第二章「鉄は熱い内に」

第十話

――熱波が頬を撫でて思わず身震いする。寒気とは別種の感情が脊髄を駆けあがり、ドライバースーツの内側で、ぼくは独りだ。そう思っていた――




 奇妙なことに、東雲南津子は独身である。

 今年で二十七歳になる彼女には、行き遅れを目前にしても結婚に焦ることが終ぞなかった。

 彼女自身、特に思い入れの強い誰かでなければ自分との結婚生活など無理であろうことは自覚していたし、そもそもこの時代、世界情勢が、一人の女としてではなく、巨人を操る一人の戦士として自分を必要としているのだと強く感じているからでもあった。

 日本国自衛軍のアフリカ戦役派遣を前にした休暇を終え、家族との別れを済ませて習志野駐屯地に戻って来た彼女に命令が降る。

 東雲南津子二等陸尉は、即刻、同じ第一技術試験旅団第七PG中隊員である、鷺澤朱里、日計洋一の両名を連れ戻すべし。

 予定よりも三日早く習志野に彼女が戻って来たのには理由がある。

 親しい人々と過ごす日々は、これから自分が死地に赴くことをどうにも悲観的な色合いに染め上げてしまうのだ。生きて帰ることができるのか。それは当人が聞きたいほどなのに、周囲の人間は、どこで顔を合わせても問うてくる。

「帰って来られるよう、あらゆる努力をするわ」

 そう答えるしかないのは、思いの丈を伝える自分の語彙が不足しているからでも、ましてや人間としての情緒に欠けている訳でもない。ただ周囲の人間が、人という存在を塵芥のひとつとして扱う戦争かいぶつを理解できていないだけだ。

 数日を母と過ごしていち早く習志野に舞い戻っていた有沢琢磨から無慈悲な辞令を受け取りながら、彼女は形の良い眉を潜めた。

「若者には、もっと時間が必要だと思いますが」

「同感だが、若者である前に、彼らは軍人なんだよ」

 毅然とした上官の応答であった。

 アフリカ派遣戦闘群の結成は、各メディアで大々的に報じられている。何しろ自衛隊時代から数えて、これほど大規模な部隊を海外に派遣することが史上初なのだ。それはつまり、警察予備隊から脈々と受け継がれている専守防衛思想が崩れ始めていることを意味している。

 世界に戦いに赴く日本人。諸外国はこれを歓迎、あるいは否定した。特に中国、韓国、北朝鮮の三ヶ国は難色を示したが、イスラエルを始めとする中東各国やアメリカ、ロシア、欧州連合は歓迎の意を示した。世界最高のPGTAS技術が、惜しげもなく戦線に投入されることで、その情報を盗み見ようという魂胆が見え隠れしてはいたが。

 そうした国際世論を考慮して大々的な出兵式典などは行われない。急遽決定した自衛軍のアフリカ派兵について、日本国内では反対意見が多く、内部からも不満が噴出する有り様であった。日本を守るための自衛軍が海外へ出ることを良しとしない人々。あるいは自衛官の親族。

「自分が行くわけでもないのだから、勝手なことを言うなってんだ。こちとら百トンの問題児を山と抱えてんだぜ」

 整備に当たっていた日向道夫特技下士官の談である。まったくだと頷かずにはいられない。

 黒い軍隊の第二次侵攻は、既に始まっている。停滞していた東南アジア戦役、アフリカ戦役は再開され、既にいくつかの戦闘が行われたという。特にアフリカはウガンダ周辺で、敵軍が大規模な集団を形成しつつあるようだ。それに加え、安保理も突然にやってくることが決まった自衛軍を持て余しているようでもある。いまさら指揮系統に組み込む時間的余裕も失われる一方だ。

 だが、この事態の真相を、彼女はおぼろげながら察している。

 その推測は限りなく真実に近かった。

 極論を言えば厄介払い。国連からはPGTAS技術を公開するよう、強い要請が出されている。言うまでもなく、九十九里浜要撃戦で鮮烈なデビューを飾った紫雲について、情報の開示を迫っているのだ。

 全高十五メートルを超える、人型多目的戦術兵器システム。これを英訳して頭文字を取ったPGTASピージタスと呼称する。

 PGTASの開発に成功したのはドイツ連邦、アメリカ合衆国、そして日本国のみ。ロシア、中国などの、特定の連合体に属していない国家は、既存の主力戦車を改良することで陸上戦における主導権を維持している。劣っているかに見えてこれでも必要十分だ。これは、PGTASがまだ未熟な発展を遂げている兵器システムであることを示唆してもいる。他にもイギリス主導の欧州連合が標準機としてのPGTASを開発しているという情報もあり、国際的な兵器開発競争がPGTASを主軸としたものに移りつつあるのは明白だ。

 日本は世界で初めてPGTASの実戦配備を行った先進国だ。ほぼ一世代分、他国の兵器と比べて性能に開きがある。PGTASは巨大故に、実戦配備するにあたり、数々の新技術を必要とした。そうした先進技術は他兵器の性能向上にもつながり、結果として国家軍隊の実力を底上げする結果となったのだ。

 巨人を生むということは、人が巨人の上に立つことを意味する。

 日本製は戦車よりはるかに巨大な体躯であるにも関わらず、百トン弱という比較的軽量な重量に収まっている。ドイツ製は百十トン、アメリカ製は百十五トンだ。たかが十トンの差異が、決定的な違いを生む。さらには、第三世代主力戦車と同等かそれ以上の防護力を持ち、各関節動力を統制するAPCSの導入で砲撃の命中精度も高い。

 そして、各国が第二世代の蒼天にすら及ばないところへ、新型の第三世代を実戦投入したのだ。戦局を一転させる、華々しい初陣を飾った白銀の巨人。各国が国際社会での覇権争いに用いるべく、その情報を渇望している。

 もしかしたらその辺りの事情も関係しているのではなかろうか。東雲の胸中を暗澹たる思いがよぎった。

 このような情勢下では、ドライバー自身も、個人レベルで何かしらの対策を考えておかねばならない。各国の諜報機関が実力行使に出ないとも限らないのだ。それほどまでに、日本と世界との溝は深まりつつある。この戦いを終わらせた後に何が残るのか。角質か、それとも、真の意味での平和なのか。

 これほどまでに人々が犠牲となり、自身の身に危険が及びつつも、人々は平和という一事について考えようとはしていない。

 脳裏を掠めるのは、ただ生き残ること。戦いの後で幸福に暮らしていくこと。そのために人々は戦い、今も尚、黒い軍隊へ向けた脆い結束を保っている。

 昨今の政治情勢は、条件反射めいた覚悟で解決できる問題ではなくなってしまっていた。

 習志野駐屯地から、比較的乗り心地のいい高機動車を駆り出した。格納庫整備班班長の真崎宗和は、快く格納庫の鍵を開けてくれた。

 出立前の癖になっている簡単な点検作業をしていると、助手席の装甲板をあてがった重いドアが開き、何を言うでもなく誰かが乗り込んで来た。サスペンションの軋みに顔を上げる。

「すまんが乗り合いで頼むよ、南津子ちゃん」

 驚きのあまり、ぽかんと口を開けたまましばしの時間を呆ける。

 防衛大臣、黒田幹久だった。

 意外な人物の来訪に、東雲は度肝を抜かれる。軍隊生活の中で染みついた敬礼を無意識の内にしているあたりは、まだ冷静といえるだろうか。

「黒田さん!? どうしたんですか、こんなところに。ていうか、これ高機動車ですよ。腰に悪いですって」

「ハッハッハ。なに、少し野暮用でね。邦枝の奴と話すことがあったんだ。車、出してくれ。点検終わってるだろ?」

「事故でも起きたらどうするんですか」

 完全な防弾装甲の施された装甲車とは思えない言葉だった。

 彼の巨躯で傾いた高機動車が、運転席に乗り込んだ東雲南津子の体重で、いささか平坦な姿勢に戻る。ディーゼルエンジンに火を入れて、格納庫脇にある車庫から車輛が進み出た。サスペンションの微かな軋みを聞きながら、黒い革コートを羽織ったまま隣に座る偉丈夫へと、彼女は語り掛ける。

「防衛大臣が護衛も無しにいち二等陸尉と車に乗っていていいんですか。しかもこんな美人だと、変な噂が立ったりしません?」

「いいじゃないか、光栄だね。南津子ちゃん、独り身だろ。わたしはかみさんがいるがね、余計な勘違いはしない性格なんだ」

「それはそれは、いい奥さんですね」

 それは恐らく、黒田の清廉潔白さを妻が理解しているからだろう。羨ましい思いでそう考えた。

 黒田はほくほく顔で頷く。

「まあな。あいつの頼みで自衛隊も辞めたんだが、今じゃもっと面倒な立ち回りになっちまってる。お蔭で頭が上がらんよ」

 メインゲートで一度停車する。歩哨が面倒くさそうに近寄り、中の人物を見やって慌てて敬礼した。ほとんど顔パスで赤と白のゲートバーが持ち上がり、高機動車は軽快な加速で道路の車列に混じる。

「わたし、これから部下を迎えに行かなければならないんですけど。横浜と宮城まで」

「フム。先にどっちに行くんだい?」

「宮城です」

「先に言っておくと、両方いくつもりだ」

「もう後ですよ、それ」

 不満そうな声がエンジンに伝播したのか、高機動車が唸りをあげて習志野から宮城方面へと国道を上っていく。

 携帯端末で鷺澤朱里に連絡を取ったところ、まだ自宅にいるとのことなので、宮城県は西端に位置する彼女の自宅まで走った。

 時間にして一時間弱、その間、黒田幹久は黙って座席に座っていた。あまりにも静かなため首を傾けると、目を閉じた彼の寝息がようやく聞こえてきた。

 政務の間に疲労困憊した身体を押してまで、こうして訪問する彼の真意を推し量ることはできない。だが、この時間が少しでも休息になればいいと、アクセルの操作にはやや気をつかった。

 そして顔を顰める。こんな気遣いができるのに貰い手が無いのは虚しいだけではないか。

 やがて、どこにでもある一軒家の前に高機動車を停めた。停止の振動で黒田はぱちりと目を覚まし、何を言うでもなく自らドアを開いて外に出た。

 曇り空の下、十一月の冷たい空気に肩をすぼめながら東雲南津子もそれに倣い、玄関先までの短い距離を後について歩く。

 住宅街は閑散としており、既に昼過ぎだというのに人気は無い。誰もが慎ましく暮らしている。この静けさこそが、平穏という名の大義なのだろう。自衛官の個人情報は秘匿され、特に第七PG中隊の兵士には防衛省が計らいをしている。ここら一帯では取材活動は厳禁だ。たとえ救国の英雄を生んだ両親であるとしても。

 そこで、ようやく彼の意図に気が付き、彼女は慌てて黒田の大きな背中に声をかけた。

「まさか、ご自分で説明なさるおつもりですか。彼女らが戦場へ行くことを?」

 黒田は振り返り、憮然とコートのポケットに両手を突っ込んだ。

 その表情は精悍とさえいえる。瞳は真っ直ぐで、既に固めた決意だけを窺い知ることができた。

「わたしはこういうやり方しか知らんのだ」黒田はどこか断固とした口調で、「一殺多生は、集団が生き残るための摂理だ。人間は政治にまで、そんな原始的な概念を持ち込むがね。誰かがその尻拭い、いや、けじめを付けなきゃならん」

「なんと説明するんですか。新型機の機密保持とでも。親とはいえ、守秘義務があるでしょう」

「近しいことは、言う。それが仁義だ」

 彼らしい愚直な言葉だと思った。

 それきり、黒田は有無を言わさぬ勢いで踵を返し、「鷺澤」の表札と並んでいるインターホンを押した。

 ピンポーン。間の抜けた来客を告げるベル。はい、と答える声が聞こえ、黒田は身をかがめてインターホンに顔を近づけた。

「防衛省の黒田幹久と申します。お嬢さんをお迎えに上がりました」

 返事はなかった。絶句しているのだろう。ほどなくしてばたばたと玄関ドアの向こうから響く足音があり、すぐに扉が開いた。僅かな隙間から引きずるようにして半身を出したのは鷺澤朱里で、セミロングの、烏の濡れ羽色をした髪の毛がオリーブドラブの軍服の襟にかかっている。同じくらい黒い、大きな瞳が、驚愕で見開かれていた。

「黒田防衛相!? なぜこんな……いえ、御足労、ご苦労様です」

 慌てた敬礼を、黒田は軽く手を振って流した。ダッフルバッグを背負った彼女が玄関から慌てて高機動車へと走り去っていく。あまりにも予想外な高級官僚VIPの登場に慌てふためいているのか、東雲南津子に軽い会釈だけを残して、高機動車の後部トランクを開いて荷物を置いた。

 その間に、黒田は一歩歩み出て、遅れて顔を出した鷺澤家の両親と対面を果たしていた。背の高い父親と、やはり背の高めの母親。二人は中でお茶でもと彼を誘うが、黒田は時間を理由に断った。

「御二方にご説明しておきたいことがございまして。娘さんがアフリカへ派遣されることはご存知ですか?」

 両親は、お互いに顔を見合わせ、父親が口を開いた。

「はい、娘から聞いております。その、黒田さん。娘は本当に?」

「行きます。命令を出したのはわたしです」

 その瞬間、父親は怒りを、母親は悲しみを表情に浮かべた。父が歩み出る。

「娘の命をなんだと思っているのですか!」

「あなた」

「いや、わたしは言わねばならない」

 彼は妻の制止を振り切り、一歩を歩み出た。

 気色ばんだ様子の妻と同じく、東雲の胸中も似たような焦燥が渦巻いていたが、顔には出さず、ただその様子を眺めていた。

「一人娘です、黒田防衛相。わたし達は、戦争で死なせるために朱里を育てた訳ではありません。口に出すのも恐ろしいが、何かあったら……恨みますよ、本当に」

「わたしが本日お邪魔したのは、弁明でも謝罪のためでもありません」黒田幹久はぴしゃりと言い放った。「責任を果たしているだけです。もっとも、こうしていち自衛官の家にまで足を延ばすことが、本当に責任という一言で片づけられてしまうのかを問われれば、わたしは首を振るしかありませんが」

「良心があるのなら、さぞお苦しいでしょう。九十九里浜での戦いを、ニュースで見ました。あの大きなロボットに本当に娘が乗っているなんて、今でも信じられません」

「しかし孫うこと無き事実です、鷺澤さん」

「黒田さん、あなたには子供がいらっしゃいますか」

「あなたと同じく、娘が一人」

「だというのに、朱里をアフリカへ連れていくのですか。いいや、あなたはこの国に残って、冷房の効いた涼しい部屋で、傷付く人々の話を聞くだけなのでしょう」

「お父さん」

 戻って来た鷺澤朱里が父を諌める。東雲は彼女の肩に優しく手をかけ、首を振った。

 少女は、父親が既に超えてはいけない一線を超えていることを悟り、言葉を失う。

 しかし黒田は構うことなく、言った。

「国民の総意を受けた、大滝史彦内閣総理大臣からの命を受けて、わたしも動いております。日本を守るために、娘さんの力が必要なのです。本人が理解しているよりも、ずっと重要なもののために」

「娘が何かの犠牲になるなんて、くそくらえだ」父親は愛情ゆえに憤った。「奇妙な話だ。日本を守るためにアフリカへ行く? 地球の反対側だ!」

「これはわたしにとっても苦渋の決断でした」

 黒田は潔く認めた。

「今、全世界が再び戦時下に入りました。既に十五年前から始まっているというのに、奇妙な言い回しですが。これほど全地球的規模で行われる戦争は、史上類をみません。黒い軍隊は、どこでバランスを崩すかわからない。そもそも、日本は狭い。ここで戦えば、敗北は必至です」

「つい数週間前は勝ったではありませんか。横浜でも、九十九里でも」

 黒田の目が途端に鋭くなった。大柄な体格と相まって、鷺澤朱里の母は気圧されたように一歩を退いたが、父親は負けじとその長身を睨み返した。

「あんなものは勝利ではありません。多くの自衛官が殉職しました。ただ単に、負けなかった、というだけです。勝者はどちらでもない。だが、アフリカでは勝てる見込みがある。勝てば、日本も助かる。そのための鍵が、お嬢さんなのです」

「安全な戦場、とでも言いたいのですか。馬鹿げている。それほどまでに矛盾で倒錯した価値観があるとは思いませんでした。命を投げ出すことには変わりないでしょうに」

「何と言われても結構。だが鷺澤さん、わたし自身が娘さんを、いや、わたしの下に顔を並べる自衛官の命と安全を、最大限に尊重し得る選択肢がこれなのです。だからこそ、苦渋だった。あまり声を大にしては言えませんが、総理にも反対した。しかし、現実とは得てして、残酷なものほど動かしがたいものです。違いますか?」

 父は、しばらく無言のまま黒田を凝視したあと、大きくため息をついた。東雲南津子には、彼が突然に十歳も老けこんだように見える。

 鷺澤朱里が進み出て、父親に抱擁した。彼は娘を抱きしめ、涙さえ浮かべながら謝罪した。

「お前は納得しているのか、朱里。心の底から、本当に?」

「今なら、まだ間に合うかもしれないのよ」

 両親から受け取った言葉を、軍服に身を包んだ少女は真剣な表情と共に受け止めた。

「日計くんがいるから、大丈夫よ」

 その時、父は悟る。既に娘が、少女としてではなく、一人の女としての顔をしていることに。

「何も心配いらない。むしろ、お父さんとお母さんが心配だわ。定期的に連絡も取るし。よろしいですか、閣下?」

「まったく問題ない。防衛省としても、隊員のそうしたプライベートは全力で保証するつもりだ」

「ありがとうございます。だから、ね。わたしは行くわ」

 それでも納得がいかないのか、父は鷺澤朱里の肩を掴んだ。

「だけど、お前の代わりだっているだろう、朱里。お前である必要はない。死にに行くようなものじゃないか。テレビで見たぞ。あんなにたくさんの黒い何かに、戦車だって吹き飛んでたんだ。それでも、お前は――」

 娘は、そっとその手を解くと、一歩退いた。セミロングの髪の毛が、微かに赤く光ったように、東雲南津子には見えた。

「これ以上ないくらい、わたしは、自分の役割というものを考えているわ。どこにいるべきか。なにをするべきなのか。自分の行動にどんな意味があるのか……とても難しいことだけれど、半分くらいはわかった気がする。それに、この東雲さんだって、有沢さんだっているわ」

 とびっきりの笑顔で、鷺澤朱里は胸を張った。

「だから、見ていて、お父さん。あんな黒い奴ら、片手でどうにかしてきちゃうんだから」

 それから、鷺澤朱里の両親は何も言わず、もう一度娘を抱きしめた。今度は、涙を流す者はいなかった。母は「気を付けて」と一言を添え、父は「お前をいつだって誇りに思う」と言った。そして最後に、「お前を愛している」と、二人から伝えられ、娘は気丈にも涙を流すことなく、そのまま高機動車へ向かって歩いていった。

 振り返ることはなかった。

 最後に踵を返した黒田幹久を呼び止め、二人は深々と頭を下げた。

「黒田さん、東雲さん、どうか、どうか娘をお願いします。生きて帰してください」

 黒田は足を止め、しっかりと踵を揃えると、見事な敬礼をした。東雲南津子も、はからず、同じ敬礼を両親へと返していた。

「全力を尽くします。信じてください。あなたの娘さんは、何者にも鎮められない炎を携えた燕です。黒い奴らには、永遠に捉えることはできないでしょう」

 それから、無言のまま後部座席に座っている鷺澤朱里と、助手席で再び居眠りを始めた黒田幹久を乗せて、東雲南津子は高機動車を高速へ乗せた。

 横浜へ向かわねばならない。日計洋一を拾って帰るのだ。

 それにしても、黒田幹久があのように感情的な言葉を口走り、あまつさえいち自衛官の両親に、こうして礼節を尽くそうと走り回るとは。以前より、他の政治家と比べて、遥かに人情に溢れた人間として信頼を得ている。そうした世間の評価に照らし合わせてみても、彼のこの行動は目を見張るものであるだろう。

「朱里ちゃん、これから日計君の所に行くの。習志野によってもいいけれど、ついてくるでしょう?」

「ええ、もちろん。一秒でも早く顔を見たいですから」

 答えがわかりきった問いだったが、それでも、鷺澤朱里はあどけない笑みを浮かべた。

 あるいは、黒田幹久は巣立ちを手助けしただけなのかもしれない。東雲南津子は取り留めも無い考えに微笑みながら、高機動車のアクセルをさらに踏み込んだ。



 日計家は横浜市内は大船の、都会とも田舎ともいえない位置にあった。

 高機動車が停車すると、鷺澤朱里が真っ先に飛び降りた。国道から少し外れた住宅街の入り口にある邸宅のインターホンを押したのは彼女で、青年が顔を出すと、玄関先で熱い抱擁が交わされた。接吻までいけばいいのに、と思ったのは、それを傍から眺めていた東雲と黒田の共通意見だったことは言うまでもない。

「若いってのはいいもんだ。なあ、南津子ちゃん」

「そうですね。あれくらいのエネルギーがあれば、黒いのなんて吹き飛びますよ」

 遅れてやってきた日計家の眼鏡をかけた父、少し丸い母、そして高校の制服を身にまとった妹に黒田幹久が事情説明を行う前に、鷺澤朱里の紹介となった。長男のガールフレンドを、日計家は話には聞いていたらしい。見目麗しい彼女の登場にしばし団欒が続き、それがおさまるころに黒田が一歩歩み出た。

 日計は鷺澤に連れられて、東雲の元へやってきた。お互いに敬礼を交わすと、次いで手を握り合う。

 力強く握り返す青年の顔つきが微妙に変化していることに気付き、東雲は驚きに眉を吊り上げた。

「意外に頼りがいのある掌ね。元気してた?」

 九十九里浜要撃戦で損傷したのは、日計洋一の駆る紫雲四番機、玉響だけだった。その責を負って、彼は自ら有沢琢磨に復興作業への従事を願い出るなど、塞ぎ込んでいる節があったのだ。しかし、その心配は杞憂であったと知る。

「まあ、こっちに帰ってからも色々ありましたから。東雲さんはどうです?」

「似たようなものよ。少し時期は早かったけどね。朱里ちゃんは歓迎されたみたいで安心したわぁ」

「もう、お母さんみたいなこと言わないでください」

 微かに頬を紅色に染めた鷺澤の言葉は、強かった。今しがた、その両親との別れを済ませてきたばかりだというのに。

 帰って来れると確信しているのだろう。その事実が東雲南の胸を、ほんの少しだけ痛めた。

 鼻の下が伸びないように精一杯の表情をしながら、日計は後頭部を掻いた。

「妹が、それはもう喜びまして。大興奮ですよ、もう。ここで彼女を紹介できたのはよかったかな」

 まだ独り身で、行き遅れの現実に直面している自分とは大違いである目の前の二人を、東雲は眩しそうに見つめた。この輝きが、アフリカであっても薄れることはないように、と願わずにはいられない。そうすれば、きっと勝てるだろう。

 しばらくして、黒田がこちらを振り返った。手招いている所を見ると、全員に用があるらしい。三人で日計家の門前へと戻ると、父親が言った。

「東雲さん、あなたもアフリカへ同行されると伺いました。息子を守ってくださるのでしょう?」

 彼の決定的な質問に、彼女は首を振って答えた。

「お父様、わたしは何も約束はできません。ここにいる鷺澤朱里、日計洋一、そしてわたしは、同じ部隊であり……仲間です。仲間とは、第二の家族です。彼らを守るために全力を尽くしますが、それは彼らも同じこととお思いください」

 日計洋一が口を挟んだ。

「父さん、ぼくはもう軍人なんだ。命令には従う。何より、父さんや母さん、歩美を守るために行くんだよ」

「いいや洋一、お前はわかっていない。だが、きっとわかる日が来るだろう。それに、嘘はつかなくていい。お前が戦うのは、父さんや母さん、歩美のためじゃない。そこにいる、鷺澤さんのためだろう?」

 何も言わずに、日計は父を見つめた。鷺澤は頬を染めながらも、しっかりと彼らの意思がぶつかり合う成り行きを見守っている。

「ぼくは」息子は張りつめた沈黙を破って、「鷺澤朱里のためだけには戦わないよ」

「では、誰のために戦う? 誰のためにアフリカへ行くんだ。言ってみろ、洋一」

「海を渡ることは、ぼくの意志じゃない。だけど、ぼくは、この戦いを自分のためにやり遂げたいと思っている。それが、鷺澤と共に戦うということだ」

「命を投げ打って、彼女と共に往くのか。お前の将来はお前だけのものじゃないんだぞ。歩美が昨日の晩、泣いていたのを、お前だって知っている筈じゃないか。これほど悲しいことがあるか? 家族が死ぬかもしれない。それも、地球の裏側で、遺体すら戻ってこないかもしれない」

「父さん、よく言ってたじゃないか。女の無茶には付き合ってやれ、どこまで隣にいてやれるかが、男の甲斐性だって。だからこそぼくは、鷺澤と一緒に行く」

「父さんや母さん、歩美がこれだけ心配しているのにか?」

 東雲は悟った。これは彼の父親が、息子を引き留めようとしているのではなく、その覚悟を試しているのだ。

 日計洋一も気付いている。だからこそ、こうして時間をかけ、自分の父に相対しているのだ。

 青年をはじめとする家族は、これに始めから気付いていたのだろう。残される側と、巣立つ者。両者が相対し、お互いの信念を確かめ合っている。

 父を見つめる息子は、微かな笑みさえ浮かべながら言った。

「いつ死ぬかが問題じゃないよ」父親は、驚いたように息子を見つめ返した。「このままずるずると何かに引きずられるように生きて、最期の瞬間に、何も感じずに息を引き取るよりも、途中で倒れたって、あの世で神様に胸を張れる何かを成し遂げて死にたい」

「平和に死ぬことのどこが悪いんだ。最も平凡な幸福の形だ。そうありたいと願っても、平和を知らずに擦りきれる人生だってある」

「そんなことは、ぼくには関係ない」

 強く、青年は父の言葉を断ち切った。

「ぼくは、ぼくが満足できる道を行く」

 しばしの沈黙の後、父はため息をつき、優しく息子を抱き寄せた。

 終わったのか。東雲南津子は、いつの間にか止めていた息を吐く。

「言うようになったな。行って来い、洋一。だが、なるべく生きて帰ってこいよ。母さんや歩美が悲しむ」

 悲しみを感じさせまいと、微かに熱のこもる口調で彼は言った。

 息子が帰って来ないかもしれないという覚悟の滲み出た言葉だった。

「うん。父さんも元気で。母さん、歩美、帰ったら何か作ってくれよ。自衛隊の戦闘糧食レーションは、やっぱり味気なくて」

「なんでも作るわ。頑張りなさいね、洋一」

「兄さんも……元気で……」

 最後に、妹が涙を抑え切れずに、声を上げて兄に抱き着いた。彼は妹を優しく撫で、最後に見事な敬礼を残すと、踵を返して高機動車へと歩き始めた。

 敬礼と挨拶をして、残りの三人が慌てて彼を追う。右側を東雲南津子、左側を鷺澤朱里が歩き、黒田幹久が後に続いた。

「日計くん、寂しい?」

 傍らで問うた鷺澤を顧みることなく、日計洋一は答えた。

「いいや。これは別れじゃないからね」





 アフリカ派遣戦闘群。

 憲法第九条の改正以前、自衛隊時代から数え、太平洋戦争後における最大の海外派兵。抽出された機甲科、普通科は幅広く、対戦車ヘリコプター隊を含め、総勢三千二十三名もの兵員が、アフリカ大陸へと派遣されることが最終的に決定した。

 日本国がこれを閣議決定した二日後に安保理にて、中露のアフリカ大陸への機甲戦力増派が宣言される。九十九里の勝利をおさめた日本に対して、軍事的威信を示すための示威行為との見方が有力だ。一方で、再開されたアフリカ戦役における黒い軍隊の攻撃は激しかった。どちらにしろ増派は免れなかったという見方も根強い。十五年前とは違い、新たに戦線投入された敵の量産型PGTASの存在が大きいという。

「紫雲を隠すためだか知らないが、地球の裏側ってのはやりすぎに思えなくもないな」

 食堂でカツ丼をぱくつきながらぼやく日向道夫へ、花園咲は剣呑な視線を投げた。

 まるで他人事ともいうべき彼の物言いに眉を潜めるも、彼はまるで意に介さずに、卵とじの一片を口に放り込んだ。

 第一技術試験旅団第七PG中隊。彼らは陸自でも異例中の異例、防衛装備庁直轄の兵装試験部隊である。ある程度、信頼性が高いと評価された兵器を実戦で少数運用し、評価をつけるのは各国軍隊でも行われる手法ではある。が、概念実証機の段階から戦線投入される兵器は、戦後類を見ない。それが紫雲だ。

 第三世代PGTASを、早急に戦力化する意図が大きかったことは否めない。背景には世界と日本とのパワーバランス、政治的な色合いを深く帯びているのは言うまでもないであろう。

 四機の紫雲が前線で戦い、傷付く。これを修復し、戦闘情報を回収して報告するのが、装備庁から出向した日向道夫と花園咲の役割である。

 故に、第七PG中隊は技術屋として、陸上部隊から爪弾きにされることが間々あった。それは今でも変わらない。九十九里浜要撃戦で、要撃部隊の主力を担った陸自ではなく、四機の純白に輝く巨人の活躍が、より大々的にメディアで取り沙汰されたためだ。

 しかし習志野駐屯地では、多くの部隊を第七PG中隊が救ったこともあり、剣呑なものから親愛の溢れるものに変わっている節も、あるにはある。

 要は、十人十色ということだ。こうした外部からの評価には頓着すべきではない。しかし実害となりうるならば話も違ってくる。

 悩ましい問題を噛み砕くように、日向は音を立ててキュウリのぬか漬けを噛み砕く。

「案外、おれ達を遠ざけておきたいから、だったりしてな。ちょっと面倒だから、地球の裏側まで行って来いって訳だ。笑えねぇよ、まったく」

 二人が座るテーブルは、食堂のほとんど中央。他の食事をとる隊員達からの好奇の視線に、どちらも無神経とも思える程に無視を貫いていた。

「日向、本気でぼやいてるの? 小林主任だって来てくださるのよ。部隊の仲間がいれば、それでいいじゃない。どちらにしろ、紫雲も戦うために作られたのだし」

「よかねぇよ、マジで言ってんのか。あの人だって最初の四ヶ月でどうせ帰国だ」

「それは聞いてるけど。理由までは……」

「どうしても離せないプロジェクトがあるらしい。あの人も多忙だよ。ほとぼりが冷めるまで、アフリカへ疎開だ」

 彼が言うのは、国連から日本へのPGTAS技術公表を迫る安保理の圧力である。あらゆる軍事技術の礎となる科学力を、各国は喉から手が出るほど欲しがっている。

 戦後の覇権確保のために。その事実が何よりも面白くなく、日向は殊更に顔を顰めて見せた。

 今現在、最も有力な軍事力を持つ国のひとつに数えられている日本国。太平洋戦争から貼られた敗戦国というレッテルを半ば剥がしかけたこの国の変貌に、世界中が危機感を募らせている。

 どんな政治的思惑も、たとえこの国の人々を守るためであるとしても、くだらないことだ。二人は心の底からそう思った。

「向こうは暑いでしょうね。日焼け止めとか持っていかなきゃ」

「花園さぁ」カツ丼の丼の縁から目だけをだし、日向は言う。

「なに?」彼女はショートカットの黒髪を揺らしながら問うた。

「どうして、他の奴らにもそうやって接しないんだよ。みんな、お前が気難しい奴だって思ってるぜ」

「……別に、訂正する必要もないでしょう。もう少ししたら、みんなとももっと、打ち解けられると思うけど」

 尻すぼみに声の小さくなるその言葉が、彼女の性格を物語っている。

 特技下士官である彼女は、厳密に言えば、有沢琢磨をはじめとする四名のPGドライバーとは所属も違えば出身も違う。いざというときにPGTASを操縦できるだけの技量は持っている二人だが、見送る側と見送られる側。この二つには溝が大きい。特に、花園はこうした意識を乗り越えられないでいた。

「怖いのか、彼らが死ぬのが」

「――――」

「おれは怖い。九十九里で思い知ったよ。押し寄せる黒い波に、あいつらはたった四機で挑むんだ。玉響が損傷した時、心臓が縮み上がったね。すぐに高機動車に乗り込んで、助けに行ってやりたかった」

 だが、それはできない。

 そんなものは、地獄だ。

 彼の胸中を察し、花園は微笑みと共に頷いた。

「わたしも同じよ。特に、玉響と火燕が窮地に陥った時は、言葉では言い表せないくらいに怯えてしまう」

「なのに、どうして」

「違うのよ、日向。わたしは後方で、彼らは戦場。嫌なものよ、自分以外の、誰かの安否を気遣うなんて。これ以上に心を許してしまったら、きっと見送るだけでもできなくなる」

「花園」

「いいの。わたしは寡黙な特技下士官。彼らの武器を磨くのが仕事。それでいいの」

 日向は、彼女の華奢な手を握る。





 十一月二十八日、アフリカ派遣戦闘群は成田空港に揃った。

 空自機がベイパートレイルを青いキャンバスに描く。防衛大臣黒田幹久、並びに内閣の面々が極秘のうちに移動し、空路にてアフリカへと飛び立つチャーター機を見送るべく滑走路に並んでいた。

 戦闘群に参画している各自衛官の家族にも本省によって集められた。ほぼ全員の家族が揃い、騒ぎを聞きつけたメディア陣がここに到着する頃には、彼らはここから姿を消していることになる。空と日本のどこかへと。

 インドはニューデリーでの一時集合は見送られ、スーダンはハルツームにある国連軍アフリカ本部への直行便に乗ることになった。これも待ち構えている報道陣や、第三世代PGTASの情報を掠め取ろうとする諸外国の諜報組織を牽制するため。およそ十二時間弱のフライト。通常ならより短い時間で済む移動だが、赤道よりやや南にまで迫りつつある黒い軍隊の、無人制空戦闘機がいつ飛んでくるやも知れない。そうした中で、非武装の民間機を護衛している余力は、国連軍にはなかった。

 幸いにも、機材は先にハルツームへと送られている。極秘裏の内にこうして装備が運搬されていることについては、言うまでもなく機密保持だ。味方さえも騙すやり方にいかがなものかと首を傾げてしまう。

「こんな物々しい送迎があるとは知らなかったわ。そんなに重要なのね、わたしたち」

 閣僚の面々へ向けた敬礼が終わり、日本製の大型旅客機に乗り込みながら鷺澤朱里がぼやく。日計洋一は隣で、同じように敬礼していた腕を下ろした。

 搭乗口でいつまでももたついていたら、あとがつかえる。それに、成田の滑走路は風が強い。冬の空気は身も凍るほどの冷たさだ。習志野駐屯地へと初めて足を踏み入れた時には滝のように汗を流していたのに、今の時分はこの分厚い制服が何よりも頼もしく思える。

「国の最重要機密だからだろ。紫雲はその運用までもが機密のヴェールに包まれるだろうって、有沢さんが言ってたし。操縦方法も積極的には公開されないそうだ」

「いくら他に類を見ないものだからって、それで機密が保たれるものなのかしら」

 彼女らが言うのは、神経接続による直接操縦方式のことだ。

「国連軍とは共同戦線でしょ? 同じ格納庫だって使うはずじゃない。情報保全隊も同行するのよね?」

「どうだろうね。違う部署だからわからないや。黒田防衛相が何も対策を講じていないとは思わないけど」

 その時、閣僚の脇にいる日計家と鷺澤家、ほか、見送りに出て来た民間人の集団が手を振り始めた。中には涙している家族もいる。目一杯降られる人の手は、風になびくススキのようだ。

 二人は機の中へ消える前に、もう一度、愛する家族へと手を振り返す。集団の中程から、手に両手を当てて叫ぶ初老の男女がいた。

「なっちゃーん! しっかり食べて、帰ってきんさいね!」

 まさかと思い振り返ると、東雲南津子が耳まで赤くしながら怒鳴り返していた。

「母さん、わかったから! 佐藤の伯父さんところにもよろしく言っといてね!」

「なっちゃん、ね」

 鷺澤が笑いをかみ殺しながら呟く。日計も口を真一文字に引き結びながら彼女の脇腹を肘で小突き、今一度家族の顔と声を記憶に焼き付けてから搭乗口を潜った。

 これで、しばらくは会えない。二度と帰れない可能性は考えなかった。悪い想像は現実となりやすいし、自分は何が何でも生き残るつもりでいる。

「何にしても」鷺澤は、名残惜しげに機内に踏み込み、「いよいよアフリカなわけだけど。キリンはいるのかしら?」

「はあ?」

 唐突な質問に間延びした顔で彼女に言った。

「なんだよ急に。そんなの観光してる暇なんてあるもんか。黒い巨人の方が多そうだし」

「浪漫がないわねぇ、男の子は。そんなんじゃ彼女に嫌われちゃ、う、ぞ」

 やけに時代錯誤な口調で会話に割り込んで来た東雲へと、日計は顔を顰めた。

「遊びに行くわけじゃないですから。東雲さんは緊張しなさすぎですよ」

「いいじゃない、ちょっとは余裕ぶったって。どっちみち、四機のPGTASができることなんてたかが知れてるのよ。機密だなんだの気にする前に、自分の実力をどれだけ発揮できるか、そのために何ができるのか。そう考えたほうが有意義じゃない?」

「でも、四六時中そんなことを考えてもいられません」と鷺澤。

「なら寝ることね。少しでも体を休めること。それだけでなく心も」

「なっちゃん二等陸尉?」

「何か言ったかしら、鷺澤朱里三等陸尉?」

 座席へと移動しながら、二人がじゃれ合っているのを日計洋一は見つめた。

 仲間かぞくとはいいものだ。たとえ血がつながっていなくとも。

「なんにしても、先は長いわ。気を引き締めなおして。いい?」

 はい、と二人が返事をしたところで、最後に有沢琢磨と小林修一が機内に入って来た。出陣の最後尾だった二名が近くの座席に腰を下ろすと、搭乗ハッチが音を立てて閉じる。他にも同乗している陸上自衛隊員から、大きな嘆息が漏れた。

「おいおい、遂に閉じちまったぜ」

「日本の酒が呑めなくなるのか」

「馬鹿、気にするのはそこかよ……空気読めって……」

 各人のぼやきを聞きながら、日計は座席を微かにリクライニングさせて、しばし瞳を閉じた。

 これから、国の外、愛する者に会えないまま、地獄の向こうで死ぬかもしれない人々。

 死の戦列だ。まっしぐらに戦死するために突撃する兵隊を思い描き、ばつの悪さに眉を潜める。映画の見すぎだ。

「さあ、離陸だ。諸君、シートベルトを」

「イエス・サー」

 日向道夫が茶化すと、有沢が顔を顰めた。直後に、キャビンアテンダントから安全確認と緊急時の避難教示が為され、間延びした返事が後に続く。旅客機は誘導路から滑走路への進入を開始。どうにも場違いに思える。明らかに一般人とは違った落ち着きや意識を持っている男女に対して、彼女の乱れることのない説明口調はピンボケとも感じられる。

 日計は、鷺澤の、同世代の他の女性よりは豊かな胸を通り越した先にある小さな窓から見える景色を楽しむべく目を開けた。

 殺風景な滑走路。ここを、確かに守ったのだ。九十九里浜という、小さな土地での出来事であったとはいえ、自分たちは日本を守るために戦った。この満足感と共に、故郷を後にし、戦地へと赴こう。誇りがあれば、折れずに戦っていける。戦い続ければ、生き残れる筈だ。

 それと、隣に座る戦いの意味があれば。

 彼女がこちらを見やり、何かを見透かしたような笑みを浮かべた。

「どこ見てんのよ」

「いや、見てないって。ホント、ホント」

「ホント、ね。ふうん?」

 ターボファンエンジンの吸気音が高まる。ブレーキを解除された旅客機は滑走路上を弾丸のように加速し、ベルトで固定された体に加速度がかかった。助かったのかどうかわからないが、とにかく会話は中断された。

 やがて騒音が減り、機体は機首を持ち上げて上昇姿勢に入った。次第に加速が弱まり、高度を確保した時点でベルト装着のランプが消灯。乗員たちが大きく息を吐くのが聞こえた。同時に旅客機のフラップが上がり、巡航高度へ向けてぐんぐん上昇していく。

「地獄への直行便だ。切符は片道だったっけな?」

 日向道夫の言葉の後で、花園咲がその頭を叩いた音がやけに機内に大きく響いた。





 人類が南極大陸に上陸したといっても、その活動で記名しえた土地名はごく僅かだ。極地故の厳環境から、黒い軍隊が出現せずともその調査には目立った進展は無かっただろう。

 外気は当たり前のように氷点下。通常の生活など営む余地のない、生命を拒絶した大地の地下。

 時代錯誤な軍装を身に着けた五人の男女が、十メートル四方ほどの空間を持つ会議室で一堂に会している。その実態は九十九・九パーセント以上の人類には認知されておらず、その中に彼らは人数として加算されうるのかどうかも判断がつかなかった。

 思えば、こうして全員が顔を揃えるというのも久しくなかったことだ。エセックス・ブレイナンの記憶によれば、彼女が、人類からアレースと呼ばれるPGTASに乗り、横浜港を業火に落とし込めたあの日からさらに一週間は前が最後であった。明快な頭脳と海水さえも凍りつかせる美貌を持つ彼女が、悩ましげな睫毛を震わせて卓の表面、その一点を見つめ、彫像のように動きを止める。

 薄暗い室内の僅かな照明に照らされ、太陽のきらめきを放つ彼女の長髪。その下にある一対の、氷河の色をたたえた瞳。人間性ではなく、氷の知性と冷徹さを放ちながら、ブレイナンは隣に座るラガード・トリセクスカへと視線を移した。

 彼女の他に卓に着いているのは四人。首領であり、百万にものぼる装甲無人兵器群の全権指揮を担うトリセクスカ。セミロングの黒髪を携え、微笑みをさらに十倍に薄めて唇を歪めている女は、レイノス・ディ・カレイノス。彼女の隣には銀髪とコバルトブルーの瞳、瞬きひとつせずに佇んでいる少年、レオストロ。

 最後に、今もアフリカで国連軍を相手取り、報告のために参上したスメルス・リンクトベルグ・ブラウツィア。少し長い金髪と放置された顎鬚。左顎に走る薄い切り傷が見る者に凄味を与える。ぎらつくブラウンの瞳が彼の好戦性を象徴しているとも言えた。荒れ狂う戦神を思わせる。今日は立体映像ホログラフでの参加のため、同じように気性の荒いレイノスと取っ組み合いの喧嘩になることはない。

 埃ひとつない、黒く染め抜かれた儀礼用軍服。だがそのデザインはどの国のものでもない。彼ら独自のものだ。それがこの五人が如何に人類社会から隔絶しえた環境に身を置いているのかを、端的に表してもいるようだ。

「そろそろ、自己紹介をしようかと思う」

 出し抜けにラガードが放った一言が、この会議の始まりを告げる鐘となった。

 毎回の慣習から、即座にレイノスが口を挟む。

「この面子で、かい? なんだ、そんなのはする必要はないよ。あたしらは生まれる前から知り合ってるんだから。そうだろう、スメルス?」

 偉丈夫が、ここぞとばかりに言い返した。

「お前はいつもそうだな、レイノス。頭から言葉が漏れ出てくる。少しはおつむの心配をしろ。国連の猿よりも性質が悪い」

「ふん、あんたの汚い髭面よりからはマシさ。それで、次はどんな風に揚げ足とろうってんだい、この匹夫が」

「貴様ぁ……」

「いつも通りの醜態だな、二人とも。畜生の遠吠えで満足か?」

 鋭く、辛辣な声。トリセクスカの言葉に、いきり立った二人はそのまま腰を下ろす。

 ブレイナンは、自分がこれを仲裁する役目を負わずにほっと胸を撫で下ろした。どちらにも遺恨を残さずに喧嘩をやめさせることは至難の業なのである。その点、トリセクスカは彼らの指揮官であり、ここは曲がりなりにも軍隊だ。地球史上初めての、母体となる国家を持たない軍隊。その彼の一声ともあれば遺恨など残りよう筈もない。

 黒い軍隊。人類は自分達をそう呼ぶ。だが、彼ら自身にはまた別の呼称があるのだ。彼の言う自己紹介とはそういう意味なのだろう。人類に対して、改めて彼らの存在を示す。名前には意味が宿り、育まれた精神には信念が育つ。そしてそのどちらも、本来、自分達には不必要なものだ。この戦いを経て、同志達が様々な変化に晒されていることに、ブレイナンは気が気でない。

 冷めた視線を転じて、トリセクスカは溜息もつかず、肩を竦めもせず、意識を会議へと戻した。

「まあいい、先に本題に入る。エセックスが横浜港を制圧してから、九十九里浜に揚陸を試みた。二つの作戦では戦術的敗北を喫したが、戦略目標は完遂している。現在、アフリカ、及び東南アジアで侵攻を再開。アフリカでは、スメルスに攻撃参謀を務めてもらっている状況だ。どうだ、今の所は?」

「こっちは平常運転だ」

 スメルスが顎鬚をさすりながら答える。レイノスが再び口を挟もうと前かがみになったが、ブレイナンの殺意すらこめた視線を受け止め、思い直したようだ。レオストロだけが、居並びながら会議を傍聴するように気配を消している。傍聴者としての立場は大地のように揺るがないものであるらしい。

 スメルスは卓のコンソールを操作してホログラフでアフリカ大陸を表示した。全員の視線がそこへ集まる。

「おれがラガード、お前から受け取った戦力は、三十一万五千五十八だ。単純な数とその性能の話をすれば、これでじゅうぶんすぎると、おれは判断している。国連軍はウガンダ、ケニアを中心にしてフロントラインを築いていて、どうやらカンパラ付近に中央司令部に準ずる指揮系統のハブがあると睨んでいる」

「本当にじゅうぶんだと判断しているのか? 初撃は重要だ、お前のギガスを出してもいい」

「へぇ、いいのか。おれ達の目的は、人間どもの根絶じゃあないだろう? もっと重要な局面で暴れようかと思っていたんだが。通常兵器でも蹂躙できるくらいだしな」

 白髪と対照的な褐色の肌を持つ男は、ゆっくりと首を振った。

「十五年前とは違うということを思い知らせてやれれば、それでいい。あの白いPGTASは、今の所、日本にしかいないからな」

 全員が、むっつりと黙り込む。

 九十九里浜要撃戦。この戦いの意義は、人類側、特にPGTAS技術で先進する日本国の実力を量ることにあった。

 国連は二百を超える国家の集合体。尤も、そのうちのいくつかは既に滅亡の途を辿った。南極戦争初期にはオーストラリアとニュージーランド、東南アジアの大半の国々からアフリカ大陸南部の各国に至るまで。政治的策略や各国単位での利権争いで内部に問題を多く抱えていると言っても、とてつもない規模を誇る組織だ。全人類が、国境も民族も、そのどちらかでも捨てて対抗してくるのならば、ここに集う彼らなどあっという間に南極の奥地まで押し返されてしまう。物量による戦争では勝ち目はないのだ。第二次世界大戦で枢軸国と連合国がそうして勝敗を決したように。

 推し量るまでもなく国連側にとって現状は苦しいものであり、認めがたい劣勢であろう。この状況は人々が黒い軍隊と呼ぶ彼らにとっても不本意だった。人間は、追いつめられれば追いつめられるほどに愚かさを露呈していく。学ぶことをしない。あるのは慣れという麻酔薬だけだ。彼らが事後に顧みるのは、自分が他者にどんな影響を与えたかではなく、自分が、自分にとって納得のいく行為を残せたのかという一事。無知で卑小、自己中心的に過ぎるその本性。

 ブレイナンでさえ、そうした醜い、目を逸らしたくなる営みを根本から叩き潰すことができればどれほど清々しい心持ちになれるかを夢想することがある。それは同時に戦慄を彼女に与えた。

 議論は進められ、スメルスとトリセクスカの間で戦略方針が固められていった。

「まずは当初の予定通りにウガンダから北東へ進んでカンパラを抑える。そこから後はケニアでの戦線圧迫に移る、ということだな」

「ああ。アフリカは広大だ。兵站線を襲撃するなど自殺行為だが、追いつめられれば何をやるかわからないのが人間だ。用心しておけ。個別集団での戦闘はこちらにとっても分が悪いし、兵站も考慮に入れることだ」

「了解した。それで、戦略目標は決まった訳だが、攻撃重心点もその方向でいいんだよな? 全面攻勢をするにしても、弾薬補給の観点からあまり長くはできん」

「距離と言わず、地域で示そう。ヴィクトリア湖を挟んで、ケニアとの国境付近まで押し込んでもらいたい。北進するより、先日までの攻撃で突出したコンゴ中部から東進する方針はそのままでいいが、ルワンダ国境からケニア内部へ攻め込むのも一興だ。ケニア戦線は、初戦ではまだ放置していい」

「何故だ?」

「勝ってしまうからだ。圧倒的に、完膚なきまでにな。まずは敵の兵力を削れ。喉元に剣を突きつけるのはまだ時期尚早だ」

「わかった。最後の確認だが、攻撃開始時刻もこちらの判断?」

「勿論だ。十五年ぶりに大暴れしてきてくれて構わない」

 スメルスは凄味のある笑みを浮かべた後、立ち上がって敬礼した。そのまま彼の立体映像が消える。

 大きく息を吐く音。レイノスだ。彼女は露骨に眉を潜めながら、足を組んで椅子の肘掛を苛々と指で叩く。

 大方、自分が出陣できないことが不服なのだろう。ブレイナンは冷ややかに分析する。この五人の中で、十五年前から未熟な自我を備えた自分達は、対極に位置する性格を備えてしまった。彼女とレオストロは同じように穏やかな性格。たおやかに流れた長い金髪を撫でながら、ちらりと大きな座席に座る少年を見やる。彼は何事も映してはいないその瞳で、トリセクスカを見つめたままだ。

 肌を凍らせる冷気。南極の、氷点下にまで落ち込むブリザードの余波だ。外部の空調から送られる、命ある万物を拒絶する世界。

 にも拘らず、じっとりと汗で湿った手を握りしめる。

 自分は戦いに飢えているのだろうか。エセックス・ブレイナンは、横浜の紅い海を思い出す。

 あの中を生き残った二人。男女一組の、日本国陸上自衛官。彼らと再び会い見える日が来るのならば――自分は、引き金を引けるか?

 人形として生み出された彼女らとて、心はある。未成熟、感情の不足など、決して健常者としての情緒を完璧に備えている訳ではない。好戦性に支配されている、レイノスやスメルスもいる。

 だが、自分は優しすぎた。ブレイナンは思う。せめてこの優しさが、自らを滅ぼさぬように願うばかり。

 割を食うのはいつもお人好しなのだ。

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