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     ◆   ◆   ◆


 嵐のような音がする。吹いていった風が頬を撫でた。

 ――……寒い

 冷たい風に瞳は目を覚まし、あたりを見回した。

「――…ここ…どこ…?」

 すべてが闇一色で、声は木霊のように返ってくる。

 漆を塗り込めたような闇には何もない。聞こえていたはずの風の音は凪ぎ、耳鳴りのしそうな静寂が覆い被さってくる。

「寒っ…」

 ぶるりと体を震わせ、腕で体を抱く。

 心臓がき、背筋をぞくりと別の寒さが走っていく。手でぎゅっと腕を摑み、さらに身をすくめた。

 ――この感覚を、どこかで知っている。

 漠然ばくぜんとそう思う。

 息が詰まった。どこからか見られているような心地がする。ねっとりとからめ取ろうとするような、まとわり付く気配を感じる。ごくりと、生唾を飲み込んだ。

 凪いでいた風が再び吹き始める。生ぬるいそよ風が、次第に嵐のように吹きすさんで来た。

 立ったままでは風に押されそうになり、瞳はその場にしゃがみ込む。体を丸めて小さくなった。

 耳元を、風が獣のようにうなって駆けていく。耳をふさいだ。それでもなお、風の唸りはやまない。瞳の周りをぐるぐると回っているようだった。

 動悸どうきが速まり、それに伴って息が上がってくる。固く目を瞑った。

 ――怖い。

 肩で大きく呼吸を繰り返した。頭に断続的に鋭い痛みが走り始める。一切明かりがないはずなのに、瞼の裏で光が稲妻のように明滅した。

 ――怖い。嫌だ、いやだ、いや……っ。

 一際激しく閃光が炸裂した。それに弾かれたように瞳は顔を上げる。

「いやっ!!」

 涙声の悲鳴と共に目を開けた。そして、ひくりと息を呑む。

 濃い闇の中、爛々らんらんと赤く光る双眸そうぼうが、瞳を見詰めていた。思わず声の限りに悲鳴を上げる。金切り声は反響しながら、闇に吸い込まれて消えていく。

「――」

 微かに何かの囁きを聞いた気がした。しかし、なんと言われたか判然としないまま、瞳の意識は急にふっと遠退とおのき始める。

 耳の奥で、獣の雄叫びのような声が聞こえてくる。声はどんどん大きくなり、頭の中一杯に響き出す。

 獣の声なのか、風の音なのか見当がつかない。だが、そんなことを考えるより先に、相変わらず耳の奥で響く低い唸り声だけを残して、思考は遠退く。すべての感覚はもやを掛けたかのように朧気おぼろげに歪み、闇と同化するかのように消えていった。


     ◆   ◆   ◆


「っ……!!」

 瞳ははっと目を見開いた。部屋中に、耳をつんざくような、けたたましい音が響いている。

「はぁ……目覚まし……」

 大きく息を吐き出しながら、目覚まし時計のアラームを止める。動悸が速い。身体が冷えていた。

「……寒い」

 ぼそりと呟いて、再び布団の中に潜り込む。

 ――……そうだ、お守り…。

 ふと瞳は腕を伸ばして、目覚ましの横に置いてある桜色の玉を掴んだ。直径二、三センチのそれをぎゅっと握り込んで、動悸が治まるまで、縮こまって待つ。

 ――怖かった……。

 我知れず息を吐く。

「姉ちゃーん。おきてるー?」

「……」

 階下から呼ぶ声がするが、だんまりを決め込む。うめきながら頭まで布団を被った。まだ身体は冷えていたからだ。けれど、呼び声は終わらない。

「姉ちゃーん、おきろーっ。ごはんできてるんだよー。……今日入学式でしょー」

「――……。うわっ、そうだった、遅刻!」

 一瞬黙り込んだ後、弾かれたように飛び起きた。慌ただしく部屋中を駆け回る。

 いつもよりも長い春休みの間に、すっかり寝坊癖が付いてしまっていた。かといって、普段はそうでないと、言えるわけでもないのだが。

 ばたばたと階段を駆け降りた。瞳を呼んでいた張本人が、すでに朝食を食べ終え、テレビの前を陣取っている。彼女に気付いて面白そうに笑いながら声を掛けた。

「おはよう。ねぼすけ姉ちゃん」

 むっとした彼女は、黙ってテーブルの席に付いた。

「寝ぼすけなんかじゃないわよ」

 膨れっ面で、小さく言い返す。

 ずっと瞳を呼んでいたのは、弟の大哉だいすけである。五つ年下の小学二年生だ。

 その弟は、呆れたような顔をする。

「あんなにやかましいのに、姉ちゃんおきなかったじゃんか。言っとくけど、なりはじめてから、五回はゼッタイによんだよ、ぼく」

 言い返された瞳は渋い顔をして、つんとそっぽを向いた。

「うるさいわね。あんたも学校でしょ。さっさと行けば? 私も急ぐんだから」

 瞳は出された朝食を食べ始める。大哉は暫くの間、向けられた背中を黙って眺めていた。

「言われなくても行くけど。…でも姉ちゃん。急いでるとこに水さすのもわるいいけど」

 一度言葉を切った弟に、瞳は怪訝そうに視線だけを送る。大哉は勝ち誇ったような顔で続けた。

「入学式が午後からなの、わすれてるでしょ」

 食べ物を口に運ぶ手がぴたりと止まる。

 ――そうだった…。

 小中学校の入学式は毎年同じ日なので、この辺は中学校の入学式は午後なのだ。

 大哉に見事に負かされてしまった。

「今回は大哉の勝ちみたいね」

 苦笑混じりに、母が瞳の前の椅子に座る。むすっとした顔で、瞳は母を無言で睨んだ。

「言い返せないんでしょう? だから瞳の負けなのよ。自分が一番わかってるでしょ?」

 穏やかな喋り方は、母の気性がよく表れている。

 うーあーと、言い返せず呻いている瞳を尻目に、ランドセルを背負った大哉が、行ってきますの声も元気よく家を出て行った。それを瞳はじと目で見送ると、食事を続行する。

 しばらくして、母は食器の片付けをするために、台所の奥へと引っ込んで行った。瞳はその後ろ姿を見ながら、なんとはなく今朝の夢を思い出した。

「……入学式だって言うのに、あんな夢みるなんて……最悪」

 瞳はぼそぼそと独りごちる。

 爛々と赤く光る生き物の目。耳の奥で響いた、低い唸り声。

 ぞくりと背筋に鳥肌が立った。まだ、あの赤い目に、絡め取るようなあの視線に見られているように錯覚する。瞳はそれを振り払うように首を振った。これ以上は夢のことは考えないようにしようと、自分に言い聞かせた。

 ――大丈夫。どうせただの夢なんだから…。

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