第2話 漫画とアニメと成功者のクスリ
ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ、ぴ。
6畳一間の部屋の中、鳴り響くアラームを止めて、ゆっくりと覚醒する。辺りはジメジメと淀んでおり、気持ち悪かった。窓にべったりと張り付いたレースカーテンから露が壁を伝い、床を濡らしていた。まるで窓が開いていたかのようだ。
俺はいつも通りに起きて、いつも通りにパンを焼き、いつも通りに顔を洗い、いつも通りの作業服に着替え、いつも通り出社した。
いつも通りに殺されそうだ。
当たり前でいつも通りの日常が、怖いと思い始めたのはいつからだろうか。
出社の途中自転車に乗りながら考えた。
永遠に訪れる事のない我が世の春。
目の前を季節がいくら巡り巡りても、瞼の裏側ではいつも鬱々とした雨が降る6月。太陽は笑わない、月は優しくない。そんな初夏の咽返る空気が、いつも充満していた。
漫画やアニメが
父曰く、定職に就くことが正しい事なのだそうだ。
正義とは何かと言う論議に答えは無いが、無職でいる事より定職についている方が確かに正しいと言えた。正しくなかったのはいつもいつも簡単に“正義”を口にする漫画やアニメだった。
彼らが素晴らしい活躍をするもので、周りの人間は皆勘違いをする。彼らは身を挺して教えてくれるから。夢を叶える事こそが全て。他人の意見など気にするな。自分を貫け。と。
では、自分を貫けず、人の意見に従い、夢を諦めた俺はなんだ。
ゴミ屑か?
漫画やアニメ、いや、もうこの際もっと幅広くていい。創作物その全てだ。
人間が作り上げた全ての物は、惜しみない努力の上に夢を叶える事の素晴らしさを語ってくる。同時に、俺の人生そのものを真っ向から否定してくる。
お前など、生きているな。と。
夢を叶えられなかった人間などに人権はなく、生きている価値は皆無。何重にもオブラートで包まれているからその核に辿り着かないが、夢や希望に満ち溢れた発言の裏にはそういう意見が介在している。知らずに皆、服毒しているのだ。ただオブラートが溶けきる前に排泄されてしまうから終ぞ気付かないだけで。苦くないクスリだったな。これを飲んでいれば良くなれるなら、また貰おう。成功者からあのクスリを。
中にはクスリを噛み砕く人間もいる。そういうやつはその毒に気付くが、同時に毒に侵され死に至る。自殺と言う名の服毒死により。
俺はと言えば、なるべく渡されたクスリは口の中で溶かさないように直ぐに呑み込むようにしている。なめていると口の中でオブラートがはがれてしまって、毒素が体に広がって死んでしまうから。すぐ飲めば絶対に毒素が広がらないかと言えばわからない。あくまでその可能性が低くて済みそうだというだけの話であって、賭けである事には変わりない。
できれば飲まない方が体の為だ。だが、かと言って受け取ったクスリを捨てる事は出来ない。そんなことをしたら、渡してきた奴らとその取り巻きが怒り、無理矢理クスリを飲ませてくるから。しかも一度捨てた人間には執拗に渡してくる。だからなるべく愛想良く受け取り、笑顔で嚥下する。なのに毎日無理矢理クスリを渡されてしまう。元気が出るからという理由で。もうとっくにオーバードーズ。過剰摂取だ。
自殺する人間がいる事を、世間は悲観的に見ている。だがそもそもお前ら世間が追い込んでいるんだ。成功者が持つクスリを無理矢理渡して服薬するのをジッと見ながら待っているんだ。そんな社会が、自殺志願者を前に声を大にしてこれ見よがしに皆に聞こえるように言う。
「生きてさえいればいいことあるから!」
お前らの所為で生きていられないんだよ! 糞が!
と、そんなことを考えていたら、いつも通りのチャイムが鳴る。
工場内に入り、タイムカードを切る。
今日も素晴らしい朝が来ていたらしい。それは希望の朝なのだそうだ。朝礼前の体操を終え、短い朝礼を終え、持ち場に着いた。
取って張って嵌める。取って張って嵌める。取って張って嵌める。
くり返し、くり返し、くり返しの作業。
もう苦痛ではない。
苦痛ではない事がもはや苦痛だ。
始めたばかりの頃は、この作業が無限に感じた。
いつになったら終わるのかと。
ただ終わりを一度味わえば、終わりが訪れる事を覚える。
あとはもうただそれが短くなっていくだけだ。
だってほらもう、今日の作業も終わりだ。
いつの間に夕方になっていたのかさえわからない。
帰路に着き、途中にあるスーパーで惣菜を買う。
毎日違うものを食べたいと思うのは、いつも通りから少しでも遠ざかりたいと願うからだろうか。拒絶と逃避故の選択なのだろうか。
でも食っているのはいつも同じ、野菜と魚と肉と米。
結局どれだけ抗ってみたところで、根幹は変わりはしない。
ボロアパートの二階が自分の住処。そこに行く為、階段を上がったところで、見慣れぬものを見た。
それは俺の部屋の前に居た。
フードを目深まで被った小学生だった。
近くまで行ったところで、そいつと目が合う。
その瞬間感じたのは不思議な郷愁。もしかして知り合いだろうか。しかし親戚にもこのくらいの年の子は居なかったはず。何よりやはり見たことはない。
その子は中性的な目鼻立ちをしており、男子なのか女子なのかの区別がつかない。ボクと言って女の子だと傷付くだろう。
「ねえ君。ここ、お兄さんの部屋なんだ。どいてくれないかな?」
にこやかに話しかけると、そいつは大きく目を見開き、大きく息を吸い、そして吐いた。
「おお、そうか。おぬしが
「どうして俺の名前を?」
「最近までおぬしを24時間体制で監視しておったムノキスケが行方を晦ませた。その代行と言う形でわしは来たのだ。それゆえおぬしの名を知っておるのよ。まあ立ち話もなんじゃ、わしをおぬしの家に上げるが良いぞ」
声は全くの子供だったが、節回しは老人のようだった。
俺の名前を知っているのにはびっくりしたが、それはこの辺の人に聞いたりしたのだろう。あとは、郵便物を盗み見たのかもしれない。ただ遊んで欲しいだけなら他をあたって欲しいが、もしかして迷子だろうか。
「君、お名前は?」
するとそいつはむっとしたような顔をして、問いには答えてくれなかった。
「道に迷ったのかな? 君はこの辺の子? 自分で帰れる?」
「迷い子などではないぞ。ともかくわしはおぬしを見張っておらねばならぬのでな」
話の通じないガキだ。警察を呼ぼう。このままここに居られても、入ってこられても困る。近所の人間に俺が誘拐犯だと騒ぎ立てられかねない。
ポケットからスマフォを取り出し、警察に電話を掛ける。
数分後、パトロール中のパトカーがアパートの前に止まった。その警察官二人を迎えに俺は階段を降りた。
「どこの子かもわからないし、名前を聞いても教えてくれないんですよ」
俺は警官に事情を説明しながら階段を上がる。しかし、先程のその場所にそいつは居なかった。
「あれ?」
部屋の鍵、いつの間にか開けてたっけ。
ドアノブに鍵を差し込み回すが、そのタイミングで開錠される感触があった。どうやら鍵は掛かっていたようだ。念の為にドアを開けて中を見るが、人の気配は全くしない。
「その、子供はいったいどちらに?」
「さっきまでここに居たんですけど。いやほんと、お二人を迎えに下に降りる直前までいたんですよ」
説明するが、二人は怪訝そうな目で俺を見ている。完全に疑われている。幻視幻聴の類だと思われている。
「わかりました。とにかく、今はその子はどこかに行ってしまわれているようですね。こちらでも迷子捜索の依頼が来てないか本署で調べますので、その子がまたこちらを訪れるようでしたらお知らせください。その子の服装などわかる範囲で良いので教えて頂けますか」
ボールペンと紙を手に取り、メモの準備をする警官。
「多分、7~9歳くらいで、身長は120以上130未満くらいですかね。中性的な顔だったので、男の子か女の子かわからないです。あと、フードを被っていました」
「なるほど、ありがとうございました」
俺が正気ではないのではないかと疑いつつも、真摯な対応。そんな人を見ていると、なんだか俺が悪い事をしてしまったみたいに思えた。
それから俺は直筆の名前と指紋を取られた。
警官二人を見送り、自分の部屋に入ろうとしたところで声をかけられる。
「もう行ったか?」
「ギャー!」
目の前の壁がべりべりと剥がれ、忍者のように現れた子供に、情けのない悲鳴を上げてしまう。こんな古典的な隠れ身の術に全く気が付かなかったとは。ともあれ警官が帰ってしまう前に、呼ばなくては。
「おまわりさーん!」
俺は階段を駆け降り、パトカーに乗り込む寸前の警官に声をかける。
「いました! さっきの子。隠れていたんです。こっちです」
せかせかと警官を誘導して自分の部屋の前に連れてくる。
が。
「いませんよ?」
肩で息をしている俺に対して、全く息の上がらない警官は、冷静に言い放つ。
俺は手で待ってくれのジェスチャーをとる。
「さっきは気が付かなかったんですけど、ここに」
と言って俺は先程子供が隠れ見の術を使っていた壁に指をひっかけようとする。しかしそこにあるのはただの壁で、先程剥がれた壁紙のような引っかかりはない。
「あれ? おかしいな? さっきは確かに壁からベリベリって」
そうやって壁にガリガリと爪を立てていると、後ろからポンと肩を叩かれた。
「お兄さん。もう大丈夫ですから」
「あ、いや本当に」
「お兄さん。あなたきっと疲れているんですよ。今日のところはゆっくり休んでください」
おかしなことを言っている人間だと思ったのだろう。一度ならず二度までも、警察官を呼んで、居ない子供の話をする上、更にはその子供が壁の中から出てきたとか言い出すのだ。俺が警官の立場なら同じことを思い、同じことを言うだろう。いや、馬鹿にするなと怒っているかもしれない。それを考えたら、やはりこの二人は親切だ。
「あの、何て言ったらいいのか。本当にすみませんでした」
もう謝る他なかった。
今度は下まで二人を見送って、去るパトカーに頭を下げた。
しかしながらさっきの子供はなんだったのだろう。考えてみたら、いくら同じ壁の色の壁紙を持っていたとしても、隙間なくぴったり収まり切るはずないのだ。警官を含め大人三人が部屋の前で辺りを見ていたのに、全く気が付かないなんておかしい。
そう言えば子供もなんだかおかしなことを言っていた。監視していた奴がどうのこうのって。
警官の言う通り、疲れて変なものでも見たのだろう。
忘れよう。
階段を上がり、自分の部屋の方を見ると、子供が立っていた。
「今度は完全に行ったか?」
俺は堪忍してその子供を部屋に上げる事にするのだった。
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