1-2
◆ ◆ ◆
嵐のような音がする。吹いていった風が頬を撫でた。
――……寒い
冷たい風に瞳は目を覚まし、あたりを見回した。
「――…ここ…どこ…?」
すべてが闇一色で、声は木霊のように返ってくる。
漆を塗り込めたような闇には何もない。聞こえていたはずの風の音は凪ぎ、耳鳴りのしそうな静寂が覆い被さってくる。
「寒っ…」
ぶるりと体を震わせ、腕で体を抱く。
心臓が
――この感覚を、どこかで知っている。
息が詰まった。どこからか見られているような心地がする。ねっとりと
凪いでいた風が再び吹き始める。生ぬるいそよ風が、次第に嵐のように吹きすさんで来た。
立ったままでは風に押されそうになり、瞳はその場にしゃがみ込む。体を丸めて小さくなった。
耳元を、風が獣のように
――怖い。
肩で大きく呼吸を繰り返した。頭に断続的に鋭い痛みが走り始める。一切明かりがないはずなのに、瞼の裏で光が稲妻のように明滅した。
――怖い。嫌だ、いやだ、いや……っ。
一際激しく閃光が炸裂した。それに弾かれたように瞳は顔を上げる。
「いやっ!!」
涙声の悲鳴と共に目を開けた。そして、ひくりと息を呑む。
濃い闇の中、
「――」
微かに何かの囁きを聞いた気がした。しかし、なんと言われたか判然としないまま、瞳の意識は急にふっと
耳の奥で、獣の雄叫びのような声が聞こえてくる。声はどんどん大きくなり、頭の中一杯に響き出す。
獣の声なのか、風の音なのか見当がつかない。だが、そんなことを考えるより先に、相変わらず耳の奥で響く低い唸り声だけを残して、思考は遠退く。すべての感覚は
◆ ◆ ◆
「っ……!!」
瞳ははっと目を見開いた。部屋中に、耳をつんざくような、けたたましい音が響いている。
「はぁ……目覚まし……」
大きく息を吐き出しながら、目覚まし時計のアラームを止める。動悸が速い。身体が冷えていた。
「……寒い」
ぼそりと呟いて、再び布団の中に潜り込む。
――……そうだ、お守り…。
ふと瞳は腕を伸ばして、目覚ましの横に置いてある桜色の玉を掴んだ。直径二、三センチのそれをぎゅっと握り込んで、動悸が治まるまで、縮こまって待つ。
――怖かった……。
我知れず息を吐く。
「姉ちゃーん。おきてるー?」
「……」
階下から呼ぶ声がするが、だんまりを決め込む。
「姉ちゃーん、おきろーっ。ごはんできてるんだよー。……今日入学式でしょー」
「――……。うわっ、そうだった、遅刻!」
一瞬黙り込んだ後、弾かれたように飛び起きた。慌ただしく部屋中を駆け回る。
いつもよりも長い春休みの間に、すっかり寝坊癖が付いてしまっていた。かといって、普段はそうでないと、言えるわけでもないのだが。
ばたばたと階段を駆け降りた。瞳を呼んでいた張本人が、すでに朝食を食べ終え、テレビの前を陣取っている。彼女に気付いて面白そうに笑いながら声を掛けた。
「おはよう。ねぼすけ姉ちゃん」
むっとした彼女は、黙ってテーブルの席に付いた。
「寝ぼすけなんかじゃないわよ」
膨れっ面で、小さく言い返す。
ずっと瞳を呼んでいたのは、弟の
その弟は、呆れたような顔をする。
「あんなにやかましいのに、姉ちゃんおきなかったじゃんか。言っとくけど、なりはじめてから、五回はゼッタイによんだよ、ぼく」
言い返された瞳は渋い顔をして、つんとそっぽを向いた。
「うるさいわね。あんたも学校でしょ。さっさと行けば? 私も急ぐんだから」
瞳は出された朝食を食べ始める。大哉は暫くの間、向けられた背中を黙って眺めていた。
「言われなくても行くけど。…でも姉ちゃん。急いでるとこに水さすのもわるいいけど」
一度言葉を切った弟に、瞳は怪訝そうに視線だけを送る。大哉は勝ち誇ったような顔で続けた。
「入学式が午後からなの、わすれてるでしょ」
食べ物を口に運ぶ手がぴたりと止まる。
――そうだった…。
小中学校の入学式は毎年同じ日なので、この辺は中学校の入学式は午後なのだ。
大哉に見事に負かされてしまった。
「今回は大哉の勝ちみたいね」
苦笑混じりに、母が瞳の前の椅子に座る。むすっとした顔で、瞳は母を無言で睨んだ。
「言い返せないんでしょう? だから瞳の負けなのよ。自分が一番わかってるでしょ?」
穏やかな喋り方は、母の気性がよく表れている。
うーあーと、言い返せず呻いている瞳を尻目に、ランドセルを背負った大哉が、行ってきますの声も元気よく家を出て行った。それを瞳はじと目で見送ると、食事を続行する。
「……入学式だって言うのに、あんな夢みるなんて……最悪」
瞳はぼそぼそと独りごちる。
爛々と赤く光る生き物の目。耳の奥で響いた、低い唸り声。
ぞくりと背筋に鳥肌が立った。まだ、あの赤い目に、絡め取るようなあの視線に見られているように錯覚する。瞳はそれを振り払うように首を振った。これ以上は夢のことは考えないようにしようと、自分に言い聞かせた。
――大丈夫。どうせただの夢なんだから…。
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