第四話「渡る世間に鬼はなし?」
三鹿村を出て早一ヶ月、仙兵衛はこの
金は持っていなかったので、道中にある駅家、布施屋(官人や税としての物資を運搬する役人用に設けられた施設)で薪割りや力仕事を手伝い、少しの手間賃と寝床として小屋か厩を貸してもらった。流石に寒さが厳しい日は、木賃宿に泊まって暖を取る。
街道はすっかり雪化粧し、旅路はますます厳しくなったが、どこの宿でも薪割りのための人手を欲しがっていたことは幸いだった。
数日後には東海道へと入り、さらに三日後、ついに仙兵衛はこの国最大の都【
何万人もの人々が暮らすこの都は、かつては白峰魔王率いる鬼の本拠であった。
崩世の乱の後、帝が宮を構えると公家や陰陽師、武士や商人が集まってきた。人が集まれば物資も集まり、都はさらに大きくなる。遷都からたった数年の内に東幻京は急速な発展を遂げ、政治、商業、文化の中心となっていった。近年では、諸外国との交易も始まっている。
今や名実共に蛇般一の商業都市となったこの土地は、貴族や武家だけではなく、職人、平民、ならず者や流れ者に至るまで、ありとあらゆる人が集い、それを受け入れている。
行き場を失いさすらう仙兵衛がここにたどり着いたのも、必然と言えるだろう。
「うわ、すっげぇ……」
東幻京の街を歩く仙兵衛の口から、思わず感嘆が漏れた。
玄武寺の羅生大門の下では、大通りを無数の人々が行き交い、沿道に立ち並んだ店屋からは大小様々なのぼりが上がり、活気に溢れた声が飛び交っている。
火除けのために設けられた広小路では、屋台や天秤棒を担いだ商人が密集し、水揚げされたばかりの青魚や季節の物を売りさばいていた。その中には、仙兵衛が今まで見たことのない物がたくさんある。
例えば右手に見える天麩羅と掲げられた屋台で売っている、油の満たされた鉄鍋の中でカラカラと小気味の良い音を立てている食べ物。それを食す客の口からは、サクサクカリカリというなんとも食気をそそる音がこぼれている。
かと思えば、左手にある蕎麦切りと書かれたのぼりの上がっている屋台では、客は丼の中の汁に浸かった細長い物を具と共に一心不乱に啜っている。客の中には、右手の屋台で買った物を、左の屋台の具にするという工夫を凝らしている者までいた。
仙兵衛には食べ物の名前も、のぼりや看板に何と書かれているのかも分からなかったが、この寒空の下で食べるそれらはさぞかし美味しいのだろうということだけは分かった。
整備された水路では小舟が往来し、材木や積み荷の降ろし作業や、人を運んだりと大忙しだ。地元の祭りなど比べ物にならないほどの人と物資が、所狭しとばかりにひしめき合っている。
しかし、仙兵衛が驚いたのは人の多さだけではなかった。特に目を引いたのは牛車の存在。
牛車と言うからには、牛が車を引いているのが常識だ。しかし今目の前を行き来しているそれらには、車体を引く牛が存在しない。まるで見えない牛に牽引されているかのように車輪がひとりでに回転し走行している。
それも一台だけではなく、目に映る牛車のほとんどがそうした牛なし牛車とくれば、例えそれが仙兵衛でなくとも開いた口が塞がらなくなるのは当然の反応だろう。
奇々怪々、面妖珍奇な光景を目にしながらしばらく歩くと、妙に開けた街路に出た。幅の広さも妙だが、殊更不可解なのはぶつからずにすれ違うのが困難なほどに通行人がいるというのに、誰一人目の前の道を渡ろうともせず縁にずらりと並んでいることだ。向かい側にも同様に大勢の通行人が立ち往生している様は、さながら合戦前の睨み合いを思わせる。
誰も渡らないなら、と仙兵衛が足を踏み出した瞬間、横方向から走ってきた牛なし牛車に轢かれそうになり、慌てて元いた場所に引っ込んだ。
眼前を多数の牛車が行き交うこの道を、一体どう渡れというのか。その答えはすぐに見つかった。道を見守るかのように林立する大きな柱。この柱には提灯が三つ、もしくは二つ下げられていて、明かりが灯った際の提灯の色で牛車と人のどちらが道を渡るのかを決めているのだ。
提灯が青く灯ると、それまで仏像もかくやといった風に押し黙っていた人々が一斉に歩き出す。前から後ろから流れゆく人の波にもまれながらやっとの思いで道を渡り切った仙兵衛はふうと大きく息をついた。
力仕事で感じるものとは別種の疲れを感じる。まさか歩くだけでここまで気が滅入るとは。
「あ! おみつからの連絡来たよ」
元気な声が聞こえてきた方に目をやると、そこには仙兵衛と同い年くらいと思わしき娘たちが屯していた。皆が皆藤色や紅梅といった鮮やかな小袖を着飾り化粧を施している。
彼女たちは空を見上げ、その目線の先には一匹の鳥が飛んでいる。鳥はまっすぐに少女たちの方へ飛んでくると、差し出された手に止まった。よく見るとその鳥は紙を折って形作られた物で、その体には文字が書き込まれている。
「はい、おみつ寝坊。先にお店行っててだって」
紙の鳥を開いて文を読んだ少女は不満げに言うと、懐から紙と墨壺、小筆を取り出す。
「はいはい、先にお店入ってます、と」
文をしたためると、紙を鳥の形に折り畳み宙へと放り投げる。すると奇妙奇天烈摩訶不思議、先ほどまで確かにただの紙だったそれは、本物の鳥のように羽ばたき東幻京の空へと飛び去って行った。
「さ、行こ。早くしないと満席になっちゃう」
見届けた町娘たちは連れ立ってその場を後にする。
「こいつは想像以上だぜ……」
あまりの技術、文化水準の違いを目の当たりにしたことで受ける衝撃。それは村を出てからずっと気分が沈んでいた仙兵衛にとって、悲しみを少しだけ忘れさせてくれる良い刺激となった。
しかしいつまでも呆けてはいられない。これだけの人と、店があるのだ。自分を雇ってくれる所などいくらでもあるだろう。仕事を見つけて、東幻京で暮らす。自分のことなど誰も知らないこの都で、今日から生きていくのだ。
ーーでも一体、何の為に?
「で? お前さん、何ができんだい?」
でっぷりと太った赤ら顔の店主の面倒そうな調子に、仙兵衛は面食らう。
「えっと、何がって例えば?」
「読み書きは当たり前として、うちは
「あー、読み書きも勘定もわかんないっす。その目利きってのも」
店主はやっぱりな、とでも言いたげな目で仙兵衛の身なりを見やるとため息をつく。
「そんじゃあ、うちで働いてもらうとなったら使いの者をやるから、今日はもう帰ってもいいよ」
けんもほろろとはこのことか、いけそう感がまるで無い。しかし一々へこんでたって仕方がない。仙兵衛は深呼吸を一つすると、雇い主を探すべく京の町をひたすら歩く。
「うちは食事処だからね、読み書きができなくたって問題ないが、魚の一尾も裁いたことが無いんじゃねぇ」
次に門を叩いたのは、大通り面した一等地に店を構える小料理屋。
「それは教えてもらえれば、しっかり覚えるっす」
「悪いね、うちが今欲しいのは即戦力なんだ。他にも経験があって働きたいってのが何人かいるし、今回は縁がなかったってことで」
その後も旅籠に魚屋に本屋に薫物屋ーー、目に入った店に片っ端から働かせてくれないかと飛び込むも、計算はおろか読み書きもできない仙兵衛を雇ってくれる店は見つからなかった。
「学も無し、商いの経験も無し、おまけに手に職をつけたことも無しかい」
むわりと煙管をくゆらせて、口入れ屋(働き口の手配を請け負い、仲介料として給金の何割かを受け取る生業)の女将がしかめっ面をする。
身分も定かではない人間も多く流れてくる東幻京ではこういった口入れ屋に頼る者も多く、ここに行けば何かしらの仕事にありつけるはずだと、最後に訊ねた織物屋の店主に教えられたのだ。
「他に何も無いのかい? 芸の一つや三味線の一つでもできりゃあ、芝居小屋なり旅籠の座敷芸人なりの奉公先が見つかるってもんなんだけどねぇ」
「芸はできないけど、畑仕事や力仕事なら人の何倍も。住んでた村じゃあ畑や薪割りを手伝ったりしてたし、それから」
「畑仕事!」
仙兵衛の売り込みを遮って、女将が大笑する。
「いいかい坊や。この東幻京にはね、百姓なんていやしないよ。野菜は外からこの都に運ばれてくるし行商人だってひっきりなしさ。市人や港の積み下ろしにしたって、数の勘定もできない人間を雇ったりするもんか。悪いことは言わない、せめて読み書きができるようになるか田舎に帰んな。それともなんだい、馬や牛より重い物が引けるなんて言うつもりじゃないだろうね」
「おいおい、なにもそこまで言うこたぁねぇだろう」
襲われた鳥のようにまくし立てる女将に、番頭をしていた旦那が口を挟む。
「頼ってきた客を門前払いとあっちゃこの
「おまえさん、その目はちゃんと見えてんのかい?」
女将は心底呆れた様子で言った。
「人相は悪い、体つきはごつい、おまけに愛想も無いときた。一体どこの誰がこんな男くさいのを買うって言うんだい?」
「嘘だろ、どこも雇ってくれねぇじゃねぇかよ!?」
口入れ屋を後にした仙兵衛は夕日で赤く染まった道をとぼとぼ歩く。最後の望みだった口入れ屋にすら冷たくあしらわれ、奉公先はついぞ見つからず、なけなしの路銀ももう尽きた。これから住む所はおろか、今日食べる物にすら事欠く有様。
「ちくしょー、どいつもこいつも読み書きだ勘定だ経験だって」
ぶつぶつと悪態をつきながら、路傍に設けられた東屋に腰をかけて人々の往来を眺める。日はもう随分と西に傾いているというのに、道行く人の数は昼間と全く変わりがないように見えた。
東幻京にはこんなに人がいるというのに、まるで仙兵衛という人間など存在していないかのように通り過ぎて行く。人が、京が、この世の全てが自分を拒絶しているようにさえ思えてくる。
「帰りてぇな……」
ぽつりと本音が漏れた。それが叶わないことは、誰よりも自分が一番分かっているのに。
ぴしゃり、と仙兵衛が自分の頬を叩いた。弱音と弱気を心の中から追い出す。そうだ、こんなところでうじうじしていたって何も始まらない。姉がいなくなったあの日から、涙はとっくに枯れているのだ。
勢いよく立ち上がって深呼吸。肺が冬の冷たい空気で満たされ、身が引き締まるのを感じる。
「うっしゃあ! まだ京にある店全部回ったわけじゃねー! 明日はきっと見つかるさ」
とにかく行動あるのみ。さしあたっては、今日の寝床を見つける必要がある。仙兵衛は京の西側の通りへと歩を進めた。
宿をとれるほどの金は無いのでどこかの民間の世話になるか、もしくは寺に駆け込むことになる。
すっかり日が落ちて闇に包まれたはずの街路は、道に沿って一定間隔で備えられた石灯籠の篝火でぼんやりと照らされている。この明かりは役人が点けて回ったわけではなく、不思議なことに陽が落ちるとひとりでに灯ったものだった。
大通りや繁華街にある灯籠はギラギラとした輝きを放っており正に不夜城といった様子だが、住宅地や路地裏にある篝火はふんわりとした月光を思わせる。
仙兵衛は淡い光が作る陰影の美しさに引き寄せられるかのように路地へと入り込む。彼の他には人気もなく、中心部の喧騒が嘘のような静けさだ。
そろそろ泊めてくれそうな家の戸でも叩こうかと考え始めていた時、少し先の曲がり角から男の言い争う声が聞こえてきた。
そっと曲がり角を覗き込むと柄の悪い男二人が、気弱そうな男を袋小路へと追いつめているのが目に入る。
追いつめられている男の着物はくたびれ色あせており、懐具合が貧しいことは容易に想像できる。対して二人組は一人は顔に大きな傷があり、そしてもう片方は髪を剃りあげている。こちらの二人は着物の柄も派手でその強面も相まってめっぽうはったりの効いた風貌だ。
「金は必ず返しまさぁ。ですからどうか、どうかもう少しだけ待って下せぇ」
貧しそうな男は今にも泣きだしそうな声で哀願するも、傷のある男に殴りつけられ地べたへと倒れこむ。
「必ず返すだぁ? 当たり前のこと抜かすなボケ! そのもう少しが今なんだよ!」
剃髪の男が倒れた男の胸倉を掴んで吠えた。
「い、今は本当に金が無ぇんです。奉公先が見つからなくて」
「知ったこっちゃねぇんだよそんなこと! てめぇは
傷の男も口を開く。ひどくドスの効いた声だ。
「仕事が見つからねぇだ? 選ばなきゃいくらでもあんだろうが、あ? つまるとこ、てめぇは働きたくねぇだけだろうが」
「違ぇます、本当に見つからねぇんでさぁ! 今日も一日中、朱雀大門の方まで足を伸ばしやしたが、読み書きも勘定もできねぇあっしに仕事は無えって」
ついに体を震わせて泣き出した男の言葉を聞いて、仙兵衛は頭を殴られたような錯覚を覚えた。自分と同じように仕事を探して、そして自分と同じような理由で袖にされた人間が京にはどれほどいるのだろうか。
明日で仕事が見つかるという保証など当然無い。あそこでむせび泣く男は、そう遠くない未来の自分の姿かもしれないのだ。
「まぁ、なんでもいいけどよ。気の毒だからもう少しだけ待ってやる」
二人組の男は呆れたような嘲るような表情を浮かべて返済の猶予を言い渡した。
「あ、ありがとうごぜぇます! 助かりまさぁ!」
男は土下座をして感謝を述べる。
「でもよぉ、だからって何のお咎め無しってのも示しがつかねぇ」
剃髪の男がしゃがんで男の腕を掴む。
「な、何を?」
「大旦那がよ、金を返さなかった時は見せしめとしてお前の指を折れだとさ」
男は口元をにやりと歪ませながら言った。
「そ、そんな! 勘弁を、どうかご勘弁を! そんなことされちゃあますます仕事が見つからねぇ!」
「じゃあ指が折れててもできる仕事を探すんだな」
ぱきん、と乾いた音が鳴り、激痛に男が絶叫する。夕闇に響くそれは閑静な路地裏には似つかわしくないものだった。
「あばよ、早いとこ金を返したほうが身のためだぜ」
取り立ての二人組は高笑いをしながらその場を後にしようと歩き出す。
一部始終を見ていた仙兵衛は怒りがこみ上げてくるのを感じた。
腹の奥が無性に熱い。自分ならあの二人組を痛めつけ、同じ目に遭わせてやることだってできる。
曲がり角から出て行こうとした仙兵衛だったが、その足は地面に伏せて泣きじゃくっていた男に訪れた異変によって止まる。
「うう、うふっ、うふふふふ。もういい。真っ当な人間らしく生きようと思ってたが、もういいや。もういい、もういい、もういい、もういい」
その声に仙兵衛の背筋は冷たくなる。あの不気味な笑声からは何か、そう人として失ってはいけない何かを捨て去ったかのような狂気を感じる。
その気配も察せず、取り立ての男たちが男に話しかける。
「どうした? 痛みで頭でもやっちまったか?」
男が伏せていた顔を上げる。しかしそこにあったのは先ほどまでの人の顔ではなく、赤い殻に覆われ眼が角のように飛び出た蟹のものだった。
声にならない声を上げる取り立ての男たちの前で、その姿はみるみる変貌していく。肌は固まって棘のある甲殻に、腕は巨大な鋏に、そして脇腹から突き出たものと合わせて脚は八本に増えた。
仙兵衛は言葉を失った。初めて出会った、自分と同じように変化をする人間。間違いなくあの男と自分は同類なのだ。本能はそう告げていた。
「ひ! ば、化け物! こっちに来るんじゃねえ!」
取り立ての男たちが腰を抜かす様を見て、巨蟹は愉快そうに笑った。
「おいおい、化け物ってのはあんまりじゃねぇですか。あっしからすりゃあ、あんたたちの顔の方がよっぽど化け物じみてる」
ゆっくりと巨蟹は男たちとの距離を詰める。
「あんたたちが悪いんですぜ。あっしは真っ当に生きてくつもりだった。それをさせてくれなかったのは、あんたたちだ」
赤い鋏が傷の男の顔を掴む。そのまま男の体は持ち上げられ、逃れようとした足は虚しく宙を踊うだけだった。
「ま、待て助けてくれ! そうだ、大旦那に相談してお前の借用を」
ざん、と重い音が響き、傷の男の頭と言葉を切断した。
「ひ、ひいいい!」
上顎から上の無くなった相棒を目の当たりにして、剃髪の男が絶叫する。
「なああんた、考えたことあるかい? 生まれた時から他の人間から疎まれ、逃げた先でものけ者にされた奴の気持ちを。なぁ!?」
高く掲げられた鋏が月明りを受けてギラリと光る。血濡れの凶刃は次の獲物目掛けて振り下ろされた。
しかし虚空に響いたのは肉の断たれる湿った音ではなく、乾いた金属音だった。その爪が捉えた鉄腕の持ち主である朱い鬼が叫ぶ。
「おいあんた! もう気は済んだだろ、許してやれよ!」
「あ、あんたは一体・・・?」
突然の乱入者の登場に蟹男は動揺し、鋏を離して後退する。
「見てたよ。確かにこいつら腹立つけどよ、なにも殺すことねぇだろ。見逃してやれよ」
「何だと思ったらお仲間ですかい。見てたんなら話が早ぇ、そこどいてくだせぇそいつ殺すんで」
多少の驚きは見せたものの、蟹男はすぐに気を取り直し乱入者を押しのけようとする。だが仙兵衛も脚を踏ん張り頑としてその場から動かない。
「誰か助けてくれぇ! 鬼だぁぁぁ!」
もう一体の鬼の出現によってできた隙に、剃髪の男は立ち上がり逃亡を謀る。男に気を取られた仙兵衛の顔に、蟹男の口から泡が吹きかけられた。
視界を奪われ、仙兵衛の体が強張る。その一瞬の間を逃さず、蟹の男は俊敏な横歩きで剃髪の男の前に先回りし、その胴を真っ二つに両断した。
「くそ! いくらなんでもやり過ぎだろ!」
顔についた泡を掃った仙兵衛に蟹男が話しかける。
「お初にお目にかかりやす。あっしは半助ってぇ男でござんす。見ての通り【蟹坊主】ってぇ鬼の憑鬼人でさあ。失礼ですが、お手前は?」
「俺は仙兵衛。今日この都に来た」
「お見知りおきを、仙兵衛さん。ではあっしはこれで失礼しやす。これから行くとこがありますんで」
「行くとこ?」
「へい。こいつらの主人、豊蔵屋の旦那と店の者皆殺しに行くんですよ」
半助と名乗る男はちょっと用をたしに、とでも言わんばかりの気軽さで言い放つ。
「ちょ、ちょっと待てって! 何でそんなことすんだよ!」
「今まであっしを散々こけにしてきた奴らにお礼参りでさあ。邪魔しねぇでおくんな」
「やめろ! これ以上殺すな!」
仙兵衛の意見を聞く素振りも無く半助は歩き出す。
「あんたもこっから早く立ち去った方がいいですぜ。そのうち厄介な奴らが来ちまいやすんで」
「おい待てって、言ってんだろぉ!」
仙兵衛は傍らにあった石灯籠を持ち上げ、遠ざかる半助の背へと投げつける。
半助はそれをすんでのところで回避、目標を失った石灯籠は壁と激突し、再音響を立てて粉々に砕け散る。
「何しやがんですか、あんたには関係ねぇでしょう?」
視線を壁から仙兵衛に戻した半助に向かって、朱い鉄鬼が突進した。
「あんたの気持ちはわかる! でも殺すのは違うだろ!」
「わかんねぇお人だ。なら、あんたもここで死んでおくんな!」
鬼と鬼の戦いが始まった。二体は取っ組み合い、仙兵衛は半助の脚を何本かもぎり取るも、すぐさま新しいものが生えてくる。
仙兵衛の動揺した隙をつき、半助は胴体をその強力な鋏で捉えるが、鋼の体にはかすり傷をつけるのがやっとであった。
力勝負は不利と見た半助は距離を取ろうとするが、片腕を仙兵衛に捕まえられそのまま壁へと投げつけられる。半助の体が壁と衝突し木片と埃が舞う。
「お、鬼だ! 鬼が出たぞ!」
横から叫び声が割って入る。人間同士の喧嘩かと物見遊山気分で首をつっこんだ住人たちだ。
「早く、早くあいつらを呼べ! 皆殺されるぞ!」
口々に騒ぐ人間たちを見やり、半助がいら立ったように言った。
「やかましい奴らだ。ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあと」
両の鋏を大きく開き、半助が住人たちへと走り出した。悲鳴をあげて逃げ惑う住人は路地裏を抜けて大通りへと飛び出し、半助もそれを追う。
突然路地裏から現れた鬼の存在に、大通りは恐慌状態へと陥った。
「あっしが何をしたってんです? ええ? あっしが何を!」
半助は目の前で腰を抜かしてへたり込む町娘を覗き込むように睨みつけた。飛び出した眼球に、恐怖に引きつった顔が映る。
「あ……ああ……」
町娘の腰から下が湿っていく。半助はその様を満足そうに眺めて言った。
「かわいそうに。怖いんだね、娘さん。でも安心しておくんなせえ今あっしが何の感じられなくしてあげますから」
鋭利な爪が細い首に触れるその寸前、仙兵衛が体当たりをかまし、半助の体は吹っ飛ばされる。
「何で邪魔をする! どうせあんただって、鬼だ化け物だって言われて逃げてきた口だろうが!」
半助は立ち上がり、いよいよ排除すべき敵と見定めた仙兵衛に襲い掛かる。
「な、何が! あんたに俺の何がわかる!」
半助はその脚力を活かし、右に左にと仙兵衛を翻弄する。
「わかるとも! 故郷を追い出され、京に来たはいいが仕事は見つからず、落ちぶれる日々! ここにはそんな奴らがごまんといる、あっしもそうだった。そしてお前さんもそうなるのさ!」
「そんなこと・・・」
一瞬の動揺。半助の両腕の鋏が仙兵衛の首を捉える。
「切れねぇまでも、首の骨をへし折ることぐらいできらぁ!」
鋼の肌は貫けぬ。しかし万力で締め上げられた喉の気道が塞がれる。仙兵衛の両腕は六本の脚によって封殺され、そのまま地面に引き倒される。
「さぁ、死ねぇ!」
首の骨がみしみしと悲鳴を上げる。呼吸もできず、仙兵衛の視界はだんだんと白くなっていく。
「死ぬのはお前だ」
どこからか聞こえた声と、眩い閃光。
蒼い光が走ったのを仙兵衛は瞳の端に捉えた。
「ぎゃあうっ!」
背中を焼かれた半助は痙攣し、仙兵衛を解放した。
「な、何だ?」
首を抑えながら立ち上がった仙兵衛は、半助越しに光が飛んできた方向を見た。
「き、来た! 奴らが来たぞ!」
周囲の人間にざわざわと波紋が広がる。そこには二人の人物が立っていた。
一人は長い黒髪を後ろで一本にまとめ、浅葱色の襟巻を身に着けた切れ長の目をした少年。もう一人は桃色の髪と瞳の、左にある泣きぼくろが特徴の少女。
両者とも年の頃は仙兵衛と同じくらいの若さで、共に襟元に三日月模様のあしらわれた濃紺の羽織を着ている。
「う、ううっ」
ふらつきながら振り向いた半助は、羽織姿を見て狼狽する様子を見せる。
「紺の羽織に三日月紋! つ、【
「路地裏に転がってる死体はお前がやったのか?」
少年が半助に問いかける。
「だったらどうだってんです」
「一応聞いておく。大人しく捕らえられるなら、残りの余生を牢獄の中で過ごせるように取り計らってやる。抵抗するならこの場で切って捨てる。さあ、どうする?」
「ち、殺されるなんて真っ平御免だ。わかりやしたよ」
半助は抵抗するう素振りを見せず、両手を上げて少年たちの方へと歩いて行く。
「なんて言うとでも思いましたか!」
そう叫ぶと半助は二人に向けて大量の泡を吐き出した。そして身を翻すと脱兎の如く駆け出しその場から逃走する。
「捕まるか殺されるかだ? なら逃げるに決まってんでしょうよ! 最悪人質の一人でも捕まえりゃどうとでも!」
「だろうな。神妙に縄につく憑鬼人など見たことが無い」
「な!?」
先回りして立ちはだかる少年の姿に半助の足が止まる。
「ちっ! ならあんたさんが死んだらどうです!」
凶刃が振り下ろされる。だがそれは少年に届くことはなかった。
「
少年の抜いた刀の切っ先が触れた瞬間、強烈な音と光が炸裂し半助の体は黒焦げになった。湯気をしゅうしゅうと立たせ、茹で上がった蟹の匂いを漂わせながら地面へと倒れこむ。
「中までしっかりと火が通ってるといいがな」
追い打ちの一言を言い放った少年は視線を仙兵衛の方へと向ける。
「次はお前だ。どうする、お仲間のようになりたいか?」
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