第七章 The Anger
7-1
油絵の具の匂いがしている。
目を開けば、薄く墨を塗ったような闇が広がっていた。
じっとしていると、次第にいろいろ見えてくる。椅子、テーブル、イーゼル、そしてキャンバス。
俺のアトリエにあるものと同じ。ナユタがいなくなってから、すっかり使わなくなっていた、埃の溜っていたはずのそれ。
その横に誰かが立っていた。二メートルちかい大型のイーゼルの半分くらいの高さ。
「三枝さん?」
驚きに突き動かされて言葉が出てきた。のどがカラカラにひどく枯れていた。
三枝さんは首を振った。否定されて初めて違和感に気づいた。三枝さんにしては顔つきが幼い。似ているところも多いけれど、三枝さんよりも顔色が白く、肌に張りがある。この状況下で、その姿は異様な雰囲気を帯びていた。
薄闇に俺の目が慣れてくる。三枝さんは事務室にいたときとは服装が変わっていた。ニットのセーター姿だったのが、今は切れ目のわからないダイビングスーツのような姿で、ところどころ緑の筋が伸びている。体つきも三枝さんに比べたらほっそりとしすぎている。首元からすでに真っ黒で、手先や足先まで覆われていた。靴も靴下も履いていない。
「どうしたんですか、それ」
問いかけながら近づこうとした俺の足がもつれた。なぜか地面が揺れた気がした。座っている椅子の座面ごと、俺の身体がふらついた。
下を見れば、俺の身体に縄がきつく巻き付けられていた。
言葉が出なかった。俺は今拘束されている。
「なんだよこれ」
必死にもがいて、椅子の脚が軋むほどだった。それでも縄はびくともせず、バランスが崩れ、床に身体を打ち付けた。鈍い痛みが右腕にじんわりと広がった。舌も少しだけ噛んだ。
呻いている俺の前に、三枝さんの足が近づいてきた。黒い足。まるで肌そのものが黒く塗りつぶされているかのようだ。
「起こしましょうか」
一瞬誰の声かわからなかった。それくらい澄んだ、人間らしくない声だった。
俺が唖然としている間に、三枝さんの腕が俺の腕に触れる。
氷のような冷たい感触。それによって、懐かしい記憶が閃いた。
椅子の脚を軸にして、俺の身体が元の体勢に戻る。三枝さんの顔が俺の顎の高さになった。
「ヒューマノイド」
冷たい肌、奇妙に澄んだ声。前にナユタに対して抱いた印象と、今の三枝さんは良く似ている。
「うん」
三枝さんは笑っていた。今まで絵画教室で見せてくれたどの微笑みよりも大きく口を開いていた。
「でもナユタちゃんほどじゃないよ。身体なんてまだこんなだし」
三枝さんは自分の肩のあたりをつまんで引っ張った。粘り気のあるスライムのように、黒い服が伸びる。服というよりも皮だ。三枝さんに似せた身体も、どうやら全て作り物のようだ。
三枝さんとは違う、知らない女の人。
「ナユタのことを知っているんですか」
「うん。有名だよ。菟田野博士の秘密兵器って、お父さんや同僚さんたちもよく言ってた」
「それは、良い意味で?」
「全然」
女は俺から離れた。板張りの床をゆっくり回って、イーゼルの傍まで歩いた。
「嫌ってたよ。そして知りたがってた。どうやって作ったのか、って。それで頑張って菟田野博士の研究を調査して、データを集めて、後追いをした。そして作られたのが、私」
俺の真っ正面に立って、女は腕を真横に広げた。黒色に覆われたその姿は、色さえ気にしなければ何もおかしなところはない。
「どう? よくできているでしょ? 腕も足もあるし、顔も人間みたい。私はこれはこれで気に入っているんだよね。背が低すぎる気もするけれど」
片足で床を蹴って、女はくるっと綺麗に回った。一回転してまた顔が俺の前に来る。そのまま一歩、二歩と近づき、俺の顔を覗いてきた。
「でね、お父さんは満足してなかったの。ううん、今も満足していない。ナユタちゃんと比べたら、私はまだまだ普通じゃない。身体の皮膚もそうだけど、一番違うのは心だって」
女の瞳が流し目になって中を彷徨った。
「私にも感情はあるよ。嬉しいとか悲しいとか、そういうのはわかる。お父さんが悩むのを見ていると、私、苦しいもの。でもね、お父さんが言うには、人間にはもっと細かい心があるんだって。私の組み込まれたプログラムだとそこまではわからない。ナユタちゃんと違って、私の心は今のまま成長しないって、そう言われちゃったの」
ぴょんと、弾けるように翻って、女はまたイーゼルに戻った。真っ白いキャンバスを見上げて息をつく。
「だからね、お父さんは仲間と一緒に今すごくめんどくさい調査をしているの。あなたとナユタちゃんが暮していたこの家をね、引っかき回して、少しでも痕跡を集めるんだって」
アトリエのドアの向こう側で物音がするのに気づいた。ずっと誰かがこの家に入っていたのだ。
「無意味だ、そんなの」
思わず大声を挟むと、女は「だよね」と舌を出した。
「でもお父さんは止まらないの。いくら理由を述べてもだめ。頑張って頑張って、思いつくことをやり尽くしてそれでも頑張って、心が壊れちゃったみたい。ナユタちゃんのことを調べて、開発するんだって。自分が得るはずだった栄光を取り戻すために」
「自分が得るはずだった?」
「うん。お父さん、昔菟田野博士と同じ職場にいたんだって。いろいろ協力したのに、裏切られたって、今でも愚痴を言うよ」
うるさいんだよね、と女が笑う。
俺はじっと考えていた。
「お父さん、名前は?」
「知らない」
「えっと、職場ではどう呼ばれてる?」
「クロフォード」
聞き覚えがあった。
ずっと昔、父が追い出した男の名前だ。
「親父と、菟田野め」小さなぼやきが口から漏れた。
「え?」女が耳を傾ける。
「いや、こっちの話。ところで、俺はどうしてここに連れてこられたんだ」
「入り口の指紋認証を開くため」
「だったら、俺はこのあとどうなるんだ。用は済んだんだろ。解放されるのか? それとも俺、その調査が終わったら殺されるのか?」
「ううん、殺しはしないと思う。そんな指示は出てないよ。私はあなたが暴れないように掴まえておいてくれって言われているだけ」
ほっと胸を撫下ろした。
だけど、同時に別の疑問が湧いてくる。
「なあ、どうしていろんなことを教えてくれたんだ。俺、別に知らなくていいことだよな。その、そっちの目的とか、何しているかとか」
「うん。教えてあげろ、とも言われていない」
「じゃあ、どうして」
「さあ……? わかんない。教えてあげた方がいい、と思った?」
女は首を傾げた。きょとんとしている。本当にわからないらしい。
「ああ、わかんないなあ。ねえ、人間ならこういうのわかるの? もっと心がわかれば説明できるようになるの?」
いきなり問いかけられて面食らいながら、俺は女に向き直った。
「それは、人に寄るかな。上手く出来る人もいれば出来ない人もいる」
「竜水さんはできるの?」
「俺は……できなくはないけど、上手くはない、と思う」
「ふうん。あ、そうだ」
案外あっさり受流されて、がっくり俺は肩を落とした。
そんな様子を振り返りもせず、女がイーゼルに載ったキャンバスを指差した。
「絵を教えてよ。私、何か上手くできないんだよね。コレなら竜水先生も説明できるよね」
女はにっと俺に笑いかけてきた。
「私、名前はマイって言うの」
マイは今までで一番の笑顔になった。
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