第二章 The Elder Sister
2-1
菟田野博士へ
ご機嫌いかがでしょうか。ご飯は毎日食べていますか。好きなものばかり食べ過ぎて立ちくらみや眩暈が起こってはいませんか。他の職員の方々や、研究所の様子など、お変わりないでしょうか。
私は今、博士のことが気になっているみたいです。こういうときは胸の奥が窄まる感じがします。意識を傾けて注意していると胸の中を加圧される、というのはいったいどうしてなのでしょうか。物理的な必然性のある現象とは思えません。となると、この締め付ける感覚は私の身体に特有の性質かと思われます。おそらくは、博士が私に組み込んでくれたという「心」のせいではないでしょうか。まだ確信は得られておりませんが、博士がかつて教えてくださったように、私の心は萌芽しつつあるのかもしれないですね。
私が研究所を離れてもう一ヶ月になります。先述した「心」の動きについても気になるところですし、人間的生活におけるヒューマノイドの心の変化を調べるという私の本分に立ち返って、竜水さんの住処での生活を書いていきます。
この一ヶ月間、私はもっぱら掃除をしておりました。
竜水さんの家にはたくさんの雑菌がいました。洗濯物も溜っており、ゴミ箱は紙くずに満ちあふれ、竜水さん自身の身体も油絵の具や木くずなどでかなり汚れておりました。竜水さんがいうことには、仕事で主に扱われている「油絵」というものはどんなに頑張ってもある程度の汚れが生じてしまうものらしいのですが、どんな汚れであろうとも毒素の元となり得ますので、目につく汚れはどんどん拭くことに決めています。毎日掃除に勤しんだ甲斐もありまして、掃除の技術はかなり上達しました。洗剤の配合率を考えたり、たわしを操るのに最も効率の良い力加減を探してみたり、真剣に取り組んでみると案外楽しいものなのです。
考えて行動して実行して、成功すると胸がうずく。これもまた生物学的必然性があるとは思えません。こういうのは「楽しい」という感情なのでしょうね。なんとなく、わかってきました。楽しいと、もっともっと動きたくなってくるみたいです。
竜水さんは絵ばかり描いています。私が言うのも可笑しいのですが、人間らしい生活だとは思えません。もしも竜水さんが本当に一人きりで暮らしていたのだとしたら、だいぶ前に飢え死んでいたのではないでしょうか。一度竜水さんにそのことをお尋ねしたら、どうも竜水さんのお姉さんである沙雪さんという方が毎月お金を振り込んでくれているそうです。沙雪さんは工業会社を中心とするグループの頭取だそうで、率直な言い方をすればこの国でも有数のお金持ちなのです。竜水さんという十分な収入の得られない一人の弟を生かすだけのお金を捻出することは沙雪さんにとって容易いことであり、竜水さんはそのお恵みに毎月縋り付いているのです。
それでも竜水さんはただのぐうたらではありません。お恵みを授かっている一方で、あちこちの画商へご自分の作品を売り込み続けています。竜水さんはちゃんと稼ごうという努力をしているのですが、残念ながらいまだに良い評価をいただけていないのです。
あいにく私には絵のことはさっぱりわかりません。ほんの少し心の微動を感じられるようになったくらいでは、どうして人が絵を欲するのか理解できません。評価基準をどう定めていいのかも未だに不明瞭です。人間の文化を正しく理解するにはまだまだ時間がかかりそうですね。
絵のことをもっとじっくり知りたいです。アイデアの出し方や、製作過程、仕上げ、販売方法等、いくつか気になることはあります。しかし、竜水さんは私がアトリエに入るのを嫌がります。描いている途中の絵はなるべく誰にも見せないというのがあの人の主義らしいのです。その代わり完成した絵は、画商に売りに行くときなどににちらりと見せてもらえました。竜水さんの絵は本人の無愛想さとは違い、明るく激しく色鮮やかでした。活気があって、暖かくて、刺激的。感動はしないにしろ、それなりに目立つ作品だとは思えました。価値があるかと言われたら、少なくとも否定はしないでしょう。しかし、どうも画商に会った竜水さんがいつも意気消沈して帰ってくるところをみると、他の方にとっても価値のある作品だとは言い切れないみたいです。
竜水さんの絵は必ずしも売れません。しかし、それでも竜水さんは毎日アトリエに籠もります。評価されない絵を描き続けるその理由は、私にはまだまだわかりません。
今日も竜水さんは自作を売り込みに行っています。竜水さんの絵を随分昔に見た画商さんから朝連絡があったのです。聞くところによると、結構な資産家で、有名な画家とたくさん繋がりのある方なのだそうです。竜水さんは大喜びして、素早く着替えると相手の方のもとへと駆けていきました。ほんの数時間前の話です。画商が脈のある方ならば竜水さんは話し込みます。ゆえに帰りが遅くなります。脈の無い方ならば竜水さんはすぐに離れますが、ふて腐れてどこかで飲んで帰ります。結局のところ、竜水さんは夜遅くに帰ってくるみたいです。
とりとめのない日記を書いているうちに気持ちの整理ができました。日記というのはいいものですね。文章にすると頭の中がすっきりします。気持ちいいです。実験のついでに、良い副次的作用を得られています。
それでは。
EK-00 Name ナユタ菟田野
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます