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「フェイは君の妹だよ」
竜水さんの家を離れて研究所に戻った日、緑の溶液の詰まったガラス管の中で浮いている女の子を見つめていた私に菟田野博士が教えてくれました。
「でも、私には哺乳類としての母体はありませんが」
「うん、喩えだよ」
菟田野博士は苦笑しながら私の肩に手を載せて腰をかがめ、その顔が私と並んでフェイに視線を投げかける形になりました。
「フェイの身体のベースは君と似せてある。視覚的な差別化を図るために髪色は変えてあるし、骨格や肉付きにも手を加えてあるけどね。だからまあ、人で言えば妹と考えて良い」
「な?」と、菟田野博士が促して、私は頷き返しました。
フェイの製造は、私が完成した直後に始まった、と菟田野博士が教えてくれました。
「君とフェイとの一番の違いは、人工知能が僕にとって少しだけ都合良く作られていることだ。君の脳はほとんど人間に近くできているけれど、フェイの脳はそれよりもずっと感性が鈍い。その代わりにストレス耐性を強くしてある。いずれヒューマノイドの研究が公に認められた場合、人前に立って研究結果を発表する機会が増える。そのようなときに降りかかってくる、尋常ならざるストレスを受流すための補強なんだよ」
菟田野博士は私の傍を離れて、ガラス管の手前にある機器に触れました。ボタンを三つほど押すとガラス管の下からスモークが上り、菟田野博士ごとガラス管を包み込みました。匂いはとくにありませんでしたが、私は目を閉じ、手を口で押さえました。晴れ渡った視界の先で菟田野博士はフェイを抱えて立っていました。
「これから先、私も出張が増える。先進的な研究をしているからね。なるべくなら私が資料だけを携えて外出したいが、どうしてもヒューマノイドを連れて行かなければならないときもある。そのような場合は、君ではなく、フェイを連れて行く」
菟田野博士の言葉は問いかけではなく決定事項でした。
私は菟田野博士の微笑みから目をそらし、眠っているフェイを見つめました。髪色はあざやかな赤で、肌の色も少し濃いようでしたが、顔つきは鏡で見る私のとよく似ていました。彼女が妹であるのは確かであるようでした。
私は時間を掛けてゆっくりと頷きました。し終わった後に、すぐ口を開きました。
「では、私は何をすれば良いでしょう」
「今のところは、何もしなくていい。研究所の敷地内ならどこを出歩いてもいいから」
菟田野博士はまるで私の問いかけに蓋をかぶせるような言い方で答えました。
帰宅した菟田野博士はフェイを連れてまた車に乗ってしまいました。
「またすぐ戻ってくるから」
後部座席に座ったフェイが、ウインドウを開いて私に言いました。笑って見せた白い歯が、うっすらと色の濃い肌によく映えていました。
「はい」
私の声は思いの外小さくなりました。自分としては普通に返事をしたつもりなのに、口はうまく回りませんでした。
「家の台所は好きに使っていいし、疲れていたら眠っていても良いからね」
去り際に掛けられた菟田野博士の言葉に微笑んで、去って行く車を見送りました。
博士がいなくなると、研究所内はひっそりとします。常勤の研究員や警備員などもいて、決して無人ではないのです。それなのに、菟田野博士とフェイがいなくなると、いつも研究所の白壁がよそよそしいものに感じられてしまいます。
家、と菟田野博士が言ったのは、研究所に併設されている菟田野博士の住まいです。二階建てのごく庶民的な家で、流線型の無機質な研究所に添えられているのは不似合いでしたが、「仕事場と住まいは別環境だから」と、菟田野博士は言っていました。
板張りの床を歩いて居間へ入りました。テーブルが一つ、椅子が四つ。テレビもあって、向かう形でソファもあって、緑色のクッションがふたつ置かれています。クッションの中にはビーズが詰められていて、指で押すとどこまでも凹んでいきます。指を離してもなかなか元には戻りません。
私はソファに座ってクッションを抱えていました。フローリングの床を足の指で撫でて、その軌跡を目で追っていました。足を止めると視線も止まりました。電気をつけていないことに気づきましたが、スイッチのところまで動く気にはなれませんでした。私は一言も話しませんでした。誰もいない室内なので、話す必要もありません。時計の針の進む音だけが響いていました。眠れるものなら眠りたかったのですが、目が冴えてしまっていました。
何もすることがないというのは、何でも無いことのように見えて、実は心の底が締め上げられるのに似ています。何もしない自分には、まるで何もかも無いようです。竜水さんが仕事の無い日々を呪っていたのを今更のように思い出し、その恐怖を今になってようやく理解できるようになりました。
「竜水さん」
思い出したことで、その名前が口をついて出てきました。どこにも行き届かない言葉です。そう思うと同時に、胸の奥がひんやりしました。何をする気にもならなかった体中を動悸が駆け巡って、内蔵を圧迫してきました。気分が悪くなって、ソファの上に横になりました。それでも不快感は止まらなくて、クッションを顔に押し当てました。クッションは私の顔の形で凹んでいきました。勝手に元には、戻りません。
私の喉は震えましたが、音は耳には届きませんでした。全てクッションのビーズが掻き消してくれました。むしろ掻き消したかったのかもしれません。
その日、フェイと菟田野博士は夜遅くに帰ってきました。私はソファの上で眠っていて、フェイが寝室へと運んできてくれたそうです。翌朝目覚めてぼーっとしている私の前に、フェイは仁王立ちしていました。
「今日もまた木に登ろう」
そしてまた、私は腕を引かれて外に出ました。頬に残っていた痛みは、秋の初めの陽射しを受けて次第に消えてなくなりました。
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