第3話 リズ
最早警察に電話をする事などは考えられなかった。もう二回も肩すかしを食らわせている。その相手に同じ事を。しかもその度この子供に隠れられたらもうどうしようもない。それよりは早い所このごっこ遊びに飽きてもらって、帰ってもらう方がいい。
「あー、そう言えば、さっき名前を教えてもらえなかったよね?」
するとやはりむっとしたような顔をする。
「教えてくれないならクソガキでいいかな?」
今度はふうっとため息を吐き、やれやれと言った様子だ。
「まあいかに呼ぼうがおぬしの勝手じゃがな。外でその名を呼ぶには気おくれするであろう。わしの名はリズ」
ただでさえ男か女かわからないのに国籍まで不明になりそうな名前だ。
「じゃあ、リズちゃん。リズちゃんは何をしたいのかな?」
「おぬし。先程からわしに気を遣って妙な言葉遣いをしておるが、普段通りの立ち振る舞いで構わぬぞ。見ていて気味が悪い」
そうかよ。
「じゃあ、普通に話すけど。リズは何しに俺の家に来たんだ?」
「それは先も言ったがの。おぬしを見張っていた監視者が行方不明なのじゃ。それゆえわしがその役目を代行することになった。新しい監視者がつくか、行方不明のムノキスケが再び任に就くまでの間は、わしが傍におる」
「お前がここに来た理由はわかったけど、その、ムノキスケ? ってやつは何で俺の事をずっと見張っていたんだ?」
「何故かと問われても、個人的な意思などありはせん。ただ世界からの指令じゃ。彼奴はそれをただ全うしていただけに過ぎぬ」
世界か。とんでもないスケールだが、子供ならこれくらい突拍子もない作り話を思い浮かべるか。
「世界からの指令じゃあそのキスケっていう奴も仕方なく俺を見張っていたんだな。でもなんで俺は世界から敵視されているんだ?」
「敵視などではありはせぬ。おぬしの役割なしに世界は成立せんゆえな」
「俺なんて別にいなくなっても世界はなおざりに回るだろうよ」
「自意識の高い人間も鼻に付くが、自分の役割を軽視する人間もまた同じようじゃの。おぬしはただ無自覚なだけじゃ。これからは自覚を持つが良い」
「はあ」
得意そうに話すリズにため息で返して見せた。
「ちなみに。わしはおぬしの見張りもするが、ムノキスケの行方も追わねばならぬ。何か心当たりはないか? 最近変わったことはなかったか?」
「特にねーなー」
「そうか」
リズのごっこ遊びに付き合って、随分ペースが乱れたな。もう19時過ぎ。子供を一人で出歩かせるには外は暗すぎる。どうあれ今日はこの部屋に泊めてやるしかないようだ。
俺はシャワーを浴び、夕飯を食べる事にした。
惣菜を電子レンジで温め、焚いておいたご飯を茶碗によそう。
そう言えばリズも腹が減っているよな。
朝飯用の菓子パンがいくつかあるが、これでいいだろうか。
「リズ。腹減ってるか」
「馳走をしてくれるのか」
リズは俺が温めた惣菜とご飯から目を離さずに言う。俺が手に持っている菓子パンには目もくれない。
「あー、それ、食いたいか? パンもあるんだが」
「うむ。ではこちらを頂くとしよう」
リズは俺が食べようとしていたご飯に躊躇なく箸を付け、口に運ぶ。あーあ、俺の飯が。今晩は菓子パンか。
「なんと!」
茄子の天ぷらを頬張りながら目を輝かせるリズ。
「これほどまでに美味い物が世にあるとは!」
更にチンジャオロースも食べ、いちいち感動を伝えてくる。スーパーの惣菜でそんなに喜ぶとは。食べさせたかいがあるかもしれない。まあどれだけリズが美味しそうに食べても、俺が菓子パンを食べる事に変わりはないけれども。
しかしこの子の親は今まで何を食べさせてきたのだろうか。と、ふとそんな事が思い浮かぶ。明日、もしまだこいつが居るなら、飯作ってやるか。
ご飯を腹いっぱい食べたリズは何やら眠そうだった。
「おい。こんなところで寝るなよ。つーか寝る前にシャワー浴びろよ」
しかしその問いかけには答えず、うつらうつらとしている。
「おい! 俺を監視するんだろ?」
その声にリズはパチッと目を覚まし、立ち上がった。
「そうじゃった。すまぬの。で、シャワーだったか? 眠気覚ましに浴びるとしようか」
「シャワーは眠気覚ましに浴びるもんじゃあねーが、まあいい。シャンプーとかボディーソープは中にあるのを使ってくれればいいから」
「そうか」
リズの為にタオルを用意し、ふと思い至る。
寝巻が無い。
自分の服では大きすぎる。が、それ以外ない。
洋服ダンスからタンクトップと短パンを取り出す。袖が無ければ大きさもあまり関係ないし、短パンなら股下を気にしなくていい。ついでに紐で胴回りのサイズを調節できる仕組みだからしっかり締めておけば問題ない。シャワーから出たリズにその旨説明し、自分は先に布団を敷いて横になった。
時計を見るとまだ23時を回っていなかった。今日は定時上がりだったとはいえ、リズの件で警察を呼んだうえ、監視者の件も聞いたりして、結構時間を使ったはずだ。それなのに、いつもよりも時間に余裕がある。
そうか。
今日は漫画を描いていない。絵の練習もしていないのだ。
高校を卒業してからバイトをしながらずっと漫画を描いていた。しかし20歳になるまでにプロデビューできず、親からは定職に就けと言われ、言われるままに就職した。
もう夢や目標の仕事ではないので、金さえ稼げれば何でもよかった。だから採用してくれた企業にそのまま入った。
そこは町工場だったが、その町ではそこそこでかい工場で、それなりの収入も得られるようになった。
そうなっても夢は諦められず、ずっと漫画を描き続けていた。しかし就職して本格的に働くという事は、バイトをしていた時よりも漫画を描く時間が極端に減るという事である。当然残業もあり、帰ってきたら疲れ果てていて、シャワーを浴びてご飯を食べたらそのまま寝てしまうという事もしばしばあった。
そんな中で漫画を描き続けるというのは困難で、何度も折れ掛かりながら必死に描いた。それ故、描き上げた漫画は最高の出来のように思えた。
人生で一番おもしろい漫画が描けた。受賞間違いなし。そう思い投稿したが、あえなく落選。しかも1次選考で。
せめて1次選考さえ通ってくれていたら、落選してもまだ描き続けられていただろうに。
もう立ち上がれなかった。
苦労して苦労して描き上げた至極の作品が、誰の琴線にも触れない。世の中に必要とされていない。その事実は絶望でしかない。そんな絶望を抱きかかえて、もう一度立ち上がるのなんて不可能だった。
だから俺はその絶望を置き去りにして、そこから這いつくばる様にして逃げたのだ。
それなのに逃げたことを誰も咎めてくれはしないのだ。
そもそも誰からも応援されていなかったのだ。
それが何よりも悲しい事だった。
「おぬし」
いつの間にか傍にいたリズが俺の顔を見つめている。
「泣いておるのか? どこか痛むのか?」
俺は知らぬ間に流れていた涙を拭い、ティッシュを手に取り鼻をかむ。
「埃が目に入ったのかもな。どこも痛くないから気にしないでくれ」
心配そうに見つめるリズの視線が痛かった。こんな小さな子供にすら憐れまれる自分が情けなかった。
「そう言えば、布団はこれしかないんだが、どうする? 一緒に寝るか?」
「馬鹿にするではない。わしは監視者代行。おぬしが寝ておる間にも何事も起きぬよう座して朝日を待とうではないか」
それは素晴らしい心がけだが、タンクトップに短パン姿では、いくら春とは言え寒そうだ。しかし本当に布団はこれ一つしかなく、狭い部屋の中には当然ソファなんてものもありはしない。そんな事を考えている間に、どこからか寝息が聞こえてきた。座りながらに寝てしまったようだ。
エージェントが聞いて呆れる。きっと行方不明のムノキスケと言う奴がリズを見たら嘆くだろう。
俺はリズを起こさないようにそっと抱きかかえ、布団の中に寝かせた。いくら子供とは言え、同意なく一緒に寝るのは憚られたので、俺は布団を出て冬物のコートにでも包まって寝ようかと思った。しかし布団を出る前に腕を掴まれ、そのまま引きずり込まれた。寝ぼけているリズは俺の体に絡まり付く様に抱きついてくる。目の前にリズの頭頂部が来るような形。つるんとしたしなやかな髪が頬に触れる。小動物が醸し出す愛くるしさのようなものが漂っており、胸が
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