第六話

 鬱屈とした空気の蔓延していた会議が終了し、閣僚たちがそそくさと退出していく。横浜港襲撃事件は各方面に重大な爪跡を残し、防衛省以外の省庁も総動員されて事後処理に追われているのだ。

 彼らを敢えて引き留めはせず、大滝史彦は激務の中のオアシスとして、この会議の終了後に訪れる奇妙な空白の時間を楽しむことにしていた。一国を預かる身としては贅沢すぎると言えるだろうが、人間であるからには休息は必要だ。

 気を利かせて、どこかの係官がいつも通りに緑茶を運んできた。顔馴染みとなった彼と会釈を交わして礼を言ってから、黒いプラスティックのマグに紙コップを収めた簡易的なものを口に運ぶ。インスタントだが味は良い。できれば愛用の湯呑で啜りたかったものだと名残惜しむが、二つと取れぬこの時間を楽しむ以外の選択肢はない。首相官邸に戻ればスケジュールは山となって彼を待っている。この情勢下で長閑な政治家生命を全うできるとは考えていなかったが、それでも多少の幸福を営む権利は欲しいと思う彼だった。もう何年も嫁孝行ができていない。

 昨今は特に国際連合からの圧力が強く、外務省からの報告は聞く度に耳が痛くなる。世界有数の武力を保持するに至った日本は常任理事国としての参加を呼びかけられている。太平洋戦争終結後から決して国連という場で表立った権力を与えられずに来た日本へ新たな責任を背負わせようとしている。大滝は総理大臣としてこの要請を蹴り、権力ではなく自国の独立性を維持する方針を固めていた。それでも国際社会の流れには折れざるを得ず、いいところ、非常任理事国という席に落ち着くだろう。安保理に参加するということは、アメリカ、ロシア、中国などと同じく、世界各国へと軍を派遣し、他国のために戦うことと同義だ。

 黒田からも助言を受けたように、日本は海外派兵など考えるべきではない。戦後から長らく続いてきた専守防衛は、自衛軍の規律や法律に深く根を張り、十年ちょっとでは完全に払拭できない深みにまで達している。海外展開を支えるためには想像を絶する規模の兵站ロジスティクスを整えることが必須だが、輸送船の数だけを見ても装備に不安な面が残るし、兵力の輸送には必然的に海に出なければならない日本にとって、目の前に黒い軍隊がいる状況では極めて難しいと言わざるを得ない。戦力を分散させれば敵の攻撃を誘引する結果にもなりかねないのだ。

 集中力を切らしてぼんやりと考えている彼の耳に、ドアをノックする音が響く。

 素早く係官へ目配せすると、彼は小走りに駆け寄って、防音扉を開いた。休憩中とはいえスケジュールには載っていないものであるから、用のある者は遠慮なくここを訪ねてくる。

 のっそりと姿を現したのは黒田だった。彼の高い身長から出る威圧感は形容し難いものがあるが、今は一段とその鋭さに磨きがかかっているようだ。係官は気圧されてたじろぎ、場を察して入れ替わりに部屋の外へと歩み出ていった。

「何事かな。わたしは休憩中だが」

 大滝は問うた。背後の扉が閉まってから彼はどかどかと歩み寄り、二つの椅子を挟んだ座席にどっかりと腰を下ろす。その顔には疲労の色が濃い。自分も似たような顔をしているのだろうな、と鏡を見るような気分でぼんやりと考えた。

「総理、ひとつお伺いしたいことがあります。可及的速やかに確かめておきたいのです」

「いいだろう。いってみたまえ」

「では遠慮なく。第三世代機の概念実証が完了したら、あなたは次にどうわたしに命令なさるおつもりですか。量産機の開発か、それとも、さらなる高性能機の開発か」

 内心の動揺を顔に出さずに済んだのは、長い政治家人生の賜物だ。亀の甲より年の功である。

 そして老練さは、時に狡猾な側面を露わにするものだ。

「量産機の開発だ。軍用兵器は数を揃えシステムとして組み込むことが大前提だ。それに、稼働機の新規開発と信頼性を担保するための概念実証機だからな」

「誤魔化さないでいただきたい。曖昧な返答では、わたしは頑としてここを動きませんぞ」

 鼻を鳴らして、大滝は茶を啜りながら手を振って空の円卓を示した。

「そうするがいい、わたしの知ったことではないからな。それが重要か?」

「大いに重要です。今、国連軍の主力PGTASは第二世代、ドイツとアメリカ製だ。その中で我が国だけが第三世代機を実用化しようものなら、国際連合内部におけるパワーバランスは大いに揺らぎます。核抑止力に匹敵する武力となるかもしれない」

「日本が世界の脅威となる。そう言いたいのか、君は。冷戦時代、我が国は安寧を享受し続けていた訳ではない。代理戦争の恐怖を実感した人間は我が国にもいるのだ」

「それは核についての話です。大量破壊兵器でなくとも戦略兵器とはなりうる。それをPGTASを使って実現させようとしているのならば、世界は冷戦時代に逆戻りです」

「そもそもPGTASは戦闘の主役にはなり得ない。かつてわたしにそう言ったのは、記憶違いでなければ君ではなかっただろうか?」

「持論は今も覆す気はありません。PGTASは大きいだけで相当なハンデを背負っている。動きも鈍いしコストもかかるデカい的だ。しかしそれは話です、総理。もしあなたがこれを覆そうとなさっているのならば、それは――」

「それは、なんだね。ここは誰も聞いてはいないよ、黒田君。完全防諜だ。言ってみたまえ」

 それでも黒田は数俊の間迷い、視線を泳がせていたが、やがて腹を括って口を開いた。

「いえ、何でもありません。退出してもよろしいでしょうか、閣下」

「もちろんだ。退出してよろしい、黒田防衛相」

「ありがとうございます。お時間を取らせて、申し訳ありませんでした」

 黒田はそのまま大人しく引きさがった。大滝史彦は遂に始まった頭痛を抑えるために、緑茶をさらに一口啜る。

 厄介な男だ。それ以上の感想を、彼は抱かなかった。

 熊はまだ冬眠するつもりはないらしい。暖冬には違いなかった。





 富士の黒々とした山が見える。被っていた雪はどこへやら、その山肌は険しい。さながら本性を現した女。しかしその貌は美しさを増しているように思える。

 止まらない頭痛に顔をしかめながら、昼食の豚汁をかきこんでいく。大きく開いた巨大な搬送扉から見える東富士演習場の新地を機甲科の主力戦車が土煙を巻き上げながら横ぎっていき、遠くの射撃演習場へと姿を消した。耳障りな金属履帯の擦れる音が後に残り、ディーゼルエンジンの低い駆動音がグラスの液面を未だ揺らしている。

 着々と進んでいる演習の様子を、隣で鷺澤朱里が同じように白飯をぱくつきながら睨んでいる。どういう訳かPG格納庫にあるブリーフィングルームでの昼食。着替えすら許されない待遇への不満か、汗で額にへばりついた髪の毛の下に覗く瞳は鋭かった。体のラインに合わせて採寸されているドライバースーツは眼に毒だ。日計は否が応にも視線を外に向けざるを得ない。すると険しい山肌ばかりが目に映る。殺風景な景色は心を荒ませ、啜る豚汁の出汁が薄く感じられた。

 習志野駐屯地で一切の事務手続きを完了して既に二週間。日計、鷺澤の両名は、正式に第七PG中隊へと配属、着任。習熟訓練へと移っていた。もっとも、搭乗機体含め初期作戦能力を獲得したとはみなされていないから、未だ部隊の一員とは言い難い。第七PG中隊の稼働率は高くても五十パーセントということになり、装備人員の補充中というのが表向きの状況である。

 自然と視線が泳ぐ力に抗しきれず、日計は鷺澤の胸元あたりを見つめた。そして顔を逸らし、自らが操る定めにある白い巨人へと思いを馳せる。

 PG=22M、紫雲。それが技術試験旅団第七PG中隊が保有する、世界初にして唯一の第三世代PGTASの名前だ。

 新世代機の概念実証機として開発された機体に武装を施して実戦投入を図るため、本来は戦闘を想定した機体ではない紫雲は運用に難があるといわれているが、それでも十二分以上の潜在能力を秘めている。新式の複合タービン機関、関節駆動系、サスペンションの小型化と強化、ヴェトロニクスの簡略化と高速化。枚挙にいとまがない改良を蒼天に施して製造された事実上のワンオフ機体。予備部品の製造も細々と続けられているようだが、多くの交換部品は蒼天と同規格であるため、当分はそちらを使っていくことになるだろう。

 第七PG中隊に配備されたのは四機。有沢琢磨、東雲南津子、鷺澤朱里、そして日計洋一のPGドライバー四名が、四機の紫雲に乗機することになる。このまま訓練が滞りなく終わればという注釈はつくが、是非とも我がものにしてみたいものだと日計は意気込んでいた。

 紫雲の純白の装甲版に包まれた、既存のPGTASとは一線を画する機影を、ブリーフィングルームの窓から臨むことができる。白い塗装が施された装甲板は新式の軽量複合装甲。曲線ではなく多角面で構成された四肢はしなやかだ。特徴的なのは胴体で、前後に伸びた背中には伸縮式を採用した二本のウェイト・スタビライザー、同じく細長い頭部には四基二対のカメラアイが無機物感を醸している。使用できる武装は蒼天と変わらないが、有沢の談によれば紫雲が用いる専用武装の開発が模索されているという。彼の言葉通り、紫雲はこれまでのPGTAS戦術を根底から覆す新技術が導入されている。戦場が変われば武器も変わるというわけだ。

 PGTAS開発が新たな段階へ進むに伴い、使用する武装が進歩するのは当然だ。製造は日本でPGTAS生産を担う、世界でも数少ない重工業系企業であるところの山岸重工。蒼天と違い、これに防衛装備庁が直接関わって製造が行われたという。官民一体となって製造された、技術の粋を結集した最新鋭機ということだ。

 だが、紫雲が特別視されている、あるいは第三世代と呼ばれているのには別の確固たる理由がある。

 第二世代の蒼天が高性能化を果たすのならば、それは第二・五世代と呼ぶべき代物だ。第三世代機の条件は、より細かい人間らしい動作を可能とする操縦機構にある。

 それまでは、両手両足を動かす、戦闘機のコックピットを模した操縦系統だった。ドライバーは両手に握る操縦桿とフットペダルの感覚から機体状況を把握し、正面左右と上下に表示される外界の情報を適宜選択して操作する。言うまでもなく、不便だ。人間が人型機械を全て操作することは不可能だ。MMIの面でもボタンやタッチパネルといった媒体を介するために、どうしても反応速度に遅れが出てしまう。

 これの改善のために実用化されたものが、侵襲式神経接続伝達回路と、NCRS《神経接続調整システム》である。

 人型を模した機体には五本の指やソフトウェア上の制約があり、人間のような柔軟な動作を行うには機械的限界がある。例えば、地面に置いてある球体を指でつまむような繊細な動作を行うにしても、専用のシステムを構築しなければまず正確には動作しえない。ただ単純に腕を真っ直ぐに伸ばすだけでも膨大な演算を必要とし、一朝一夕にどうにかなるものではないのだ。マニュアル操作で実行することは可能だが戦闘に耐えうる速度や精密さとはほど遠く、「一応可能」というレベルの話でしかない。

 巨人にも細かな動作と反応性を。より機敏な素早さとしなやかな柔軟性を――これを実現する概念実証機として開発されたのが紫雲である。

 彼を表現するならば、言うなれば人の化身だ。

 物体の把握するにも自然な動作を行うし、膝をついて地面に立っている人間を掌の上に乗せることも容易い。体感を通じて十六メートルの人型を操ることが可能になるのだ。

 神経接続とは、身体の拡張に他ならない。脳内の神経シナプスが発する電気信号を操縦系統へ伝えることで反射的な機体の操縦を可能にする。これは圧倒的な反応時間の短縮化を実現し、反応速度の向上は装甲兵器として最大のアドバンテージを発揮し、あらゆる意味で自然な戦闘が展開できる。殊、PGTASは数キロの距離を置く遠距離砲撃機動戦を想定しているから、飛来する超音速の砲弾でも反射で避けることも可能だ。戦車では前進と後進しかできないが、PGTASはあらゆる方向へとワンステップで動き出すことができるし、神経接続操縦法には高い適性があるほか、人間と異なり頭部にPHARを搭載している。対砲兵レーダーの機能も併せ持つため、超音速で飛来する砲弾を察知して回避することも理論上は可能だ。

 済んだ食事を回収用に置かれている台車の上にトレーごとのせ、ようやく一息つく。紙パックの栄養ドリンクを胃の中に流し込んで、今日の予定をそらんじた。

 今日はこの後、座学のみだ。それまでのシャワーを含めた休憩時間は五十分ほどだから、話していられるのは三十分になる。二人にとって、この三十分が真に許された息抜きだった。第七PG中隊の教練は厳しくはないが、とにかく習得すべき技能と知識が多い。有沢の方針で、通常のPG科と異なり四機という少数編成での戦闘が主となるため、個々人の戦術判断力も一定以上を求めているためだ。

 その点、日計は指揮官としての状況判断力を着々と身に着けていたが、反対に鷺澤は苦手としているようだった。いつもしかめっ面で課題に取り組む彼女はもっぱら感覚的な第三世代PGTASの操縦にとりつかれている。

 多忙を極め多くの出来事を経た後、硝煙に塗れた青春の中でも、二人は互いへの想いに疑問を感じることはなかった。真の愛情というものを日計は知らないが、この胸に抱いているものがそうであればいいと願う。

「日計くん、有沢一尉とはどうなの。あんまりこっちにはいないけど」

「どうと言われても、おっかない人だよ。鉢塚二曹ほど罵られはしないけど、有沢一尉はまた別種のとんでもない圧力があるんだ。汗が止まらないよ。最初の三日だけでじゅうぶんだ」

「それはご愁傷様。東雲二尉とは楽しくやってるわ。飲み込みが早いってすごく褒めてくれるし、美人で優しいからね」

「でも、最初の神経接続試験の時、盛大に気絶してたじゃないか」

「あれは仕方ないでしょう。瞼の裏で超新星爆発が起きたかと思ったわ」

 侵襲式神経接続伝達回路は操縦者にかかる負担は極めて大きい。何しろ神経に金属針をあてがうのだから無理もない。神経との接続干渉が容易になったのは望ましい。

 一方で、神経とは人間そのもの。脳が過大な負荷に激痛を訴えるのだ。改善することは不可能で、神経接続を可能とする個人適性に頼る面が大きくなるから、第三世代機の量産は絶望的と言われている。

 そうした中で、この二人には見事に適性があったことは幸運だった。でなければ、どちらか、あるいは両方が通常部隊へと転属させられていたかもしれないのだ。

「あれ、凄いよな。最初は世界が吹っ飛んだかと思ったよ。脳が痛いなんていうのは初めてだった」

「そもそも人間の神経って、逆方向への信号入力は極めて危険な構造になっているのよ。何かの情報を入力するんじゃなくても、何かしらの電気信号が混入するだけでも相当な苦痛を伴う」

「詳しいね。ぼくなんか、日向特技下士官にブリーフィングは受けたけど、てんでさっぱりだ。理系ではあったんだけど生物はからっきしだった」

「わたし大学で生物やってたから。機械工学系だったけど科目として取っていたから、なんとなくイメージはしやすいのよ。少し突っ込んだ議論をするともうついていけなくなるけどね」

「どっちかっていうと信号処理そのものがどんなプロセスで進んでいるのか、興味があるよ。そういう流れって見ているだけで楽しい」

 そこで、鷺澤は久方ぶりの笑みを浮かべた。

「なんだよ?」

「ちょっとね。フフ、わたし達ってお互いのこと、あんまり話していないじゃない? 高校がどこだったのか、どんな育ちなのか。普通は過去から語り合うものだけど、日計くんとは未来の話ばかりしちゃうの」

「そりゃ、こうしている時間が楽しいからだ。少なくともぼくはそうだ。この時間がどこまで続いていくのか、気になって仕方がない。それが大事だと思える」

「嬉しいことを言ってくれるわね。よし、今日一日も頑張っちゃいましょうか」

「まずは午後の座学だなぁ。最近は就寝前の復習と内省が捗って、寝ちゃいそうで心配だけど」

 もちろん、紫雲に乗るのはこの二名で最後なので、他に座学を受ける自衛官はいない。小さな会議室で、日向と花園による交代で行われる講義はほぼマンツーマン形式だ。

 座学では、紫雲の持つソフトウェア、ハードウェア両面の特徴を学ぶことになる。機体特性を頭に叩き込んでおかねば適切な動作は望めない。これを疎かにする事は即ち、死につながる。状況を知り改善させるために選ぶ選択肢は多ければ多いほどいいし、非常時にはドライバー自身が機体整備を行う状況も想定されるためだ。

「生き残るためには馬鹿じゃいけねぇのさ。たとえ生き残ったとしても、使い物にならんからな」

 日向は初日に、二人にそう伝えた。

 生きるための知識であると考えれば、大抵は何とかなるものだ。眠気とか、倦怠感とか。だが、今日ばかりは疲労困憊していて、どうにも意識を保っていられる自信がなかった。軍隊とは得てして、兵士を寝不足にするのが仕事のようであり、それを耐えることができれば一人前なのだった。

 あらためて、日計は紫雲について思いを馳せる。

 紫雲の強みは、何よりも操縦者の意のままに機体を動かせる点にある。最大限に有利を生かすためには、ただ操縦が可能なだけでは不十分だ。機体を知り、己の癖を知り、どのような場面でどのような行動が最善であるのかを判断する。小隊戦闘戦術などの実践的な話は、個人の技量が極まった時に最も効果を大きくする。そういった意味では、今日の座学も有意義なものになるだろう。

 日計と鷺澤は、他愛ない雑談の後で別れた。シャワーを浴び、予備作戦室前で落ち合い、十分程度前から二人でもはや通例となっている予習を行う。野戦教範を開いて今日の部分に目を通し、山のように聳える整備マニュアルと仕様設計書、特技下士官たちがまとめた機体概要に目を通す。

 この部屋、実用一辺倒なために装飾に乏しい。三人が並んで腰かけられる長机が三つ横に並び、それらが縦に四つ並んでいる。パイプ椅子は古びてがたついており、座り心地は悪い。自衛官を志すならば、使い古されてガタの来ている備品に慣れることから始まる。そして次は、退屈な時間をどう起きて過ごすか、どうやって立ったまま眠るか、だ。

 野戦教範と共に印刷された今日の分の戦術指南書を捲って、大まかな内容を頭に叩き込み、疑問点があればボールペンで書きこんでいく単調な作業。

 しばらくは紙が擦れ、何かを書きこむ音だけが響く。

 二人きりで黙々と肩を寄せ合って何かに没頭するのは楽しかった。この時間が続けばいいのにとさえ思う。大切な誰かと隣り合って費やす時間は、貴重で尊い。間違いなく今後の自分の財産になるだろうと確信できる。

 ふと気配を感じて顔を上げると、日向と花園が制服を着たまま演壇に立っていた。慌てて立ち上がり、反射的に鷺澤も気を付けの姿勢を取った。しゃちこばった敬礼に二人の上官――暫定の――は生真面目な表情で姿勢を正す。日向は軽く右手を上げて、花園は律儀な敬礼で答えると、身振りで座るように指示した。

 早速、疑問が鎌首をもたげるのを感じる。いつもはどちらか一人の筈だ。二人ともが揃うとは二度目のことで、前回は初回のガイダンス時だった。今日の講義に何か重大な問題が自分たちの身に降りかかるのではないかと、知らず知らずのうちに身構えてしまう。

「二人とも、調子はどうだい」

「上々です、日向特技下士官」

 お決まりの台詞と共に、今日の講義が始まった。

「そいつはよかった、日計三尉。今日は花園とおれで、ある報せを二人に持ってきた。ふたつある。ありがちだが、悪い報せと良い報せ、どっちから聞きたい?」

 二人は顔を見合わせ、鷺澤が答えた。

「悪い方からお願いします、特技下士官」

「わかった。余計な説明はお前らのいらぬ詮索を誘うだろうから簡潔に言おう。先日、十月二十日にアフリカ戦線にて連隊規模の黒い軍隊が北進した。現場は第一級戦闘態勢をとったが同部隊の後退に合わせて事態は収束。戦闘こそなかったがかなりの緊張状態に陥った」

「黒い軍隊が、遂に停戦状態を破ったんですか?」

 驚いて声を上げる日計へ、日向は宥めるように両手を挙げた。

「戦闘には発展しなかったと言ったろ。アフリカ戦線に軍を駐屯させているロシアと中国、EUが素早く全戦線において臨戦態勢を取ったため、攻撃を断念して撤退したと思われる。威力偵察のつもりが藪蛇になりかねないと判断したんだろう。それが安保理の出した見解だ。今もアフリカ戦役前線司令本部は臨戦態勢にある。とりあえず、これが悪い方の報せだ」

 気を楽にして、二人は話に聞き入っていた。黒い軍隊の連隊規模となれば、横浜港襲撃時の戦力とほぼ同程度。陸上兵力に限った話ではあるが、黒い軍隊が三次元戦闘を主たる方針とするのは常識となっている。まず犠牲者が出る事態にならなかっただけ幸運だった。

 ましてや、その一戦がまた全面戦争の再開につながりかねない昨今の状況とあっては。

 次の一言を口にする前に、日向はにやりと、獰猛な笑みを浮かべた。

「良い報せはだな。お前らの成績が考えていたよりも良かったもんで、早めに習志野に帰ることができそうってことだ。十月末には正式な部隊配属となるだろう。だからといって気を抜くなよ。おれたちは手を抜かんからな」

 言葉の意味を理解するまでに数秒かかり、二人は息を吐き出しながら背もたれに背中をつけた。

 これで、二人で同じ部隊に配属されることがほぼ確定した。第一段階はクリアだ。

 習志野に戻る。それは実際の戦闘行動へ第七PG中隊が投入されることを意味する。

 勿論、今後も紫雲の操縦系統に馴染むための訓練は継続されていくが、それは今までの座学を含めた教練ではない。実際の戦場に立ち、自分の行動を事細かに分析しながら判断力と操縦技能を磨いていく実地訓練だ。その過程で命を落とす可能性は否めない。

 この報せを受けてから、落ち着かない気分で三時間の座学を受けることになった。

 分野は小隊戦闘の戦術指南へと移り、実際に部隊内で自分達がどのような役割を担うのか。最大限の効率で戦闘力を維持する隊形はどのような形か。敵の攻撃に対してどのように対処すべきか……覚えるべき事項は山のように積まれている。

 それらすべてを、スポンジのように吸収した。途中から煩悶などどこかへ置き去った。眠気と戦いながら、自分の、ひいては仲間の生命を延命させるために必要な知識を無我夢中で頭に叩き込む。だから決して疎かにすることなどできはしなかった。胸中には、燃える横浜が内燃機関のように在り続けていた。



 富士演習場を二日後に出立することになった。

 日向特技下士官より言い渡された辞令を厳かに受け取った日計洋一、鷺澤朱里の両名は、体に隅々まで密着したドライバースーツに身を包んで格納庫内の通路を歩く。蒼天のものとは違う、黒ずんだ灰色ではなく白く染め抜かれたドライバースーツは、首元と背中の開いた大胆なデザインだ。首筋に神経接続回路が突き立つためで、ケーブルを支えるための補助材が後頭部の高さまで後ろに伸びている。

 日計のシルエットは、訓練の末に引きしまった体つきから豹を思わせた。一転して肩にかかる伸びた黒髪を携える鷺澤は、美しい女性をさらに強調させていた。対照的な二人。だからこそ凹凸がぴったりと組み合わせるようにお似合いだ。ドライバースーツに走る数本の黒い直線もまるで刻み込まれた誇りが如く輝く。

 言うまでもなく、最終試験である。

 今回の戦力として機能するかどうか、二人がドライバーとして戦闘に耐えうるかどうかを判断するために、有沢琢磨が企図したものだ。部隊指揮官として自分の持ちうる戦力の半数がどれだけの実力を持っているのか、それを推し量ろうというのである。とはいえ試験の内容は極めて単純なもので、実際に紫雲を操縦して富士演習場に所属する他の陸自部隊と演習を行う、というものだ。

 格納庫へ向かいながら、日計は鬱屈とした気分を払拭できないままグローブに包まれた掌が汗で滲むのを感じていた。

 尻や肩に装着された床ずれ防止パットをさすりながら、意識して集中状態を維持しようと努める。

 PGTASは巨大だ。そして、兵器とは小型であればあるほど有利なものである。紫雲二機で相手にしなければならない仮想標的は戦車八輌にPGTAS四機、歩兵戦闘車八輌。攻撃ヘリコプターまでは投入されなかったが四機の蒼天も敵に回り、まずまずの規模を誇るこれらの戦力を相手に、自分達がどれだけの結果を残せるかを考えた時、彼の心を暗雲が覆うのだった。要するに一個混成旅団を二機で撃退するのだから、実際の戦況であっては絶望的と言っていいだろう。

「なんだか、自信ありげじゃないか」

 隣りで鼻歌交じりに廊下を歩いている鷺澤へ言う。視線は前に向けたまま、半分は皮肉だ。自分の恋人がドライバースーツを着ていると、どうにも落ち着かなくなるのは男心というものだろう。

「日計くんのほうこそ、自信はないの? 相手はたかだかMBTとAPCじゃない。ちょこっと巨人がついてくるけどたったの四機。航空兵力が相手なら話は別だけど、陸上兵力だけならやりようはあるわ」

「戦術的にどうにかできるレベルじゃないと思うけどな。数的劣勢は戦略の失敗を意味する。そもそも弾薬が足りるかどうか」

 拗ねた物言いに彼女はくすりと微笑んだ。

「そうね。でも、有沢一尉の言いたいことは、わたしにはわかった気がする。これは試験じゃなくて予行演習なのよ。少なくとも、これと同じ状況に置かれても生き残れないのならば戦力として認められない、ここで自分の力を示せ。そういうメッセージじゃないかしら」

 鋭い指摘に日計は黙り込み、やがて頷いた。きっと、有沢のそのメッセージの中には多分に期待が含まれているのだろう。配下に置く戦力が倍増するかどうかの瀬戸際なのだから。

 彼女は気遣わしげにちらりと日計を見やる。

「それに日計くん、わたしなんかよりよっぽど紫雲の扱いが上手だし。これで何かいい作戦があればいいんだけど」

「遠距離なら自信はあるが、近距離になれば君に敵うドライバーはいないよ……とか言ってたら、思いついた。鷺澤、ちょっと耳貸して」

 それから程なくして、二人は格納庫に至った。PGTASを複数収納するために設計された建造物は巨大で、高さだけで二十メートル近くはある。北と南に天井近くまで届く耐爆扉が据え付けられ、根本にあるボタンから遠隔操作できる。ほか、人間と小型車両用にくりぬいて据え付けられたシャッターが備わっていた。

 今はどちらも全開で、残暑の名残もない富士の清らかな空気が、肌の上に冷や水をかけたような冷たさと共に吹き込んでいた。思わず感慨に浸りながら、日計は居並ぶ巨人の列を眺める。

 この演習場に到着したころは、まだ熱い風が頬を掠めていたというのに。夏は遠く過ぎ去り、風が秋を運んできたのだ。

 東と西の壁際には、巨人達が対面式に居並び、足下を大勢の整備員たちがあちらこちらへと右往左往している。出動間近となった格納庫内は人の活気に溢れており、賑やかだ。整備班長の怒鳴り声に内燃機関の駆動音、そして半長靴の足音と強い風鳴り。無人兵器しか所有していない黒い軍隊の格納庫は静かなものだろう。この騒々しさこそが、人間の生きている証明ともいえるのではなかろうか。

 ややリクライニングした状態で関節をロックし、ハンガーに背中を預けた状態の蒼天は、どれもがオリーブドラブの野戦塗装か、灰色と青色が適度なパターンで混じり合った都市迷彩が施されている。隣りの格納庫へ足を延ばせば、黒い塗装の施された富士教導団の蒼天が鎮座している筈だが、ここには通常迷彩の機体しかなかった。

 その中で紫雲の純白の塗装はとても目立った。数はもちろん、二。左肩にギリシャ数字で三と記されたものが鷺澤機、四が日計機だ。まだパーソナルネームは定まっていない。概念実証機であり、所属部隊が陸上自衛軍ではなく防衛省防衛装備庁となる四機の紫雲には、個体識別用のパーソナルネームが与えられる。

 だが、この異例の命名については、日向道夫より興味深い真実が伝えられていた。

 命名とは、正に入魂の儀。名前の無いモノに真の魂は宿らないというのが、有沢琢磨の信条である。これは兵器においても例外ではない。自らの命を預けるPGTASともなれば尚更だ。

 ところが、正式なパーソナルネームは公式文書の何処にも記載されない。個体識別名は紫雲で統一されるし、整理上、何号機かが判別できればそれでいい。なので、第七PG中隊は部隊内識別名という名目で命名を行う。日計洋一と鷺澤朱里には、今日のこの日までに名前を決めておくことが命じられていた。

「思いつかねぇ? 平気だ、乗れば紫雲から自己紹介してくれるさ。いつになるかはわからんがな」

「具体的なアドバイスとか、ありませんか?」

「あるわきゃないだろ。だが、必ず機体からは何かを伝えられるもんだ。日計、知ろうとしなければ、何事も無知のまま流れていくぞ」

 と、最後の座学終了時に質問した日計洋一への、日向道夫の答えである。

 随分投げやりだな、と苦笑いしそうになるのを堪えた。

 二人は緊張の色を隠しきれないまま、聳えるビルめいた威圧感を放つ純白の巨人へと歩み寄っていく。

 十六メートルともなれば足下の大人たちは、まさに小人だ。近づいていく男女に気が付いたのか、整備員のうち一人が首をこちらに向け、親指を立てた後に無骨な昇降機を指さした。軽い敬礼で答え、鷺澤朱里とアイコンタクトを交わして別れる。最早、交わす言葉は、無い。あとはやるだけだ。

 昇降機のゴンドラに乗り込んで申し訳程度の転落防止柵を閉めながら、ボタンを押し込んでコックピットブロックのある、紫雲の背中側へ上がった。

 冷たい装甲板の一部をスライドさせて操作パネルを開き、認証コードを入力してロックを解除。二段関節式のハッチが開くと、縁に手をかけて一思いに体を持ち上げ、座席の上に降り立つ。そのまま半球形をしたディスプレイ、その真中に据え付けられている細身の座席に身を沈め、四肢を固定するベルトを体にまわした。

 膝の上にはMPD(多目的ディスプレイ)。その他のレイアウトは、原型機である蒼天とはまるで異なる。周囲を囲むのは高解像度の半球形ディスプレイで、装着したヘッドギアのセンサーに応じてHUDが位置を変える。キーボードをMPDの下から引き抜いて再びコード認証を行い、中枢システムの起動を行ってからハッチを閉めた。完全な暗闇になった次の瞬間にディスプレイが点灯し、コックピット内が明るく照らし出される。頭部にある二対のカメラアイから取り込まれた視覚情報が視界を埋め、座席の背後から伸びて来た神経接続伝達回路、その根幹を担う接続器が、うなじのすぐ下へと伸びてきた。それがひやりとした感触と共に肌へ吸着し、日計洋一は静かに目を閉じた。

 接続シークェンスが開始される。操縦桿の中へ五指を通し、ペダルへと足を乗せる。システムがドライバーの準備完了を感知すると、即座に神経接続用の電位測定、信号処理が始まった。

 意識がくらむほどの痛撃と共に、青年と巨人は一体となるまでの刹那。全ての感情を押し殺して、彼は待つ。

 視界は暗い。神経接続の時はいつも閉じているが、これほどまでに紫雲の何かを感じようとしているのは初めてだ。日向道夫の言葉を信じ、機体の欲する名前を知らなくてはならない。

 首筋から剣を差し込まれたかのような痛みと共に、世界が拡張された。

 自身の肉体感覚が肥大化する感覚。これに慣れるのに多大な時間を費やした。当初の気絶するほどの激痛は消え去り、ただ、その恍惚とした充足感が感じる今の全て。その瞬間に、日計洋一は自身の意思を紫雲にぶつける。

(お前は何者だ?)

 何かが応える。瞼の裏に浮かんだイメージは、ふたつの勾玉が糸で吊られ、振り子のように大きく動き出しては弧を描いてぶつかり合う様。その刹那の波動。ひとつの時間の中に凝縮された、存在を示す証明の雄たけび。

 これは魂だろうか?

 だが、これで知ることができた。操縦桿を握りなおすと、コックピット内の照明が一気に明度を増す。

 紫雲が目覚めたのだ。ならば自分ももこの不覚悟な頭を、温い現実から覚ますとしよう。

<四号機、聞こえるか>日向道夫が有線を通じて呼びかけて来る。<パーソナルネームを報せ。送れ、日計>

「特技下士官、こちら日計。四号機、パーソナルネーム、玉響(たまゆら)。システム、正常にスタンドアロン。オールコーションライト、グリーン」

<了解だ、玉響>彼の声は、どこか自慢げに聞こえた。<いいか日計、そこがスタートラインだ。あとはお前次第。鷺澤と二人で大暴れしてこい。そのための技術は全て教えてきた>

「はい、特技下士官」

<頑張れよ。通信終了>

 玉響の爪先から整備員がイヤホンジャックを抜くのがわかる。恐らく日向だろう。足下から進み出た別の整備員のつなぎ姿が、赤い誘導灯を両手に持って振りながら起立を催促した。

 一呼吸を置いて、日計は一歩を踏み出す。

 慎重に操縦桿を倒すと同時に、自分の身体を動かすように、紫雲の四肢を操作するイメージを持つ。滑らかに巨人の右足が持ち上がり、身を起こして地面に足を着いた。コンクリート舗装された床の感触を確かめながら、滑らかに機体を操作して格納庫の南口から外に出るべく機体の向きを変える。

 群れる整備員の中に、敬礼する花園咲と日向道夫の姿が、整備員に混じって見えた。周囲と同じつなぎを着ているのだが、玉響のカメラアイは見逃さない。

 機体の右手を挙げて、答礼。そのまま庫外へと歩み出る。

 目の前には、露天配置された武装トレーラーが待ち受けており、PGTAS用の一四〇ミリ滑腔砲が立てかけてあった。既に背部のスタビライザーには弾倉が装備されているので、これのみを把握して、同じように鷺澤朱里がやってくるのを待つ。

 程なくして、もう一機の紫雲が右隣までやって来た。訓練用の戦術データリンクシステムを経由して、鷺澤機のパーソナルネーム、火燕(かえん)が、戦術図の上にアイコンを伴って強調表示された。まるで、こいつが味方だぞ、と玉響が教えているかのようでもある。彼女も無事に紫雲との繋がりを構築したのだろう、日計は少しだけ気を緩めた。

<玉響、こちら火燕。感明、送るわ>

「こちら玉響、良好だよ、火燕。準備はいいか?」

<ええ、いつでも。さっさと片付けちゃいましょう>

 鷺澤朱里の言葉を、初めて理解できた気がする。日計洋一は、真の意味で巨人と一体になった感覚を噛み締めながら、透き通る青空を背景に浮かび上がる富士を振り仰いだ。





「安保理はなんと騒いでいるのですか」

「まるで盛りのついた猫だ。情報開示をせっついている。こっちまで矛先が向いてな、まあこれは防衛省の顔であるわたしだからこそだが」

「となると、彼らの存在は既に知られている訳ですね。CIA(中央情報局)かどこかは知りませんが」

「そういうことだ。本人たちが非正規の諜報活動を認めているようなものだが、あちらの工作員は正に幽霊だよ」

「それはまた、貧相な表現ですな。しかし正鵠を射ている」

「皮肉なことだが、認めざるを得んよ。幽霊がいる、と騒いだ人間こそが疎んじられる。そこが味噌だ」

 頭の痛い問題に、有沢琢磨は眉を潜め、黒田幹久は額をさすった。お互いに私服姿で、陽射しを受けたアイスコーヒーのグラスがからんと音を立てる。

 実験部隊の長である有沢から黒田への現状報告もオフレコにならざるを得ない。しかし結果はオンとして記される。情報伝達経路だけが煙に紛れる仕組みだ。それらは文字として残す必要はないのだから、問題はない。

 結論から言うと、中隊の戦力化は保証された。

 防衛装備庁、陸上装備研究部のPGTAS開発主任、小林修一。他、部隊長、及び二名の特技下士官の太鼓判を押され、日計洋一と鷺澤朱里の戦力化が確定。

 黒田は厳つい顔を綻ばせた。

「それにしても、してやられたよ。千切っては投げ、というものを、まさかPGTASでやってのけるとはな」

「恐れ入ります」

 慇懃に頭を下げながらも、有沢の口の端が微かに歪んでいるのを見とめ、大笑する。

 最終演習では、二機が二手に分かれて攪乱しつつ、遠距離から一四〇ミリ滑腔砲による精密射撃で、仮想標的部隊となった全ての蒼天と一〇式戦車を撃破。そこからは生き残った八九式歩兵戦闘車と大幅な射程の違いからの一方的な戦いになり、最終的に彼ら二機の紫雲――火燕、玉響とパーソナルネームが決まった。こちらの方が重要に思える――は敵を一掃した。

 損害はゼロ。

 そう、ゼロだ。軽微、などという話ではない。純白の装甲板を汚したのは、演習場の泥のみであったという。

 この演習結果は、同時に紫雲の蒼天ならびに既存兵器に対する優位を確立したとおいう、重大な情報を防衛省にもたらした。国連も目を付け、公式、非公式のルートを通じて、安全保障理事会から情報開示を求められている運びとなっている。

 PGTAS技術は、他兵器へのフィードバックこそが神髄である。

 より軽量で強固な複合装甲は装甲車輛へ、進化したベトロニクスは戦車へ。PGTAS技術の先進こそが軍事力の強化につながる。通常兵器の性能が軒並み底上げされれば、自衛軍の実力は飛躍的に増大する。

 核兵器の必要ない政治的圧力。

 二人の抱く危機感は等しい。

 たとえ勝利したとしても――できたとしても、その後に待ち受けているのは、想像を絶する人間同士の内輪揉め。

 今はその前哨戦というわけだ。有沢は自らの立ち位置が極めて重要な意味合いを帯びていることを、再び肝に銘じた。

「どうでしょう。いっそのこと、一部のみ情報開示を行うというのは」

「どこまでだ? サスペンションか、疑似ジャイロ砲口安定装置か。どちらにしろ情報開示を行うなら、全てのノードに食い込んでいる神経接続まで示さねばならん。既存の蒼天を発展改修させただけであれほどの戦闘力が得られるのかどうか、ファイフェンベルクとNADが何も言わないと思うのかね?」

「二大生産会社ですか。世界でPGTASを生産しているふたつの企業。下請けは多岐にわたりますが」

「そうだ。国際的に、既存兵器については性能差が似たり寄ったりだ。MBT(主力戦車)は、生半可な榴弾では歯が立たない装甲兵器を多数保有する黒い軍隊の出現により、対歩兵概念から解放された。未だに重機関銃は現役だがね。最低でも歩兵戦闘車並みの図体を持つ敵の四足や戦車型を相手にすることになっただろう。兵器規格の共通化も進んでいる」

「唯一の例外がPGTAS、というわけですな」

「そういうことだ。あの巨人を制する者が、世界を制する」

 国際連合は、一丸となって黒い軍隊へ対抗している訳ではない。欧州、アメリカ、ロシア、中国などの、特定の地域や超大国がかろうじて纏まっているに過ぎない。

 そして、各国の首脳部は既に黒い軍隊に勝った気でいる。

 黒田の知る限り、真剣に黒い軍隊の脅威を受け止めて危機感を抱いているのは、大滝史彦くらいのものだった。他には、国家滅亡の危機に瀕している東南アジア近郊とアフリカ諸国。イスラエルは、早い時期からエジプトら中東各国と恒久的な和解を取決め、黒い軍隊が地球から消滅するまでは中東戦争の遺恨を感じさせないほどの連携を取っているというのに。それも体面でしかないとはいえ、歴史的に見れば極めて大きな進歩だ。

 時代の奔流はふたつ。冷戦期、あるいは第二次大戦からの負の遺産をそのままに、十五年前の延長線上として政治外交努力を行うもの。もうひとつは、黒い軍隊の出現を契機に新たな国際体勢を構築するもの。どちらが賢くてどちらが愚かなのか、それらの判別はまだできていない。少なくとも、まだ南極戦争の終わりが見えない今は。

 日本はそういった意味でも特異な立ち位置であるといえた。

 図らずも等しいタイミングでアイスコーヒーのグラスを手に取り、二人は喉を湿らせた。

 膝を交えているのはどこにでもある喫茶店だ。東京は神田にあるチェーン店。お互いに別の道筋を辿ってここまでやって来た。外国人観光客の多かったこの一帯も、黒い軍隊の影響ですっかり人影も目減りしたように思える。

 有沢は、街路の反対にある模型店の店先に並ぶ蒼天のプラモデルを眺めながら問うた。今まではフィクションとしてあの店頭に並んでいた人型兵器が、大手会社から実在する兵器と銘打たれて販売されている。実に奇妙だ。自分が子供のころとは、世界が大きく変わってしまった。また変わるかどうかはわからない。

「黒田さん、我々をどう扱うおつもりですか。国連の意向に真っ向から逆らうのも、長くは続きますまい。黒い奴らならいくらでも相手にしますが、相手が同じ人間とあっては、頼りにはなりませんよ」

「それは君が気に病むことではないさ。だが、今の内に打てる手を打っておきたい」

「というと?」

「知っての通り、ここに来て、君達は戦力化が完了した。最低限の、という注釈は、まあこの際気にするな。このまま日本国内にいれば、第三世代について国際世論の批判は免れん。世界が足並みを揃える、そんなお伽話にしか見えない目標があるからな。だが国外に出すとなれば、我々は尤もらしい説明をひとつ、世界へ向けてすることができる」

 鷹の目をした男の眉間に、深い一本の皺が刻まれた。だが彼は激情を抑え、その言葉の先にどんな意味が待ち受けているのか、現在、未来の両方から検討し始める。

 防衛省は少数ながら、陸自、空自部隊を海外派遣して”いた”。多国籍軍の中に混じり込んで、アフリカと東南アジアにおける防衛線を構築。何も戦力を抽出しているのは日本だけではないが、このどちらかに第七PG中隊を派遣する。

 そうすることで、黒い軍隊への対抗という大義名分を振りかざし、日本から軍事技術を掠め取ろうとしている安保理へ向け、国際貢献のためにPGTASを開発し、その概念実証機は戦線投入されている、それ故に解答はできない、と反論できる。

 つまり、紫雲四機とその関係者を人身御供に捧げるということ。

 紫雲の実戦投入によって、部隊を巡る潮流がにわかに政治色を強めてきた。これは避け得ない事態ではあり、想定もされていたものの、厳しい状況であるには変わりない。何しろ世界で最も力を有している安保理の圧力を一身に受けているのは、黒田幹久の率いる六人の精鋭なのだから。

 四人掛けのボックス席、そのテーブルの上に置かれているグラスを再び手に取った。

 この件について、部隊長としての自由裁量はほとんどないものとみていいだろう。何しろ自分は軍人。国民の総意を肩書としている防衛大臣から、直々に海外遠征の話が出されているのだから。

 黒田が黙っているのは、ただ単にこちらが気持ちの整理を付ける時間を与えているにすぎない。元自衛官のこの男は、命令というものの性質をよく見極めている。

「海の向こう、ですか」と、有沢は一言いい、「閣下。わたしや東雲などはまだいい。ですが二人はまだ二十歳です。世界の果てで地獄を見るには、若すぎると思いませんか?」

 分厚い肩を揺らし、黒田は座席に座りなおした。無表情は変わらないが、多少、顔を顰めているだろうか。

 彼は真一文字に引き結んだ唇を開き、歯を食いしばる。

 この男とて苦悩しているのだ。ただ、立場と、責任感が彼を突き動かしているだけで。

「有沢よ。おれが血も涙もない人間に見えるか?」

 有沢琢磨は何も言わずに、黒田の複雑な心境がコーヒーの液面のように入り混じった瞳を見つめ返した。

「わたしはこの国を守るために仕事をしている。二人の若者が地獄に赴くことで国難を回避できるのなら、そうする。君だってそうしてきただろう。立場は違うが、それは尺度の大きさが異なるだけにすぎない。君とわたしでは負う物の数が異なるんだ」

「等しき犠牲、一殺多生。その考え方は、あまり好きではありません」

 冷たく言い話す彼の言葉に、黒田は意外にも笑みを浮かべ、どこか遠い目で席から見えるガラス越しの青空を見上げた。

「そう言うと思ったよ。有沢敬二もそうだった。大義ではなく、人間という概念そのものを愛するその性格。貫くべきは正義であり、そのためには自らを削ることすらも厭わない。変わらんなぁ、貴様ら親子は」

 急に老け込んで見える黒田を見やり、所在なく視線をテーブルへ突き刺した。

 有沢啓二。有沢琢磨の実父であり、十五年前の第一次侵攻にて行われた黒い軍隊との「南太平洋海戦」に参戦。初戦で瓦解した国連艦隊を率いて最期の瞬間まで戦い抜いた男である。最終階級は海将補。彼の率いた数百を数える大艦隊を壊滅せしめたのは、最初の五人の操る、五機の黒いPGTASと水平線を黒く染める無数の艦艇――。

 父の影を踏んで歩んで来た人生ではなかったが、こうして敬二の思い出を大切に仕舞っている人間がいるのは単純に嬉しかった。黒田は現役自衛官の時、有沢啓二と会ったことが何度かあるのだという。平時の基地祭で厄介になったのだそうだ。ほとんど同期であった二人は意気投合したらしい。

 そして、仲間を尊重する理念は、半分が敬二より受け継ぎ、もう半分は自分の中に始めからあったものである。

「我ら祖国のために戦わざる、只、地獄へ行進す仲間の為に戦えり」

 有沢敬二海将補が国連艦隊最後の攻勢の際に行った演説は、海を超えて日本にも届いた。電波に乗って世界へと広がったこの言葉に、目を覚ました人間がどれほどいるのだろう。

 だが、人間の美徳を詰めた鐘の音が掻き消されようと、この胸の中には、まだ鳴らせるものがある筈だ。

「君が気に入らなければ、これは辞令という形で強制させることもできる。どうするかね」

「……いえ、それには及びません。拝命しましょう。遠征先はアフリカでしょうか?」

「いや、まだわからん。何故かね?」

 有沢琢磨はグラスを持ったまま、黒い液面を静かに見つめた。

「潮風に当たると、心が錆びるのです。わたしには暖かすぎる」

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