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 駅前の大通りを離れて五分程度。いくつかの棟からなる大型マンションの脇道を通り抜けた住宅地の片隅に、その雑居ビルはあった。三階建ての壁には各階に三つずつ窓があり、その枠線に沿うようにして雨のシミができている。古ぼけた外観の中で、一階に掲げられた布製の青い庇だけが真新しく見えた。


 サエグサ・アート・アカデミー


 個人経営の絵画教室がアトリエからそう遠くない場所にあった。この場所にいたるまで、いったいいくつの仕事の門戸を叩き、落とされてきたのか、もう数も覚えていない。

 運良く面接の約束が取り次げても、肝心の本番で俺はことごとく落とされた。恥を忍んで接客業の面接にも臨んでみたが効果は無かった。嫌がっている心根が気づかないうちに表に出ていたのかもしれない。原因をはっきり教えてくれるわけではないが、面接を担当した職員たちの顰め面を見るとそう感じた。

 働くにはやはり多少腕が立つ分野の方が取り組み甲斐がある。そう自分に言い聞かせた俺は、絵画の技術を活かせる仕事を探した。webデザイナー、イラストレーター、漫画家のアシスタント。思いつく仕事を手当たり次第にも当たってみたが、どれもこれも募集人数が少なく、厳しかった。ネットで探すのは諦めて、椿姫市の就職斡旋所に足を運び、画家の能力を欲しがっている情報を求めた。その話をしたのが二週間前で、昨日になってようやく良い答えが返ってきた。絵画教室の講師。募集をしている話はなかったが、もしもいればありがたい、という話を受けた。そして紹介されたのが「サエグサ・アート・アカデミー」という個人経営の教室だった。

 お昼過ぎの気怠い時間、教室の前のコンビニエンスストアに立ち寄って、トイレに籠もって爪を切ったり髭を剃ったり最低限の清潔感を保つように工夫をし、教室前のガードレールに腰をかけてスーツのネクタイを整えた。いつまで経っても、この一張羅を羽織るのは苦しかった。

 面接の時間の五分前に、教室の扉を叩いた。返事はすぐ聞こえてきた。扉を開いたのは、人の良さそうな顔の女性の方だった。

「あなたが咲良竜水さんね」

 俺よりも、かなり年上だろう。化粧もほとんどしていない。ほうれい線を隠すそぶりも無く、女性はにこにこと笑いながら俺を手招きした。やたらに明るい。苦笑いしそうになりながら、頭を下げて彼女の後ろについていった。

「油絵の具ですか」

 入った瞬間、俺は反射的に尋ねた。

「あら、よくわかるわね。匂いで?」

「ええ、まあ」

「さすが、画家さんね」

 俺が画家であることは、電話で面接の依頼をしたときに話をしていた。絵の具の匂いなんて独特なのだからわかってもおかしくないのに、女性は首を何度も縦に振っていた。動作が激しくて、苦笑いがさらに強くなる。ちょっと苦手な人かもしれない、なんて思っているうちに廊下を渡って事務室へと案内された。がらんとしている。

「いつもは事務の方と、講師の方がいるんだけど、お二人とも今日はお休み」

 講師を募集している経緯については話で聞かされていた。なんでも現在の講師の方がすでに高齢であり、体力が続かなくなっていたのだという。体調を考えて休みを多くしていたが、生徒からの要望があって開講日を増やさなければならなくなった。そのためにどうするべきか考えていたところ、就職斡旋所の職員に声をかけられて、俺が呼ばれることとなった。

 女性の名前は三枝といい、この教室の経営者その人であり、面接を担当するのも彼女だった。

「プロの方が来てくださるなんて、こっちとしてもびっくりしたわよ」

 面接が始まってから、俺はほとんど話していない。むしろ三枝さんが一方的に話を続けている。話すことが好きな人なようで、身振り手振りを交えながらいかに自分が驚いたのかを再現しようとしてくれた。

「基本的なことを教えてくださればいいのだから、できますでしょう」

「ええと、方針がわかればそれに沿って、基本を教えます」

「それじゃ、さっそく頼むわよ」

「さっそく?」

「今夜、さっそく生徒たちが来るみたいなのよ」

「聞いてないですよ」

「私もびっくりした。私が今日面接するってこと、どうしてか生徒たちみんな知ってたのよね」

 なんでだろう、と三枝さんは目を閉じて呟いて、小首を傾げ、すぐに俺に向き直った。

「ま、それはともかくとして、本当に簡単なご挨拶程度で結構よ」

「でも俺、あ、いや、私は、その、今まであまり挨拶等をする機会がなかったものですから」

「あら、緊張しているの? 平気よ、みんなかぼちゃとかじゃがいもとかだと思えば余裕よ。擂り潰してサラダにしてやる、とか考えていると緊張なんてどうでもよくなるわよ」

 物騒なことを良いながら笑ってのける三枝さんに、抗議をしようと腰を浮かせたその瞬間に呼び鈴が鳴らされた。

「第一陣ね」

「第二陣があるんですか」

「みんな時間帯がちがうのよ」

 三枝さんにまた手招きされて、事務室から直接教室へと入った。

 油絵の具をほぐすテレピンや、汚れ落としのクリーナーのつんと鼻をつく匂い。仕上げのニスの上品に抜けるような香り。木製のキャンバス特有の粘り強く残る雰囲気。どこのアトリエであろうとも、その油絵特有の匂いはつきものだ。教室の中にはキャンバスが十ほどもあり、匂いはもちろん、キャンバスに残った種々の油絵の具、その全てがそれぞれ自分の存在感を放っている。

 唐突な呼び出しへの忌避感が、薄らいだ。馴染みのある空気を肌で感じたせいだろう。指先が咄嗟に筆を掴みそうになり、空を切って揺れた。

 生徒はすでに何人かいた。ロッカーに自分の鞄をしまっている人、めざとくこちらに視線を向けている人、すでに自らの席に座っている人。

 全員、小学校の低学年くらいだろう。十歳程の生徒たちだと事前に話は伺っていた。話が通じるのかどうか、まずそこから不安だった。

 そのうち、俺を見ていた男の子が指をさしてきた。

「新しい先生ですか!」

 大きな声に仰け反りそうになる。音量調整なんて器用な真似をしようともしない歯切れの良い声だ。

「そのとおりよ」

 俺が面食らっているうちに、三枝さんが大きく頷いていた。途端に生徒たちが歓声を上げた。これもまた大きな声で、思わず耳を塞ぎたくなるのをすんでのところで止めた。

 子ども相手の教室であることは事前に聞いていたが、実感したのはこのときが初めてだった。教えられるだろうか、という不安は当然あった。そもそも自分が子どもを得意だとは思えない。それでもお金は要る。生きるために働く必要がある。

 一呼吸、無理矢理吸い込んで足を開いた。

「よろしくお願いします」

 なるべく一気に口にして、頭を下げた。何年ぶりのことだろう。

 顔を上げたらきょとんとした子どもたちがいた。

「竜水くん、固すぎるわよ」

 三枝さんが笑い混じりに指摘してくれた。

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