第十話「怪異の嗤う夜」
「なんだよ、ぶん盗ってくりゃよかったじゃねぇか」
味噌汁を啜りながら輪太郎が言った。
「それじゃ、ただの押し入り強盗じゃないっすか」
仙兵衛は雉の干し肉を粥で飲み下す。
「男にはな、強引に行かなきゃいけねぇ時があんだよ。覚えとけ仙兵衛」
隊舎に戻ってきた二人を夕餉の匂いが出迎えた。今日の御膳はうるち米の粥に切り干し大根、肴は雉の干し肉で味噌が備えられている。羹はわかめの味噌汁と、素朴ながらも食った満足が得られる献立だ。
夕げの席で仙兵衛は今日のことを説明していた。
「それで刀はどうするんだ? 予備なぞとっくに君が全部折ったぞ」
と切り干し大根を口に運びながら、右彩。
「でも刀って安くはない物よねぇ」
既に食べ終えた瞳は茶を啜っていた。
憑鬼組では、基本夕餉は揃ってる食べる。食堂に姿が見えないのは、弾正台へと出向いている六花と迫水だけだ。
「とりあえずはやっぱ素手かな」
「ステゴロか、いいんじゃねぇのか」
「まあ、全員が全員刀持ってなきゃいけないって決まりは無いしねぇ。あ、茶柱」
この時代において、刀は役人の象徴である。役人は正式に朝廷に使える者の証として帯刀が義務付けられていた。しかし、憑鬼組は腫れ物に触るかのような扱いを受けているらしく、強制はされていない。あくまでも自主的に自分たちも社会の一員なのだと誇示する為のものだった。
その後の警邏も特に変わったことも無く、戌の刻を回る頃には仙兵衛は床の中にいた。
鉄じいの娘はどんな人だったのだろうと考えてるうち、眠りへと誘われていった。
◇
草木も眠る丑三つ時に、それは起こった。
しこたま酒を飲んで家路についていた町人六助は、突然路地の暗がりから声をかけられて飛びあがった。
「もし……」
その声が女のものでなかったら、腰を抜かしていただろう。本来の六助はそれくらい気の小さい男だ。
「なんでぇ、女かびっくりさせんな」
申し訳ございません、と女は謝罪し暗がりから出てくる。あ、と息を飲む六助。それだけその女は美しかった。
若過ぎずかといって歳もとっておらず、細く吊り気味の眉は生来の気の強さを象徴しつつも、物腰からは教養を感じさせる妖婦。葦原の遊郭でさえこれほどの上玉はそうおるまい。
ただ奇妙なことにその女の髪と着物は乱れ、乳飲み子と思われる赤ん坊を抱えている。
「こ、こんな時間にどうしたんだい。悪い奴らに乱暴なことでもされたのかい?」
助けていただきたいのです。と女は言った。
「私はこの先の呉服問屋に嫁入りしたのですが、そこの姑がこの子を殺そうしているのです」
「えっ? 一体なんで」
「この子が忌子だというのです。私は家の人間の目を盗んでここまで逃げてきましたが、この子の薬を忘れてきてしまいました」
見ると確かに赤ん坊は顔色が悪く、死んだように元気がない。
「えやみです、三日前から苦しんでいるのです。お願いです、私が薬を屋敷から取ってくる間、この子を抱いていて下さらないでしょうか。お礼はいかようにも」
乱れた着物から覗く肌を見て、六助は生唾を飲み込んだ。
「わかった、任せな。この子は俺が看とくよ」
「ありがとうございます」
女は深々と頭を下げ、赤ん坊を渡した。体温を感じさせない赤ん坊に違和感を覚えながらも、六助は女を見送った。
母親の手を離れた途端にぐずり始める赤ん坊をあやしながらも、じっと女を待った。
四半刻もかからない。そう女は言っていたが、待てども待てども女は戻ってこない。寅の刻(現代の深夜三時頃)にさしかかり、いよいよおかしいと思い始めた時、異変が起こる。
赤ん坊が泣きだし、その声は段々と大きくなっていく。
「こら、静かにしねぇか!」
もう耐えきれないと思ったその時、赤ん坊は突然何かを吐き出すような不気味な音を立て沈黙した。
赤ん坊を覗き込んだ六助は、ひっと声にならない悲鳴を上げる。赤ん坊は死んでいた。虚ろな黒目に顔面蒼白になった自分の顔が映っている。
私の坊や……。
背後から聞こえた声に振り向くと、やっと戻ってきた女が立っていた。しかし先ほどとは明らかに様子が違う。裸に血まみれの腰布一枚だけを巻き、髪を振り乱したその目は血走っている。
何より体が人間のものではない。両腕と両足は鳥の翼と鉤爪そのものだった。
腰を抜かし崩れ落ちる六助。
「私の坊や……殺したのね」
寒気がするほど冷たい声。
「ち、違う、違う! 勝手に死んだんだ! 俺じゃねぇ!」
勝手に死んだ。それを聞いた女が狂ったような奇声を上げる。それは巣を守ろうと敵を威嚇する鳥の怒声にも似ていた。
「私の、私の、坊やあああああ!」
女の胎が裂け、どろどろした血液と共に無数の胎児のような生物が飛び出してくる。
その場から逃げ出そうとした六助だったが、死んだはずの赤ん坊がしがみついて離れない。しかも岩のように重くなっていくではないか。
「きゃは、きゃははは」
虚ろな目のまま、赤ん坊が笑い出す。そして恐怖におののく六助を、無数の赤い胎児たちが包み込んでいった。
◇
翌朝、東幻京は騒がしかった。いつもより早く仙兵衛は起こされる。
「皆、揃ったな」
六花の号令が道場内に響く。
「昨夜から、変死体が次々と見つかった。しかも東幻京全体でだ」
間違いない、鬼の仕業だ。憑鬼人だったらこんなに堂々と人は喰わない。と六花は言う。
無残に食い散らかされ、残ったものは肉や骨の欠片だけとなった者、枯れた木のように干からびた者、忽然と姿を消した者。身分、地域、貴賤、老若男女を問わず、大勢の人間が犠牲となっていた。
「食われた人間の数が多すぎる、ここまで同時に鬼が出現した例は、崩世の乱以来無かったことだ」
道場内に緊張が走る。
「奴ら、徒党を組んで何かをやろうとしている。それが何なのかは今のところ不明だ。それがわからない以上、どこを重点的に警邏すればいいのかもわからん。迫水」
六花の横に控えていた迫水が一歩前に進み出る。
「よって俺たちは今日より、日が落ちてから昇るまで、全員で毎日警邏をする。日が出ている間は他の検非違使や下役が警邏を行っている。日中はよくよく休んでおけ」
そして警邏地区の割り当てが告げられる。仙兵衛は右彩と共に北側を担当する。
「厳しい勤めになるが、皆気合を入れていけ。以上! 日没まで休め!」
夜からの任務に備えて、憑鬼の面々は休息を取った。そして夜が来る。
「仙兵衛、僕の判断に従えよ」
夜風に浅葱色の襟巻を靡かせた右彩が言った。
「はいはい、よろしくな隊長さんよ」
警邏は黄昏時の羊の刻から始まり、仙兵衛と右彩は京の北側を巡回した。街は不穏な静けさを湛えたまま、子の刻を迎える。
同刻、玄武寺。
平素、この玄武寺に僧兵が詰めることは無い。この玄武寺は崩世の乱の後、東幻京の新たな象徴として東の青竜院、西の白虎大社、そして南に座す内裏の朱雀宮と共に建立された。ここに祀られているのは健康祈願と旅の安全を祈る神で、武芸の神では無い。
それにも拘わらず、強兵と名高い
「一体何からここを守れというのでしょうか」
若い僧兵が共に見張りをする同胞に聞いた。
「それは考えずともよいのだ、雲景。拙僧らはここを守るのみよ。例え相手が人でも鬼でもな」
糸目の大柄な僧兵はぶんと薙刀を振るった。ひらひらと松明の明かりに引き寄せられていた蛾が真っ二つになる。
「我ら炎掠寺僧兵衆、またの名を
事実、炎掠寺の僧兵は崩世の乱にて主戦力の一つとして活躍した。武芸を学びたいなら下手な道場より出家するべし。とまで言われている。
糸目の僧兵、正鶴は薙刀の先に人影を認めた。門の下に立つその男の身なりを見るに、修験者だろうか。あちこちが傷んだ柿衣を身に着け、編み笠を被った大男はゆっくりと二人の僧兵へと歩み寄って来る。
「何者だ?」
大男が近づくにつれ僧兵たちは異様なことに気づく。元々大男だが、見上げれば見上げるほど、目の前の男が大きくなっている気がするのは気のせいだろうか。
「貴様、止まれと言っているのがわからんか」
男はとうとう僧兵の目の前に立った。雲景が気色ばむ。
大きい、正鶴も他の人間より二回りは背が高い。その自分が相手を見上げるのは初めての経験だった。
男は無言のまま、被っていた編み笠を取った。あっと僧兵たちが息を呑む。その下にあったのは人の顔ではなく、大きな一つ目の鬼の顔だった。
「おのれ、化生!」
僧兵たちが後ろに飛び退る。異変に気付いた他の僧兵たちも飛び出し、入道姿の鬼を取り囲んだ。
「何の用かは知らんがここに現れた以上、生かしては帰さん!」
僧兵の長が叫ぶ。号令と共に、桐柳連の精鋭が入道に切りかかっていった。
◇
悪い夢だ。
地に伏せ薄れゆく意識の中で雲景はそう思った。威栄山炎掠寺の僧兵が、手も足も出ずに壊滅するなど、誰が夢にも思おうか。
玄武寺での戦いは四半刻もせずに決着した。かろうじて息のある雲景一人を除き、僧兵たちはその全員が事切れている。
まさか他にも鬼がいたとは。うわごとのようにそう喘ぐ。
入道だけではない、翼のある鬼が二匹に獣のような鬼が一匹、計四匹の鬼が玄武寺を蹂躙したのだ。
「まだ息のある者がいるな、生かしおく必要も無し。今止めを刺してやろう」
ふわりと雲景の目の前に鬼が降り立つ。人の姿に鳥の貌。【烏天狗】は刀を構え、雲景の顔面目掛けて刃を振り下ろした。
刹那、青い閃光奔る。
「立てますか? ここは僕が受け持ちますあなたは安全な所に避難を」
刀と刀がぶつかり合う。烏天狗の前に、右彩が立ちはだかった。
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