うのだろうか。ローランは奇妙な疎外感を感じながら、二人がグラスをぶつけ合うのを見ていた。

「話がわかるじゃないか、ハートライト少尉」

「恐縮であります。大尉も相当な手練れだとお伺いしましたが」

「そうだ、それで思い出した。あの銀髪の女を見なかったか? 会場で浮いていた彼女だ。褐色の肌に白髪の男と来ていた」

「名前も知らないですね。そもそもどこの軍かも見当がつきません。会場の外では?」

「ふうむ。あれほどの上玉はなかなかお目にかかれないのだがな、残念だ。話だけでもと思ったのだが」

「おれも狙ってたんですがねぇ。美しい小鳥というものは、いつでも勘が鋭く、逃げやすいものです。男の下賤な目などが穢していいものではないのかもしれません」

「よし、こっちへこいハートライト。共に酒を酌み交わそう。うちの部下どもはお堅くてかなわん。大尉は軽すぎるのです、今日ばかりは素面でいてくださいだのと抜かしおる」

「喜んでお付き合いしましょう」

 女好き二人が、水のグラスを片手に意気揚々と人混みの中へ繰り出していく。遠くから第七装甲分遣隊の部下たちが心配げにそれを見やっていた。

 ローランは肩を竦めながら再び会場を見回し、日計洋一の姿を探したが、彼の姿は先ほどから見られなかった。それからしばらくは独りで暇を紛らわすしかなかった。





「隣、よろしくて?」

 会場に戻った所で声をかけられて振り返る。背後にはあの金髪の女が立っていた。恐ろしいほどに美しい、あの女だ。

 気品と気高さをドレスのように身に纏いながら人込みに溶け込む彼女は、日計から見れば異様だった。人間味に溢れた仕草は見られず、しかし生きているとしか思えない動作をする。違和感ばかりで、社会からは浮いて見えるような女性のシルエットは、世界を背景にした切り絵のように青年の視線を引き付ける。

「はい?」

 間の抜けた声が出てしまったのは認める。綺麗なものを前にして顔が赤くなるのも仕方のないことだ。

「ああ、英語で大丈夫かしら? わたし、日本語もできるのだけれど」

 少しどぎまぎしながら、格好つけて英語で話そうかと迷っていると、彼女は微笑み、細い指をさし伸ばしてきた。

「エセックス・ブレイナン。あなたは日計洋一三等陸尉でよろしかったかしら?」

 正確な発音の日本語だった。

 日計は改めて彼女を観察した。声をかけられた時の驚きは消え失せ、今は子の正体不明の美女を見定めることに集中していた。ともすれば、それは戦闘時の心理作用に近しいものがあったかもしれない。全身の神経が張り詰め、一挙手一投足を見逃すまいと目を凝らす。おかしい、ここは前線ではないはずなのに――しかし自身の直感を信じるより、常識に縛られた理性が彼にその手を取らせた。

 軍装らしきものに身を包んでいる女は、いつの間にかドレスへと着換えていた。食事会のためにあつらえたのだろう、髪の色とは対照的にな銀色の布地と大胆な肌を露出させたデザインが目を引く。こう言っては元も子も無いのは承知しているのだが、日本から海を超えれば本当に同じ人間なのかと疑問を抱くほどに美しい人が大勢いる。日本人はみな一様に髪が黒く、焦げ茶の瞳を持つものだから、違う色というだけでどこか人間離れした幻想ファンタジィに取りつかれてしまうのだろう。

 この女性――エセックス・ブレイナンは、日本人らしい海の外に見る夢を体現した人物といえた。本当にお伽話の中でしか思い描いたことのないような容姿は、それだけで無機物めいている。

 指の先に力が籠められる。思い出したように手を握り返し、どうにか頬を吊り上げて微笑んだ。

「はい、そうです。ミス・ブレイナン。日本語がお上手ですね」

「どうもありがとう。それと、わたしのことはイーズでいいわ。わたしもあなたのことを洋一と呼びたいのだけれど、構わないかしら?」

「光栄ですが、随分と気軽いのですね。あなたのような美しい人はもっと厳粛な為人であるべきだと感じるのは、偏見でしょうか」

「それは独占欲?」

「いいえ。星原に見る夢と同じです。他の女性と同じことをされては興醒めするのです、きっと」

「あら。随分と誌的なことを仰るのね。軍人らしくないわ」

 照れ隠しに頬を掻きながら、日計は窓の外、警備の憲兵が巡回するロータリーへと目を落とした。

「そうですね。部隊員にも時々同じようなことを言われます。お前はいつも夢見がちすぎる、と上官からもお説教を食らったことがありますし」

「夢を見ることの何がいけないのかしら。このご時世、どこも殺伐としているでしょう。現実なんて目を開けていれば見られるもので、目に見えるものだけが全てじゃない。世界の片隅で誰かが夢を見ていなければ、いつか辛い現実だけが満ち満ちた世の中になってしまう」

「夢にとっては辛い時代であればこそ、それを後世に伝える者が必要、ということでしょうか。夢は絶やすべきではない」

「ええ。夢は素敵なものだわ。できれば、いつまでも見ていていたいくらいだけど、そうもいかないのが苦しい所よね」

 お互いに苦笑いを零した。いつになくロマンチックな話題はむずがゆいことこの上ないので、それとなく話題を変えることにした。

「ミス・イーズは、ご出身はどちらですか」

「あら、早速アプローチかしら?」

「滅相もない。自分には決めた女性ひとがいるのです」

「人生の半分も過ぎていないというのに、心に決めた誰かがいるの? 随分と気が早いのね。そういう男は嫌いじゃないけれど、実はあまり相手にしたことが無いの」

 くすくすと笑う彼女を前に、耳まで赤くなっているのを感じる。ブレイナンはそのままそばを通りかかったボーイのトレーからワイングラスを手に取ると、薄くルージュを塗った唇と同じ色の液体を口に含んだ。小さな咽頭が上下してワインを飲み下す様を見つめながら、どうして自分などに声をかけるのだろうと卑下する、そんな愚考はどこかへ消えた。鷺澤朱里が心の中で怒っている。鼻の下伸ばしちゃって、なんて彼女の声が聞こえてきそうだ。

 細い指に誘われるままに、窓際にあるテーブルへと近付く。そこには豪奢な椅子が並んでいた。装飾ひとつをとってみても金のかかりようがわかる。窓際に置かれたそれらは、参加者の要望に応えてホッグスと楊李鳴が用意させたものだ。彼らにも面子というものはあって、それを嫌悪する感性を備えている。実にくだらない。この椅子一つで銃弾がどれだけ買いこめるのだろうか。

 だからというわけでもないのだろうが、兵士たちは立っている。将校でさえ椅子へ腰かける気配は見せない。座っているのは立ち疲れた民間関係者だ。報道関係が多く見られる。他に腰を下ろしているのは相手を口説いている男と女。そこに軍服とドレスの奇妙な煌めきがあった。社交界は愛憎渦巻く人間活劇で、前提として存在する感情をひた隠しにしなければ無礼になるという不思議に満ちた場だ。

 ますます以て、日計は場違いな場所に来てしまったという認識を強めざるを得ない。兵士として、このような人間の心を量り売りするような術を必要と感じてしまうことがあるとは思いもよらなかった。最低限の戦闘方法と軍隊での処世術。そこに権謀術数はなかった。

 二人で並んで、大きな窓の傍に腰を下ろした。日計は途中で水のグラスをすくいあげ、襟に指を突っ込みながら一口を飲み下す。

「それで、どちらからいらっしゃったので?」

「そう焦らないの。どうしてそこまで知りたいの? 人間ってなんでも知りたがるけれど、男から女へ問うのが大多数だと思うわ。ほとんどが好奇心じゃなくて、距離を縮めるための誘導尋問。餌を垂らすような無粋さは嫌い。今のあなたは、そんな気はしないわね」

「直接ではないのですが、ぼくの上官が知りたがっていましたから。直属ではありませんけど、あなたのような美しい女性を見ると放っておけない性分らしくて」

「健気な部下というわけ? あなた自身がわたしに興味があるのでないのなっら、質問に答える義理もないわよね?」

「ええ。なので、答えはあまり期待していません。殊勝な心掛けでしょう?」

 フフ、とブレイナンは笑い、

「ふうん? まあいいわ。それで、あなたはどこだと思うの?」

「イギリス。違いますか?」

「残念ね。これは罰ゲームよ」

 再び通り過ぎたバーテンから今度はバーボンを取り、自分のワイングラスを日計へ手渡した。水のグラスはそのままトレーに載せられ、運び去られてしまった。年頃の男なら気にしてしまうシチュエーションだ。そして自分は、あまり恋愛経験もない初心な青年。

 持て余したワイングラスを回していると、ブレイナンが面白がるように、丸く大きな碧眼を歪ませた。

「いまさら言うことでもないのでしょうけれど」琥珀色の液体を軽々と飲み干して、「あなたは日本人よね。先ほどの紹介でもあったように。あの第七PG中隊の所属で、先日の『ブラック・ニューイヤー』における勝利の立役者」

「はい」嫌悪感が顔に滲まないように気を付けた。そのように箔をつけたのは彼女ではないのだから。

「日本生まれの日本育ちということでいいのかしら」

「ええ。より細かく言えば、横浜生まれの横浜育ちですよ」

「ああ、横浜ね」

 意味深長な物言いに、日計は気付くことができなかった。曖昧な相槌を打って、ブレイナンは微睡むような目を日計へ向ける。視線に囚われ、頭の芯がじんと痺れるようだ。

「昨年はたいへんな事件があったでしょう。あまり聞くのも野暮でしょうけれど、どうしても聞きたいことがあるの」

「構いませんよ。どうぞなんなりと仰ってください」

「わかったわ。洋一、あなたはヘルフィヨトルに対して、憎しみで銃を取っているの?」

 口元まで上げかけたグラスをぴたりと止め、日計は溜息交じりにそれを膝元へ下ろした。

「やっぱり、そう思われているんですね、他の人からは」

「違うの?」

「違いますとも、ミス・イーズ。まったく違う。正反対といってもいいかもしれない」

 途端に、彼女の身に纏う空気が氷のように冷たくなったのに日計は気が付く。紛れもない殺気だ。このように華奢で儚いような雰囲気を纏う女性が、斯様な苛烈な意思を内に秘めているとは。体中から汗が吹き出し、喉元にナイフを突きつけられているよう。

 陽が落ちたとはいえまだ暑さの残るアフリカで、先ほどまでとは違った汗が頬を伝って落ちた。唐突なこの威圧感はなんだろう。気に障ることをいっただろうか。常識的に考えて、怒るべきは自分のほうであるはず。

 戸惑いながらも、彼女が口にした次の問いに身を強張らせた。

「どこがどう違うのか、教えてくれる」

「ミス・イーズ」喉が渇いてきた。水が欲しい。「あなたは、横浜で大勢の人が亡くなったからぼくが戦うと考えている。他の多くの兵士たちも、ヘルフィヨトルが人間を殺すから、社会全体を脅かすから銃を取り、戦うのだと。人間は結局は、大義名分ではなく、己のために戦うことが気に食わないのですか」

「その通りよ、洋一。横浜に限ったことではないけれど、たとえばこのアフリカ大陸で戦う兵士達の中には、南アフリカなどの亡国出身者も多くいるはず。人間は唐突にこの世に生じるわけではないから、彼らにも友人や知人も大勢いた」

 細い手をサッと振り、ブレイナンはパーティ会場をきらびやかに彩る人々を指示した。肌、髪、瞳、言葉、主義、性格、性別……あらゆる違いが複雑機械なモザイクめいた情緒を持ち、こうして落ち着き払って眺めやる日計などには、どこか間抜けた、しかし人間らしい営みを感じさせた。

「このパーティは無駄とは言えない。ヘルフィヨトルに対して一致団結するために、こうした催しも必要でしょう。だからこそ、違いが際立つ。国を取り戻すために戦い続ける女、国の命令で仕方なくアフリカの土を踏んだ男。大義名分のために戦いながら、求めるものは異なる。それなのに命を捨てるなんて、到底理解の及ばないことだわ」

「心苦しいばかりですが、南極戦争の初期で蹂躙された南アフリカ諸国の住民避難は失敗したと聞きます。内政不干渉を重視して、国連主導の避難が行えなかったためです。彼らだけでは戦えない。だから我々も戦う。人類として、その論理は筋の通ったものではありませんか」

 次第に勢いを失っていく日計の語勢に反比例して、ブレイナンの眼光が鋭さを増していく。

「信じ切れない信念を持つのはおやめなさい。何よりもあなた自身のために」

「ええ、認めます。ぼくはそんなもののために戦ってはいない。恐らく、誰も国なんてものを想ってはいないでしょう。では、何を思い浮かべて銃を取るのか。それは思い出、家族、大切な何か……極めて個人的な動機に収斂するものだ。特に戦争ともなれば、敵にも同じだけの悲しみを、苦しみを与えてやりたいと渇望するでしょう」

「だとしたら明白ね。復讐のために人類は戦っているのではなくって? ましてやあなたは特別な過去を持っている……極めて特別な過去を」

 脳裏を赤い景色が過る。蒸発した仲間たちの顔、慣れ親しんだ土地が瓦礫の中に焼け落ちる光景がフラッシュバックした。

 女は青年の顔を覗き込む。表情ひとつ変えはしないが、生きている限り彼が背負うことになった十字架を見ることができると確信しているかのように。

「横浜港には多くの友人がいたのでしょう。家族と呼べる人々が。間違いなく、彼ら、彼女らはあなたの人生の一部だった。目を逸らしているのなら自覚すべきだわ」

「何を?」

「あなたは横浜で、二度と戻らない何かを失くしてきたということ。そして自衛軍は退役を許さず、あなたは紫雲のドライバーとなった。あれはヘルフィヨトルに対抗できる、人類最強の兵器のひとつ。唯一の退行兵力と呼んでも差し支えないでしょう」

「確かに、怨嗟を抱く人間にナイフを握らせれば、どうなるかは目に見えていますね。復讐に力が合わされば、油に火を点けるようなものだ」

 その通り、と頷いて見せるブレイナンをぼんやり眺めながら、日計の脳裏では別の誰かの声が響いていた。今はもう会えない幽霊の声だ。彼が言っていた「今のうちに戦う理由を見つけておけ」とは、そういう意味合いもあったのだろう。もしその言葉が、燃え盛る横浜港を目にした後で伝えられたのなら、自分は誰かのためではなく、ブレイナンの言う修羅として戦場に在ったのではないだろうか。

「ミス・イーズ。怒りは戦いに人を駆り立てます。それは事実で、多くの戦争でもそのような感情が動機となったことでしょう。だけど、少なくともぼくが戦う原動力となっている感情は怒りだけじゃない。憎悪や義務感ではない。愛情で戦場に立つ人間もいる」

 しばらく黙したまま、ブレイナンは日計の目を凝視していた。その言葉の何割が見栄なのかを測ろうというのだろう。落ち着いた様子で、彼は女を見つめ返した。

 ふっと視線を逸らし、ブレイナンは困惑したように、微かに眉を潜めた。

「その言葉が本当だとしても、虚しいばかりね。どちらにしても、戦うしかないのだから。悲しみは決して幸福に転嫁はされないわ」

「他の何にもならず、心を蝕んでいくのをただ諸手を挙げて見ていることしか選択肢が無いとしても、無抵抗のまま受け入れることはしない。ぼくにとっては、それが生きるということだ。何故なら、ぼくが死んでも人生を歩いていく誰かがいて、そいつをたった一人のまま往かせたくはないから」

 ブレイナンは唇を引き結んで、窓の外へと視線を泳がせた。彼女の妖艶な首筋をぼんやりと眺め、そこに魅力を感じていない自分を見つける。

 彼女が困惑し、考え込むほどの大層なことは言っていないつもりだ。心から溢れ出した言葉はそう感じた本人にすら意味のないものになってしまうのだろう。肉体を構成する手足が、なぜ備わっているのかと問うのと同じことだ。

 久世、藤巻、鉢塚二曹などの顔を順々に思い浮かべる。もう慣れた痛みが胸の奥に走った。生きていればこそ苦しみ、苦しむからこそ、生きていることがわかる。彼らはもう苦しむことはないが、それが何故か、慰めよりも悲しみを連れてきた。誰かが痛めない分、想いを継いだ誰かの胸を傷める。楽しく過ごした思い出も、もちろん多く思い起こすことができる。しかし、どうしようもなく悲しい記憶ばかりが自分にこびりついていく気がしてならない。やがては心がひび割れて崩れ落ちる、その前に死んでしまうかもしれない。

 なぜ自分は生きているのか、と問う人がいる。同じ問いかけを、日計は己へ投げかけないようにしていた。剣は理由などなくても剣足り得る。人もまた同じ。意味はどこにでも転がっている。理由などというものは与えられるものでしかないが、意味は自分で追い求めるべきものだ。見出せないというのはつまり存在しないのでなく、砂粒のように多く在りすぎるからで、その中から自分に見合ったものを見つけ辛いだけの話だろう。

「人は死ぬと、涙を流す。死んで喜ばれる人もいる。だけど形だけでも泣いて見せる。そんな人間の心理が理解できない。心の底から」

 しばらくの沈黙の後で、彼女はそう呟いた。日計は頷いて見せ、グラスをゆっくりと回す。この酒は強すぎて、飲む気にならない。

「難しい疑問ですね。人間の根本を抉るような言葉だ。なぜ人は泣くのか」くつくつと喉から笑いを漏らし、「なんだ、またロマンチックな話になってきたな」

「わからないの? その理由が。人間なのに?」

「正解かどうかはわかりませんが、質問に答えることはできます。いいえ、正直に申し上げるならば、回答如何ではなくあなたが何を求めてその疑問を抱いたかによります」

「つまり……どういうことかしら。あなたの言葉でいいから、聞かせてもらえるかしら」

 恥ずかしさを吹き飛ばすように頭を振って、日計は答えた。言葉は、何よりも望む者に与えられるべきだから。

「自分が死んだ時に、泣いてもらうためです。世界のどこかしこでも葬送が悲しむべきものなのは、自分が悲しまれたいからです。あるいは、自分が死んだ時にどう送ってもらいたいか。だけど、横浜港は違う。あそこで行われたのは葬式ではない。戦いです。何かを守ろうとして、果てていった命があった」

 嘲笑とも取れる笑みをこちらへ向け、彼女は鼻で笑った。

「あなたが考えているほどに、世界で崇高なことを大義として掲げている人間は多くはないでしょう。現に、人々は今も争っているじゃない。アフリカと東南アジア以外で起こる戦いは、人類同士のくだらない小競り合いでしかないわ。ヘルフィヨトルとの戦いの最中であるというのに、どうして互いの顔色を見合うこともできないのか。それは、人間が愚かで、どうしようもないからでしょう」

 恐らく、それが彼女の本心であり、信念なのだろう。エセックス・ブレイナンという女は、今この時でさえ誰かが誰かを殺している事実を憂えている。というより、嫌悪している。長い睫毛が物憂げに震え、怒りの炎が氷の瞳の奥で揺らめくのを見つめていると、どことなくこちらまで心の暗雲が立ち込めてくるようだ。

 ブレイナンの抱いた感想は至極当然のものだ。歴史の教科書によれば、ヘルフィヨトル、当時の黒い軍隊の出現によって、共産主義国家では多くの人間が粛清あるいは更迭されたと聞く。東側のみならず西側諸国でさえ、ハト派の政治活動家たちが淘汰されてタカ派が台頭してきた。日本では未だに両者が共存しているが、後者の勢力が増しているのは否めない。だからこそ、憲法九条は改訂されたし、自衛隊はPGTASを保有する強い軍隊へと生まれ変わった。言うなれば、無人兵器に対して命を費やすことが、わかりやすい正義として確立された。

 ブレイナンはそれが許せないのだろう。底冷えのする悲しみを燃料とする怒りの炎。それが彼女の本質か。だがそれもまた優しさには違いない。彼女は優しすぎる。昏い炎も温かさを連れてくるものだから。

 アメリカ主導の紛争介入の時代はゼロ年代に最盛期を終え、後は成長した欧州連合、財政難からエネルギー政策でソ連崩壊時以来の不景気から立ち直りかけたロシア、経済発展著しくも膨れ上がった空白の財政で傾いた中国が台頭した。二〇一〇年代末には多くの国々のパワーバランスが崩れ、非人道的な国際紛争や爆破事件などが相次いだ。全世界的な不景気は海と空を超え、軍事行動による国際社会での発言力維持にも限界があった。

 ヘルフィヨトルの出現は、狭い世界の中で他者を貶めるしか能のない政治を司る先進国から見ればこれ以上ない好機だったのだろう。何億という人々が殺戮されていても、南半球から押しあがっていく戦線と自国の間にはまだ遠い隔たりがある。東南アジアもアフリカ大陸も、為政者にとってみれば緩衝地帯に他ならない。極論を言ってしまえば南極戦争で勝つ必要はなく、自国領土へと侵攻を許さなければそれでいいのだ。

 無人兵器群は目に映った人間を肉片へと解体していくが、人類の絶滅を目的としているわけではない。そうしたいのならば核を使うはずだ。人類の戦術や兵器に対して対症療法的な装備を用いてくる性質を鑑みても、どうにも腑に落ちない点がある。

 ブレイナンは琥珀色の液体が揺蕩うグラスを見つめた。

「人間が嫌い。自分本位な考え方が嫌い。いつまでも喧嘩ひとつやめることができない愚かしさが嫌い。でも兵士は、人類のために戦って死んでいく。それこそが悲しいことだと、わたしは感じている。それは洋一、あなたにとっても変わらない。献身が嘲りで報われるのが、今の人類社会よ。命の使い方としては、下の下と言えるでしょうね」

「ぼくは――」

 人類のために戦っているのではない。

 そう口にしてしまっては仕方のないことだろう? と、頭のどこかで、誰かが囁いた。

「”人間、戦うときは思想やイデオロギーではなく、もっと身近な何かを思い浮かべるものだ”」

「え?」こちらを振り返るブレイナンへ、日計洋一は穏やかな笑みを向けた。

「そう教えてくれた人がいたんです。何のために戦うべきなのか。戦場に立つ理由とは何か」

 今、初めて、鉢塚二曹の言っていた言葉が理解できた気がした。

 ”日計。お前が煙草の味がわかるようになるまでに、PGTASに乗る理由を考えておけ”。

 そう、確かに自分は、彼の教えを考えてきたのではないか。

「人間には生存本能があります。言うまでもなく、生き延びて子孫を伝えるためです。それは生物としての命題に等しくて、真理といえるでしょう。人間の中で最も自然に近しい部分といえるのではないでしょうか。だけどぼくたちは死地へ赴く。なぜか。それは、他に大切な何かがあると知っているからです」

「先ほどから、言おうとして言い切れなかったことを口にしてしまったわね。それは恐ろしく近視眼的な解釈であることは、わかっていて?」

「もちろん。どんな場合でも生きてこその後悔だし、命あっての物種です。でも、それでいいんじゃありませんか? 世の中、物事をむつかしく考える人が多すぎると、ついさっき上官から言われました。ぼくもまったく同感です。もっと単純シンプルでいい。世界のためじゃない。誰かのためであったとしても、それに何の違いがあるんでしょうか」

 だからこそ、彼女のためにここへ来た。その理由は単純で、複雑怪奇な理由を持っている人からすれば気に障ることもあるだろう。

 だがそこが原点であり、終着点だ。日計洋一という概念はそこにこそ存在する。国家やイデオロギー、ましてや人類の命運などではない。たった一人の女との約束。それを守り、共に寄り添い続けること。それが日計洋一にとっての戦争だ。

 いつしか、ブレイナンは席を立っていた。グラスを椅子の上に置いて、ドレスの裾をつまんで辞儀をする。

「その言葉を聞けただけでも、あなたと話せてよかった。あなたはいい男ね、日計洋一」

「こちらこそ。あなたはいい女ですよ、ミス・イーズ。できれば、また言葉を交えることがあれば、嬉しい」

 金色の瞳が悲しそうに俯く。美女はどこか悲しそうに微笑むと、人混みの中へ消えていった。日計はその綺麗な背中が見えなくなるまで見送った後で、彼女から渡されたワインを飲み干した。

 煙草が吸いたくて仕方がなかった。

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