鬼切り仙兵衛
カトウ ユミオ
第一話「仇を討つなら朝飯前」
深い朝靄に包まれた大沼の畔に、
乙女は身じろぎ一つせず、じっと沼の淀んだ水面を見つめている。
生い茂る木々はすっかり紅葉し、中には葉を散らしているものもいくつかあるほどに寒い季節だが、それが気にならないくらい、体の芯は熱い。
あとどれだけ待てば、その時はやって来るのだろうか。
そうしたまましばらくは静けさが辺りを支配していたが、夜が白んできた頃、沼のあちらこちらで蛙が鳴き声を上げ始めた。
最初はぽつぽつと聞こえていたその声も、次第に十、二十と数を増していき、ついには辺り一面に響き渡るほどの嘶きとなって少女にのしかかる。
澄んだ瞳に、その反響に応えるかのように、沼にいくつもの泡が浮かんでは弾ける様子が映りこんだ。
来た。
心臓がどくどくと早鐘を打つ。鼓動が少し、痛い。
ようやくだ。この時をどれほど待ち焦がれたか。
煮立った湯のように湧き立つ淵に、巨大な黒い影が見えたかと思うと、次の瞬間水面は盛り上がり、大きな水しぶきと波を生み出して乙女の眼前へと飛び出した。
現れた影は、自身を見上げる小さな人間の存在に気が付くと、大きく裂けたような口を開く。
「贄か」
低く重々しい声に、周囲の空気が震える。
山の如くそびえる巨躯、それはこの音無沼を住処とし、足薙ぎ山から小鬼峠までの一帯を牛耳る鬼、【
「今年の贄ならもう喰った。来年また来い」
言葉を発する度に、紫色の毒気が空気中に漏れ出す。
しかし娘は顔を伏せたまま、その場から動こうとしない。
「どうした、村に戻らぬのか? そうまでして儂に喰われたいか」
光沢のある丸い眼を歪ませ、蛙の悪鬼は醜悪な笑みを浮かべた。
「ならば望み通り、一呑みにしてやろう」
開いた口腔から赤黒い、丸太と見紛うほどに野太い舌がずるりと這い出し、滴った唾液が草叢を濡らす。
これも蛙の鬼だからこそ成せる業か、秋も半ばだというのに空気は湿り気を帯びていき、梅雨の時分のようなじっとりとした不快さが肌に貼りつく。
「人のおなごを食うのは愉悦じゃ。柔い肉が溶け、腹の中で苦しみもがく様が心地よくてたまらんわ」
粘液にまみれた舌が乙女の柔肌へと伸びる。しかし、その先端が獲物を捕らえることは無かった。
「この匂い、貴様! おなごではないな!」
怒声を上げる大蝦蟇を前に、乙女は市女笠を空へと放り投げた。
「よくわかったな。俺を食ってたら腹壊してたぜ」
下から現れたその顔は、手弱女という言葉とは正反対のものだった。
刃で切り込みを入れたような鋭い目つき、口元から覗かせる八重歯は牙を思わせる。野性味溢れるその風貌は、精悍というよりは粗野という言葉がよく似合う。
少年は上着を脱ぎ、自身の何倍はあろうかという鬼を睨みつける。
「夜分遅く、いや朝っぱらからご足労いただいてすまねぇな、沼主様よ」
「何のつもりだ童。ワシを謀るとどうなるか、知らぬわけではあるまい」
大蝦蟇は岩のようなゴツゴツとした皮膚を膨張させ、毒霧を吐き散らしながら少年の顔を覗き込む。
「何のつもりか教えてやるよ。俺はお前を殺しに来たんだ」
「殺すだと、人間の貴様が鬼のワシをか?」
一笑に付すと、大蝦蟇は少年めがけてその大木のような前脚を叩きつけた。
風圧と振動で、霧が吹き消される。
大の大人であっても、それこそ踏みつけられた蛙のように内臓を撒き散らし、潰された肉塊が地面にへばりついてしまうほどの強烈な一撃だ。
「安心しろ、死ぬのは貴様だけではない。貴様の村の人間も皆、根絶やしにしてやろう。他の村からも阿呆が現れぬようにな」
げっげっという、低く不気味な笑い声が沼に響く。
「だから、死ぬのはお前だけだって言ってんだろうが」
掌の下から声がしたかと思うと、前脚が持ち上がり、大蝦蟇の巨体がいとも簡単に放り投げられた。
投げ飛ばされて来た鬼にぶつかって木々が折れ、鳥が一斉に空へと逃げ出す。
馬鹿な。と口にした大蝦蟇は態勢を立て直し、潰したはずの人間の方を見た。
「覚悟しろよ。今までお前が食ってきた人の分だけ後悔させてやる」
少年の姿を見て、大蝦蟇が呟く。
「貴様、人ではなかったのか」
そこには、一人の異形が立っていた。
丹塗りを思わせる朱色の肌。髪は月を映したかのような金色で、一本一本がまるで棘のように逆立っている。何より目を引くのは、天を衝くとでも言わんばかりに額に生えている、刃の如き一本角だ。
「鬼子よ、何の故あって儂に手向かう? 儂をここらの山々を治める
自らを魔王と嘯き、大蝦蟇が吠える。
「何の故かって? 決まってんだろ、この間お前に食われた姉ちゃんの仇討ちだ!」
負けじと朱い鬼が咆哮する。その瞳には、強い怒りが滾っていた。
「姉だと、儂は女鬼など食ってはおらぬわ」
「姉ちゃんは普通の人間だった、俺と違ってな。俺は村から今年の贄に差し出された出された小春の弟、
それを聞いた大蝦蟇が顔にしわが寄る。
「まさか、貴様【
「憑鬼人? なんだそりゃ」
「わからぬか、ならばわからぬまま死ぬがよいわ」
言うが早いか、大蝦蟇の喉が倍以上に膨れ上がり、瘴気が吐き出された。
紫煙が、仙兵衛を包み込む。その毒気に触れた草木がたちどころに腐り、枯れてゆく。
「儂の
しかし、仙兵衛は意にも介さずに瘴気の中を突き進み、飛び上がって大蝦蟇の顔面を殴りつける。
とてつもなく重い一撃に、殴られたヶ所が拳の形にへこんだ。大蝦蟇の巨体がよろめく。
「今の俺の体は鋼と同じだ。重いし硬いし傷つかねぇ。お前の毒なんて効かねぇよ」
この姿になると、仙兵衛の体は鉄と同様の性質を得るだけではなく、力も正に百人力となる。目の前の異常に肥大化した蛙が、赤子と思えるほどに。
「図に乗るな小僧が!」
飛び出した舌が仙兵衛に巻き付く。
牛や熊ならば、容易く口の中へと引きずり込むほどの力がある舌だが、しかし仙兵衛の体はあまりにも重く、ぴくりとも動かすことができなかった。
「どうした、今まで何人も飲み込んできた自慢の舌じゃねぇのか。この程度なら」
舌を掴み、渾身の力を込めて引く。
「俺の方が全然強ぇぜ!」
怪力に引っ張られ、勢いよく飛んできた大蝦蟇に、文字通りの鉄拳を再び叩き込む。
力の限りに殴り飛ばされ、野太い舌はぶちぶちと音を立てて根本からちぎれた。
激痛に身をよじり、絶叫を上げていた大蝦蟇だが、次第にその叫びは笑い声に変わっていった。
「何だ、殴られすぎておかしくなったか?」
体に巻き付いた舌を引き剥がしながら、仙兵衛が訝しむ。
「思い出したのよ、貴様の姉を食ろうた時をな」
「・・・あ?」
腹のあたりから、ぼう、と熱がこみ上げる。
「貴様の姉は中々の上物であったぞ。恐怖と悲哀に満ちた表情が、なんとも食指をそそってなぁ、ゆっくりゆっくりと飲み込んでやったわ」
醜悪な笑みを浮かべ、大蝦蟇は続ける。
「儂の腹の中で、貴様の姉がもぞもぞともがくのよ。三日三晩かけて、すこしずつ溶けてゆくのを感じる度に、儂は快感に酔いしれたのだ」
やめろ、と仙兵衛は呟いた。一歩、また一歩と踏み出していることには、気づかない。
「なに、心配するな。儂の胃は特別でな、苦痛の代わりに快楽を与えるのよ。なればこそ鳥も獣も人も、自ら儂の腹の中に飛び込んでくるのだ。貴様の姉も事切れるその時まで、三日三晩楽しんでおったに違いないわ」
大蝦蟇が腹を摩り、大笑する。
限界だった。
腹からの熱は全身に広がり、仙兵衛の体を大蝦蟇へと走らせた。
しかし大蝦蟇に近づくにつれ、仙兵衛の足は泥の中へと沈んでいき、ついには腰のあたりまで浸かって身動きが取れなくなってしまった。
「重い体が仇になったな。姉と同じ所に送ってくれるわ」
開かれた大口に、仙兵衛が飲み込まれる。硬い異物が胃の腑に収まるのを、大蝦蟇は感じ取った。
「怒りに我を忘れるとは、所詮は童だったな、憑鬼人よ」
二匹の鬼の戦いに勝敗がついたと見ると、沼の周囲から蝦蟇がわらわらと這い出してきた。大蝦蟇より小さいとはいえ、それでも一匹一匹は大人ほどの大きさがある。
「親方様、親方様。これからいかがいたす」
集まってきた内の一匹が言った。
「決まっておろう。こやつの村へ行き、人間共を絶やすのだ」
親方の言葉に、わっと子分たちが沸いた。
「食ろうても、食ろうてもよいか!」
「食ろうなり殺すなり、好きにせい」
「おお、親方様のお許しじゃ! 儂は男は殺すぞ、女子供は服を剥いでから食らうとするぞ!」
「行きましょうぞ親方様。いざお下知を!」
「よかろう。我が眷属たちよ」
今すぐに、と言いかけて、大蝦蟇は口をつぐんだ。
「親方様、いかがされた」
子分たちが訊ねても、口を閉じたまま一向に動こうとしない。
束の間の沈黙、そして。
「あ、あああああ!」
地の底から響くような悲鳴を上げ、大蝦蟇はのたうち回った。その腹からは、二本の朱い腕が突き出ている。
「や、やめろぉぉ!」
懇願も空しく、剛力で裂け目は広げられていき、大蝦蟇は苦痛の叫びと体液を撒き散らす。
とうとう腹は縦にぱっくりと裂け、中から臓腑をかき乱しながら仙兵衛が姿を現した。
「貴様ぁ……」
「言ったろ、俺を食ったら腹壊すってよ」
これでとどめと、引きちぎった心の臓を鉄爪が引き裂いた。
断末魔を吐き出し、大蝦蟇が力なく横たわる。
「人間は、お前らの食い物じゃねぇんだよ」
「げ、げこぉ……憑鬼人の小僧よ。貴様は人間などではない」
大蝦蟇の虚ろな瞳に、鬼となった仙兵衛の顔が映りこむ。
「貴様に居場所などない、人でも鬼でもない貴様に居場所などは」
その言葉を残して、大蝦蟇は事切れた。
「親方様が、親方様が殺された!」
「口惜しや、人の子め。口惜しやぁ!」
蝦蟇たちは恨み言を口にし、這う這うの体でその場から逃げ去っていった。後に残ったのは、大蝦蟇の屍と仙兵衛のみである。
「終わった。終わったよ、春姉ちゃん」
ぽつりと呟き、朱い鬼は人の姿へと戻っていった。
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