3
3-1
実喜と奇乃とも別れ、瞳は一人家路についていた。
あらかじめ母からは、式が終わったら買い物をしに隣町に行って来るため、留守番を頼むと言われていた。ちなみに、大哉も母と一緒らしい。
入学祝いにごちそうを作ると言っていたし、その買い出しもあるのだろう。そう考えれば嫌な気分でもない。
「……さて、帰ってから何しようかなぁ…」
ぼんやりと考える。特にこれと言って宿題もない。はっきり言えば暇だ。
すると不意に、頬を冷たいものが触れた。
「……ん?」
瞳は空を見上げる。爽やかな青空が広がっている。しかし、ぽつぽつぽつ…と音を立て、続け様に雫が落ちてくると、みるみる内にコンクリートの地面を黒く染め上げていく。
「うそっ!!」
慌てた瞳は、腕を頭の上にかざしながら走り出す。
――晴れてるのに、なんでーっ
家へと全速力で走る。四つ辻を通り過ぎた。すると、降ってきた時と同じように雨は唐突に止んだ。
「えっ!? ……きゃっ!!」
足下がずるっと滑った。構えることも出来ないまま、
「いったあぁいっ!!」
瞳は涙目になって叫んだ。痛いことこの上ない。
「なんなのよ、もーっ! ……さっそく制服も濡れちゃうしぃ…」
ぼやきながら、打ったところをさすって立ち上がる。その時、自分が今まで座り込んでいた地面に、何かが描かれていることに気付いた。
――落書き……?
瞳は首を傾げた。
――近所の子が描いたのかな……?
だが、そのわりには幾何学模様が目立つ。見慣れない文字のような物が、円形にぐるりと一巡していたりする。なんだかまるで、魔法陣のようだ。
「……アニメにはまった子の……いたずら書き……?」
瞳はなおも首を傾げて考える。
「……まぁ、いっか」
深く追究しようとしてもしょうがない。雨が降れば、恐らくやがては消えるだろう。
「……あれ?」
何かが引っ掛かったのだが、忘れてしまった。消化不良のまま歩き出す。
その直後、後ろから引っ張られるような感覚がした。まるで自分の纏う空気や気配を掴まれたような、そんな感覚だった。同時に背中から首筋までを冷気が入り込んだかのように、ぞくりと悪寒が走る。僅かに血の気が引いた。
瞳は恐る恐る後ろを振り向く。何もないことにほっと息を吐き、地面に視線を落とした。
そして目に入ってきた物に、びしりと瞬間冷凍されたかの
「こっ…れ……」
なぜか、あるところから地面が崩れていた。その先は真っ暗だ。そして、がらがらと端から崩れながら、徐々に瞳のほうへと迫って来ている。
非現実的な状況に混乱しながらも、逃げなければと思う。だが、足はまるで根を生やしたかのように動かない。
「なんで…っ」
相変わらず上擦った声で叫ぶが、なんの効果も持たない。お構いなしに、崩落が瞳のほうに迫ってくる。
落ちてしまったら堪ったものじゃない。けれど、意に反して足は動かない。必死で足を
「あ………っ」
バランスが崩れる。
前のめると同時に、喉の奥で悲鳴になるはずの声が絡まって、息を吐く音だけが耳に大きく響く。高所から落ちるような浮遊感。そして再び尻餅を付いた。
「きゃんっ!!」
犬のような高い悲鳴を上げる。
とは言え強かに打ち付けて、痛みに
「いっ、つぅ…」
――なんなのよ。全く…。無事なことはありがたいけど…
「―――……けど…」
瞳はあたりを見回した。眼前には茶色い岩肌のような壁があり、穴から落ちたはずなのに天井がある。見渡しても出入り口はなく、密室らしき空間が広がっていた。だが、密室のわりには空気が澄んでいる。全体的にひんやりとした空気が漂っていた。
普通ならば混乱しているだろうが、今の瞳は、痛みでだいぶ冷静になることが出来ていた。重いため息で、肺の中が空になるまで吐き出す。
――………厄日だ…。
「なんでこうなるのぉ…」
片手で顔を覆い考え込む。そして、不意に彼女ははっとした表情が浮かべた。
まさか、ずっとこのままここで過ごす、とか……?
「そんなのごめんよ。絶っ対にやだっ…」
力強く呟きを漏らす。入って来れたのだから、密室のようなこの空間のどこかには、必ず出口があるはずである。
己を
《あちゃー…。ちょっと向こうのほうが早かったかぁ…》
後ろから響いてきた声に、瞳はびくりと肩を震わせると、音を立てて固まった。
誰も、いなかったはずだ。どうやって入ってきたのだろう。それを言えば、自分がどうやってここに入って来たのかも謎だが。
とにかく、他には誰もいなかったはずの場所から、誰とも知れぬ声が聞こえてくる。それに声の聞こえ方がおかしかった。頭に直接響いているような感覚だったのである。
瞳はさぁと青くなった。
――幽霊……? そうだ。そうでなければ絶対考えられない話なわけで…。
憶測が瞳の中で確信に変わり、さらに青くなっていると、謎の声の主はため息混じりに言った。
「バーカ。幽霊なんかじゃねぇよ。何考えてんだよ」
今度は普通に耳に声が届いた。呆れ返った声である。けれど瞳はまだ一言も喋っていない。考えを読まれているようだった。
それによくよく聞くと、口調は乱暴だが、声は少しハスキーな少女の声だ。
肩までの長さの黒髪は、左右の耳際の髪だけが少し長い。顎の線から続く尖った耳。赤紫の大きな瞳が印象的だった。
――……大きい、妖精…?
目を瞬かせている瞳を見て、少女はにやりと笑う。
「初めまして。あたしはライチってんだ。よろしく」
彼女は軽く一礼した。片足を少し引くと、その時、周囲をぱちりと火花が散った。
瞳は目を丸くする。当人は、ぽかんと口を開けている瞳を見て笑った。
「やぁ、驚いてる。嬉しいことだねぇ」
腕を組んでうんうんと、しきりに頷く。
はっと我に返った瞳は、じりじりと後退した。
「あのなぁ、気持ちはよおぉーくわかるんだけど、そんなに
苦笑しながら、「ライチ」と名乗った彼女は親しげに話し掛けてくる。今のところ害のない者だと判断した瞳は、恐る恐る初めの位置へ戻った。
「あなたは…えーっと、その…何者?」
言葉を選びながら尋ねた。
「何者って…。あたしはライチだ。さっきそう名乗ったじゃねぇの」
不機嫌そうに組んだ腕を解くと、腰に手を当てる。
「いやっ、あのっ…そうじゃなくて、ですね。もっと、細かい所を…。例えば…そうっ! えっと、あなたは妖精とか幽霊とかなの?」
慌てて付け足すと、彼女は納得した様子だったが、少し口を尖らせた。
「だから幽霊じゃないって言っただろ。……まぁ、瞳達からすれば、非現実的な存在なのは否定しないけど……」
「じゃあ、妖精とか…」
それにライチは再び考え込む。
「んまぁ…妖精って言うのはまだわりと近いところかもな。違うけど」
「近いけど、違う……? それじゃあ、なんなんですか…」
怖ず怖ずと訊ね返す。ライチは再び考えた。
「ふむ……。まぁ、今は妖精みたいな認識で構わないよ。因みに呼称を付けるなら『烏』だ」
随分といい加減さの残る回答だなと思ったが、ひとまずいいことにしておこう。
「カラス……」
瞳はライチの言葉を繰り返す。鳥の烏のことでいいのだろうか。考え込む瞳にライチはころころと笑った。
「まぁ、そんなことは今はどうでもいいんだけどさ」
瞳としてはどうでもよくない上に、わらないことばかりなのだが、ライチは勝手に話を進めていく。
「んーと、まずは瞳にこれをやろう」
「…え? 何これ?」
彼女はいきなりビー玉を瞳に渡した。ライチの眼の色と同じ、赤紫色のビー玉だった。しげしげとそれを眺めていると、ライチの声音が急に真剣になった。
「瞳には、あたしらの儀式っつうか…それに付き合ってほしいんだ」
「…………はい?」
話が唐突過ぎて、瞳は思わず
いまいちぴんとこない。
「大丈夫。あたしを傍に置かせてくれれば。あとはまぁ、たまぁーにちょっと手伝ってくれるだけでいいから」
「はぁ……」
曖昧な返事をする瞳に、ライチはにまっと笑った。
「そんじゃ、よろしくっ!!」
「ちょっと!!」
瞳が慌てて待ったを掛けた。
「私まだ了承なんかしてないわよっ!」
喚く瞳に、ライチは
「あれっ? 言ってなかったか? さっき渡した玉あるだろ?」
「あぁ…。これ…?」
瞳は掌の中のビー玉を見た。
「それ、了承したって言う印なんだよ。だから当分よろしくなっ!」
「なっ……!! あなた、どさくさに紛れて……っ!!」
ころころと軽快に笑ったライチに瞳は怒鳴る。そしてじとっと睨み付けた。それに笑いを噛み殺しながら、ライチは腰に両手を当てた。
「まぁ、そんなに拗ねるなって。――さて。そんじゃ、他の奴等にでも会いに行くかー」
「えっ。私の他にもいるの?」
目を丸くする瞳に、ライチが胸を張る。
「あぁ、いるぞ。儀式は一人じゃ無理だからな。ほら。目ェ閉じて」
「ねぇ。儀式って、一体なんの儀式なの……?」
瞳はライチに気になっていたことを問い掛ける。
「まぁ、それは追々な」
「――それ……私、役に立つ?」
瞳は渡されたビー玉を見詰めながら、ぽつりと呟いた。ライチはふんぞり返った。
「役に立つから頼んでるんだろっ。……ほら。時間ないんだから、さっさと目ェ閉じろ」
「……うん」
暫くビー玉を見詰めていた瞳は、ライチに急かされ目を閉じる。
「んじゃっ」
ぱんっと、ライチは手を打った。瞬間、瞼の裏まで刺すほどの閃光が弾ける。
「――目ェ開けていいぞ」
ライチの言葉に、瞳はそろそろと目を開けた。緑の残像に目がちかちかする。
相変わらず殺風景な茶色い岩肌の空間。けれど、その場にいる人影の数が違った。瞳を含めて六人。見慣れた制服に、なぜか見たことのある顔触ればかりだった。
――なんでここに……。
絶句し唖然としている瞳に気付いて、一人が目を丸くしながら声を掛けてきた。
「あれっ!? 瞳じゃん」
「実喜…、奇乃まで……?」
人違いではなかったらしい。なぜこの場に二人までいるのか。
「うーん…あんたとの縁は切れそうにないねぇー」
ふざけた口調で実喜はころころと笑う。
「さって。取り敢えず、全員揃った感じ? 自己紹介でもしときますか? 他の運命共同体の方々と」
「んな、大袈裟な……」
実喜の言葉に、瞳は呆れる。
「じゃあ、私。他の子達、呼んでくるね」
奇乃が、他の人が集まっているほうへ駆け寄って行った。
瞳を含めた六人の内、三人は全員男子だ。瞳はその顔触れを目で追う。
一人は茶色い髪と目をしており、肌も他の二人と比べると幾分か白い。元々色素が薄いほうなのだろう。身長はこの歳の平均よりはずっと高かったが、三人の中では一番小柄だった。
――あの子は奇乃と一緒に代表をやった子だ。確か、クラスも同じだったはず…。あっちの子も確か同じクラス…。
そうして視線を向けた二人目は、黒髪に少し垂れ気味のこげ茶色の目をしていた。身長は二番目に高く。代表だった男子よりも少し高い。
――一番奥の子は……。
視線を最後の男子に向けた時、瞳は目を
――あの子……。
じっと彼を見詰めていると、視線に気付いたのか、ずっと下を向いていた彼が目線を上げた。
漆黒の双眸と視線がぶつかる。その表情が、一刹那きゅっと苦しそうに歪んだ。
その表情に、瞳の胸もきゅっと絞まった気がした。
「えー…と…。自己紹介の必要、あるのかな? これ…」
代表だった少年が、やや
「んー…いらないような気はするけど……。まぁ。一応」
改めて全員が揃ったことを確認する。実喜が腰に手を当てて進めた。
「ひとまず名前だけでいい? あと、来る子の名前も教えたほうがいい? 当人達いないけど……」
「そうだね…。教えても本人たちは困らないとは思うけど……、そこは任せるよ」
問われた少年も、やはり苦笑気味に答えた。
会話を聞いて、瞳はあたりを見回す。確かに移動した後から、ライチの姿を見ていない。
――どこ行ったんだろう……。
首を傾げている間にも、周りの話は進んでいく。
一番最初に実喜が自己紹介をした。彼女には「フラワー」という子が来ると告げる。次は奇乃で、彼女には「クラウド」という女の子が。その次は奇乃と一緒に式で代表をした少年だった。名前を「
一瞬続いていた流れが止まり、瞳が慌てて自己紹介をした。
だが、瞳が終わったところで再び沈黙があった。それに秋友が仕方なさそうに苦笑する。
「おい。どっちか先に言わないと、先に進まないんだけど?」
秋友は他の二人と、面識があるらしかった。
瞳とぶつかった少年のほうを、別のもう一方が見た。お互いに意思疎通は出来ているらしく、視線を送っていたほうの少年が口を開く。
「
表情が乏しいまま端的に名乗られる。呆気に取られている瞳達と反対に、秋友は
「ほら。最後。
そのまま、秋友が促した。最後の少年は、重そうに口を開く。
「――藤浦、清和。付くのは…」
「ツルギだ」
歯切れ悪く喋る清和の声を遮り、聞き覚えのない低い声が頭上から降ってきた。
清和はすぐに頭上を睨んだ。瞳達の頭上でライチを含め六人の男女が空中に
――名前はみんな殆んど横文字なのに、服は着物みたいだなんて、なんか変なの。
瞳は彼女たちの服装を見ながら、なんとなくそう思った。
「よーっし。全員自己紹介は終わったな?」
ライチが皆を見下ろし確認する。それぞれが首肯を返した。
「そんじゃあ、初顔合わせも済んだし。今日はお開きにするか」
彼女たちはふわりと降りてくる。その時ひゅるひゅると風が唸った。
「細かいことは各自で説明するってことで」
ライチの言葉を聞いていたその時、瞳の身体を、ふつりと、不思議な感覚が通り過ぎた。身体の中を、何か風が通り抜けたような、そんな変な感覚だ。何かが通り過ぎたように感じた自身を見下ろし、怪訝そうに胸元を押さえる。
「……?」
ふっと視線をどことも定まらず巡らせようとした時だった。
寒気がした。
「瞳……? どうかした? 顔色悪いよ?」
様子に気付いた実喜が尋ねる。
「いや、大丈夫……」
顔を上げた時、急にあたりが暗くなった。
「……え?」
瞳は困惑する。今までいた人影がどこにも見えない。
「嘘、なんで……」
あたりを見回そうと顔を巡らせると、目が合った。
爛々と赤い、真紅の双眸と。燃えるように赤いのに、向けられている視線は冷ややかだった。品定めでもするかのように真っ直ぐに瞳を見据えている。
空中に浮かぶそれに、瞳はひゅっと息を呑む。今朝の夢がフラッシュバックしてさぁと血の気が引いていく。
「いやっ!」
「瞳? 瞳!? 大丈夫!!」
瞳が叫んだ時、突然、実喜の声が戻ってきた。
はっと驚いて声のしたほうを見ると、もとの場所へと戻っていた。
「今の、何……?」
瞳は茫然と呟いた。
「今のって……?」
実喜が首を傾げる横で、ライチが難しい表情で瞳を見る。
「……取り敢えず解散するぞ。ここに長居しないほうがいい」
重々しい様子でライチが一つ手を叩く。
稲妻が落ちたかのような、白い光が迸った。
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