第十七話「父子の想いを繋ぐ剣」

 同刻 東幻京上空


 仙兵衛を体にしがみつかせたまま産女は飛び続け、今その眼下には東幻京八百八町の街並みが広がっていた。


(こいつ、いつまで飛び続けるつもりだ?)


 変化さえしてしまえば、重さに耐えきれず産女は地に墜ちるだろう。だがまだそれができる程、体力は回復していない。


 さて一体どうしたものかと街並みを眺める仙兵衛の目に、それは飛び込んで来た。ぐらりと視界が歪み、危うく気を失って手を離しかける。まさか、なんでよりによってあんな物が! 押し寄せる吐き気を必死に堪え、深呼吸で気を落ち着ける。


(くそ、最悪だ。暫く目を瞑ってやり過ごすしか……いや待てよ、もしかしたら)


 妙案閃く。自分にも効くのだ、この鬼にも通用しない訳がない。仙兵衛は振り落とされないように慎重に産女の背へとよじ登った。


「やい、あれを見ろ!」


 産女の後頭部を引っ掴み、あれが目に入るように傾ける。


「ぎゃあ! 目が腐る!」


 仙兵衛の見立て通り、あれ=打々鉄斎の名状しがたき鍛冶工場を目にした瞬間、産女は前後不覚に陥り、まともに飛ぶことはできなくなった。螺旋を描きながら落下。鍛冶場の屋根を突き破り土間へと激突した。


「いや助かったぜ。丁度ここに精神汚染物があって良かった」


 屋根を間に挟んだおかげで、落下の衝撃はさほどでもない。それは産女にしても同様で、大して手傷を負わせた様子も無く、もうもうと立ち込める埃の奥に立ち上がる影が見えた。


「この夜中にどこぞの馬鹿野郎だ! 人様の仕事場で何やってやがる!」


 この工場の主、打々鉄斎こと鉄じいが、それこそ熱した鉄もかくやといった赤い顔で怒鳴り込んで来た。


「鉄じい、飛び込んできといてこんなこと言うのも何なんだけど、ちょっとここから逃げてくれ。今鬼と戦ってるんだ!」


「おお、この間の小鬼じゃねぇか。逃げろだぁ? 刀鍛冶が工房放っていくわきゃねぇだろうが! どけ、これ以上お前らに工房荒らされてたまるかってんだ!」


 ぺっと掌に唾を吐き、近くにあった鎚を持って土間へと降りる鉄斎に仙兵衛は叫ぶ。


「何するつもりだあんた、んな物で鬼に勝てるわけないだろ! ここは俺に任せて早く逃げろよ!」


「やかましいわ糞餓鬼! こちとら延々と鬼を斬るための刀打ってきた職人よ、鬼の一匹や二匹殺せねぇ道理ねぇだろうが!」


「道理あるわ! 栗が美味いからって栗の木まで食えるわけじゃねぇだろ!」


「俺は栗の木じゃねぇぞ、目ぇちゃんと見えてるか? 馬鹿餓鬼!」


「んなことわかってるわ、例えで言ったことくらいわかれ馬鹿ジジイ!」


 二人の不毛な言い争いは、叩きつけるような突風で終わりを迎えた。埃が掃われ、産女の姿が露わになる。


一休みはもういいだろってか。いいぜ、続きといこうか」


「嗚呼、嗚呼。坊や、私の坊や」


 うわごとのように繰り返す産女。仙兵衛の言葉が伝わっているのかはわからない。


「ってことだじいさん、本当にもう逃げろ」


 しかし鉄じいは逃げるどころか、ふらふらとした足取りで産女へと近づいてゆく。その様子は明かりに引き寄せられる蛾に似ていた。


「おいじいさん? いくら裸の女だっつっても鬼だぞ、危ないから下がれって!」


「お鶴……」


 鉄じいの口から、絞り出したような声が漏れる。


「お鶴、お鶴じゃねぇか。お前、どうしてこんな? なぁお鶴よぉ」


 痛々しい程の、憂悶に満ちた問いかけ。しかしその答えが返ってくるはずも無く、例え返ってきたとしても、心が救われるはずが無い。


「じいさん! 一体どうしちまったってんだ。鬼に話しかけてどうする気だ?」


「どうする気? 馬鹿野郎おめぇ、親が娘に話しかけるのに理由なんざいるかよ」


「な……」


 見たことある気がする、どこかで会ったようなことがある気がする。仙兵衛は玄武寺での一件以来、あの鬼に漠然とした見覚えを感じていた。それが今の一言で氷解する。あの目尻の形、頬の形、確かにあの二人は親子に違いなかった。


「お鶴。俺はよぉ、おめぇが死んでからずっと謝りたくてよぉ。すまねぇな、すまねぇな。俺が嫁に出したばっかりに……」


 すまねぇ、すまねぇと手をついて頭を下げる鉄じい。産女はそんな父親に対し


「私の坊やを、返してよぉおおお!」


 その凶爪を振り下ろした。無防備な頭など容易く切り裂き砕く鬼の爪。鮮血が飛び散り、産女の頬を赤く塗る。


「おめぇ……何で?」


 産女の爪が捉えた肉、それは鉄じいの頭ではなく、仙兵衛の交差させた両の腕だった。


「何でもねぇだろ。鬼から人を守んのが俺の仕事だ。ましてや」


 産女の足首を掴んだ仙兵衛は、そのままぐるぐると力任せに振り回す。


「親殺しなんぞさせるわけにはいかねぇ!」


 勢いよく放り投げる。産女は壁に激突し、痛みに呻いた。


「じいさん、ここから逃げてくれ。あんたに娘さんが死ぬところを見せたくない」


「な、なんだとてめぇ! 人の娘をふざけるな!」


 鉄じいは鎚を振り上げた。変化しなければ、仙兵衛の肉は人となんの変りも無い。力いっぱい打てば、当たり前のように頭蓋骨が砕けるだろう。


 仙兵衛はそれを防ごうことも避けようともしなかった。ただ黙って、眼で訴えかけるだけである。憐憫と責任、謝意を湛えた瞳。その眼を見つめる鉄じいは力なく腕を下した。


「そうだ、そうだな。娘はもう死んでんだ。鬼にさせとくわきゃあいかねぇよな」


 その場に崩れ落ちる鉄じい。仙兵衛の背後で産女が再び立ち上がる。


 白虎大社で体力を消耗したのは産女も同様であろうか、獲物をしとめんと赤子を生み落とそうとするも、その調子は明らかに遅い。やっとの思いで生み落とされた、死人色の赤子。それを見た鉄じいが戦慄する。


「そんな訳だから。早く安全なとこに行ってくれ。あの赤子が出てきちまったら、素手の俺じゃ勝てるかどうかわからねぇ。でもあんたが逃げるまでの時間は稼ぐからよ」


 申し訳なさそうな笑みを浮かべる仙兵衛。事実、変化できない現状で産女だけではなく赤子まで相手にするとなると勝ち目は無いだろう。今のままでは。


「素手じゃ勝てねぇか。なら、ならよ小鬼」


 鉄じいが呟いた。産女の胎から、二体目の赤子が落とされる。


「あそこにある大般若長光あれを使え! そんで娘を、鶴子を楽にしてやってくれ!」


「ああ! ありがたく使わせてもらうぜじいさん!」


 仙兵衛は駆け出し、土間に突き刺さっていた大般若長光を引き抜いた。己の危機を感じ取ったのか、敵が急な動きを見せたからか、間髪入れずに産女と二体の赤子が仙兵衛へと飛び掛かった。


「おおおおお!」


 仙兵衛の雄たけび。


 触れた者の力を吸い取る赤子の体を、ひたすら大きくひたすら分厚くひたすら重い刃が両断する。横薙ぎに払われたそれは、そのまま産女の胴体をも横一文字に通過した。


 大般若の切先が深々と土間に突き刺さる。赤子は絶命し、上半身だけになった産女もまもなく死ぬだろう。僅かな間、僅かな静寂でそれは確かに聞こえた。


「お、父ちゃん……?」


 それは産女としてではなく、打々鶴子としての確かな声。


「鶴子、鶴子!」


 鶴子に駆け寄る鉄じい。弱々しい手を力いっぱい握りしめる。


「お父ちゃん、迷惑かけてごめんね」


「何言ってやがる、子供は親に迷惑かけるもんだろうが。それより、それよりよ。俺こそお前を守ってやれねぇで!」


「ううん、そんなことない。お父ちゃん、ご飯はちゃんと一日三回食べなきゃ駄目よ、偏った物ばかり食べても駄目なんだから」


 徐々に呼吸は浅く、声は小さくなっていく。


「お願いだから長生きしてね。近所の人とは仲良くしてね。それと、それとね。私、お父ちゃんの子で幸せだったよ」


 柔らかい笑みを浮かべ、鶴子は息を引き取った。鉄じいは鶴子の亡骸を抱きしめ、啜り声を上げる。


 仙兵衛は鉄じいの背をただ見つめている。


 これが自分の仕事だ。戦いに勝った。任務も果たした。しかしこの悲しみは、虚しさは一体どうすれば消えてくれるのだろう?


 からりと戸の開く音がして、仙兵衛はそちらに目をやった。


「終わったようだな。よくやった」


 副長。と仙兵衛。迫水は仙兵衛の隣まで来ると、鉄じいと鍛冶場の中を観察する。


「副長、そっちは……」


「ああ。再生されては厄介だからな。跡形も無く消し飛ばしてきた。近くまで来たらお前の叫びが聞こえたのでな、ここがわかった」


 若干の落ち着きは取り戻したのか、目を赤く腫らした鉄じいが振り向いた。


「お前か、迫水の。お前んとこの小鬼にゃ世話になった。死んだ娘とまた会わせてくれたからな」


「じいさん、ありがとう。この刀のおかげで勝てたよ。これ元の場所に戻しとくから」


「いらん、お前にやる」


「え? でもこれ娘さんの形見じゃあ」


「馬鹿野郎、俺の娘は刀なんかじゃねぇ、俺の腕の中にいらぁ。娘が帰ってきたんなら、その刀にはもう何の未練も無ぇ。だからよ、そいつはお前が持っていけ。持っていって鬼を斬り続けろ」


 鉄じいは背を向けたまま言った。その表情は見えない。


「わかった。大事にするよ」


「そいつが話にあった刀か。ふむ。俺の群鮫とは兄弟剣になるらしいが、随分とまた似てない兄弟だな」


 迫水が仙兵衛と同じ感想を述べた。


「さあお前ら、これから俺は娘の葬儀の準備をしなきゃならねぇ。やることが終わったんならとっとと帰ってくれ!」


 鉄じいが涙を拭って立ち上がり、仙兵衛と迫水は鍛冶場を後にした。帰り際、鉄じいは仙兵衛に言う。


「おい小鬼。墓が立ったらよ線香でも上げに来いや。娘も喜ぶだろうからよ」


 ああ、必ず。そう返して、仙兵衛は戸を閉めた。見上げた東幻京の空は相変わらずどんよりとした黒い雲に覆われ、星も月も見えない。


「副長、他の皆は大丈夫ですかね?」


 さてな。と迫水。


「只の鬼なら心配あるまい。だが厄介な奴、尖狭坊が相手ではどうなるかわからん。俺たちもすぐに白虎大社に戻るぞ。連戦も覚悟しておけ」


 はい! と迫水に続いて走り出す仙兵衛。鞍馬山尖狭坊。かつては白峰魔王の側近だった大天狗。その鬼の前に、果たして自分の力は通用するのであろうか。仲間の無事を祈りながら、夜の街を駆けた。


 朱雀殿 正面門前


 死霊を弄ぶ術に長けた大天狗、鞍馬山尖狭坊。彼の鬼は今、眼下の敵を睨みながら氷柱の中で果てていた。


 彼だけではない、手駒にした者の内、もはや助からないと判断された者も一人残らず氷漬けの憂き目に遭っている。


「終わりだね。他の者も無事だといいが」


 ふうと煙管の煙を吐き出し、涼しい顔で六花は言った。結局戦ったのは六花だけで、しかも一人で十分過ぎた。右彩と香凛は殆ど何もしていないと言っていい。


「牡丹さん、すいません何のお役にも立てませんでした」


 巨大な氷柱が千剣の如く広がる光景を前に、右彩が申し訳なさそうに言った。


「あーいい、いい。病み上がりで無理するな」


 軽い調子で手を振る六花。


「では他の封印へと向かいますか?」


「うむ。そうするべきなんだろうが、私らはここであいつらが合流するのを待つとする。心配するなあいつらは勝つよ」


 それから数時間後、馬射駆でかっ飛ばして来た輪太郎の口から青竜院、白虎大社での勝利の報が伝えられた。各自はそのまま封印を守護。ようやく帰路についたのは、朝になって安全が確認されてからだった。


「つ、疲れた……ようやく寝れる」


 隊舎に戻るやいなや、仙兵衛は自室の蒲団へと飛び込み、そのまま深い眠りへと落ちていった。

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