2-4
黒猫を見た。
家に向かう途中にある、住宅街に入ってすぐの公園のそばにうずくまっていた。尻尾にピンク色のリボンが巻かれていたし、毛並みも整っていたから、多分飼い猫だったんだろう。
見つめていたら、気づかれたようで、飛び跳ねるようにして俺の前を通り過ぎた。
それが予兆だったのだろう。
玄関の扉を開いて、下駄があるのにも驚いたが、その隣にある膝ぐらいの高さの革のブーツを目にしたとき、その予感が確信へと変わった。
ブーツの持ち主はソファで寝転んでいた。
「やあ弟よ。元気にしていたかい」
咲良沙雪。竜水の代わりに咲良グループの本社、ブロッサム・テクノロジー社長の地位を継いだ女性。そして竜水にとってはただ一人の姉だった。
「やあ、じゃねえよ。なに勝手なことしているんだ」
「私の貸家なのだから、鍵ぐらいあっても不思議では無いだろう?」
「それも気になってはいたけど、まずはこれだこれ」
俺はソファをつま先で蹴飛ばした。ふかふかしていて気持ちが良い。問題は、俺の部屋には元々ソファなんか無かった、という点だ。
「いいだろう、これ。お気に入りなんだ。家にいくつかあるからひとつお前にやるよ」
「要らねえよ。一人暮らしだぞ」
「おやあ? 同棲者ができたと聞いたけど?」
沙雪はにやにやと笑みを零した。ナユタのことを知っているらしい。
そういえば、ナユタが初めてこの家にやってきた日、菟田野は鍵を使っていた。かすかに気に掛かっていたことが、パズルのピースみたいに嵌まっていく。
「お前まさか、鍵を菟田野に貸したのか。勝手に」
「入りたいって言ったからね。でも、そう邪険にすることないだろう。酔っ払っているところを助けてくれたんだっていうじゃないか」
「結果論だ」
「実績があるってとっても大事なことだと思うよ」
沙雪は隙あらば俺を煽ってくる。そういう話し方を常とする。話していて頭が痛くなる人だ。
「何しに来たんだ、結局」
溜息交じりに訊いてみたら、沙雪はこくりと頷いて俺と向き合った。
「弟と同棲しているナユタちゃんと会いたかったってのが一番の理由かな」
「会ったのか」
「うん。良い子だよ。今台所にいる。料理作ってたよ。楽しみだろ? な? 良かったな」
「お前、あいつが何者なのか知って――」
言いかけたところへ、沙雪が「しっ」と音を挟んだ。俺の耳元に顔を寄せて、「誰かに聞かれたら菟田野が困るよ」と囁いた。
「聞かれるって?」
「ほれ」と、沙雪の指がテーブルを指す。俺はその後を辿り、そこで初めて、椅子に腰掛けている人を見た。
行きつけの寿司バーの板前だった。
「おじゃましてるよ、へへ」
板前は舌をちろりと出して見せた。
わけがわからなかった。
「姉貴が入れたのか? 何があったんだ」
「そういう細かいことはいいから」
姉はまたも俺の言葉を遮った。
「あんたの絵、買いたいんだってさ。見せてやりなよ。いいものだったらツケをちゃらにしてやるんだって」
ツケといわれて、どきりとする。溜まりに溜った寿司代のことなのだろう。それが、絵と交換? 姉貴はもちろん答えてくれない。板前を見つめたが目を背けられた。何かが隠されているみたいだが、誰も教えてくれそうにない。
板前と姉をアトリエに入れて、形になっている作品を見せてやった。
「ははあ」
と、板前が声を漏した。本当に感激しているのか、なんとなく口を開いたのか、真実は定かでない。
なぜだかわからないが、姉が板前にしきりに話しかけていた。だいたいが俺の悪口だ。板前はおずおずと眺めている。
どんな形にせよ、その内面で評価が下されている。俺の胸の内は期待半分、不安半分だ。
「あ」
アトリエの入り口から声がして、見るとナユタが立っていた。
「中に入れていいんですか」
ナユタが目を瞬いて言った。
「これは商売の一環だから」
俺が答えると、ナユタが若干前屈みになった。目を見開いて、唇を若干噛みしめながら俺を見つめてくる。何事かと思ったが、しばらくの間何か言いたげな彼女を見つめ続けて、それからようやく膝を打った。
「こっち来るか?」
「はい」
ナユタは大きめの声で返事をして、跳ねるように入ってきた。
やがて板前が「これ」と絵を選んだ。青い空と大波をメインに据えた絵だ。
「寿司バーに飾るにはやっぱり海っぽくなくちゃな」
板前は真面目な顔つきで言うと、朗らかに去っていった。
「なんだか最後はいい顔をしていましたね。意外と」
ナユタがぽつりと呟いた。
「それはもちろん、悪い人じゃないさ。ただツケが溜ったりすると、たまにここに乗り込んで怒鳴ってきたりもするけれど」
俺が冗談交じりに言ったが、ナユタは何故か目をそらしていた。
「あの絵、そんなに良かったのでしょうか」
その言葉の意味ははかりかねた。
「どういう意味で言ってるんだ」
おそるおそる理由を尋ねた。
「いい絵とは、人を感動させると聞いています。あの板前さんはあの絵に感動したのでしょうか。それほど素晴らしい絵だったのでしょうか」
ナユタは真剣に考えている様子だった。
「人はどうして絵に感動するのでしょうか。私はそれが知りたいです」
奇しくもそれは、俺が最近よく自分の中で反芻する問いかけだった。
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