第二十一話「雨の中の雫」

「大鐘楼。まさかこんなところにあったとはな」


 目の前に鎮座する封印を前に、迫水はくくと笑った。


 そこは内裏は朱雀殿の屋根の上、その中心にひっそりと置かれた鐘楼こそが、白峰魔王最後の封印だ。


「本来ならば宮の奥に隠しておきたいのが心情だろうが、あんな所に野晒しとはな」


 因果なものだな。と胸の中で独りごちる。かつては敵の首魁として戦った鬼を、自分の手で解き放つことになるとは。


 最後のくびきを解き放つべく、迫水は屋根の中心へと昇っていく。


 「さらばだ。愚かで浅ましい人の世よ。今日この日が、新たな時代の始まりとなる」


 その時、背後に落雷。


「来たか」


 迫水は来訪者へと振り返る。


「迫水副長、いや迫水主水! お前の望みは果たされない!」


 蒼く輝く右彩が叫んだ。


🔶


「なんで来たの?」


 信じられない、と香凛の目が言っていた。


「あんなにやられて、まだ懲りないの? 本当に死ぬわよ」


 朱雀殿内の大廊下。鉄線のような糸を幾重にも張り巡らせた奥に、香凛が立っていた。


「来ないで」


 一歩踏み出した仙兵衛に、警告する。


「香凛。ここを通してくれ」


 仙兵衛は目の前の糸に触れた。張られた糸は強く、硬い。


「無理よ」


「本当にこれがお前の望んだことか? 白峰魔王を復活させることが」


「そうよ」


「また大勢の人が死ぬんだぞ」


「知ってるわ」


「おはつちゃんや他の子供もだ」


「あなたに何がわかるって言うの? 私たちの何が!」


 声を荒げる香凛。その様子に仙兵衛が軽い調子で笑った。


「はは、そういやお前が大声出すとこ、初めて見たな」


「は? ふざけてるの」


 目線を上げた香凛が言葉を失う。あろうことか、仙兵衛は鬼変化を解き、生身のままで無理やり突き進んでいた。


「な、何を?」


「お前の全部はわからない。でもわかることだってある」


 糸が食い込み、それでも止まらないから肉が裂ける。血が糸を伝って流れていく。みるみるうちに、仙兵衛の全身が染まってゆく。


「お前がどんな奴か知ってる。生真面目で、静かで、世話焼きで意外と怒りっぽい」


「下がってよ、本当に死ぬわよ!」


 自分でも気づかず、香凛は後ずさる。


「流行りの服を着て、祭りの出店に並んで美味しい物を食べながら、どうでもいい話をするのが好きな普通の女の子だって、俺は知ってる」


 一歩進んで耳が切れ、一歩進んで頬が裂ける。それでも仙兵衛は止まらない。


「白峰魔王を復活させて寿命を延ばしてもらっても、お前の望んだ生き方なんてできやしない。わかってるんだろ?」


「知ったようなこと言わないで!」


 香凛が叫ぶ。


「あとたった数年。数年しか生きられないのよ! どんなに着飾ったって、どんなに美味しい物を食べたって、そんなの虚しいだけじゃない!」


 溜めこんでいた感情を、吐き出す。


「寿命のことを知ってから、ずっと怖かった。死ぬのが怖かったんじゃない、何をやったって全部虚しく思えてくるのが怖かったの! 仕事に集中してたのは、目の前の事をただこなすだけの方が何も考えずにすんだから!」


「香凛。いつか必ず人は死ぬよ。それが遅いか早いかの違いだけだ。もし明日命が尽きて、全部が無駄になるとしても、自分の気持ちに素直になった方が、満足して死んで逝ける。それがきっと生きるってことなんだと思う」


 鉄の如く強い糸。それが少しづつ、少しづつだがたわんでいく。


「でも仙兵衛。私もう何をしても楽しいなんて思えないんじゃないかって、そう思うと怖いの。もしそうなら、寿命を延ばした方がましよ」


「香凛、俺を見ろ」


 仙兵衛はついに香凛の目の前にやってきた。二人を隔てるは、数本の糸を残すのみ。仙兵衛の眼が、涙の奥の眼を覗く。


「俺は誰に頼まれたわけでも、命令されたわけでもない。俺が白峰魔王を復活させたくないと思ったからここに来たんだ。例え死んだとしても、満足できるし納得できる」


「仙兵衛、お願い、お願いだから……!」


 一本、また一本と糸が千切れていく。


「また来年も七夕の祭りに行こう。茶屋のあんみつ食いにいこう。他の店にも、服屋とか芝居小屋にも行ってみよう。絶対楽しい」


 最後の一本。仙兵衛は香凛に向かって手を伸ばす。


「俺が絶対、楽しいって思わせるから。一緒に生きよう、香凛」


 ついに、最後の一本が切れた。


🔶


 屋根の上を、稲妻が駆ける。体の雷その全てを膂力に回し、速度、反応、反射を限界まで引き上げる。


「考えたな。無闇やたらに放電しないだけ先ほどよりはましだ」


「絶対に勝つ。負けられないんだ!」


 右彩の気迫を乗せて、走る刀は傷を与えられずとも液体の体を切り刻んでいく。しかしそこは迫水、速さに慣れ始めた頃から先を読み、対応し始める。


 変幻自在の五体による攻撃と、踏んできた場数に裏打ちされた太刀筋に、次第に右彩の手傷が増えていった。


「穿水貫」


 放たれた水が、右彩の足場を砕いた。


「くっ!」


 跳躍し、宙に逃れる。しかしそれは、


「跳んだな」


「しまった!」


 そうなるように迫水が仕組んだ誘導。空中に逃げ場は無い。右彩は絶好の的だった。


「仕留める。虎射天止とらいでんと


 三又に分かれた水流の槍が、右彩のどてっ腹に迫る。だが間一髪、直撃する寸前に右彩の体は引き寄せられ、事なきを得た。


「一体何のつもりだ?」


 右彩を救った張本人、香凛に迫水は問うた。


「ごめんなさい隊長。やっぱり私、人として生きてみるわ」


 右彩は掠めた頬から流れた血を、手の甲で拭った。


「助かった。ありがとう香凛。そしてすまない仙兵衛、こっちはまだ終わってない」


 おう、気にすんな。と仙兵衛が進み出た。


「交代だ。お前にできない事を俺がやる」


 大般若を構え、迫水と対峙する朱き鉄鬼。


「くく、人として、か。香凛をかどわかしたのはお前か。仙兵衛」


「かどわかしてなんかいない。俺はただ、香凛にちゃんと生きて欲しいだけだ」


「ならば、なおさら白峰魔王の力が必要だ。死という宿命さえも破壊し、新しい人生を踏み出すためにな! お前は花凛から、最後の希望を奪ったんだ。花凛、お前は自ら希望を投げ捨てたのだ」


「副長、あんたの言ってるそれは希望じゃない」


「どうかな! 俺がそれを確かめてやる!」


 群鮫から岩をも容易く穿つ水の槍が放たれた。仙兵衛はそれを大般若で防ぎ進んでいく。


「忘れたか? お前と俺の相性は最悪だ。お前では俺に勝てんぞ」


 迫水は一気に仙兵衛の間合いへと飛び込んだ。


「牢水!」


 水の鎧が仙兵衛の体を包んだ。


「まずいぞ! 仙兵衛!」


 右彩が叫ぶ。仙兵衛は大般若の握った柄が、顔の横にくるように構え、勢いをつけて思いっきり振り抜いた。


 凄まじい風圧が発生し、迫水の体が飛び散った。とんでもない重さの物体が、とんでもない速さで重心移動をしたせいか、仙兵衛の足元を中心に周囲の屋根が球状にへこむ。


「そいつはもう通用しねぇ!」


「面白い!」


 両者はひたすら切り結んだ。仙兵衛の力と迫水の技がぶつかり、せめぎ合う。


 大般若の一刀が躱され、群鮫による連撃が襲い掛かる。刃は鋼の肢体を滑り、細く僅かな傷をつけ、強引な角度から出鱈目な力で振るわれた鉄塊の剣圧が、水の肢体を吹き飛ばす。


 鋼と水、物体と液体。互いに防御は考えぬ、前のめりな殺し合い。勝ちもしなければ、負けもしない。歴然とした迫水との実力差に、仙兵衛はしぶとく食らいついている。


「見ろ。どうやら、天も俺に味方をしたようだ」


 一進一退の攻防の最中、足を止めた迫水が天を仰いだ。ぽつりぽつりと黒雲から雨が降り始め、やがて勢いは増して豪雨になる。


「俺にとっては恵みの雨でも、人の世にとっては災いそのものだな!」


「な、なんだよそれ……」


 仙兵衛が、そして右彩と香凛が息を呑む。迫水の体は降りしきる雨を吸収し、巨大に膨れ上がっていった。


「名残惜しいが、そろそろ終わりにしよう。穿水貫!」


 三倍の体積となった迫水が、竜巻のようにうねる一刀を放つ。巨躯に比例して肥大化した水の柱が、仙兵衛を直撃。


「く、くそおおお!」


 押し流される鋼の鬼。表面を削る程度に過ぎなかった技ですら、仙兵衛を強引に押し流すに足る奔流となっていた。


 大般若を杭代わりに屋根に突き立て、端でどうにか踏み止まる。耐えきったものの、仙兵衛は満身創痍といった有様で、ぼろぼろになって膝をついていた。


「ほう、耐えたか。だが今ので下に落ちていた方が楽だったかもしれんぞ、次に出すのは今見せた爪楊枝とは違う、俺の最大の技だからな」


 とぷ、と群鮫が腕の中に沈み、巨躯全体が渦を巻く。


「ああ、あれは! まずいぞ仙兵衛、それを出させるな!」


 右彩が叫ぶ。あれこそが六花との戦いで見せた迫水の奥義。


「そんなこと言ったってよ。こっちの攻撃が通用しねぇんだから止めようもねぇぜ」


 大般若を支えにしてよろよろと立ち上がる仙兵衛。


「礼を言うぞ。人の世の最後に、俺を熱くさせる戦いをくれたことを!」


 うねる巨体。荒れ狂う水塊と豪雨の奥で迫水が笑った。


 熱くさせる。その言葉を聞いて、仙兵衛の頭に閃光が走る。


「なら、もっともっと熱くさせてやろうじゃねぇか! 俺たち三人でなぁ!」


 仙兵衛は叫んだ。


「右彩! 俺が合図したら雷をお前に落としてくれ!」


「雷を? 一体何をする気だ!」


「いいから! 説明してる暇は無ぇ!」


「わ、わかった!」


 右彩は立ち上がり、両手を天へと掲げる。


「香凛! 俺と右彩を、お前の糸で繋いでくれ! 絶対に千切れないぶっとくて頑丈なやつだ!」


「ええ! わかったわ!」


 鬼変化した香凛は、瞬く間に何千本と束ねた糸で仙兵衛と右彩を結んだ。


「何をする気かは知らんが、これで幕引きとさせてもらう。さらばだ!」

 今にも必殺の一撃を放たんと、うねる水塊がぶるりと震える。


「今だ、やれ右彩!」


 鉄鬼の合図に応える雷獣。


「おおおおおっ!」


 轟く雷鳴、迸る天雷。落ちた光の矢が右彩を撃つ。その雷電は右彩の体から香凛の糸を通して、仙兵衛へと送られる。


「うあああああっ!」


 注がれた電熱が、鉄の体に蓄積される。膨大な、あまりに膨大な熱量に体のそこかしこが赤熱し光を帯びてゆく。ついには全身が熱せられた鉄の如く輝き、大般若の切っ先まで伝播する。雨粒は仙兵衛に触れた端から蒸発し、白い湯気となっていった。


「終わりだ副長。あんたの憎しみ、ここで焼き斬る!」


「ほざけ! 大海旋黒大牙!」


 全てを噛み砕き、飲み込む波濤が仙兵衛へと迫る。


「大般若! 鬼哭熱爪きこくねっそう!」


 朱い鬼が吠え、波濤を迎え撃った。


 荒れ狂う海の如き波濤。それを蒸発させ、空へと返す鉄。木の葉三枚、たった木の葉三枚で湯を沸かすに足る熱を増幅させる大般若ならば、雷の全てを受けた今、その身に纏う熱量がどれ程かは筆舌に尽くしがたい。


 かつて異国の聖人が起こしたという奇跡のように、海を割って突き進む一筋の赤光。ついに、仙兵衛はその間合いの内に迫水を捉えた。


「これで、終わりだ!」


 赤熱した刃が、迫水を切り裂いた。絶叫を上げ、水の体が蒸発していく。


「ま、まさか寿命が尽きる前に、死ぬことになるとはな」


 己の皮肉を嗤った迫水の体が、白い湯気となって東幻京の空へと還っていく。


「戦いの中で、俺はいくつもの光景を見てきた。生きたまま焼かれる赤子……。闇に沈む朽ち果てた鬼の死骸と、人の命の最後の輝き……。得たものも失ったものも、みな全てが無に帰すというのなら……俺もこの雨粒の一つとなろう」


 その言葉を残して、迫水はいなくなってしまった。


 体から熱が引き、人の姿へと戻っていく。膝から崩れ落ち、薄れゆく意識の中で駆け寄って来る香凛と右彩の姿を捉え、仙兵衛は微笑んだ。

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