第二十話「だって男だから」


 最初に知覚したのは、温かい。ということ。


 何か柔らかい物が唇に触れている。そこから吐息が注ぎ込まれ、水で満たされた肺を刺激する。肺は自らの役割を思い出したかのように脈動し、水を追い出した後で生命活動の為の酸素を循環させた。


 反射的に水を吐き出し、せき込む仙兵衛。呼吸が安定するまでのしばしの間、荒く肩で息をする。ぼやける視界の中に、桃色の髪があった。


「香……凛?」


「よかった。間に合って」


 仙兵衛は白虎大社の社殿内に寝かされていた。その横には右彩と六花の姿もある。香凛は仙兵衛の隣に座り、安堵と憂悶が混濁した表情を浮かべている。


「じゃあ、私はもう行くから」


 立ち上がり外へと向かう香凛。


「待てよ! 副長が言ってたこと、本当なのか?」


 足を止め背を向けたまま香凛は言った。


「寿命のこと? それとも裏切ったこと? どっちも本当よ」


「……何でわざわざ俺を助けた?」


「髪留めのお礼。まだしてなかったから」


 香凛の頭に、青い蝶がひらめいているのを仙兵衛は見つけた。


「お前、本当にこれでいいと思ってるのかよ?」


 その問いに、香凛は答えない。開け放った戸を踏み出し、その場から立ち去ってしまった。


 さようなら。仙兵衛の耳に、小さな声だけが残った。


「うっ、ここは?」


 一刻程たった後、仙兵衛の横に寝かされていた右彩が目を覚ます。

「右彩、気づいたか」


 右彩は呼吸を整え、上半身を起こした。


「何で局長がここに? しかも怪我まで」


「僕たちがやられた後、助けに来てくれたんだ。だが牡丹さんも敗れてしまった。僕が覚えているのはそこまでだ」


 右彩は自身の体を確認した。刀傷は縫われ、止血されている。まだ目を覚まさない六花の体にも同様の処置が施されている。


「きっと香凛だ、局長の傷も縫ってくれたのも」


「ああ、牡丹さんはまだ気がつかないだろう。傷は深かったから」


 仙兵衛は六花の様子を見た。浅いが、確かに呼吸はできている。


「寝かせておこうぜ。それよりお前はこれからどうする?」


「どうする、とは?」


「副長たちを倒しに行くか? それとも京から逃げるか?」


「戦って初めてわかった。到底敵うような相手じゃない」


 俯く右彩。


「このままどこか遠くへ逃れてひっそりと暮らす。それが一番現実的だな」


「そうか」


「だから仙兵衛、頼みがある。牡丹さんが気がついたら一緒に逃げてくれ」


「はい?」


 立ち上がる右彩に、仙兵衛はぽかんと口を開ける。


「僕は奴らと戦う。止めを刺せたのにそうしなかった。情けをかけられておめおめと生き永らえるのは武門の恥だ」


「ちょっと待て、俺に押し付けんな。それに副長たちのとこには俺も行く」


 親指で自分を指し示す仙兵衛。


「は? 何を言っているんだ。どうやって勝つつもりだ? それに君は農民の出だろう、戦いに死ぬる矜持なんて持っていないだろう!」


「おーおー戦いに死ぬる矜持ときたか、流石武家の方は言うことが違うねぇ。でもよ、今の俺は農民じゃねぇ、憑鬼組なんだ。憑鬼組は鬼を斬って東幻京を守んのが仕事だ。違うか?」


「仙兵衛、君は……」


「まだここは東幻京だ。阿鼻叫喚の地獄じゃねぇ、したら俺のやることはただ一つだ。それによ、俺はもう逃げるのは嫌だ。また一から生きる意味を探すのも」


 仙兵衛の言葉を聞いていた右彩がふ、と微笑んだ。


「まさか君に諭される日が来るとはな。見直してやろう」


「あ? 何だ偉そうに。食える山菜の見分け方知ってんのかてめー、俺は知ってる」


 そう言って、仙兵衛と右彩は互いに吹き出して笑い合った。


「奴ら、俺たちじゃどうしようもないだろって余裕こいてやがるぜ」


 例え矢尽き刀折れたとしても。


「ああ。その偏見、覆してやろう」


 例え地に伏し泥濘にまみれたとしても、決して譲れぬものがある。


「行こうぜ! 吠え面かかしてやる!」


「ああ!」


 二人は、互いの拳を打ちつけた。


 朱雀殿。時の帝がおわす東幻京と、その政の中枢たる御殿。今その内部では、反旗を翻した憑鬼人による殺戮の嵐が巻き起こっていた。


 迎え撃つ兵士の喉を裂き、逃げ惑う貴族の腹を抉る。死屍累々とはまさに是。飛び交う怒号と叫喚に、戦鬼は心を癒す。


「き、貴様。朕をなんと心得る! 朕の前でこんな、こんな……」


 迫水の前で腰を抜かし震える男。


「帝。あんたに聞きたいことがある。この朱雀殿の大鐘楼はどこにある?」


「な、何だと? そうか、白峰魔王の封印を解こうとしておる痴れ者とは貴様だったのか! 半人半鬼共がよくも! あ……」


 迫水の手が伸び、帝の顔を鷲掴んだ。人並外れた握力に、骨がみしみしと悲鳴を上げる。


「まあ、言いたくなければそれで結構。言いたくなるように説得するだけだ」


 掴んだ腕が液体化する。


「迫水隊長、あらかた掃除は終わったぜ」


「ごくろうだった。もうじき封印は解ける。それまで自由にしていろ」


「はいよ」


 血濡れた金棒を肩に担いだ輪太郎と香凛が帝の間を後にする。


「さて、質問の続きといこう」


 迫水の目に愉悦の色が浮かんだ。




 内裏並んで歩く香凛に、輪太郎は言った。


「おう、俺はこれから夕堂院で奴らを迎え撃つが、おめぇはどうする? 俺と迫水隊長に任して引っ込んでていいんだぜ?」


「奴ら?」


「決まってんだろ。仙兵衛と右彩だよ」


 問いの答えに、香凛は動揺を見せる。


「……来るはずありません」


「いや、来る」


「どうしてわかるんですか!」


「俺にはわかんのさ、男だからな。なあそうだろ? お前ら」


 にやりと微笑んで、輪太郎は堂の中へと消えて行った。


 それから四半刻。輪太郎の言った通りに、二人は朱雀殿へとたどり着いた。


「よお、来たかお前ら」


 夕堂院の中、積み重ねに積み重ねた骸の山。その上で胡坐をかいた輪太郎は満足げな笑みを浮かべている。


「そうこなくっちゃな。あのまんまやられっぱなしってのは、男が廃るってもんだぜ。なあ」


「輪太郎さん」


「で、どっちから戦るんだ? 二人いっぺんでも俺はかまわねぇぜ」


「時間はかけられない。ここは」


「ここは俺一人にやらせてくれ」


 右彩を押しとどめて、仙兵衛。


「僕に気を遣っているつもりか?」


「いや、お前は先に副長のところに行ってくれ。俺は輪太郎さんと香凛をなんとかする」


 しばしの沈黙。


「わかった香凛は任せる。だが迫水がどこにいるのかわからない以上、まずはここを二人がかりで早く突破してから……」


「おう。隊長はよ、帝の間にいると思うぜ。帝がまだ口を割ってなきゃあな」


 輪太郎がふいに口を挟む。


「それが本当だという根拠がどこにある?」


 訝しがる右彩に仙兵衛が言った。


「右彩、きっと本当だ。行ってくれ」


 仙兵衛と輪太郎の顔を見つめた後、右彩は


「わかった、ありがとうございます。先に行っているぞ仙兵衛」


 一礼をして、右彩は堂を後にした。


「なんで教えてくれたんです?」


「さあな」


 素っ気なく答える輪太郎。その表情は読めない。


「ってわけで、さあ! 始めるとするか!」


 鬼変化。死体の山が燃える。鋼の鬼と車輪の鬼が激突した。


 先に仕掛けるは仙兵衛。大般若を肩に担いで振りかぶる。


「させるかよ! 河裂・是不阿!」


 高速回転する脚の車輪。それを仙兵衛の腕へと叩き込む。熱い火花が散り、甲高い音が鳴り響く。


 削られる肌、走る痛み。だが仙兵衛は強引に大般若を振りぬいた。


「ちぃ!」


 地面を蹴って回避する輪太郎。大般若の風圧で炎が掻き消える。


「山破」


 車輪が炎を生んだ巻き上げる。


「武威末楠!」


 輪太郎の生み出せる炎の最大量。それをぶつける大技。二本の炎の柱が仙兵衛を捉える。


「がああああ!」


 絶叫。爆炎が、夕堂院の天井に燃え移る。


「まだ終わるような奴じゃあねぇよな!」


 追撃すべく、輪太郎は車輪を回す。金棒が炎を纏い、それを構えて突撃する。

「本打・砲熱吐ほうねっとぉ!」


 強力な推進力から繰り出される突き。さらに獲物を捉えた瞬間、纏った炎を零距離で放射する。


 しかし仙兵衛も負けてはいない。大般若を振り下ろし、金棒を重さで両断した。


 即座に金棒を捨てた輪太郎は、体当たりをかましたまま、力の限り車輪を回転させ、仙兵衛を押し込む。


「しま……っ!」


 車輪が半壊する程の捨て身の馬力に、大般若の柄から仙兵衛の手が離れる。そのまま壁に激突。


 輪太郎の拳が仙兵衛の頬に叩き込まれ、仙兵衛もそれに応じる。


「小細工なんざいらねぇ。こっからが男の喧嘩だ!」


 原始的な、あまりにも原始的な殴り合い。時間にしてみればごく短く、そして永い。死力を尽くしたそれも、終わりの時を迎える。


 両者の拳と拳が衝突し、怯む。お互いがその隙を逃さず、胸元を掴み合い、勢いをつけて額をぶつけ合った。


 炎の海の中、動かぬ両者。そして


「へ……」


 ずるり、と輪太郎の長身が揺らいだ。


「へへ、やるじゃねぇか。じゃあ、後の事は任せたぜ」


 額から流血し、倒れる輪太郎。その表情は朗らかだった。


 沈痛を飲み込み、仙兵衛は散った先輩へと頭を下げた。燃え盛る夕堂院を後にした鬼の目に、一筋の光る涙があった。


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