入学式は滞りなく終了した。最初のホームルームと担任挨拶も終わった今、窓からは午後の温かな日差しが差し込んでいる。あとは帰宅するだけの教室内は騒がしい。瞳は自分の席の背もたれに体重を任せていた。重荷が一気に下りたような気持ちがして、ぐったりと天井を見上げる。

 そんな瞳と天上の間に、少女の呆れ顔が乱入してきた。ボブカットの髪が零れ落ちてくる。

「なぁに、ぐったりしてんのよ」

「だって実喜みきー…」

 瞳は少女に言い返す。木下きした実喜は嘆息した。

「入学式ごときで緊張することでもないでしょ。立派に代表をこなした奇乃あやのなら、話は別でしょうが」

「本当ね。緊張したよ」

 苦笑しながら控えめに横からもう一つ声がした。実喜は悪戯っぽくにっと笑う。

「何言ってんの。しっかりこなしてたくせに」

「そうだよ。なんで緊張しないの、奇乃ー」

 瞳は体を起こし、ねたように彼女を見た。

「だから緊張はしたんだってば…」

 困った笑顔で、かがみ奇乃は少し肩を竦める。ポニーテールの長い髪が、それに合わせて揺れた。

「もう私なんかさぁ、昨日、緊張しないようにって、神社にお参りにまで行ったのにさぁー」

「は? 瞳、あんたそんだけのために、お賽銭さいせん入れてきたの?」

 目を丸くした実喜に、瞳は口を尖らす。

「まぁ、お願いはそれだけじゃなかったけどさぁ…。どっちにしても、結局緊張したよね……」

 ため息と共に肩を落とす瞳を見て、実喜がぷっと吹き出す。

「ん? なんで笑うのよ、実喜」

 不服そうな顔をした瞳に、奇乃もくすくすと笑い始める。

「もーっ! 奇乃まで!!」

 一人置いてきぼりの瞳は叫ぶ。

「いやぁ、瞳は可愛いなぁと思っただけよ」

「何それ」

 笑みを堪えながらの実喜の言葉に、やはり瞳はふくれっ面だ。

「まぁ、そんな膨れないで。ほら、帰ろ」

 相変わらず笑いを堪えながら、実喜は瞳をうながす。

「もー。誤魔化さないでよー」

 不満そうに言いながらも瞳は立ち上がる。学校指定の通学リュックを背負った。

「瞳こそ、なんでそんな気にするかねぇ。可愛いって思ってるだけだって言ってんのに。ねぇ、奇乃?」

 実喜も同じくリュックを背負い、同意を求めて奇乃の顔を見る。

「笑われる覚えがないって言いたいの、私は!」

 瞳は顔をしかめて主張する。

「可愛いものを見て笑顔になるのは、普通のことじゃない」

「あのねぇ……」

 おどけてみせる実喜に、瞳は増々顔をしかめる。リュックを背負った奇乃は苦笑する。

「瞳ちゃん、からかわれてるんだよ。実喜ちゃんに」

「えっ」

 奇乃の指摘に、瞳は実喜のほうを見る。ぺろりと舌を出して、彼女は明後日のほうを向いた。

「もーっ、実喜の意地悪っ!」

 瞳はつんとそっぽを向いた。三人は教室を出る。拗ねた瞳は、二人の数歩前を歩く。

「ほら、実喜ちゃんがからかうから」

「えー」

 たしなめる奇乃に、実喜は不満げだ。

「えー、じゃないでしょ」

 呆れた顔をする奇乃に、実喜は肩を竦めた。前を歩く瞳に声を掛けた。

「瞳さーん。今度、三人でどっか遊びに行きませんかねぇ~」

「えっ、行きたい!」

 それに瞳はぱっと笑顔を向けて振り返った。

 実喜はそれににっと笑う。奇乃は「ちょろい」と書かれているであろう実喜の横顔を見て、小さく肩を竦めた。

「いつにする? 日曜とか?」

 瞳は二人のほうに体ごと向き直り、後ろ向きに歩きながら訊ねる。話題がまんまとすり替えられたことには気付いていないようだった。

「あたしは大丈夫だけど。奇乃は?」

 話題のすげ替えに成功した実喜は、奇乃に話を振った。逆にそれに気付いている奇乃は、苦笑しながら答えた。

「私も大丈夫だよ」

「よーしっ、じゃあ日曜日に決定ーっ!」

 瞳が嬉しそうに手を一つ叩く。玄関に向かう廊下の角を、誰かが曲がってきた。しかし、先程まで後ろを向いていた瞳はそれに気付かず、前へと向き直ろうとする。

「あっ! 瞳ちゃん、前っ!!」

「へっ?」

 奇乃の呼び掛けに、間抜けた声で瞳が返した直後、どんっと廊下を曲がってきた誰かとぶつかった。

「わっ!!」

 よろけた体勢を立て直そうとしたが、教科書の詰まった重いリュックに重心を持って行かれた。後方に倒れ込む。

 いきなりの出来事に声を上げることしか出来なかった二人は、思わず目を瞑る。けれど、物音がしないのでそろそろと目を開けた。

 ぶつかった相手が、瞳の腕を摑んで支えていた。転ばずに済んだ瞳は、慌てて体勢を立て直すと目を瞬かせる。

「あれ……、あなた…昨日の…」

 目の前にいたのは昨日の少年だった。瞳の姿をみとめた彼は、ぴくりと一瞬眉間にしわを寄せた。そして一つため息を吐く。瞳はそれを見て、少しばかりむっとした。

「……なんですか。他人の顔見てため息吐いて」

「余計な縁は作りたくない」

 応じる声は相変わらず抑揚が乏しい。開口一番に言われた言葉に、瞳は増々むきになる。

「どう言うことですか、それ!」

 ほとんど初対面だと言うのに、その言い方はあんまりではないだろうか。

「そのままの意味だ」

 少年はやはり淡々と返す。怒りを抑えようとしていた瞳の横を通り過ぎた。

「ちょっ…! どこ行くのっ」

 咄嗟とっさに瞳は少年を引き止めた。

「教室戻るに決まってんだろ」

 顔だけをこちらに向け、少年はやはり鬱陶うっとうしそうに答える。再び歩き出そうとした彼は、ふと足を止め、また瞳達のほうを見た。

「ちゃんと前見て歩け。三度目はごめんだ」

「なっ…」

 瞳は絶句して、暫く茫然ぼうぜんとしていた。やがて、ふつふつと湧いてくる怒りに任せて、彼の背中に向かって叫ぶ。

「何よっ!」

 べーっと舌を出すと、つんとそっぽを向いた。不機嫌なままで足早に廊下の角を折れる。

 唖然として瞳と少年のやり取りを眺めていた実喜と奇乃は、慌てて瞳を追いかけた。

「ちょ、ちょっと瞳っ。誰よあの子。知り合い?」

 追いついて訊ねてくる実喜に、瞳は立ち止まる。苦虫を噛み潰したかのような、答えるのも嫌だと言った顔をした。

「知り合いも何もないわよ。何あいつ。感じ悪いっ!」

 明らかに憤然とした様子だった。昨夜、彼に会ったら訊こうと思っていたことも、あんな態度を取られては訊く気が失せてしまう。

「でも、瞳ちゃん、昨日って…」

「昨日会ったのっ。偶然ね!!」

 首を傾げる奇乃に、「偶然」の部分に思い切り力を込めて瞳は返した。

「へー。そうなんだ」

「なんか随分と意味ありげな感じね…」

 納得している奇乃に対し、実喜が面白そうに笑う。

「意味も何もないよ、そんなのっ!」

「いやぁ、漫画ではよくある展開じゃん…」

「漫画の流れとしてはよくあったとしても、絶対にないっ!!」

 全力で否定する彼女に、実喜はつまらなさそうにした。

「そうかな? あたしはいいと思うけど…」

 平然と言ってのける実喜に、瞳はがんとして首を横に振る。

「ないっ! 絶対っ!! 第一、実喜は面白がってるだけでしょ!」

「あ。ばれた?」

「ばれた? じゃないわよ、もーっ!」

「ねぇ、瞳ちゃん」

 実喜と舌戦を繰り広げている瞳に、奇乃が声を掛けた。

「何、奇乃?」

「その…、瞳ちゃんは知ってるの? あの子の名前…」

 控えめに尋ねられた質問に、瞳は言葉を詰まらせた。しばし沈黙が続く。奇乃はそんな彼女の反応を見て苦笑した。

「何組だろうね、あの子。教室入っていく所は見なかったからわからないけど、背がおっきいから、結構目立つよね」

「何? 奇乃は気になるわけ?」

 胡乱うろん気に目を細める瞳に、奇乃は苦笑する。

「そう言うわけじゃないけど」

「じゃあ、いいでしょ。帰ろっ」

 瞳はつんとしながら二人を促す。

「そうだねぇ。ここでぐずぐずしてたら、また会っちゃうもんねぇ」

 実喜はにやりと笑う。明らかに面白がってる顔だ。

「その楽しんでる顔は気に入らないけど、そう言うこと! ほらっ、行こ行こっ」

 瞳は率先してまた玄関のほうに歩き出す。

「しかしまぁ、会ったのはさっきで二回目なわけでしょ? 最初会った時はこじれなかったわけ?」

「まだその話題? やめようよー」

「いーじゃん。それくらい」

 勘弁してくれと言う顔をする瞳に、実喜は顔を近づける。瞳は渋々答えた。

「昨日は別に……。まだもうちょっと優しそうだったと言うか……」

 とは言っても、昨日だって「こじれかけた」のほうがどちらかと言えば正しい。瞳は押し黙る。

 今、瞳の頭の片隅では先刻の奇乃の問いが居座っていた。自分は彼の名前を知らない。

 ――神社の子、だったりするのかな…? そうだとしたら、名字は……

 予想以外の何ものでもない。神社の名前を考え、安直だろうかと思いながらも、瞳は内心小さく首を傾げた。

 ――…藤浦ふじうら…?

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