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一人暮らしだった頃の竜水さんは身なりにほとんど気を遣っていなかったみたいです。掃除をするとそこら中から埃が出てきますし、髪の毛だって伸び放題。料理も全て近くのお店で買ってきたパック容器のお弁当で済ませていたそうです。はっきりいって健康を損なう生き方だったのです。
私の目は竜水さんの血中の塩分濃度や体脂肪率なども読み取ることが出来ます。せっかくの機能なので活用しようと思い、事細かに竜水さんの健康状態を教えてあげたら、竜水さんは顔を青くし、動悸が若干早くなっていきました。人間というものは不安になると実に正直に反応する生き物なのです。
一緒に暮らしている彼の不安を取り除くのは私の大事な仕事です。なので、竜水さんのために料理を作ることにしました。本やインターネットで情報を集めながら、夕食の品を一つか二つ拵えるのです。必要なのは経験、つまりデータです。今はまだ未熟であり、苛立ちもしますが、経験を積めばそのうち様々な料理を作れるようになるでしょう。
今日は竜水さんに渡すお弁当を作ろうと思っていました。でも、竜水さんがあんまり急に外出してしまうから、間に合いませんでした。それでも、画商さんとの商談ですから、上手くいってほしいものです。
竜水さんは近頃絵の評価が芳しくないことを口に出さずに嘆いているご様子でしたので、この機会に自信をつけて熱心に創作できるようになればいいと思います。どんな形にせよ、目標のあることが人に活力を与えますから。
ひとまずは冷蔵庫に準備してあったお弁当用の食材を夕食に使い回そうと思います。竜水さんはほっそりした体つきの割にはいろんなものを食べてくださるので、作りがいはあります。その代りあまり美味しそうな顔をしてくれないのが玉に瑕です。
レシピ本の作り方欄に書かれている「適量」の意味を長いこと見つめてその意味を推し量ろうとしていたときに、玄関の呼び鈴が鳴りました。
「竜水さん、いるかい」
低い男の声でした。竜水さんの知り合いは博士しか知りませんが、博士とは違う声でした。
竜水さんの古い知り合いなのかも知れないと思い、扉を開けると、波の絵が描かれた鉢巻きの中にぴかりと光る頭がありました。
「なんだ、嬢ちゃん」
「竜水さんの姪です」
そう答えるようにと言いつけられていました。
男の人は眉をひそめましたが、すぐに質問を始めてきました。
「竜水さんはいないのかな」
「出かけております」
「上がってもいいかい」
「あなたは許可されていません」
「許可? そんなのいらないよ。俺と竜水さんとの仲なんだから」
男の人は大声で笑いましたが、二つの黒目が私を捉えたまま離れませんでした。
「俺、街で寿司バー開いているんだ。竜水さんはそこの常連。竜水さんに聞けばわかるから」
寿司バーの話は聞いたことがありました。私が初めて会った日も、竜水さんはそこへ行き、浴びるように酒を飲んだのです。
竜水さんの知っている人だと意識したところ、うっかりドアを持つ手を緩めてしまいました。その隙を突いて、男の手が扉の縁を掴んで引っ張りました。
「待ってください。許可されてません」
私は慌てて警告を発しましたが、男の人は聞く耳をもってくれませんでした。
「竜水さん、ツケが溜っているんだよね」
上がりがまちに入り込んだ男の人は私を見下ろして言いました。
「なかなか支払ってくれないから、こうして何度か足を運んで取り立てに来てるってわけ。別に何を取ったりするんでもないよ。ただちょっと督促状っていうお手紙を置くだけだから。な、いいだろ」
男の人は中に入ろうとしました。
「動かないでください」
私はいつもより幾分高い音量で言いました。
「この家の家主は竜水さんです。権限は竜水さんにあります。これ以上入ったら竜水さんに知らせます」
「だから、知らせても構わねえって言ってるだろ。知り合いなんだから」
男の人は怒鳴り気味に言い、歩いて行こうとしました。
私は男の人の腕を掴み、引っ張って追い出そうとしましたが、くるりと腕を回されて気がついたら手放していました。どういうわけか、前に竜水さんを持ち上げたときのような力は湧きませんでした。
男の人がにやっと笑っていました。印象的な笑顔です。良い意味ではありません。
「怪我しねえようにそこにいな」
男の人は私に背を向けてしまいました。
廊下を歩いて行くのを見ながら、さてどうしようかと考えました。武器になりそうなものは近くにありません。靴箱の靴などを投げてもさして効果は無いでしょう。それどころか暴力の罪に問われるかも知れません。しかしこのまま男の人を野放しにすれば竜水さんは悲しむでしょう。怒るかも知れません。あるいはそれ以上に、男の人にツケを請求されるのを怖がってしまうでしょう。
弱ったなあ、と思っていたら、また玄関の呼び鈴がなりました。
「どなたですか」
私が答えたときには、もう扉は開かれていました。
女の人でした。背が高く、髪も長く、きりりと鋭い目つきをしています。赤い唇が目立っていて、私を向くと綺麗な弓なりを描きました。
「ああ、君が例の子か」
どうやら私のことを知っているようでした。それでいて敵意の欠片も見当たりません。これ幸いと、私は訴えました。
「あの男の人に勝手に上がられてしまったのですが、追い出したいのです。助けていただけないでしょうか」
私は男の背中を指しました。男はもう居間まで入り込んで棚を眺めたりしていました。
女の人は足音を綺麗に響かせながら板張りの床を歩きました。よく響く足音で、男の人もすぐに気づいて振り向きました。
「あ、あんたは」
男の目が面白いくらい大きく見開かれました。
女の人は床を踏みならして仁王立ちになりました。
「いつも寿司バーでうちの弟が世話になっているようですね。値段の安さが売りだとかで、弟も重宝しているみたいですよ」
丁寧な話し方とは裏腹に、女の人の姿勢はどんどん前のめりになっていきました。女の人は男の方を見下ろしていました。鼠を見つけた猫のような顔をする人でした。
「弟? あの、竜水さんの姉?」
男は明らかに狼狽していました。
女の人は一歩、二歩と男に詰寄りました。身長の違いもあって、大人が子どもを叱責するときのような威圧的な様子で、男も緊張した面持ちでした。私も緊張していました。
女の人はたっぷり一分くらい男を睨んだ後に、大きな声で笑いました。
「それで、いくら欲しいんだい」
女の人の顔は私からは見えませんでした。その代り男が愕然としているのがよくわかりました。どう反応したらいいのか迷っているようでした。
私にとっても不思議でした。お金をあげるにはそれ相応の余裕がなければいけないはずで、だからこそ自分から口に出すような言葉ではありません。その違和感について、女の人は気にも留めていないみたいでした。
男の人はまたにやりと顔の形が歪むほどに笑いました。やっぱり気持ちのいい表情とは言いがたいものでした。
交渉はあっという間に進み、男の人が提示した額を、女の人はすぐ頷いて受け入れました。
「それじゃ、振り込みはまたあとで」
帰ろうとする男に向かって、女の人が呼び止めました。
「待ってよ。せっかくお金をたんまりあげたんだ。ちょっと私のお願いを聞いてくれないかい」
今度は女の人がにやりとする番でした。
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