4-5
フェイは身体を動かすのが好きな子で、私を見つけては外に連れ出したり、家の中で走り回ったりします。どうしてそのようにして身体を動かすのかというと、肉体の形成に有利なのだと菟田野博士がフェイに教えたからだとのことです。
フェイと私との違いは一緒にいればよくわかりました。フェイは隙あらば動き、とにかく周りに笑顔を振りまき、菟田野博士の出張には従順についていきます。落ち込んだり悩んだりしている姿は見たことがありません。いつも変わらず元気です。
私はフェイにしょっちゅう腕を引かれます。外に出るとき以外でも、私と遊ぶときはとりあえずまず引っ張ります。突然動かされるのには驚きますが、フェイには悪意がないですし、彼女の力強さが感じられて、私としても楽しいことでした。
フェイは、私に無いものをいろいろと持っています。力強さや素直さ等々。たとえそれが菟田野博士によって仕組まれた性格だとしても、私から見ればそれはフェイの性格であり、私の憧れる性格でした。だから、私とともに過ごす日々を楽しみました。
「明日は朝から出張するんだって」
ある夜、寝室に入ってきたフェイが私に告げました。声はいつもよりボリュームが小さく、顔も俯き気味でした。
「ごめんね、ナユタ」
「いいですよ。仕方がありません。菟田野博士の発表を手助けしてください」
私とフェイのベッドは横に二つ並んでいます。私は自分のベッドに座って、フェイのベッドを指差しました。寝るように促したつもりでした。ところが、フェイは私のベッドに近づいて、隣に座りました。
「もう本当に、いつもいつも出張で大変だよ。車って狭いし、発表する会場も似たような暗い会議室だし。発表だなんだって言って、私の身体開いて中身見せてコードとか部品とか引っ張り出したりするんだよ。全然気持ちよくないよ」
フェイが愚痴をこぼすのを初めて聞いて、私は目を丸くしました。
「でも、フェイは私よりストレス耐性が強いと聞いていますが」
「耐性はあっても、嫌じゃないとは限らないんだよ」
フェイは足をばたつかせたあとに、私の方へ顔を傾かせました。お風呂から出て乾かしたばかりの柔らかい赤い髪が私の肩に乗って小さく広がりました。
「ナユタと木登りして遊んでいる方がずっと楽しいよ。私のこと一番わかってくれるの、ナユタだけだもの」
「そうでしょうか。菟田野博士は、私たちを作った人ですし、詳しそうですが」
「モノとしてはね。でも、あの人も人間だよ。私はヒューマノイドの方がずっと親近感が湧くの」
そこまで言うと、ナユタが顔を上げて私を向き直りました。
「ナユタ、この前景色を見て綺麗って言ったこと、覚えている?」
まだ記憶に新しい出来事だったので、私は素直に「ええ」と答えました。同時にあのとき感じた悔しさが胸の内を微かに過ぎりました。
「でも、どうしてそう言ったのか、うまく説明できません」
「それは、説明できなくていいんだよ。説明できないときに『綺麗だ』って言えるのが人なんだから」
フェイは私をまっすぐに見つめて言いました。
「私はその言葉を思いつけない。ナユタが言ったから、初めてあの景色が『綺麗』って認識できた。ナユタは私よりずっと、人に近いの。それが、ちょっぴり羨ましいんだ」
真剣な顔つきのまま始まった言葉が、終わりの方ではいつものような白い歯を見せた笑みに変わっていました。
「羨ましいだなんて、そんなこと」
フェイの屈託の無さを前にしながら、私は唇を噛みしめました。胸の中に靄がまた広がり始めていました。
「私からすれば、フェイの方が羨ましいですよ」
「そうなの? どうして?」
「それは」
私は目を伏せて、寝室のカーペットを眺めながら口を開きましたが、上手く言葉が続きませんでした。しどろもどろになって、同じ事を繰り返して、フェイが明るいことや活発であることを褒め称えて、そこから先がどうしても続きませんでした。
「私には、上手くいかないことが多すぎます」
私は最後にそう呟いて、自分の言葉を終えました。
しばらくのあいだ、静かになりました。夜の研究所では、遠から秋の虫の声が聞こえます。じりじりと響くその音を背景に、私とフェイは寄り添っていました。フェイが私を見ているのはわかりましたが、私はカーペットを見つめ続けていました。
「多すぎるって思えるのは、それだけいろんな物事を自分で考えているってことじゃないかな」
フェイは私の横を離れて、自分のベッドに腰掛けました。私と同じ背丈で、同じ顔つきで、まるで鏡が前にあるみたいでした。
「私が悩まないのは、最終的には菟田野博士の命令を守るようにプログラムされているからだよ。ナユタにはそういう制約が無いからたくさん思考できる。でも、それで苦しむくらいなら、方針を決めようよ。ナユタは今、一番、何をしたい?」
前屈みになったフェイの目が、俯いていた私を覗き込みました。どう顎を引いても逃れられませんでした。
私は狼狽えました。
私は何をしたいのか。
口を開いて、一旦閉じて、また開いて、掠れた息が先に出ました。
「もう一度」
思い出していました。ほんのひと月ほど前のことです。
閉じてしまった扉が前にありました。私はドアノブを握りしめて、息も絶え絶えになり、心臓が大きく蠢いていました。何かに怯えていたようで、興奮していて、そのときへ至る数分間の記憶がすっかり抜け落ちてしまっていました。
ドアノブから手を離し、しばらく呆然としていました。少しずつ記憶の断片を拾っていって、竜水さんに耳を触られたことを思い出しました。そこから先の記憶が、壊れたガラス細工のように粉々に砕け落ちていました。
ドアを開いたら、もうだれもいませんでした。部屋の中にも竜水さんはいませんでした。私は、興奮状態にあった身体のことを思い出し、自分が何をしたのかを類推しました。
そのとき受けた衝撃が、今フェイの問いかけによって蘇ろうとしていました。過去に置き去ろうと思っていた出来事が、私の思考を多い、声を震わせ、身体の内側を火照らせました。
それでも、どんなに苦しくても、フェイの質問には答えようと努めました。
「もう一度、竜水さんと会いたいです」
私の言葉を聞いて、フェイが小さく頷きました。竜水さんのことをフェイは知らないのに、それはとても力強くて、私の心を温かくする頷きでした。
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