第二話「鬼を呪わば穴百つ」
仙兵衛が自分の村へと戻ると、広場に集まった男衆が話し合いをしているのが目に入った。皆手に農具や棒を武器のように握りしめ、戦々恐々としている。
「仙兵衛、お前どこ行ってた?」
仙兵衛の姿を見とめた村の男衆の一人、太一郎が緊張した面持ちで声をかける。
「山の方から恐ろしい叫び声が聞こえるんだ。お前何か知らないか」
「俺も聞いた。だから沼主様の所に行ってきた」
その言葉に太一郎の顔が青くなる。山菜や獣を得るために山に入ることは許されているが、贄を出す時以外で村の人間が沼に近づくことはまずない。
「お前、なんでそんな所に行った! 沼主様の怒りに触れでもしたらどうする気だ」
「心配ねぇよ。もう誰も食われることはないから」
「何、それはどういうことだ?」
仙兵衛は太一郎に大蝦蟇が死んだことを伝えた。その話はすぐさま広がり、村中が大騒ぎになった。
「仙兵衛や、その話は本当なのか」
白い髭を蓄えた古老が訊ねる。
「ああ村長、あの叫び声は沼の方から聞こえてくると思って見に行ったんだ。そしたら沼主様が死んでたよ。腹を裂かれて」
信じられん、という声が男衆から上がる。
「ふむ。戦いで死んだのだとすると、沼主様を殺した鬼がおるはずじゃ」
髭を摩りながら、村長が答えた。
「だとすれば一大事じゃ。まずは男手を集めて村の周りを探るとするかの」
「村長、俺は家に戻っていいか、沼まで行ってきたから疲れちまったよ」
「うむ。ごくろうじゃったな仙兵衛」
話がまとまり、仙兵衛は村長の家を後にした。
村はずれの小高い丘の上に、一間しかない小ぢんまりとした小屋がある。ほんの少し前までは、そこで仙兵衛と姉の小春の二人が暮らしていた。
戸を開き、少しだけ広くなってしまった自宅へと足を踏み入れると、囲炉裏の前に小袖姿の少女が一人、ちょこんと座っているのが目に入った。
「仙兵衛! よかった!」
少女は、仙兵衛の顔を見るなり安堵した表情で駆け寄り、勢いよく抱き着いた。
「お、おいさよ。そんな急にくっつくなよ」
胸の中で涙を流す幼馴染に、仙兵衛の顔は赤面する。
「じゃあ、じゃあ終わったのね。春姉さんの仇討ち」
さよが仙兵衛から体を離し、涙を手で拭う。
「ああ。終わったよ」
わらじを脱ぐやいなや、仙兵衛は床に大の字になって寝転がった。
さよが囲炉裏に薪をくべていてくれたおかげで、室内全体が暖かい。仙兵衛はじんわりとした熱が指先にまで広がってゆくのを感じた。
「はぁ、疲れたぁ。そういやまだ何も食ってねぇや。腹減ったー」
緊張の糸が途切れたからか、ひどく腹が減っていることに気が付いた。もう何年も何も食べていないような、そんな気さえした。
「今お味噌汁温めてあげるから、ちょっと待っててね」
さよが味噌汁の入った囲炉裏鍋を自在鉤に引っ掛ける。薪のパチパチとした音が耳に心地良く、仙兵衛の意識は微睡みの中へと沈んでいった。
「良かった。いつもの仙兵衛に戻ってくれて」
寝息を立て始めた幼馴染の顔を覗き込みながら、さよが微笑んだ。手でそっと、仙兵衛の頭を撫でる。その寝顔は、とても少し前まで大暴れしていた鬼とは思えないほど穏やかな表情だった。
昼になる頃には、周防が死んだという話は周辺の村々にまで伝わり、住人総出での大捜索が行われた。
悪鬼羅刹が跳梁跋扈していた十年ほど前は、土地を支配する鬼が代わるということは稀にあることだった。大抵の理由は鬼同士による縄張り争いである。
しかし、仙兵衛の住む三鹿村を含んだ一帯の土地の主である周防に挑む鬼など、ここ四、五十年は現れたことが無く、ましてや新たな支配者を名乗る鬼がいつまでも姿を見せないという異常事態は、古老である村長ですら初めてのことだった。
しかし、先帝率いる軍が鬼の頭目であった白峰魔王を討ち祓った【
そんな時勢もあって、次の主など現れないのかもしれないという考えが村人たちの頭によぎるのも無理からぬことだった。
きっと陰陽師や武士による鬼祓いによって討たれたのだろう。そう村人たちは結論付けた。
国司どころか郡司すら置かれないような辺境の地だが、そんな土地にまで手を回せるだけ鬼祓いが進んでいるのだろうと。
村人にとって重要なのは、支配者がいなくなったという事実である。
その夜、村ではちょっとしたお祭り騒ぎが起きていた。
収穫された野菜を鍋で煮込み、釣ってきた川魚が焼かれて並べられ、山の下の町から買ってきた酒を皆で飲む。
村人たちは大いに食べ、飲み、笑い、鬼の支配から解放された喜びを味わっていた。
そんな中、仙兵衛はというと宴会には参加せず、自宅に籠っているのだった。
「ねぇ仙兵衛、皆のとこに行かなくていいの?」
「いいんだよ。あんまり騒ぐ気分じゃないし」
仙兵衛はさよが持ってきてくれたイワナの串焼きを囲炉裏から外して、頭から齧りついた。こんな気分なのにもかかわらず食欲がある自分に、少しだけ驚く。
「なあさよ。俺がもっと早く、もっと早く周防を倒してれば、姉ちゃんは死なずにすんだよな?」
そんな想いが、頭からずっと離れない。
「でも、これでもう誰も生贄になんて行かなくてもよくなった。仙兵衛が皆を守ってくれたんだよ」
さよは膝を枕代わりにしている仙兵衛の頬を、そっと優しく撫でた。
「やっぱり皆に言おうよ。沼主様を退治したのは仙兵衛なんだって」
「いい。俺は姉ちゃんの仇を討っただけだ」
「でも、仙兵衛は皆に褒められることをしたのに」
「俺の体のこと、村の皆には黙ってろって言ったのは姉ちゃんなんだ。その約束は破りたくない」
仙兵衛の特異体質を知っているのは、春とさよの二人のみだった。
「うん、わかった」
それを言われちゃしかたないと、さよは頷く。
「ほら、そろそろ元気出して。沈んでる仙兵衛なんてらしくない、らしくない」
仙兵衛の頭をさよがぽんぽんと叩くと、そんなすぐ出せるかよと仙兵衛は苦笑いを浮かべる。
「元気出してくれないんなら、もう膝枕してあげない」
さよが膝をさっと引くと、乗せていた仙兵衛の頭がことんと床に落ちる。
「なんだよけち、減るもんじゃないんだからいいだろ」
「減るんです。私の真心とか、優しさとか色々」
抗議の声をさよはさらりと流す。
「さ、そういうわけで皆の所に行きましょー」
「はいはい、わかったよ」
観念したようにそう言うと、仙兵衛は立ち上がって伸びをする。
「それよりいいのかよ。こんな時間に男の家に居て。また親父さんに怒られるぞ」
「おとっさんならもうベロベロに酔っぱらってるから大丈夫よ。それに今日ぐらいいいじゃない」
さよが囲炉裏の火を火箸でかき消すと、部屋は暗闇に包まれた。暗黒の中、お互いの輪郭がうっすらと浮かび上がる。
「ねえ仙兵衛、これからどうするの?」
「どうするもなにも、畑耕して田んぼ手伝って、冬になったら薪を山の下の町まで売りに行って暮らすに決まってるだろ」
「あ、うん。そうじゃなくて、こ、婚姻とか考えてるのかなって」
さよの緊張したような、期待するような声色が響く。
「婚姻か。そういや、俺もそろそろそんな歳か。そうだな、いい相手がいれば」
「じゃ、じゃあそれなら私が」
「まあそんな相手いねぇけどな」
「は?」
能天気な発言が、さよの言葉の先を霧散させた。
「俺なんかよりお前はどうなんだよ? お前は気立てがいいから、山の下の町の庄屋にでもすぐに嫁に行けそうなもんだけどな」
「行くわけないでしょ」
先ほどとは打って変わった冷たい口調に、仙兵衛はきょとんとする。
「お、おさよ? なんで怒ってんだよ」
気立てがいいと褒めたつもりなのに。
「別に怒ってないけど、わからないならいいよ」
表情は見えない。見えないが怒っているのだけはわかる。
「急にどうしたんだよ」
「別になんでもないってば」
仙兵衛がここは謝るべきか、それとも謝らない方がややこしくならずに済むのか迷っていると、外でわっとあがった大声が耳朶を打った。
「も、盛り上がってんな外、一体どうしたんだろうな」
「さあ、誰かが裸踊りでも始めたんじゃない?」
取り付く島もないさよに仙兵衛がおたおたしている間にも、外の声は騒がしさを増していく。
「仙兵衛! 一体どういうことだ!」
怒号と共に小屋に飛び込んできたのは、顔面蒼白になった太一郎だった。
「太一郎さん、て、手は……その手は……」
さよが両手で口を覆う。太一郎の衣服はべったりとした血で濡れ、左腕は肘から先が無くなっていた。
「奴ら、お前を探してるぞ! お前一体何をした!」
負傷を気遣う余裕など無いと言わんばかりに、太一郎は仙兵衛に詰め寄る。
「奴ら? 奴らって誰の……」
そう言いかけた時、仙兵衛の耳は、外を飛び交う声の正体をはっきりと捉えた。それは祭りに浮かれる笑い声でもなければ歌声でもなく、恐怖にまみれた悲鳴と絶叫だった。
小屋の外へと飛び出した仙兵衛の瞳に映ったものは、まさにこの世の地獄。
魑魅魍魎様々な鬼の百鬼夜行が押し寄せ、村中を蹂躙していた。
逃げ惑う村人。中には抵抗を試みる者もいたが、人の力では鬼に敵うわけもなく、ただいたずらに骸の数を増やしていくだけだった。
見知った顔が喰われ、骨を踏み砕かれ、生きながらにして焼かれていく。その光景に、仙兵衛は力なく崩れ落ちた。
なんでこんな事に。そんな言葉が喉の奥から漏れる。何故? 一体どうして?
「仙兵衛という小僧はどこにおる? 周防を討ったという小僧は」
暴れまわる鬼のうち、ひと際大きい体躯の者ががなり立てる。棘のような毛に覆われた、一つ目の猪の鬼、
「この村で間違いなかろうな」
豪猪は鷲掴みにしている蝦蟇を見やる。
「こ、ここでよい。仙兵衛の住む村はここで。必ず殺してくだされ。親方様の仇を」
「ふん、言われずとも殺してやるわ。そうすれば、秋代はこの
息も絶え絶えの蝦蟇をあざ笑うかのように、猪笹王は嘯いた。
鬼の言葉が、仙兵衛に突き刺さった。
俺が周防を殺したから。だから皆が殺される。
後悔と怒りと哀しみとがない交ぜになった黒い塊が、仙兵衛の胸を蝕んでいく。
俺はただ、姉ちゃんの仇を取りたかっただけなのに。
茫然自失の仙兵衛の横で、さよも声にならない声をあげる。
「なんで鬼どもはお前を探している! お前が奴らをここに呼び寄せたのか!」
どうなんだ、と太一郎は仙兵衛に掴みかかった。
「こんなことになったのも全部、全部……」
お前のせいだ。太一郎の言葉は、そこで途切れた。跳躍してきた一本足の鬼に踏みつぶされ、赤い染みになってしまったから。
血の飛沫で頬を赤く塗られ、さよが腰を抜かす。
一本足の猿のような鬼は、足元のさよに気がつくと、邪悪な笑みを顔に貼りつけた。
「おなごがおる。おなごは喰うて殺す。手足をちぎって頭は最後じゃ」
にたりと笑って舌なめずり。毛むくじゃらの腕がさよへと伸びる。
仙兵衛は近くに落ちていた石を拾い上げ、鬼の顔へと投げつける。石は風を切り、鬼の右目へと命中。鬼は怒声をあげて目を庇い、その手に掴んでいたさよの腕を放した。
考えてやったわけではない。さよを守ろうと、体が咄嗟に動いたのだ。
「さよ! 隠れてろ!」
さよを立ち上がらせ、仙兵衛は怒り狂う鬼と対峙する。
「小僧、この礼は高くつくぞ」
鬼が再び跳躍、仙兵衛をその足下へと捉え、急降下する。
「どうした、恐ろしくて声も出ぬか? 呻きの一つでもあげてみせい!」
獲物を踏み砕こうと、鬼が力を込める。
今は余計な事は考えるな、皆を助けることだけを考えろ。仙兵衛は、心の中で自分にそう言い聞かせる。
体が、鬼のそれへと変貌する。鋼の如き頑強さと、比類なき剛力を併せ持つ朱き鬼に。
「ふん、憑鬼人……半人半鬼がなんだと言うのだ!」
それが鬼の最後の言葉だった。仙兵衛は自身を踏みつけていた鬼を軽々と持ち上げると、地面に何度も何度も、息絶えるまで叩きつけた。
「お前が殺した人たちの分だ。後は地獄で裁かれろ」
鬼だった肉塊を、子供を喰おうとしていた鬼へと投げつける。
「いたぞ! 奴だ、親方様の仇を」
仙兵衛の姿を見とめた蝦蟇が喚き、豪猪が眼前へと迫る。
「小僧よ、周防を殺したぐらいでいい気になるなよ。今日より奴に代わってこの秋代の地を治めるのは、この猪笹王よ!」
獣臭い鼻息が仙兵衛の顔を撫でる。豪猪は掴んでいた蝦蟇を握りつぶし、その拳を目の前の獲物へと振り下ろした。
仙兵衛はその攻撃を受け止め、一本背負いの要領で鬼をぶん投げる。すかさず大の字に倒れる鬼の体の上に飛び乗り、拳を構えた。
「ま、待て! ワシを殺せば……!」
その命乞いも虚しく、朱い腕が豪猪の単眼を貫いた。
言いかけた言葉の先も、断末魔もあげることなく、頭部を潰された胴体がびくんびくんと痙攣する。
今や村中の視線が仙兵衛へと集中していた。鬼も村人も攻防の手を止め、目の前で起こった出来事に吃驚する。
仙兵衛は豪猪の骸を背にして立ち上がると、村中に轟く大声で吠えた。
「俺が仙兵衛だ! 周防を殺した仙兵衛ならここにいる!」
「殺せ、奴を殺した者がこの地の新たな主じゃ!」
鬼の群れが、仙兵衛へと殺到する。その勢いたるや、地響きが起こるほど。
朱き修羅は雄たけびをあげると、殺意の坩堝へと飛び込んでいった。
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